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一人の食事

 長かった冬が終わり、帝国にも春が来た。

 吹く風にはまだ冷たさがまじることはあるものの、冬の間はどこか陰りを帯びていた人も街も、少し明るくなったような印象を覚える。


「行ってらっしゃいませ」


 ヴェンドリン子爵邸での日常が、冬の間と特に大変わりしたということは無い。

 相変わらず今日も、朝早くから子爵は宮廷に出仕し、家人たちは並んでそれを見送った。


「……ああ」


 ただ一つ変化を挙げるとすれば、彼を見送る言葉に対して、子爵がそう短く返すようになったということだろうか。

 ジェラール・ヴェンドリン子爵の妻ミアは、出仕する夫と同じように、今日も早朝から玄関に立ち、「行ってらっしゃいませ」と声をかけた。ジェラールはそんな妻の顔を見て、無表情のままぶっきらぼうに一言だけ、「ああ」と言った。


 ジェラールとミアの結婚は、お互いに積極的に望んだものではない。ジェラールの方には彼を想う執事の思惑が働いていたし、ミアの方にも両親への負い目など、様々な事情があった。

 この結婚の成立――少なくともこの夫婦自体の間には、好意や愛情というものは一片も介在していない。ただ二人は、周囲や世間に対する義務として、結婚という道を選んだのだ。


 そんな二人の関係なので、結婚した当初は屋敷の中に索漠とした空気が流れることもあった。

 それでも、冬の終わりにジェラールがミアの名前を聞いて以来、両者はうまいこと、この広い屋敷の中で棲み分ける事が出来るようになったと思われた。


 馬車止まりに引かれてきた馬車に乗り込むと、ジェラールは座に座り、妻のことを考え始めた。

 彼女の名前を聞くという難問に彼が取り組んでいた時には、不覚にも執務室でまでそのことに頭を悩ませるという失態を演じてしまったが、最近はそういうことはない。

 ただ、馬車に乗り込んでから宮廷に着くまでの間。この短い時間だけは、ジェラールは妻のことを考える。それが習慣のようになっていた。


 ――ちゃんと苗は育っているのか?


 そして妻のことを考えるということは、庭のことを考えるということとほぼ同義だった。


 ミアは冬の終わりに、街に出てとんでも無い量の苗や種を買い込んできた。

 官費に対しては厳格なジェラールだが、決して彼は吝嗇な人物ではない。ジェラールは結婚してから、妻が服や宝石を買うために必要なだけの金を割り当てておいたし、そうした物を買うのに比べれば、植物程度安いものだろう。


 金額のことを気にしているのではない。問題は純粋に量だった。

 市場から配達されたという苗が玄関に積み上げられていたのを見たが、ここは一体どこの植木屋かと思ったものだ。


 その後数日かけて、ミアはジェラールから見ても分かるたどたどしい手つきでその苗を植え込み、種をまいていた。

 それから更に数日が経った。あれらの植物を、妻はまともに育てることが出来ているのだろうか。


「着きました。旦那様」


 馬車が停止し、御者台から声がかかると、ジェラールはすぐに思考を切り替えた。

 馬車を降り、宮廷に向かう階段を上がるジェラールの頭には、もう妻の姿は残っていなかった。


◇◆◇◆◇


 問題は水なのだ。


 帝都には最新の水道が整備されている。東に連なる山脈から引かれた水道管は、かなりの水量をこの大都市に供給していて、当然それは子爵邸にもつながっていた。

 水道が無くても、帝都には街を横断するように川が流れている。飲み水として使うには少し汚いけれど、水道を使えない貧民街の人たちなどは、専らその川の水を生活用水として利用していた。私もどっちかというと、その川の水にお世話になった方だ。

 水道にしろ川にしろ、帝都に暮らしていて水に困るという話は聞いたことがない。そんなことから、この帝都は大陸の中でも、最も水に恵まれた都の一つだと言われている。


 でも私は今、その水に困っていた。


「……手が痛い」


 寝室のベッドに転がりながら、私はつぶやいた。

 体力には結構自信があったけれど、屋敷の水道から庭に水を運ぶのは、思った以上に重労働だった。

 でも、ここのところ雨が降ってないし、苗木屋のご主人は、苗に欠かさず水をやるように言っていた。今は頭の上に乗っているノートにもそう書いてある。


 ブリキのバケツを持って、屋敷と庭を一日に何往復しただろう。手のひらがすっかり真っ赤になってしまった。

 それでなくても、この間から草を刈ったり土を掘り返したりして筋肉痛だ。今日は水やりを終えてから、ボルマンさんがくれた膏薬を手に塗って、こうしてベッドに突っ伏している。

 そこにノックの音がした。


「どうぞー」

「失礼します。奥様、お食事です。お夕食ですよ」

「はーい」


 ドアの向こうから、アルマさんが夕飯の支度が出来たことを知らせてくれる。うつぶせのまま、私はくぐもった声で返事をした。


「いただきます」


 そう言ってから、テーブルに並べられた食事に手をつける。

 この屋敷の食堂は広い。当然だけど、私の実家の何倍もある。そこの中心に置かれた長い長いテーブルに座っているのは私だけ。後ろにはアルマさんが立っていて、給仕をしてくれている。


 食卓に出てきたスープも、ソテーされた鶏もとても美味しいけれど、幼い頃から家族皆で小さな食卓を囲んできた私には、この広い食堂は落ち着かなかった。


「アルマさんも一緒に食べませんか?」

「駄目です奥様」

「……はい」


 何日かに一度はそう言ってみるけれど、必ず駄目だとたしなめられる。以前に一回だけ、使用人の皆と使用人部屋で食事をしたいと言ったら、もっと叱られてしまった。


「……旦那様は、今日も上でお食事ですか?」


 そう聞くと、アルマさんはちょっと気まずそうにうなずいた。

 私の主人であるジェラール・ヴェンドリン子爵は、基本的にこの食堂を利用することがない。少なくとも私がこの屋敷に来てから、彼の姿をここで見たことは一回もなかった。

 屋敷にいる時の彼が食事を取るのは、二階の執務室でと決まっている。仕事をしながら食べるのだそうだ。

 わずかな食事の時間すら机から離れることが出来ないなんて、帝国の財政に関わる仕事をしているとは聞いたけれど、旦那様はそんなに忙しいのだろうか。それとも、その仕事というのは、そんなにも面白いものなのだろうか。


「ごちそうさまでした」


 私が食事を終えてそう言ったところに、食堂にもう一人、人が入ってきた。


「お粗末です、奥様。どうでしたか? 今日の鶏のできばえは」


 自信作ですよと笑ったのは、料理人のフォルカー さんだ。

 私の考える料理人というイメージからはかけ離れた、筋肉質で大柄な壮年の男性で、禿げ頭に黒々としたヒゲを生やしている。

 私が今日の鳥について言葉を尽くして賞賛すると、彼の笑いはもっと大きくなった。


「それはよかったです。やはりそう言ってくれる方がいると、料理の作りがいがありますなぁ。旦那様には簡単な食事しか作らせてもらえませんし」


 そう言って禿げ頭をなでたフォルカーさんの言葉からは、あの人に対する恨めしさなどは感じない。ただ純粋に、彼は残念がっているように聞こえた。


「今日も……書斎なんですよね」


 私はフォルカーさんにも、アルマさんに聞いたのと同じ事を聞いた。


「さっきお食事をお持ちしました。あの分だと、今夜も遅くまでかかりそうですな」

「……そうですか」


 ――ミアって、呼んで下さい。


 最後に旦那様とまともな会話を交わしたあの日から、私のこの屋敷における立場はほとんど変化していない。

 使用人の皆とは、かなり打ち解ける事が出来た。それはとても幸運なことだと思う。でも、肝心のあの人とはずっとすれ違って過ごしている。


 ――……ミア。


 初めて名前を呼ばれた時、少しだけ歩み寄ることができたと思った。

 例え私が飾り物の妻で、この結婚ができの悪い取引契約のようなものだとしても、それはそれで、互いに互いを理解しようとすることは可能なのではないかと。


 この屋敷に来たばかりの頃のような、あの人に対する得体の知れない恐れというか、引け目のような感覚は今は無い。

 でもやっぱり、この関係には愛も無いのだ。

 しかし、それで満足するべきなのだろう。貴族の結婚、それも私たちのような結婚に、それ以上が望めるだろうか。


 私はそのように二階にいるはずの人について考え、食堂の天井を見上げた。




繰り返しますが、言うほどシリアスにはなりません。

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