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少しだけ勇気を

 暗い顔をしている。


「行ってらっしゃいませ」


 その声も、やはり暗い。

 何かあったのだろうか。


 ジェラールの出仕時刻、玄関ホールには彼の妻の姿があった。

 どうしてか、今日の彼女の顔はとても物憂げだ。


 ――今日の奥様は、町へお出かけなさいました。よろしかったですね?


 昨夜、彼が仕事から戻るとボルマンはそう報告した。

 事前に伺いを立てずに後から報告してくるのは、彼の執事にしては珍しい。しかし別に、ジェラールは妻を監禁しているのではない。彼女とて、外出したいこともあるだろう。問題ないと答えた。


 町で一体何をしてきたのだろうか。

 寝る前になってそう思ったが、それはまあどうでもいい。町で好きなことをしてくれば、彼女の機嫌も良くなっているだろう。これで、彼女から名前を聞きやすくなる。彼はそう考えた。


 しかし今朝の彼女の顔は、明らかに暗かった。妙にうつむき加減で、何とも頼りない。先日庭で笑っていた彼女とは別人のようだ。


 ――……今度にするか。


 そこでジェラールは、また問題を先送りにした。

 彼の乗った馬車は中央通りを走り、宮殿に向かう。執務室に入ると、今日も仕事が始まった。部下たちが入れ替わり立ち替わり、ジェラールの部屋に難題を持ってくる。


「それで貴族院は、どうしても公立学校建設には予算を割けないと……。どうやらロートシルト伯爵が、強力に反対しているようなのです」

「それでは問題の先送りに過ぎないだろう! いずれはやらなければならない話に、いつまで議論を重ねる気だ? ……分かった。貴族院の連中は私が説得する。皇太子殿下の隣国訪問の件は? こっちはとっくに予算を割り当てて、後はあの方が行かれるだけなのだが」


「『日が悪いから、また今度にしてくれないか』と」

「何だと……。まったく、それがあの方の手だ。今度今度と引き延ばして、我々が諦めるのを待っている。何くれと理由をつけているが、結局は行きたくないのだ。私からそれとなく陛下のお耳に入れよう」


 ジェラールが仕事に夢中になるのは、単純に仕事が好きだからだ。

 もちろん、国政に携わることに対して、彼は大きなやりがいと責任を感じている。しかしそれ以前に、彼は純粋に仕事そのものが好きなタイプの人間なのだ。

 だから彼は、目の前の仕事に全霊で取り組む。手加減などしない。次から次へと決裁を行い、部下に仕事を振り分け、嵐のような来客に対応し、問題を片付けていく。


「次は何だ?」

「いえ、子爵。今日決裁をいただきたい案件は、これで全てです」

「……そうか」


 その日は珍しく、昼前に執務が一段落し、ジェラールは少し残念そうな声を出した。しかしそれは、緊急の案件についてはということであって、机の上を見れば、書類は山のように積み重なっている。

 探そうと思えばやることは無限に見つかる。

 だがとりあえず、ジェラールは早めの昼食を取ることにした。


 ここで帝国の宮廷における昼食事情を説明すると、下級役人たちは、大抵家から弁当を持参してくる。独身者などは、宮廷に隣接する庁舎にある大食堂で昼食を取る者も多い。そして通常、ヴェンドリン子爵のような爵位持ちや役付きには、厨房から個別に食事が出される。

 しかしジェラールは、以前から爵位持ちが厨房の料理人が作る豪華な食事を食べて、国庫に無用な負担をかけることは間違いだと主張していた。


 そこで彼は日頃から、彼のような立場の人間には珍しく、屋敷から弁当を持参してきていた。

 彼が包みを解くと、パンにハムを挟んだだけの簡素な食事が現れた。執務を行う体力を補給するには必要十分な食事だ。これはもちろん、ジェラールが指定して屋敷の料理番に作らせている。彼は時に、それを食べながら仕事に没頭する時もあった。


 むしゃむしゃと昼食を食べながら、ジェラールは思った。


 今日は日差しも暖かく、冬の終わりを感じさせる。

 冬が終われば春が来る。春が来れば、帝都でも様々な祭典が行われる。彼も新しい仕事で、より忙しくなるだろう。

 しかし春と言えば、花の季節だ。詳しくは知らないが、種なり苗なり、花を育てるならば、そろそろ植えなければまずいのではないだろうか。


 ――今ごろ彼女は、庭仕事をしているだろうか。


 庭仕事をしている時の彼女は機嫌が良い。もしかしたら、今なら彼女の名前を聞くには丁度良い時間なのかもしれない。

 先ほど自分でも言ったではないか。問題を先送りにするべきではい、と。

ただ家長の務めとして、妻に名前を聞くだけだ。何をためらうことがある。聞いてそれで、ジェラールのいつもの日常に戻ればいい。


 食事を終えてからも、彼はしばらく執務室で考え込んでいた。


 彼はもう一度、机の上に視線を注ぐ。今日やらなければならない仕事は、もう終わった。


「これは子爵様、どうかされましたか?」


 ヴェンドリン子爵の執務室の扉が開き、部屋の主がそこから出てきた。丁度その前を通りかかった彼の部下が、用向きを尋ねる。子爵のことだから、きっと何か仕事上の用事があるに違いないと思ったからだ。


「すまないが、今日は少し早く帰る」


 そう言うと、部下の返事も聞かずに、子爵は姿勢の良い歩き姿で廊下を去って行った。

 彼の姿が見えなくなってから数分後、口を開けて固まっていた部下の両手から、書類の束がばさりと落ちた。


◇◆◇


 初めて行った苗木屋は面白かった。

 薄いテントのような幕がかかったその店には咲いている花がほとんど置かれておらず、棚の上には緑の色と土の色が目立った。

 ヘンリーさんによると、その店は帝都にある大抵の花屋に花を卸している、その道では有名な店なのだそうだ。


 ――と言っても俺は、店の位置を知ってるだけで、肝心の花についてはさっぱりですが。


 そう言うヘンリーさんは、店に入った後、アルマさんと一緒に苗木の前で首をかしげていた。


 ――これだとどんな花が咲くのか、全然分かりませんね、ミア様。


 アルマさんの言葉通り、素人三人の目には、どの苗をいつ植えるべきなのか、それが育ったらどんな花になるのか、そんなことは見当もつかなかった。

 でも私には、そのことがかえって面白かった。どんな花が咲くか分からないけれど、育ててみるのは楽しそうだ。


 持ってきたノートと、店のご主人のアドバイスを参考に、私たちは種や苗を選んだ。


 ――せっかくだし、一杯買って帰りましょう!


 アルマさんがそう言うので、勧められたものはほとんど買ってしまった。お金は、家を出る時に、こっそり父が持たせてくれたものを使おうと思っていたのだけれど、アルマさんに凄い勢いで怒られたので、それはしまっておいた。

 買い込んだ苗たちについて、店のご主人は後から子爵邸に届けてくれると言ったけれど、早く植えてみたかった私は、両手に抱えられるだけの量を持ち帰った。帰りの馬車が、土と緑の匂いで溢れたのがおかしかった。


 ――……奥様、元気になられましたか?


 屋敷に着くと、アルマさんが言った。屋敷に着いたから、もう『ミア様』はおしまいだ。

 彼女の問いに、もちろん私ははいと答えた。


 ――……本当ですか? ……なら良かったです! なんだか、町に行ってから、もっと落ち込まれてしまったように思ったので……。安心しました。


 アルマさんは本当に察しのいい人だ。

 でも、本当に楽しかったですと私が繰り返すと、それこそ花のような笑顔で、彼女はお辞儀をして私の寝室から出て行った。


「この苗は、ここに植えてみようかな……」


 翌朝、旦那様を見送った後、私は庭に出て、買ってきた苗や球根をどこに植えるか考えた。


「ここは、ちょっと日当たりが良くないから――」


 この庭の全部に花を植えるのは、いきなりは無理だ。一つ場所を決めて、そこを中心に配置を考えていった。


「こんな感じかな」


 作業が終わると、私は別のことを思った。

 市場の人たちが言うように、使用人の皆が呼ぶように、私はもう、子爵家の奥様なのだ。

 奥様は奥様であって、私じゃない。私じゃなくてもいい。

 旦那様には奥様が必要で、私は要らない。


 なら私は――「ミア」は一体どこにいればいいんだろうか。

 私はこうやって庭を造ろうとして、それで何をしたいんだろうか。

 この庭に花が咲き、緑に覆われたからといって、それが何になるんだろう。


 急に、自分のやっていることが酷く空しい、薄ら寒いことのように思えた。日差しがかなり暖かくなってきたにもかかわらず、私は寒気と、自分の身体が震えるのを感じた。


「…………ん」


 両手で自分の身体を抱いた私は、ぎゅっと目をつぶって歯を食いしばり、しばらく感情の波に耐えていた。


「んんんんんんんん!」


 私の身体よ、暖まれとばかり、地団駄を踏んで両手で二の腕をこすり上げる。やっていることはまるで、だだをこねる子供みたいだ。


「――さあ!」


 空元気を出して、空を見上げてのびをした。


「休憩!」


 そうだ。折角初めて花を植えようという記念日なのに、こんなもやもやとした気持ちのまま作業をしたくない。ちょっと休もう。休んで気持ちを切り替えよう。

 そう決めて、私が意気揚々と振り返ると、そこには――


「…………旦那様」


 まだ昼を過ぎたばかりだというのに、いるはずのないその人が立っていた。

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