寂しい庭
「私がいつ結婚したというのだ!」
「ひと月前です、坊ちゃま」
珍しく声を荒げるジェラールに、なんでも無いことのようにボルマンが答えた。
ひと月前? ひと月前というと、南西地方で起こった魔物の大発生に対応するため、宮廷に泊まり込んで徹夜をしていた時期だ。
その時期にボルマンが宮廷にやってきて、何やら書類を書かされたのは憶えている。家政上の書類ですと、ボルマンは言っていた。徹夜で頭が朦朧としていたので、よく確認せずにサインまでしたが――
「……あれか」
「はい」
執事は平然とうなずいた。
どうやら、彼に嵌められたようだ。前々からボルマンは、ジェラールに結婚しろ結婚しろと、母以上にうるさかったが、まさかこんな実力行使に出るとは思わなかった。
「ふん、よくもそこまでお膳立てしたものだ」
「協力して下さる方がおりましたので」
「……誰のことだ? ……まあいい」
そう言うと、ジェラールはその端正な顔に冷笑を浮かべた。
「結婚というのも、悪くない」
「――! では坊ちゃま――」
「どのみち私も、いずれは『妻』を調達しなければならないと思っていた」
主人の思わぬ反応に目を輝かせたボルマンだったが、続く彼の言葉に、みるみるとその元気がしぼんでいくのが、傍目に見ても分かった。
しかし、ジェラールは執事のそんな様子に気付かずに、身支度を調えながら言った。
「妻が居るなら居るで問題はないのだ。宮廷では、それが必要なこともあるからな」
ジェラールにとっては度し難いが、宮中で開かれる晩餐会や舞踏会のたび、エスコートする女が求められる。これまで彼はそんな無駄な催しには出来るだけ出席しないようにしてきたし、そういう女も無用だと言い続けてきた。
しかしそれが元で宮廷内における風当たりが強くなり、仕事に支障がでることもあるのは事実だった。
「私の仕事の邪魔にならなければ、それでいい。今更とやかく言うまい。むしろ、煩わしい婚礼なども省けて丁度良かった」
「……」
「あの女の面倒はお前たちに任せる」
「……坊ちゃまは?」
ジェラールが立ち上がると、ボルマンが聞いた。
「仕事だ」
そして寝室を出て、ジェラールは今日も書斎に直行した。
◇◆◇
婚姻が決まってから数日後、送られてきた結婚誓約書にサインをし、ミア・ピレンヌはあっけなくミア・ヴェンドリンになった。しかし私がヴェンドリンの屋敷に入った時も、出迎えたのは執事とメイドだけだった。
割り当てられた寝室は、実家のそれより数段豪華で広かったが、そこには私一人分のベッドしかなかった。
「ジェラール・ヴェンドリン子爵……。……旦那様?」
その人の名前をつぶやいてみても、全く実感がわかない。しかし自分は本当に、「あの」ジェラール・ヴェンドリンの妻になったのだ。
彼は名前と顔だけなら、ミアでも知っている程の有名人だった。
一度、遠くから見たことがある。
「氷の男」、彼がそう呼ばれているのは知っている。冷徹で、物事を数字で見ることしかできない冷血漢だと。
新妻との初夜に姿も現さないのは、その噂が正しいからだろうか。歓迎されることを期待していた訳ではないが、流石に少し傷ついた。
――きっと、名前だけの妻ということなのでしょうね。
体面というものがある。子爵ほどの身分の方がいつまでも独身では格好がつかない。それに、いつかは子爵家の跡継ぎだって作る必要があるだろう。
要するに私は、子爵家を守るため、妻という「部品」として呼ばれたのだ。そうでなければ、ミアのような貧乏貴族の娘に声がかかるはずがあるだろうか。
寒々とした風がミアの心の中を走り抜けたが、そんな自分をミアは笑った。
元から結婚に期待などしていなかった。なのに今更こんなことを思うのは可笑しい。
それでも落ち込む気持ちは止めようが無く、ヴェンドリンの屋敷での一日目の夜は更けていった。
この屋敷に来て以来、私が食堂で食事をする時も、旦那様は一度も姿を見せなかった。執事のボルマンさんによると、旦那様はいつも書斎で仕事をしながら食事をしているのだそうだ。
異常な仕事人間だとは聞いていたけれど、ここまでとは思わなかった。
私が旦那様と初めて顔を合わせたのは、なんと結婚してからひと月もたってからのことだった。
することも無く玄関のホールに立っていた時に、階段の上を旦那様が通っていった。その顔はぞっとする程整っていて、銀の髪は恐ろしいまでに艶やかな光を放っている。
そして旦那様の碧い瞳が、私を一瞥した。
本当に一瞥だ。ちらりと目が合っただけで、興味を失ったように私から視線を外し、旦那様は書斎の方に消えていった。
その冷たい視線が、印象に残った。
――……私、みじめだな。
目からじわりと何かがこぼれそうになるのを、唇を噛んで押さえた。
こんなことなら家から出ずに、独身のままで生きていれば良かった。
独身のまま年を取って、毎日教会の炊き出しを手伝って、たまに小姑として弟のお嫁さんとやり合うのだって、それなりに幸せな生活だったはずだ。
でも、家に戻りたいなどとは言えるはずも無い。雲の上の子爵家に対し、貧乏貴族のこちらから婚姻を切るなどと、家族の事を思えば、口が裂けても言えなかった。
その後、その日は何をしていたのか覚えていない。ただ気がつくと、玄関のホールに立ち尽くしたまま、外はもう夕暮れ時になっていた。
「……」
何気なく外を見ると、窓から屋敷の前庭が目に入った。
今が冬だとは言え、広いだけで荒れ果てた、寂しい庭だ。
その時の私には、その庭がまるで自分自身の心の中のように見えた。
「……お花でも、植えればいいのに」
だから私は、せめてその庭だけでも、きれいにしようと思ったのだ。