裏庭探検
「来月、建国祭があるじゃないか」
「話しかけないでいただけますか。仕事の邪魔です」
「もちろん君も出席するんだよね?」
ジェラールの冷たいあしらいを無視して、軽薄そうな金髪の男が彼に聞いた。
この男が言っているのは、毎年春に行われる帝国の建国祭のことだ。毎年の行事としては、帝国でも最も大きなものの一つだろう。当日になれば様々な式典があるほか、帝都の町中も文字通りお祭り騒ぎになる。国外から招かれる貴賓も多く、関係各所はてんやわんやだ。
当然この件については、前々から役人一同を挙げて準備が進められて来たが、いよいよそれが来月に迫った今、宮廷内の慌ただしさはピークに達していた。無論、それはジェラールの管轄である財務畑も同じである。
毎年の事ながら、この時期は家に仕事を持ち帰っても全く終わる気配がしない。時には宮廷に泊まり込むことすらあった。
「いやあ、楽しみだなぁ。君の奥さんに会うの」
しかし、恐らく皇帝陛下を除いては、最も忙しくしていなければならないはずのこの男は、ポケットに両手を入れながらジェラールの執務机に半分腰掛けて、のんきなことを言っている。
「殿下、いい加減にお戻り下さい。あなたはあなたの政務があるでしょう」
そう、この男はこの帝国の現皇太子だ。名をエルンスト・リュミエールという。
「大体終わったからいいのさ。後は皆がやってくれるよ」
「おい、誰か来てくれ、殿下がお戻りだ。縄も持ってこい。首にくくり付けて引っ張っていけ」
ベルを鳴らして部下を呼ぼうとしたジェラールを、皇太子はちょっと待ったと制止した。彼はジェラールの机から降り、ごめんごめんと言った。
「君の仕事の邪魔をしたのは謝るよ。でも、本当に大体終わったんだ。心配しなくていいよ」
ふんと言って、ジェラールは皇太子に話しかけられる前に読んでいた書類に目を落とした。軽薄な見た目通りの男ではあるが、この男が「終わった」と言えばそうなのだろう。
皇太子のエルンストはジェラールの二つ年下で、彼とは二十年来の付き合いになる。
常にのらりくらりとしたつかみ所の無いその性格は、ジェラールとは対極を成すものではあったが、どうしてか彼らは昔からよく一緒にいた。というよりも、皇太子がジェラールにちょっかいを出しては煙たがられていた。
「君だって、一人で抱え込まないで、もっと部下に仕事を任せた方が良いんじゃないの」
「余計なお世話ですね」
とジェラールは言ったが、皇太子の指摘も正しい。子爵ほど多くの仕事を抱え込んでいる人間は、宮廷には他にいない。自分は何もせず、他の者に実務を任せきりという爵位持ちすらいる中で、彼はやはり異質であった。
「で、君の奥さんの話だけどさ」
皇太子は強引に話を戻した。
「建国祭にはちゃんと連れて来なよ、挨拶しなくちゃならないから。『うちのジェラールがお世話になっております』って。いやあ、本当に楽しみだなぁ」
皇太子がそこまで言い終わる先に、ジェラールの右手の中ではベルが振られ、飛んできた部下が皇太子を丁重に連行していった。
はっはっはと笑いながら皇太子が去ってからしばらく後、ジェラールは椅子の背もたれに寄りかかり、腕と足を組んで考えた。
――建国祭か。
あの軽薄な男の言う通り、建国祭とその後に行われる夜会は、社交嫌いのジェラールが欠席する事の難しい催しの一つだ。仕事の一環として、出席しなければならないだろう。
そして夜会に出席するとなると、同伴者が必要になる。
去年まではその辺りのやりくりに苦労したが、今年のジェラールは違う。彼が結婚を受け入れたのは、このような時のためなのだ。ようやく彼女にも、ジェラールの妻としての務めを果たしてもらう時が来た。
そこまで思って彼はうなずき、仕事を再開した。
◇◆◇◆◇
水道を使うのは面倒だったので、井戸を使うことにした。
――確か、裏庭にそんなものがあった気がしますな。
私が水に困っていると言うと、料理人のフォルカーさんがそう教えてくれたからだ。
裏庭にはまだ、ほとんど手をつけていない。前庭で刈り尽くした雑草も、ここには生え放題になっている。とりあえず玄関から目につくところからと、今まで放っておいた。
「何してるんです、その格好」
「探検します」
いつもの作業服と手袋を二重に着込み、マスクと頭巾を被った私に対して、ヘンリーさんはあきれ顔だった。しかし、以前の前庭よりもうっそうと草が生い茂っている裏庭を探索するのに、用心しすぎということはない。
「この屋敷にダンジョンでもありましたか? それなら良い物を貸してあげます」
そう言ってヘンリーさんが持ってきたのは、鍛冶の人やガラス職人が付けそうなゴーグルだ。どこにこんな物があったのだろう。彼は何でも持っている。
「いいですねぇ。似合いますよ」
「え? そうですか? へへへ」
「ええ、お宝でも見つけたら分けて下さい」
くぐもった声でヘラヘラと笑う私を、ヘンリーさんははやし立てた。
「ああ忙しい忙しい、洗濯物が――、……ぎゃあ! 不審者!」
通りかかったアルマさんが腰を抜かすという一幕があったものの、こうして私は裏庭の探索を開始したのだ。
「こ、ここはどこ」
そして三十分後、私は遭難しかかっていた。
この屋敷の構造上、通りから入った前庭よりも、裏庭の方が面積はむしろ広い。
木も多く植えられているので、草が生い茂っていなかったとしても、方向音痴の人なら迷ってしまうのではないだろうか。
草をかき分けて進みながら、子爵夫人が庭で遭難するというのは、ひょっとしたら新聞というものに載れるかもしれないと考えた。
「はー、はー、……ふぅ。こ、これかな……?」
さらにさまようこと一時間、私は裏庭の奥地にて、目的の井戸と思われる物体を発見した。
私の腰くらいまである石組みの井戸は、ずっと長い間放置されていたのだろう。そのほとんどが茶色の苔で覆われている。
石が露出している部分に触れると、すごく冷たい。口は古い木の板で塞がれていて、その上には大きな石が重しのように乗せられているが、埋められてしまった様子はなかった。
「……よし」
とりあえず、私は井戸の口を覆っている木と石をどけることにした。
両手にかかえる大きさの石をどうにか持ち上げ、井戸の横の地面に転がす。蓋になっていた木の板はかなりもろくなっていて、持ち上げるとパラパラと木くずが落ちた。
黒い口を開けた井戸の中を、縁に両手をついてのぞき込む。
ここで落ちたら、多分誰も見つけてくれないだろうなと思うと、恐る恐るという感じになった。
穴の中は暗く、底は見えない。
「おーい!」
穴の底に向かって、衝動的に叫んでみた。私だけでなく、この穴を見たらきっと誰でもやりたくなるだろう。アルマさんは間違いなくやるし、ヘンリーさんもやる。ボルマンさんもお茶目なところがあるので、きっとやるだろう。
――もしかしたら、あの人もやるだろうか。
――いや、やらないなと思いながら、こだまが反響するのを聞いていた。
次に私は、井戸の中に小石を落としてみた。途中壁にぶつかったか、カツカツという音が聞こえ、しばらくしたら水音が返ってきた。
この井戸は涸れていない。そう思うと、少し興奮した。
石組みに付けた苔を払って、水をくみ上げるつるべを付けて――、大仕事になりそうである。
にやりとしてから、私は前庭へと引き返した。
ちなみに、戻るのにも三十分かかった。
まずは井戸までの道を作らないといけなさそうだ。