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除幕式

 エルンストを尋問したことにより、ジェラールは思いがけず妻の情報を手に入れることができた。あの軽薄な男でも、たまには役に立つことがあるものだ。彼は一国の皇太子に対して、かなり辛辣なことを考えながら、少しだけ早く家路についた。


 エルンストによると、ミアは帝都の貧民街近くの出身で、以前から実家の近所にある教会において、炊き出しや子供の教育などの慈善活動を行っていたそうだ。誰とも仲良くなる明るい性格の彼女は、近所でも評判の良い娘だったという。

実家には両親と弟がいる。彼女の実家の家格は子爵家に比べると圧倒的に低く、父親はジェラールと顔を合わせられるような地位にない。それでも役所では実直な人柄で知られているらしい。そんな事まで皇太子は語った。


 どうして自分が知る前に、この男が妻のことをそこまで知っているのか。ジェラールは我知らず、そんな理不尽な不満を抱いたりもしたが、これだけの「手がかり」が労せずして手に入ったのは彼にとって幸運だった。

これだけ知れば、以前に彼女の名前を聞いた時のような醜態を何度も繰り返さずにすむ。それに、次に彼女と会話することになった時には、話題を拡げるための糸口としても利用できるだろう。


「旦那様、着きました」


 御者台から声がかかる。馬車から降りると、目が無意識に彼女を探した。折角得てきた知識を披露したいという欲が働いたのかもしれない。

 まだ日が落ちていないし、天気も良い。こんな時、彼女は大抵庭にいる。まあ、天気が悪かったら庭にいないかと言えば、そうは言えないが。


 ――よし、いたな。


 ミアはいつもの庭師の格好で、木の束を抱えて走り回っている。今度は一体何を思いついたのだろうか。


 ――今日は機嫌がいいのだな。


 彼女の馬の尾のように束ねた髪が元気よくなびいているのを見て、ジェラールはそう判断した。原理は不明だが、彼女の元気がないとあの髪も元気がなくなる。これは彼が妻の生態を観察し、独自に発見した彼女の特徴である。

 それはともかく、機嫌がいいのならば、何かこちらから話しかけてみよう。先日の反省もあり、彼はそう思った。ジェラールはさりげなく歩調を調整し、走り回る妻と玄関の扉の前で鉢合わせるようにした。

 あくまで偶然に、彼は妻に話しかけるのだ。


 ――弟のことでも聞いてみれば、彼女は喜ぶだろうか。


 ミアは木の板を一枚落とし、一度引き返した。それに併せて、子爵の歩みが異様にスローになる。予想外のことをされると困る。彼はそう思い眉をひそめた。

 調整の甲斐あって、二人は玄関の前でばったりと顔を合わせた。


「い――」

「お帰りなさい!」


 元気よくそう言い、満面の笑みを残して、彼女は嵐のように去っていた。

 今帰った、そう言おうとした子爵を玄関に置き去りにして。


「……相変わらずだ」


 庭のことになると、周りが見えなくなる。ジェラールは立ち尽くしたまま、しかめ面でつぶやいた。



「今日の奥様は、花壇に芽が出たと仰ってたいそう喜んでおられました」

「……そうか」


 ――だからあれほどみっともなくはしゃいでいたのか。


執事の言葉に気のない返事をしながら、ジェラールは心の中でうなずいた。

 結局、彼は今夜も執事に妻の様子を聞いている。先刻見た彼女のいつにない上機嫌について、ジェラールが聞かずともボルマンが答え合わせをしてくれた。


「花壇に柵をお作りになるようです。地面に煉瓦も敷きたいとも仰っておられました」

「……」


 次々に色々と思いつくものだ。ジェラールは呆れたような、感心したような気持ちになった。それともジェラールが知らないだけで、世の令嬢というものはあれほど皆活動的なのだろうか。


「井戸の修理もほとんど終わったそうですので、一度坊ちゃまも見てみられてはいかがですか?」

「私にそんな暇はない。興味も無いしな」


それよりも、相変わらず主の帰還よりも庭仕事に夢中な彼女に対して、やはり彼は不満をいだいていたが、


 ――まあ、彼女は満足そうだったからな。


 そう思って納得することにした。

 しかし、どうしてそれで納得できるのか。彼はそんな自分を少し不思議に思ったが、彼女が浮かべていたあの輝くような笑顔を思い出して、それも忘れた。


◇◆◇◆◇


「行きますよ、奥様」

「はい、よろしくお願いします」


 私の返事にうなずいたヘンリーさんが手を動かすと、縄のついた桶がするすると穴の底に吸い込まれていく。しばらく待つと彼は少し手を止め、それから今度は逆に縄を引き始めた。その動作は、桶を下ろした時よりもずっと重たそうだ。


「よっ――と、うん。――どうです?」


 ヘンリーさんが傾けて見せた桶の中には、澄んだ冷たそうな水がなみなみと入っている。それを見て、裏庭におおという歓声と、ささやかな拍手が起こった。


「ヘンリーが直すっていうから心配したけど、上手くいって良かったです」

「もっと素直に褒めてくれよ」


 拍手の主は、私とアルマさん、そしてフォルカーさんだ。今日は修理が終わった井戸の除幕式というわけだ。


「これ、飲んでも大丈夫かな?」


 そう言って、ヘンリーさんが興味津々という顔で桶の中身を見た。それにフォルカーさんが、首をひねりながら答えた。


「一応この辺りの井戸水は飲めるようだがな。近所にもまだ、水道じゃなく井戸を使っている屋敷もある」

「ああ、はす向かいのお屋敷のメイドも言ってました。毎日水くみが大変だって」


 どうやら二人の話では、飲んでも大丈夫な水のようだ。見た目にも問題があるようには感じられない。しかし、この井戸が長い間使われていなかったことは確かなことだし、流石にいきなり飲むのはやめておいた方がよさそうである。

 それにたとえ飲めなくても、私はこの井戸が水やりに使えればいい。


「じゃあ大丈夫だな!」


 しかしヘンリーさんは、そう言って他の三人が制止する間もなくその水を飲んでしまった。


「……うん、冷たくて美味い」

「……本当ですか?」

「ええ奥様! ほら、アルマも飲んでみろよ」

「遠慮しとく」


 なんだ、こんなに美味いのにと言いながら、ヘンリーさんは桶の中の水をほとんど飲み干した。それを見届けてから、私は提案した。


「まあ、ヘンリーさんが何日か無事なら、この井戸の水を飲んでも問題無いということにしましょうか」

「う~ん。最近、奥様の俺に対する扱いが酷い気がするんですが、気のせいですか?」

「しかし、これだけの日数でこれだけの物を作るとは、確かにヘンリーの手先も侮れんな」

「あ! やっぱりフォルカーさんは俺の味方ですね。そうでしょう、すごいでしょう」

「ああ、伊達にいつも俺の目を盗んでつまみ食いしてる訳じゃないな」

「どうだ? すごいだろアルマ」


 ごまかそうとするヘンリーさんに、アルマさんがあきれ顔でため息をついている。この前ヘンリーさんが元気がないと言って落ち込んでいたアルマさんだが、元通りになって良かった。

 それにフォルカーさんが言うとおり、ヘンリーさんが取り付けたつるべ桶は、とても急ごしらえとは思えないほど立派になっていた。フォルカーさんのおかげで崩れた石組みも元通りになり、私とアルマさんが磨いて苔を落としたので、初めてこの井戸を見つけた時と比べると見違えるようだ。


「でも、ちょっと重かったなぁ。もう少し滑車の所を工夫してもいいかもな」

「これもあんたが作ったの?」

「そうさ、褒めてくれていいぜ」

「――うん、すごいね」

「だろ?」


 ――おおっと。


 なんだかアルマさんとヘンリーさんが良い雰囲気な気がする。これは一足先に退散するべきなのではないか。そう思ってフォルカーさんに声をかけようとすると、フォルカーさんも同じ事を考えていたようで。口に人差し指を当てて微笑んでいる。私もそれにうなずき、井戸について語り合っている二人を置いて、邪魔者は退散した。


「フォルカーさんも協力していただいてありがとうございました」

「いえいえ、別に大したことはありません。丁度体がなまっていたので、良い運動になりました」


 フォルカーさんと私は、そうやって何気ない会話をしながら屋敷に戻った。


「しかし奥様、あの井戸を使うのは結構体力が要りそうですが、大丈夫ですか?」


 微妙な笑みと婉曲な物言いに隠して、フォルカーさんが気遣ってくれていることは分かる。それは、あの井戸を使っても私の水やりは特に楽にならなそうだということだ。多分、屋敷の中に引いてある水道を使うのとたいして変わらないか、むしろ大変になるかもしれない。

 この井戸を直した大前提が崩れるということだから、協力してくれた三人には申し訳ない気持ちが残るけれど、これを直すこと自体が楽しかったということで、どうか許して欲しい。


「体力には自信がありますから」


 それに、ちゃんと使いますよというアピールを込めて、力こぶを作って私はそう言った。その言い方が可笑しかったらしく、一拍おいてフォルカーさんは豪快に笑った。





「使われていなかった井戸の水を飲むのは衛生上まずいのでは?」という指摘をいただいたので、ちょっと内容を変えました。全体の進行には多分影響ないと思います。

今後井戸の水を飲む描写が入るかもしれませんが、この国はそのくらいの衛生観念のレベルだということと、たまたま大丈夫な水質だったということでご勘弁下さい。


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