二人の結婚
これも短編にしようと思ったのですが、少し長くなったので分割しました。
恋愛描写修行中。作者に暖かいアドバイスをお願いします。
「君もいつまでも独り身じゃねえ。何なら、私が世話をしてあげよう」
豪壮な宮廷の一角で、ふさふさとした白い眉毛の、柔和そうな老人がそう言った。確か、侯爵だったはずだ。
「は?」
心底迷惑そうな顔で答えたのは、この帝国の財務官であるジェラール・ヴェンドリン。子爵の位を賜っている。
「氷の男」と同僚にあだ名され、その仕事ぶりは常に冷徹で正確。人も物も数字としてしか見ていない。冷ややかな物言いは長官からも煙たがられていたが、彼がいなければ帝国財政は回らないと言われるほど優秀な男だった。
十代で結婚することも何ら珍しくないこの国の貴族社会において、三十を過ぎたジェラールが今もって独身なのは、ひとえに彼の仕事にしか興味のない性格が原因だった。
何しろ舞踏会に出席しても、令嬢のドレスの見事さを褒めてみるなどということは絶対にしない。
むしろ、「――あれ一着を仕立てる代金で、百人の貧民の五年分の食料が賄えるな……」などと考え、また実際に、令嬢にそう言ってしまう感性の人物なのだ。
これでは、いかに彼が優秀で、冷たいながら整った容貌の持ち主であってもどうしようもない。田舎の領地で暮らしている彼の母親が、「孫の顔を見るのは諦めたわ」とこぼすのも無理はなかった。
「余計なお世話ですね」
その時のジェラールが、ぎりぎりそう言わなかったのは、ただ相手の老人が侯爵だったからだ。だから彼は「は?」とだけ言って、下級の魔物ならそれだけで消滅しそうな、冷ややかな視線でにらみつけるだけで踏みとどまった。
「じゃあ、またのう」
その視線で、大抵の人間にはジェラールの意図が伝わる。しかし侯爵はなぜか、ふぉっふぉっふぉと笑いながら、彼の返事も聞かずに去っていった。
そしてそれから三か月後、そんなことがあったとはすっかり忘れていたジェラールの屋敷に、侯爵からとんでもないものが送り付けられて来たのだ。
「……」
黒い髪の女が、無言で屋敷の玄関ホールに立っている。
その日の朝、それに気づいたとき、ジェラールは特に気にしなかった。
ちらりと女と目が合ったが、見たことのない女である。
来客なら、執事のボルマンが相手をするはずだ。あの女も案内を待っているのだろう。そう考えて視線を外し、次の瞬間には女のことを意識から消した。
書斎に向かい、椅子に座って仕事をした。彼は宮殿に出仕しているとき以外も、大抵はこうして仕事をしている。
彼の最近の悩みは、先日の豪雨で発生したニューア川の氾濫に伴う、貯水池と堤防の復旧費用だ。莫大な工事費がかかっていて、その金をどこから捻出するか、そればかりを考え続けた。食事もメイドが書斎まで運んできて、そこで済ませた。
夕刻、仕事に区切りをつけたジェラールは、寝室に向かうため、朝と同じように玄関ホールを通った。
「……」
あの女がまだいる。
女は玄関の窓越しに、薄暗くなった屋敷の外を眺めている。
「……お花でも、植えればいいのに」
ジェラールの耳に、女がそうつぶやいたのが聞こえた。
――花?
女の視線の先を見る。そこには、冬枯れの雑草に覆われた、殺風景な庭が広がっている。
この屋敷は、元々他家の持ち物だった。そこに住む者がいなくなった所を、ジェラールが安く購入した。大きすぎると思っていたが、浪費はしたくない。空き家が減って、帝都の治安維持にも貢献できる。ジェラールは満足していた。
ただし使用人も最低限しかおいていないので、庭にまで手は回っていないし、関心も無い。
――花など……。
殺風景でも、ジェラールにはどうでも良いことだった。元々、自分は庭を眺めるような人間では無い。
その女の声は妙にジェラールの印象に残ったが、声をかける事もせず、彼はそのまま歩み去った。
「今日は来客がいたようだが」
就寝前、寝室に明日の予定を確認しに来たボルマンに、ジェラールは聞いた。
どうして要件を聞かないのだと、ジェラールは執事に言った。するとボルマンは首をかしげ、今日は来客などありませんと答えた。
「では、あの女は何なのだ。私にしか見えない幽霊だとでも言うつもりか?」
「女性……ですか? はて」
ボルマンはやはり首をかしげている。いら立ったジェラールは言った。
「あの、玄関にいた黒い髪の女だ」
「黒い……。坊ちゃま、何を言っておられるのです」
ジェラールが生まれる前から家に仕えているこの執事は、彼のことをいつまでも坊ちゃまと呼ぶ。やめろと言っても聞かない。ボルマンは、その「坊ちゃま」に、耳を疑うようなことを告げた。
「あの方は、坊ちゃまの奥方様でございましょう。しっかりしてくださいまし」
「なんだ、そうか」
それならいいとジェラールは言い。そのまま眠りについた。
そして次の日目覚めると、彼は寝間着から着替えて、顔を洗った。ぽたぽたと、彼の銀髪から水が滴っている。
「…………んん!?」
そこで初めて何かに気が付いた彼は、彼がこれまで、人生で一度も出したこともないような、素っ頓狂な声を出した。
「……奥方様? 誰のだ?」
◇◆◇
私、ミア・ピレンヌが旦那様に嫁ぐことになったのは、よくわからないめぐり合わせが原因だった。
娘の私が言うのもはばかられるが、私の家は代々の貧乏貴族で、父も華やかな宮廷生活とは縁のない下級役人だ。
屋敷――とは呼べない大きさの私の家は、貧民街からそう遠くない所にある。
そのあたりには小さな教会があって、そこの神父様がとても親切な人だったから、毎日のように貧しい人たちに炊き出しを行っていた。
家にいてもすることがない私は、よく幼い弟とその教会に出かけ、炊き出しの手伝いをしていた。
するとある日、よく見かける神父様のお友達のお爺さんが、こんなことを言ったのだ。
「ミアちゃんは結婚しないの?」
あまりに突然の質問で面食らったけれど、私は笑って答えた。
――家には持参金もないし、きっと弟のお嫁さんを見つけるだけで精一杯です。私はもう諦めました、と。
私の返事を聞いて、よし分かったとお爺さんは言った。
何が分かったのか分からなかったけれど、ふさふさの白い眉毛を揺らし、ふぉっふぉっふぉと笑って去っていくお爺さんは満足そうで、それなら別にいいかと思ってしまった。
「……結婚か」
憧れたことがないと言えば嘘になる。でも、私はもう二十二歳だ。とっくに行き遅れの年齢である。お爺さんに言ったように、私の家が貧乏なのは事実だし、わがままを言ってもしょうがない。
心配そうに私を見上げる弟の頭をなでて、私は炊き出しの手伝いに戻った。
そしてその数日後、父がとんでもないことを言い出したのだ。
「ミア、お前の嫁ぎ先が決まったぞ」
「え?」
聞き返したのは、私だけではなく母もだった。
「あなた、悪いものでも拾って食べたの?」
「そんなことはせん。……紹介してくれる人があったのだ」
「それにしたって、そんな急な……、私は何も聞いてませんよ?」
「私だって、急に聞かされた話なんだ。いいじゃないか、ミアだってこの機会を逃したら、いつ結婚できるか分からないんだから」
「それは……、そうかもしれないけれど、この子の気持ちだって――」
母は私のことを心配してくれている。でも、父の言葉は正しい。
私は相手を選べるような立場でもないし、それにいつまでも家に負担をかけたくなかった。
「私、お受けします」
だから、母の言葉をさえぎってそう言った。
たとえ相手が三人の子持ちでも、四十歳過ぎの脂ぎったおじさんでも、とんでもない酒浸りの浮気者でも。結婚できる、それだけで幸せなはずだから。
「さ、さすがにそんな相手なら断るさ……、ミアはパパをなんだと思ってるの?」
父が半べそをかいている。母は勢い込んで言った。
「そう、それよあなた。お相手は誰なの? それが分からないと話にならないわ」
「そ、そうだな、うん。おほん。……ミア、お前の結婚相手は、子爵のジェラール・ヴェンドリンだ」
父が居住まいをただし、重々しい調子でその名前を告げる。
やっぱり何か拾い食いしたんでしょうと、母はもう一度父に聞いた。