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ドアノブ

 その夜のジェラールは、寝室を出たところでミアに会った。

 まさに、ばったりと出会ったという表現が正しい。寝室に置き忘れた書類を取り、書斎に戻ろうと扉を開けた正面に、彼女がいた。

 彼女は片手に大きな本を抱えている。書庫から帰るところのようだ。書庫はジェラールの寝室の先にあるのだ。時にはこういうことも起きるだろう。


「……」

「……」


 お互いに警戒しあう。

 送り迎えの時以外に彼女と顔を合わせても、彼には何と言って良いものか分からない。それはミアの方も同じのようで、まれにこうしてすれ違うと、とりあえず二人は沈黙して顔を見合わせた。

 まだ官服を脱いでいないジェラールと違って、彼女は既に寝間着姿だ。ゆったりとすその広がった、白い服を着ている。こういう格好のミアを、ジェラールは初めて見た。


「……こ、こんばんは」

「……ああ」


 そしてまた沈黙する。さっさと通り過ぎれば良いのに、毎回毎回、どうしてこうなるのだろうか。それはジェラールにも分からなかった。

 だが、いつまでもこの調子では埒があかない。この夜の彼は一歩踏み込み、妻とのコミュニケーションを試みた。


「……それは、何の本だ?」

「水の本です」

「そうか」

「……」

「……」


 しかし残念ながら、その試みは失敗した。

 話したいなら、別に普通に話せば良いではないか。ボルマン曰く、彼女は使用人たちとはむしろ活発に会話しているのだ。何をためらうことがあるだろうか。

 よし――


「水というのは――」「あの――」


 沈黙を破って発された二人の声は、今度は盛大に重なった。


「……」

「……」


 再びお互いの出方をうかがって、両者ともに押し黙る。

 もう勘弁してくれ。これは一体何の茶番だ。ジェラールは目をつぶり、頭の中でそうぼやいた。


 すると、彼の前で口をぱくぱくさせていたミアが。意を決したように言った。


「あの――まだこれから、お仕事ですか?」

「ああ」

「……あの」

「……」

「……いえ、何でもありません」


 そう言うと彼女はジェラールから視線を外し、本を大事そうに抱えたまま、ぱたぱたとスリッパを鳴らしながら廊下を小走りで去って行った。


「……ふう」


 ミアの姿が廊下から見えなくなると、それを見送ったジェラールは短く息をついた。

 それから彼もミアが去ったと同じ方向に歩き、玄関ホールに出た。二階から薄暗い階段の下を見下ろしたが、既に彼女の姿はない。もう寝室に戻ったのだろう。


 書斎に入ると、彼は仕事を再開した。大聖堂修築にかかる支出をまとめた書類に目を通そうとするが、なぜだか妙に目が滑る。さすがに少し疲れたかと思い、強く目をつぶって右手の親指で目と目の間を抑えた――、かと思うと、すぐに離して目を開いた。


 ――ん?


 目を閉じた暗闇の中に、さっきの白い寝間着を着た彼女の姿が浮かんだからだ。


 やはり疲れている。そう思った彼は椅子から立ち上がり、ぐるぐると肩と首を回して窓に歩み寄った。カーテンを開けたが、ガラスの向こうは真の暗闇で何も見えない。この窓の下には、彼女が整えている庭があるはずだが、それも見えるはずはなかった。


「――誰だ?」


 ふいに、誰かが扉を叩いた気がしたジェラールは、部屋の入り口を振り返ってそう言った。しかしこんな夜更けに、誰がやって来るというのか。


「気のせいか」


 今夜の自分は、どうやら本格的におかしい。彼はもう一度窓の外に目を戻して、しばらくの間立っていた。


「……その、水というのは……君が修理している井戸のことなのか……?」


 闇を見つめながら、小声でぼんやりとつぶやいたのは、彼がさっき妻に言いかけた台詞だ。

 当然、それに答える人間はこの部屋にいない。


 やはりもう少しくらい、会話を続ける努力をすれば良かった。頭の隅に浮かびかけたそんな思いを打ち消して、彼は再び机に向かった。


◇◆◇◆◇


 井戸の構造について、どうしても知りたくなったことがあったから、夜だというのに私は書庫に行った。


 最近、庭仕事をするのも楽しいが、本を読むのも楽しい。最初は全く意味が分からなかった難しい本の内容も、あのノートを読み、そして実際に庭に触れていく中で、そうなのかと納得する部分があった。

 就寝前にベッドで寝転んでノートを開いていたら急に疑問が湧いてきて、確認のために本を一冊取りに出たのだ。


 廊下に出ると、もう真っ暗になっている。使用人たちもほとんどは眠りについた時間だろう。彼らの部屋は使用人棟にあるけれど、そう思うと何となく足音を潜めて、物音を立てないように歩いた。

 玄関ホールに出て、階段を上る。書斎に向かう廊下を見て、私は考えた。


 ――きっと、まだ仕事なんだろうな。


 例え早く帰ってきた時でも、彼はその後書斎に籠る。そして私が眠ったよりもずっと遅くまで、仕事をし続けているのだ。


 ――……そんなに仕事ばっかりで、大丈夫なのかな。


こんなに長い時間働く人を、私は彼に会うまで見たことがなかった。ボルマンさんによれば、あの人が仕事をするのは単純にそれが好きだからということだけれど、私にはあまり理解出来ない。

でも、もう少し自分の身体を大事にしてもいいんじゃないだろうか。そんな事を少しだけ思った。


 あの人の寝室の前を通って、書庫に向かう。最小限でも灯りが灯っていた廊下と比べ、書庫の中は真っ暗闇だ。開けた扉から入る光と記憶を頼りに、私は目的の本をどうにか探り当てた。


 ――これだ。


 目的のものさえ見つかれば、こんな暗いところに長居はしたくない。幽霊などは出ないと思うけれど、流石に少し薄気味悪かった。

 本を脇に抱えて、私は廊下を元来た方向に引き返した。途中また、あの人の寝室の前を通る。そのとき何となく、扉の前で足が止まった。


 書斎で働いているこの寝室の主。私の、夫。

 例え名前だけの夫婦でも、すれ違ったまま同じ屋敷で過ごすのは辛い。せめて顔を合わせた時だけでも、普通の会話ができるようになりたい。そう思っているけれど、それは今のところ上手くいっていなかった。


 使用人たちとは、仲良く喋れているはずだ。しかしあの人とは、何を話せばいいのだろうか。もし私が彼の仕事について理解していたら、話ははずむのだろうか。

 分からない。


 どの道、ここで答えの見つかる話ではない。私は再び足を前に出そうとした。しかし丁度その時、誰もいないと思っていた部屋の扉が開いたのだ。


「……」

「……」


 目の前に、あの人が立っている。深夜なのに、まだかっちりとした仕事服を、かっちりと着こなしているあの人が。


「……こ、こんばんは」


 せめて挨拶だけでもと思い、そう口にした。


「……ああ」


 短くぶっきらぼうな言葉が返ってくる。私が朝見送る時も、夜迎えた時も、彼はこの言葉しか返してくれない。いや、返してくれるだけましになったのだろうか。


「……それは、何の本だ?」


 でも今夜は、彼の方から私に問いかけてくれた。これはあまりないことだ。

 自然に会話をしようと思ったけれど、私はただ、水の本だとしか答えられなかった。彼は彼で、そうかと短く相づちを打っただけだ。これは、少なくとも夫婦の会話ではない。


 でも、折角の機会なのだ。このまま踏み込まなければ、何も変わらない。せめて何か一言――


「あの――」「水というのは――」


 意を決して発した言葉は、しかし彼と重なり途切れた。


「……」

「……」


 また黙ってしまう。

 彼は、水について聞こうとしていた。彼の方だって、形だけでも会話を成立させようとしているのだ。だからもう一度、私は勇気を振り絞った。


「あの――まだこれから、お仕事ですか?」

「ああ」


 彼は当然のようにそう答える。


「……あの」


 何か言おう。せめて何か、彼の仕事に関する事でも何か。


「……いえ、何でもありません」


 しかし、何も思いつかなかった。

 なんだか恥ずかしくなって、私は彼から視線を外し、逃げるようにして去った。そして私を引き留める言葉も、私の背中を追いかけては来ない。

 慌てて階段を降り、自分の寝室の前まで戻った。扉を開けようとした時、私は急に残念な気持ちに襲われた。


 ――今日は少し、会話が成立しそうだったのに。


 ドアノブにかけた指を離し、私は廊下を引き返した。階段を上がり、あの人の寝室の前まで来る。しかしもう、彼の姿はない。きっと書斎に戻ったのだろう。

 再び玄関ホールまで出てきて、さっきのように書斎に向かう廊下を見た。この先に足を踏み入れた事はない。でも、今夜はあと少しで、彼と何か話すことが出来たはずなのだ。


 私は彼の書斎に向かう廊下を歩いた。その先には、またいくつもの扉が並んでいる。どれが彼の書斎なのだろう。

 一つ、何となくこれではないかと思う扉を選んで、ドアノブを握った。手に力を込めて、そっと扉を開く。


 ――……違う。


 そこはがらんとした、机とソファくらいしか置かれていない部屋だった。空気は冷え冷えとしていて人の匂いをほとんど感じない。使われていない部屋のようだ。

 がっかりとしたような、ほっとしたような気持ちになった。こんなことをして、私は一体何を期待しているのだろう。


 ただ、自分の心臓が怖いくらいに高鳴っているのが分かる。


 私に仕事場に踏み込まれたら、きっとあの人は怒る。

 でももしかしたら、怒られた先に何かがあるかもしれない。怒りでもいいから、何か感情をぶつけられれば、今のように何の想いも通わない関係に、何か変化を与えることができるかもしれない。


 もう一つ、隣の部屋のドアノブに指で触れた。

 この扉を開けば、きっと彼が仕事をしている。入って、私の言いたいことをぶつけてみよう。正直に、この関係について思っていることを言ってみよう。そうすればきっと、何かが変わる。


 手に力を込めて、この扉を開けば。開けば――


 でも、もう一つのドアを開ける勇気は、私にはなかった。

 だからただ、


「……お休みなさい」


 それだけをつぶやいて、回し欠けたドアノブから手を離し、私は暗い廊下を引き返した。

「幽霊などは出ないと思う~」について:

ファンタジー世界なので幽霊は存在します。でも、一般人が遭うことは中々ない。そんな感じの世界観です。

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