建国祭
「旦那様、たまには下でお食事を取られてはいかがでしょうか」
書斎に食事を届けに来た料理人がそう言ったので、ジェラールは書類に落としていた目を上げた。無言のまま、彼の目はなぜ急に自分にそんな事を言うのかと、相手を問い詰める光を放っている。
「いえ、旦那様がお忙しいのはもちろん承知しております」
そう言って首を振ったこの男は、料理人のフォルカーだ。少し浅黒い肌をした禿げ頭の男で、黒い口ひげを蓄えている。彼は屋敷内の使用人の中では、ボルマンに次いでジェラールに仕えた年数が長く、主人の習慣もよく把握しているはずだった。
食事は基本的に、仕事の妨げにならないように取る。そういうジェラールの習慣を知っていながら、どうして今日になってこんなことを言い始めたのか。
「ですがあまり根を詰め過ぎられては、身体に毒です。最近は特にお疲れのご様子ですし……、それで体調を崩されては元も子もありません。せめて食事時くらいは、ゆっくりなさっても構わないのではないですか」
「……」
「出過ぎたことを言っているのは承知しております。しかし――」
「君が私を案じてくれているのは分かっているし、感謝もしている」
「旦那様、それでは……」
「だが、今のままで問題ない」
食堂で食おうが書斎で食おうが、食事は食事だ。簡素な食事だろうと一日の活動に必要な栄養が補給できれば問題ないし、現にこれまでもそうしてきた。
そういうジェラールの意図は、料理人にも十分伝わったのだろう。彼は少し残念そうな顔をしたが、主人がもう書類を読むのを再開しているのを見て、ジェラールの昼食を置いて引き下がっていった。
――……ふむ。
なぜフォルカーは、今になってあんなことを言ってきたのか。一人になってから、ジェラールは改めて考えた。
その日の彼は宮廷に出仕する日ではなく、さりとて書類は山積みになっているので、朝から書斎に籠って仕事をしていた。しかしそこに日常と特に変わったことはなく、だからこそフォルカーのあの発言は解せなかった。
――そんなに酷い顔をしているか?
ただ、彼の言ったように、ジェラールが疲れているというのは事実かもしれない。その疲れが表情に表れていたのだろうか。それを確かめるように、ジェラールは自分の頬をなでた。
疲労で仕事の能率が落ちる。それは確かに大きな問題だ。
実のところ、最近の自分は以前より仕事に集中できていない。ジェラールはそう自覚していた。具体的に言えば、彼が仕事に熱中しているつもりでも、時たま頭に余計な雑念が入ってきて、仕事の手を止めさせるのだ。
そしてその雑念というのは、大抵は彼の妻の姿をしているのだが、ジェラールはその理由を疲労のせいだということにして片付けることにしていた。
ともあれ、彼は先ほどフォルカーの提案を却下したが、それはそれとして適度な休養を取る必要があるとは思った。むやみに身体を酷使して体調を壊し、それで仕事を滞らせることが良いことだとは彼も考えない。
――しかし建国祭が終わるまで、そうも言っていられんな。
帝都の一大行事はすぐそこに迫ってきた。そろそろ街にも祭りの気配が漂い始めるころだろう。財務を司るジェラールの担当は準備が主であって、その代わり、当日になってしまえばやることはほぼ無い。だがそれまではこの忙しさも仕方がない。
机の上には、フォルカーが置いていった昼食がある。いつも弁当として宮廷に持って行くのと同じ、パンに薄い肉を挟んだだけの食事だ。ジェラールはそれに手を伸ばし、仕事を再開した。
◇◆◇◆◇
私が久しぶりに町に出てみると、建物のあちこちに飾り付けがされているのに気付いた。煉瓦の壁に色とりどりの織布が掛けられ、祭日期にのみ掲げられる帝国を示す紋章が目を引いた。
今年は自分の身の回りに色々あってすっかり忘れていたけれど、そういえばもうすぐ建国祭があるではないか。
建国祭はその名の通り、初代皇帝がこの帝国を建てた記念日に開かれる、帝都の催しの中でも最も大きな祭りだ。私も去年までは、家で母と一緒に祭り用の料理を用意したり、教会で子供たちと演劇をしたりしてその日を祝っていた。
子爵家の人間になったからには、もうそういうことをするのは難しいかもしれないけれど、せっかくのお祭りなのだ、何かの形でお祝いしたい。
「ミア様、もう建国祭の時期ですね。お屋敷でも何かお祝いしないと」
私と一緒に歩くアルマさんも、同じ事を考えていたようだ。彼女はうきうきした様子でそう言った。
「あのお屋敷では、いつもどんなことをするんですか?」
単純に疑問だったので私はそう聞いたが、アルマさんは少し気まずそうな顔になった。
「え~っと、実は去年まで、ほとんど何もしてなかったんです。旦那様があの通りのお方ですから……。でもでも! フォルカーさんがいつもより気合いを入れて料理を作ってくれたりして、使用人の間ではささやかにお祝いしてましたよ」
「そうなんですか」
「ええ。今年はミア様もいらっしゃるから、きっとフォルカーさんもさらに気合いを入れてくれるに違いありません」
「アルマさんは料理が一番楽しみなんですね」
「ミア様だって、美味しい物は好きでしょう?」
「はい、もちろん」
そう言って私たちが笑い合っている所に、道を聞きに行っていたヘンリーさんが戻ってきた。
「いや参りましたよ。煉瓦屋なんて行ったことないし、聞いても誰も知らないから――、どうしたんです? 二人してにやにやして」
「にやにやって、乙女に向かって失礼ね。で、場所は分かったの?」
「ミア様はともかく、お前を乙女って言うのは――痛っ! あ、ああ、もう二区画先だってさ。職人街の入り口だな」
私が今日町に出てきたのは、庭の柵や煉瓦道を作るために必要な資材を買い付けるためだ。この前、市場に苗や種を買いに来た時以来の外出ということになる。
あの時の外出では、私が落ち込んでしまったせいで微妙な空気にしてしまったけれど、今日買いたい物はどれも市場とは別の区画にあり、こっちなら知人も少ない。それに、今ならあの時とは違い、知り合いに「奥様」と呼ばれたからといって、それだけで落ち込むようなことは無いと思う。
「お二人には今日も付き合ってもらってすみません」
「ミア様、そういう遠慮は無しにして下さいよ。俺たちだって町に来るのはいい気分転換になりますからね。ミア様の用事にかこつけて、息抜きをさせてもらってるって訳です。お互い様ですよ」
「そうそう。そうですよミア様。まあ私はヘンリーほど気が抜けてないですけどね」
それから私たちは煉瓦職人の工房に行って、庭の整備に必要な煉瓦を注文した。流石に煉瓦は持って帰れないので、屋敷の方に届けてもらうことになる。帰り道、何となく色々な店をぶらぶらと見て回っていると、ふと思いついた。
「建国祭の時は、私も料理をしてもいいでしょうか」
「ミア様が?」
「ええ、こう見えて私、結構得意なんです。実家ではずっと家事を手伝っていましたから」
「へえ、アルマとはえらい違いだな――痛っ!」
口の減らないヘンリーさんがアルマさんに懲らしめられてから、私は続けた。
「フォルカーさんと一緒に、腕によりをかけます。皆さんにも――ぜひ召し上がっていただきたいです」
皆さんにも――、そして、できればあの人にも。
貧乏貴族の娘の私が使用人のいる所に嫁ぐなど考えていなかったから、私はあの屋敷に来るまで、結婚に対してごく平凡な、庶民的な想像しかしていなかった。夫である人に毎日ご飯を作って、同じ食卓で、美味しいと言って食べてもらって――、そんな感じに。
あの屋敷では、私は家事すらさせてもらえない。そのために、より私はあの人の妻であるという実感が持てなかった。でも、子爵夫人は料理などしないのだろう。そう思って今まで遠慮していたが、こういう機会ならば許されるかもしれない。
「そうですね、お祭りの時くらいなら、ミア様に厨房に立ってもらうのも良いかもしれませんね。……でも、ミア様」
「……やっぱり難しいでしょうか」
「いえ、そんな事は。ぜひご相伴にあずからせていただきます。……でもミア様、多分、旦那様は――」
彼女は言いよどんでいるが、アルマさんの言わんとすることは、私にも分かった。
「分かってます。あの人は、私の料理なんか食べませんよね」
アルマさんが悪いのではないのに、すごく意地の悪い言い方をしてしまった。アルマさんがすごく申し訳なさそうな顔をしているのが、なおのこと私の罪悪感を刺激する。
彼女に謝るべきなのに、私が次の句を告げないでいると、ヘンリーさんが口を開いた。
「そりゃ、旦那様に料理なんか食べてる暇ないですよ」
「ヘンリー! あんた――」
ヘンリーさんの率直な物言いに、アルマさんが血相を変えた。しかしヘンリーさんはきょとんとして言葉を続けた。
「何怒ってんだ? 当たり前だろ。建国祭の時は、旦那様は宮廷の夜会に出席するに決まってるじゃないか」
「――あ。そ、そっか」
「忘れてたのかお前?」
ヘンリーさんがとがめるような声を出すと、アルマさんはしどろもどろになって否定した。
「い、いや、忘れてないわよ。そう、そうですミア様。旦那様は毎年、建国祭の夜は宮殿にいらっしゃるので、お屋敷でお食事を召し上がることは出来ないんです」
「そ、そうですか。そうですよね。あはははは、は」
「うふふふふ」
私とアルマさんはお互いに変な笑い声を出して、今までの空気をごまかした。でも、考えてみればヘンリーさんの言うとおりだ。子爵ともあろう人が、建国の日に宮廷に招かれないはずはない。結婚して以来、あの人が夜会とか舞踏会とか、そういう社交めいたものに出席したという話を聞いたことが無かったので、考えようともしていなかった。
そしてついでに、ヘンリーさんは私が耳を疑うようなことを言った。
「なに他人事みたいに笑ってんですかミア様。ミア様も出席しなきゃならないでしょう」
「へ?」
「当たり前でしょうが、奥様なんだから、あなた。旦那様の」
「……へ?」
私が? 宮廷の夜会に?
ヘンリーさんが何を言ったか分からず、私は口を開けたまま固まっていた。