穴があったら叫びたい
なるほど、井戸があるなとジェラールは思った。
この屋敷を使い始めて十年ほどになるが、ジェラールが裏庭に足を踏み入れたのは、ここを購入した時以来だった。その時にこんな物があったかどうかは憶えていない。
購入した時点で、ここは人が住まなくなってから久しいと聞いていた。この裏庭も前庭と同じく荒れ放題だったと思う。その中にこんな物があっても、知らなければきっと気付かなかっただろう。
ミアが一旦はげ山にし、そして新たに草花を育てようとしている前庭に対して、裏庭には相変わらずうっそうと草が生い茂っている。それに加え、剪定もされていない樹木が影を落としているので、ここは前庭よりも数段薄暗い気がした。
しかし彼がこの井戸を見つけるのには、さして手間はかからなかった。前庭からここまで、真っ直ぐ道が引かれていたからだ。こんな道があったという記憶はないし、流石にこんな物は一度見れば憶えているはずだから、多分これも彼女がやったのだろう。
その彼女は、さっき意気揚々とバケツとじょうろを抱えて屋敷に入っていった。きっとあれで苗に水をやっているのだろう。
日が落ちるまで、少し間があった。
先ほど帰宅したジェラールは、馬車の窓から妻が屋敷に入っていく後ろ姿を見、それからこの裏庭に続く道を発見した。そしてついふらふらと誘われるように、その道の奥まで入ってきたのだ。
井戸の周りをぐるりと回ってみたが、まだ修理というのは終わっていないらしい。水をくむための桶などもないし、石組みの一部も積み直している最中のようだ。
「……重いな」
転がっていた石を手でちょっと押してみたが、それくらいではびくとも動かない。これを持ち上げて井桁を組み直すとなると、相当の力が要るだろう。作業は途中だが、よく彼女の細腕でここまでやったものだ。
もしかしたら、ミアはあの見た目にそぐわない腕力を秘めているのかもしれない。なるほどそうであれば、彼女一人で前庭をはげ山にし、土を全て掘り返したことにも得心がいく。井戸を眺めつつ片手を顎に添えながら、ジェラールは妙に納得していた。
しかし、この石を積み上げるのは十分に危険な作業のように思える。ボルマンは彼女に危険なことはさせないと言っていたが、これは良いのだろうか。
「……」
次にジェラールは、小石を一つ井戸の中に投げ落としてみた。途中で壁にぶつかったのだろう、カツカツという乾いた音が聞こえ、しばらくすると水音が返ってきた。
「……水はあるのか」
のぞき込んだ井戸の口は、暗く深い。穴の中から漂ってくる冷気は、豊富な水がそこにあることを主張しているかのようだった。
「あーー」
彼はふと思い立って、穴の中に向かって声を出してみた。低い声が反響し、しばらくの間響き続ける。
多分、彼女ならこんな事をしてみるのだろう。我ながら似合わない幼稚なことをした。彼は自分に苦笑しつつ、後ろを振り返った。
「……どうも、旦那様」
木の板やらかなづちやらを持ったボーイのヘンリーが、そこに立っている。
「……」
「……」
裏庭に、また冬に逆戻りしたかのような冷えた風が吹いた気がした。
「失礼しま――」
「待て」
「はい」
「……いつからそこにいた?」
踵を返して去ろうとするヘンリーを捕まえて、ジェラールは聞いた。
彼は腕を組んだまま、氷のような瞳で使用人を見つめている。そこには使用人に有無を言わせぬ威圧感があった。
「えーっと。旦那様が、石を投げてた辺りからです」
「そうか」
「……」
「……」
「……忘れます」
「それでいい」
そしてジェラールはうなずくと、道を引き返して裏庭から去って行った。
◇◆◇◆◇
「奥様、ヘンリーの元気が無いんです」
夕食の時間、アルマさんがため息をついていた。いつも明るく溌剌とした彼女には珍しい事なので、心配になった私が声をかけると、そんな返事が返ってきた。
「風邪ですか? なら、お仕事を休んで安静にしてもらわないと」
「いえ、風邪じゃないみたいなんですけど、とにかく元気が無いんです」
そう言うアルマさんの方が、私には元気が無いように見える。今にも泣き出してしまいそうなくらい、その姿は頼りなく見えた。
「心配ですね……。でも、アルマさんも余り心配しすぎないで下さい。きっと大丈夫ですよ」
「いえ、心配じゃないです。全然心配じゃないんですけど。でも、あいつの元気が無いんです……」
両手を振って否定し、それから暗い顔でうつむいてしまったアルマさんをなだめ、今日はもう寝るように促した。
「すいません奥様。失礼します……」
「本当に大丈夫ですから、アルマさんも元気を出して。お休みなさい」
力の無い声でお休みなさいませとお辞儀をして、アルマさんは食堂を出て行った。
――ふーむ。
一人になった私は腕組みをし、しばらく思案した後、ボルマンさんを探して屋敷を歩いた。
「あ、ボルマンさん」
「これは奥様、どうかなさいましたか?」
二階を歩いていたボルマンさんを捕まえて、私は聞いた。
「さっき、アルマさんが落ち込んでたんです。ヘンリーさんに元気が無いって」
「そうですか。……ヘンリーは体調でも崩したのでしょうか。後で私が確認しておきます」
「はい、ありがとうございます。で、ボルマンさん。それはそれとしてですね」
「はい」
「アルマさんがヘンリーさんを心配しているのは、やっぱりそういうことなんですか?」
「はい、そういうことです」
「そうですか……」
私の問いに、ボルマンさんは考えた様子も無くうなずいた。やはりそういうことだったのか。
「ですがアルマに言ってはいけませんよ。彼女は恐らく認めないでしょうから」
「どうしてですか?」
「彼女の気持ちも複雑なんです」
「なるほど……」
さすがはボルマンさんだ。私はよく分からなかったが納得した。
「ところで奥様」
「なんですか?」
「来月の末に催される建国祭について――」
「はい」
「……いえ、失礼しました。これはやはりご当人が申し上げるべきことですね。お忘れ下さい、奥様。――お休みなさいませ」
「……? はい、お休みなさい」
ボルマンさんと別れた後、私は寝室に戻ろうと階段を降りた。
するとそこに、妙に黄昏れた表情のヘンリーさんがいた。階段の下の方で手すりに寄りかかって、確かにいつもよりは元気が無さそうに見えないこともない。
「ヘンリーさん、どうしたんですか?」
「……ああ、何だ奥様ですか」
「『奥様』に向かって『何だ』はないですよ。で、どうしたんですか? 何か思い悩んでいるみたいですけど」
「ふっ」
鼻で笑われた気がする。
「男には、人には言えない苦悩ってヤツがあるんです」
「なるほど」
これは心配する必要がない。そう判断した私はあくびをした。もう寝ようと思ったが、アルマさんの手前、もう少し理由を聞いてみた。
「その苦悩の中身をぜひ聞かせてもらえませんか?」
「……男の約束なんで、いくら奥様相手でもそれは出来ませんね」
「お休みなさい」
階段の手すりにもたれているヘンリーさんを放って、私は寝室に戻った。
明日はアルマさんに、相手はよく考えるように言っておこう。