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冬の終わり

 あれは何をしているのだろう。


 初めて仕事を早退きしたジェラールは、目的の人物が庭にいることを確認してから、そんな風に思った。

 ブツブツ独り言を言いながら、彼女は自分が耕した地面に、棒で線を引いたり、石を置いたりしている。あれも花を育てるのに必要な工程なのだろうか。


「ここかな。ここがいいかな」


 もう少し近寄ってみると、そんな声が聞こえた。どうやら彼女は、この庭の何処に何を植えるかを考えているらしい。

 通常、都市計画などにおいても、新しい町をどう作るかを考えてから旧い町を撤去するべきではないだろうか。やはり彼女には、少し計画性が不足している。


 相変わらず、庭仕事をしている彼女の頭の上には、馬の尾のような黒髪が揺れている。しかし今日は心なしか、その揺れ方にも覇気が感じられないような気がした。

 だが、朝見た時よりもずっと元気なのは間違いない。やはり、自分の判断は正しかった。


 ジェラールはさらに彼女に近づいた。

 すると、彼女は自分の立てた配置計画に満足したのか、一つうなずくと、手に持っていた棒を投げ出した。


「こんな感じかな」


 作業が一段落したようだ。最適なタイミングである。

 このまま歩を進め、彼女に声をかける。すると彼女は振り返るので、すかさず聞く。「君の名前を知っておきたい」と。当然彼女は答える。そして、ジェラールは撤退する。

 これが計画というものだ。


「す――」


 計画の実行という段になった。しかしジェラールが、少しいいかと声をかけようとした時、彼女は急にうつむいた。


 それほど寒くもないのに、ぶるりと一つ、彼女の身体が震えた。

 彼女は両手で、自分の身体をかき抱いている。風邪だろうか。最近の元気の無さは、それが原因だったのかもしれない。


「ちょ――」


「…………ん」


 ちょっといいかと尋ねようとしたが、それも彼女に遮られた。

 自分の身体を抱きしめたまま、彼女は小さくうずくまり――


「んんんんんんんん!」


 奇声を発し始めた。

 一体何が起ころうとしているのだ。ジェラールはうろたえた。


 うずくまったままぴょんぴょんと跳ねたかと思ったら、立ち上がってじたじたと地団駄を踏んでいる。

 両手を天に突き上げた彼女は、大きな声で吠えた。


「さあ!」


 ――さあ? さあ、それでどうなる。


「休憩!」


 何だ休憩かと、ジェラールは拍子抜けした。しかし、たかが休憩を行うのに、こんな気合いを入れる必要があったのだろうか。やはり、おかしな女だ。

 そんな風に余りに意表を突かれたので、彼は彼女が振り返った時も、とっさに反応出来なかった。


「…………旦那様」


 ――……う。


 彼女のそのつぶやきと、急速に光を失っていく目を見て、ジェラールはようやく理解した。


 彼女を暗くさせているのは、やはり自分だ。彼女の「旦那様」である、他ならぬ自分自身なのだ。


 当然ではないか。妻として迎えたきり屋敷の中に閉じ込めて、何もしてやらずに放置している。そんな男の前で、笑っていられる方がおかしいのだ。

 寝ている所をたたき起こされたような気分がした。


 しかし初めから、彼女がこの家に来た時から、それは承知していたはずではないか。子爵家の家格と財に惹かれてきた娘一人、軽蔑されようがどうしようが、自分には関係ないと思っていたはずではないか。


 それがどうして、彼女が辛そうな目をしているだけでどうして、自分はこれほど動揺しているのだろう。目の前に立っているのは、名前も素性も知らない女なのに。


「君の――、……いや」


 そうだ、名前だ。名前を聞かなければ。だが、君の名前を聞かせてくれと言おうとして、ジェラールの口は止まった。


「す、すまない」


 彼女の名前を聞く前に、すまないと、彼は一言だけ言った。言わなければならないような気がしたのだ。その時にはそれが、彼の出来る精一杯だった。

 ジェラールが意図した事が伝わったのか、それは分からない。しかし、彼女は彼のその言葉を聞いて、あっけにとられた表情になった。目から、怯えの色が消えている。


 一歩踏み込んで、彼は言った。


「君に、聞きたいことがあるのだが」


◇◆◇


 私に聞きたいことがあると、彼はそう言った。その前に、すまないとも言った。


 その「すまない」がどういう意味か、私には分からなかった。でも同時に、なんとなく分かる気もした。

 彼は今、本当に私に、すまないと思っている。

 こんな感情のこもった言葉を、この人からかけられたのは初めてだ。


「何を、お聞きになりたいのですか?」


 だから私も、恐れずに、素直にそう答える事ができた。


「君は……、君の……」

「はい」

「……私は、君のことを、なんと呼べばいい?」

「……私のことを?」

「そうだ」


 そういえば自分は、彼に呼ばれた事すらない。そんな怖い顔をして、そんなことを聞きたかったのか。

 私がこの人に答えられる台詞など決まっている。


「旦那様のご自由に」

「違う」

「……え?」

「君は、なんと呼んで欲しいのだ。それを、聞かせて欲しい」

「……私が?」

「……お願いだ」

「お願い……」


 私が彼に、何と呼んで欲しいか。

 今更どうして、この人はそんな事を気にしているのだろうか。

 

 夫が妻に呼びかける時の言葉とは何だろう。お前、とかだろうか。

 いや、違う。私はきっと、まだこの人の妻にはなれていない。なりたいかどうかも、分からない。だから、だから今は――


「私、私は――」


◇◆◇


 卑怯な聞き方をしてしまった。


 彼女の名前を知らないと、今更彼女に知られたくなかった。知られて、軽蔑されるのは避けたかった。

 だから、何と呼んで欲しいのかと、そう聞いた。卑怯な聞き方だが、彼女に軽蔑されるのは避けたい。そう思っている自分を、ジェラールは認めるしかなかった。


 彼女は答えるのをためらっている。今更どうしてそんなことを聞くのかと、やはりジェラールを軽蔑しているのかもしれない。

 こんなことになるのなら、聞かなければ良かった。ジェラールがそう思った時――


「ミアです」


 ミア。


「ミアって、呼んで下さい。……旦那様」

「……分かった」


 ようやく聞けた。ジェラールは内心で、ほっと胸をなで下ろした。

 聞きたいことは聞いたのだから、このまま去ろう。ジェラールは踵を返そうとし、


「待って」


 そして彼女に捕まった。

 彼女は真剣な顔で、ジェラールを見つめている。


「呼んで下さい」

「…………」


 沈黙が流れる。


「…………」

「……ミア」


「はい」


 最後にはいと答えた時、彼女は笑顔だった。

 名前を聞く。終わってみれば、こんなたやすいことのために、どうしてここまで時間がかかってしまったのか。しかしこれで、ジェラールの肩の荷は一つ下りた。これでまた、雑念を挟まず仕事に打ち込む日々に戻れる。

 妻に背を向け、屋敷の中に入っていくジェラールの顔も、彼にはなぜだか分からないが、少しだけほころんでいた。入り口の扉を閉める瞬間、彼は心の中で、もう一度確認した。



 ジェラールの妻の名前は、ミアというのだ。






――冬が終わり、やがて春へ。

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