井戸
今日は彼女と、玄関先で鉢合わせた。
「お帰りなさいませ」
「……ああ」
ジェラールは最初、これは本当に彼女かと首を傾げた。それほど彼の妻は怪しい格好をしている。
夫の帰還に気付いて、慌てて庭から出てきたらしい。肩で息をしながら、途切れ途切れの声でお帰りなさいませと言った。
それはまあ良い。
「……そんな格好で何をしていたんだ」
「え? ……これですか?」
頭巾を被ってマスクをし、どこで手に入れたか分からないゴーグルまでしている。まるで夜盗のような出で立ちだ。
「井戸までの道を作っていました」
――井戸?
ジェラールはまた首をひねった。相変わらず、おかしな事を思いつく。
「井戸などあったか?」
「はい、ありました」
「……そうか」
「……」
それだけで、二人の会話は途切れた。
「ではな」
「――あ」
別に用はないのだ。彼女の格好が余りにも妙だったので、その理由を尋ねただけである。そう思って振り返ろうとしたジェラールに、ミアが声をかけた。
「……なんだ」
「……いえ」
「……そうか」
「……」
「……」
沈黙する二人の背後で、やたらと鳩が鳴いている。
「ではな」
やはりそう言って、ジェラールは屋敷に入った。
「奥様はここの所、裏手の井戸を修理していらっしゃいます」
「井戸の修理? ミアにそんな事ができるのか? ……どうした」
夜、ジェラールは彼の寝室にて、執事のボルマンと明日の予定を確認していた。その中で、夕刻に彼の妻が言っていた井戸の話が出たのだ。
執事は主人が妻の名前を口にしたところで、目を見開いて固まったが、それから満面の笑顔になって答えた。
「そこはヘンリーなどが手伝っております。ご安心下さい。奥様に危険な作業などはさせません」
「別にそんな事は心配していない」
「しかし坊ちゃま、このようなことは奥様に直接お尋ねになればよろしいのでは?」
「屋敷内のことはお前に任せている。お前からまとめて聞けば十分だ」
「そうですか……」
残念そうな顔になったボルマンに構わず、ジェラールは続けた。
「彼女に関して言えば、来月の建国祭についてお前にも承知しておいて欲しいことがある」
「はい」
「当日の夜会には彼女を伴う。それなりの準備を進めてくれ」
ボルマンはまた笑顔になった。感情の浮き沈みが激しいのは、ボルマンもやはり歳なのかもしれない。子爵は少しずれた感想を抱いた。
「はい、はい、それはもう。私めの全霊をかけて準備を整えさせていただきます。坊ちゃまとお出かけとなれば、奥様もさぞお喜びになりましょう」
「そんな大げさに言うことでもないが……」
妙にやる気になっている執事に少し当惑しながら、ジェラールは言った。それに、自分と夜会に出たところで彼女は喜ぶまい。そんなこともちらりと思った。
「とにかく、その件は任せたぞ」
今夜も仕事の続きをしなければならない。ジェラールはそう言ってから、寝室を出て書斎に向かった。
◇◆◇◆◇
「井戸の水が使えれば、料理も味が良くなるかもしれません。正直言って、水道の水には少し臭みがありますので……。奥様、明日から私もお手伝いしますよ」
「本当ですか? フォルカーさん」
暇があったらでいいですよと言ったけれど、実際フォルカーさんが手伝ってくれるとなると心強い。
つるべや桶の調達作成には、多芸なヘンリーさんの力が物を言っているが、石組の井桁の崩れた部分を直すには、私たちでは難しかった。フォルカーさんのこの筋肉を使えば、明日から作業は格段に進むはずだ。
井戸の修理の仕方など、誰に聞いたものかと思ったけど、それにはあの書庫が役に立った。
あの書庫には水について書かれた、それも、園芸や農業における水について書かれた本が何冊かあった。前々から思っていたが、この屋敷の前の持ち主は、本当に庭が好きな人だったのだろう。
ヘンリーさんにつるべや桶をお願いして、私自身は何をしているかというと、井戸までの道を整備している。まともに歩くことも難しい茂みに、とりあえずは道を作らなければ、井戸を修理することもままならない。
元々裏庭には小径が巡らされてあったようで、草を抜いていくとその跡が見えてきた。表面は茶色く枯れているくせに、深く根を張った背の高い雑草たちは手強かった。しかし、他の部分は置いておいても、井戸に至るルートは早く開通させようと思っている。それが当面の目標だ。
「私は元々軍にいたので、その手の力仕事はお手の物です。要するに陣地を作るのと同じようなものでしょうしね」
「フォルカーさんは兵隊だったんですか?」
「ええ」
フォルカーさんはうなずいた。なるほど彼が兵隊だったのであれば、この隆々とした筋肉もうなずける。しかしそれが今では料理人というのは、なかなか変わった経歴の持ち主だ。私がそう言うと、彼は照れたように禿げ頭をなでた。
「私もそう思います。実際軍を退くまで、料理などほとんどしたこともありませんでしたし」
私は驚いた。彼の作る料理はとても美味しく、とてもそうとは思えない味だ。
「それがどうして料理人になったんですか?」
「怪我をして退役せざるを得なかったところを、旦那様に拾っていただきました」
「旦那様が?」
「はい」
――ふーん。
私には冷たいくせに、あの人にもそういう親切な所があるのか。私がそんな風に考えたのを見透かしたか、フォルカーさんは続けた。
「奥様、あれで旦那様は優しい方なのですよ。この屋敷に来るまで、私もそうは思っていませんでしたが」
「えー、嘘ですよ。旦那様は冷たい人です。他人に対する関心や思いやりというものに欠けていると思います!」
そう反論したのは、私の後ろで給仕をしていたアルマさんだ。
私もどっちかというとアルマさんに賛成したかったが、あの人の妻という立場上、曖昧な笑顔を浮かべてみた。
夕食が終わって寝室に向かう途中、私は玄関ホールの階段の前で足を止めた。
食堂を出て寝室に戻ろうとすると、どうしても一度この玄関ホールを通る。あの人の寝室と書斎は二階にあり、私の寝室は一階だ。この広い屋敷の中で、私とあの人の過ごす空間が重なることは、玄関での送り迎え以外にはほとんどない。
フォルカーさんが言っていたように、あの人にも色々と私の知らない一面があるのだろう。と言うより、私はあの人のことをほとんど知らない。
でも、このまますれ違って過ごしていれば、それを知る機会すら永遠に訪れない。それだとこの関係は、いつまでも変わらない気がする。私はそのことを、少し寂しいと思った。