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「坊ちゃま、建国祭の件についてですが」

「ん? ああ、手配は進んでいるか?」


 徐々に迫ってくる建国祭について、財務官としての用意は周到に進めているが、子爵個人としての準備の方は使用人に任せきりにしているジェラールである。だからボルマンがそのことについて言い出した時も、彼はたいして興味のなさそうな返事をした。


「はい。坊ちゃまと奥様のお召し物などもすでにご用意させていただいております。そちらの方はお任せ下さい」

「あまり派手なものにはするなよ」

「もちろんでございます」


 他人の美醜にあまり頓着せず、不必要に着飾る事に意味を見いださない子爵のこと、そう言うであろうことはボルマンも理解していた。すでにジェラールの好みに合うよう、簡素な、それでいて主人の恥にならぬような仕立ての衣装を準備していた。

 しかしその夜のボルマンが主人に伝えたかったのは、そういうことでは無かったようだ。


「それはそうと坊ちゃま、もう奥様には建国祭の夜会についてお話になりましたか?」

「……? していない。それがどうした」


 執事の問いに、ジェラールは何ら悪びれずに答え、次に、お前が言えばいいだろうという視線を投げかけた。さもありなんという様子でボルマンはうなずき、諭すように言った。


「しかし坊ちゃま、こういうものは必ず、エスコートする男性が直接ご婦人をお誘いするものです。それが例え、ご夫婦の間柄であってもです。私から奥様に申し上げたのでは、大変失礼に当たるかと」

「……そういうものか」

「そういうものでございます。他の事は私にお任せ下さって結構ですが、それだけは坊ちゃまが直接お伝えになるべきです」


 少々誇張も含まれていたが、執事の主張は概ねこの国の一般的な作法にかなっていた。

 シャツのボタンを留める手を止めて、しばし硬直した後ジェラールは言った。


「だが、お前が伝えてくれれば――」

「坊ちゃまが直接お伝え下さい」

「いや、お前が――」

「坊ちゃまが」

「……どうしてもか?」

「はい」

「……」

「坊ちゃま」


「ふん、面倒なことだな」


 そう言っていかにも気が進まないという風に、彼は肩をすくめた。


「分かった、明日にでも伝えよう」


 その会話があったのが四日前の夜である。そして当然のように、この話はまだミアの耳には伝わっていなかった。

 子爵の名誉のために言えば、彼はいつかの時のように問題を先延ばしにした訳ではなかった。ただ純粋に、最近の彼は忙しかったのだ。その忙しさはそれこそ家に帰れないほどであり、それで単なる事務的連絡を妻にする暇すら無かったのだ。


「……」

「……」


 まあ、いざその話題について切り出そうと、彼が庭先で彼女をつかまえた時、ジェラールが多少固まってしまったのは事実だが。

 ミアの方も、ジェラールが自分に用件があるということを感じたようだ。話を聞く姿勢になるというか、彼女は様子をうかがっている。


「お帰りなさいませ」

「……ああ」


 とりあえず、二人はその定型文から始めることにした。

 ジェラールも以前の件で学習したし、今回は話しかけた大義名分がある。さっさと用件を済ませてしまおうと思ったが、その前に一言付け加えた。


「……今、帰った」

「――! は、はい!」


 その言葉はかなり正解に近かったようだ。彼女の返事はうわずっていたが、表情は少し柔らかくなった。


「ミア、君に――。……どうした」

「い、いえ、何でもありません。何でしょう旦那様」


 何でもないと言いながら、彼女はジェラールが名前を呼んだ瞬間、びくりと体を震わせた。


「ミア」

「――!」


 試しにもう一度そう呼ぶと、またも彼女はびくりと震えた。ジェラールを恐れているという感覚はない。ただ純粋に、彼に名前を呼ばれ慣れていないのでびっくりしている、という感じだ。

 自分が名前を呼ぶたびに跳ねる彼女の身体が少し面白くなって、もう一度呼んでみようかと思ったジェラールだが、自分はこんな茶番をしに来た訳ではないと頭を切り替えた。


「少し君にしてもらうことがある」

「は、はい。……何をすればよろしいでしょう!」


 彼女はこわばった声で、直立して答えた。まるで今からジェラールに戦場に行けと言われるのを待っている兵士のようだ。

 「旦那様」である自分が命令すれば、彼女は従うだろう。だが、いつまでもこの調子では埒があかない。


「その前に、少しいいか」


 だからジェラールは、まずは彼女と「会話」をしようと言葉を探した。


◇◆◇◆◇


 ――君にしてもらうことがある。


 彼がそう言ったのが、私には意外だった。

 今日のこの人は、私に何か用があって話しかけている。それはさっきからの言葉でよく分かった。特に心当たりはないが、何だろうか。もしかして、数日前にヘンリーさんから聞いた、建国祭の夜会の件だろうか。


 それならそれで、この人は私に命令すればいい。妻が家長の命令に、それも私のような立場の妻が、逆らうことができるだろうか。ついでに言えば、別に彼本人の口から言わなくても、執事のボルマンさんあたりに伝えさせれば十分なはずだ。

 しかしこの人は今、私に直接何かを頼もうとしている。


「そんなに緊張することはないだろう」


 そんな事を言われてもと思う。でも、私が緊張する理由を言うことも出来ない。外の明るい日の光の下で見るとはっきりと分かるのだが、何せこの人は顔が怖いのだ。彼の見た目は帝都の若い娘の中でも噂になるほど整っていて、事実、私もそれで結婚する前からこの人の名前を知っていた。遠くから見た時には、私も綺麗な人だと思った。


 でもこうして面と向かうと、綺麗な顔だとかそうでないとか思う前に、まず怖い。目の力が強すぎるのだろうか。眼光が鋭くて背も高いから、自然と私を見下ろす形になる。それでこう、にらみつけるような感じになっているのだろうか。


「聞いているのか」

「は、はい! 聞いてます!」


 ついでに言うと声も怖い。低い音程のよく通る声で、聞いているのかなんて言われると、前後の脈絡に関係なく謝ってしまいそうになる。

 その前に少しいいかと彼は言ったけれど、一体私に何をさせたいのだろう。


「……あー、……それは、君が作ったのか?」

「え?」


 そう言った彼の視線の先には、私が作った花壇の柵が落ちている。ところどころゆがんでいて見た目は悪いが、私としては力作だ。


「……はい」

「そうか」


 私が答えると、彼は短く返事をして、それで会話は止まった。

 この人は私に用があると言って、こんなことを聞きたかったのだろうか。


「……」

「……」


 ――いや、違う。そうじゃない。


「……あの」


 この人はただ、私と話をしようと思っただけだ。純粋に、ただの会話を。

 いつか名前を聞かれた時や、この前の夜と同じだ。この人はこの人なりに、私と歩み寄ろうとしているのかもしれない。


「芽が出たので」

「ああ」


 だから私も、無闇に彼を警戒するだけでなく、少しでも何かを話さなければ。そうしないと、この関係はいつまで経っても変わらない。


「ちゃんとした花壇にしようと思ったんです。柵を作って」

「そうか。……花は育っているのか?」

「は、はい、多分、おそらく。私も花を育てた経験があまりないので、分かりませんが」

「そうか」


 とても夫婦の会話には思えないけれど、これは会話だ。私は今、確かに彼と話をしている。これが彼と話す最後の機会――ということはないだろうけれど、その勢いで、私は勇気を振り絞った。


「だ、旦那様は、花を育てたことがありますか?」

「ない」

「う……」


 言下に断定されて、私はひるんだ。質問を間違ったかもしれない。いや、明らかに間違った。でもこの人も話をする気があるなら、もう少し話題に乗ってくれてもいいではないか。そう思っていると、彼は続きを口にした。


「……いや、違う。芋を育てたことはある」

「芋?」


 その単語が、彼の仏頂面から飛び出したものだとは思えずに、私はつい聞き返した。

 芋とは何のことだろうか。厨房に置いてある、あの芋のことではあるまい。仕事が好きな彼の事だから、何か政治にまつわる物か人の暗喩ということもあり得る。


「芋ってどういうことですか?」

「昔、寄宿学校にいた時に、エル――、私の悪友が、食堂で出る食事の量が少ないと言い出したんだが」

「はい」

「色々あって、そいつに付き合って芋を育てたんだ」


 そこで彼の言葉は途切れた。その続きを待っても口を閉ざしたままなので、話は終わったということだろうか。


「……それだけ?」

「……芋は上手く育たなかったが、花は咲いた」


 だから花を育てた経験はあると、彼は真顔でそう言った。


「……何か可笑しかったか?」

「いいえ」


 そう答えたけれど、彼の真剣な表情と話の内容が釣り合っていないのが面白くて、私の顔は確かに笑っていた。


「じゃあ、私が育てているお芋が上手に育ったら、旦那様にも、そのお友達にも召し上がっていただきたいです」

「……君はここで、芋まで育てているのか?」

「はい、それだけじゃなくて、他にも色々」

「呆れたな」


 ――……あ。


 文字だけだと辛辣に聞こえるはずのその言葉は、私を傷つけるものではなかった。呆れたと言ったその瞬間の彼の表情は、それまでのように怖い顔ではなかったからだ。それどころか、その時ほんの少しだけ、彼の顔にも私と同じように笑顔が浮かんだ気がした。


「……では、もし育ったらご馳走になるとしようか」


 そう言い置いて彼は振り返り、屋敷の中に戻っていき、私はその背中を見送った。


 今日私たちがした会話は、たいして中身のないものだったかもしれないけれど、それでも私にとっては意味のある時間だった。庭に一人になった後も、私はなんだかそれまで抱えていた重石が、いくらか外れたような感覚を味わっていた。


「あれ?」


 しかし、彼が去ってからしばらく後、私は重要なことに気がついた。


「結局、『してもらいたいこと』って何だったの……?」


 たったあれだけの会話に満足したのか、肝心の用件を言わず、彼は屋敷の中に入っていってしまったのだ。私の旦那様は、私が考えていたよりも、ちょっと抜けたところがある人なのかもしれない。


 ――でも、明日は……。


 そうだ、今日は彼から話しかけてくれたのだ。だから今度は私から彼に話しかけよう。そう考えると、明日が少し待ち遠しいような気がした。



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