忘れ物
まとめて休みが取れたので、長年放置されていた押し入れを片づけていると、亡き夫(と私の中では思うことにしているのだが、奴は今でもこの世のどこかで生きている)の借りたであろう本が出てきた。パラパラとめくると何やら紙切れが落ちた。返却期限の書かれた図書館の紙だった。返却期限は、と紙を見る。当然のごとく過ぎている。なんと三年前だ。三年前と言えば、私と夫が離婚調停、という名の罵り合いをしていた時期だ。
「自分の借りたものくらい自分で返せよ……」
などとぶつくさ言いながら何度もぶり返してくる亡き夫への恨みつらみを並べていると、どうやら他の本も借りているらしい事に気がつく。
入っていたダンボールをひっくり返すが、それらしい本は出てこない。他に本の入った段ボールを腰を痛めぬよう押し入れから引っ張り出す。が、そちらにもやはりない。こうしていると脳裏には亡き夫のニヤケ顔がちらついて、嘲笑わられているよな気がしてならない。
結局探すに探してもう一冊見つけたが、残りの一冊が出てこない。
さて、と私は思案する。私が借りたものではないし、これだけの歳月が過ぎていても図書館は何も言ってこないし(当時はバタバタしていてこちらが気づかなかっただけかもしれないが)、そもそも今では亡き夫と私は無関係だ。忘れていたあいつが悪いのだし、見て見ぬふりを決め込んでしまえばいいかな、などと思うが、心のどこかで無責任なあいつと似たようなことはしちゃいけないと咎める自分もいる。
しばし迷ったすえ、片づけを一旦切り上げると、「なんであいつの尻拭いをしなければならないんだ」と私はぶつぶつ溢しながら二冊を抱えて図書館に向かった。
まだ歳の若い司書さんに事情を説明すると、かえってこちらが恐縮してしまうほどの低い姿勢でその場合には弁償になってしまうと言われた。私は一も二もなく承諾すると、書類に必要事項を書き込み、お金を払い、何度も頭を下げて図書館を後にした。
どうやら亡き夫の借りていた本は自費出版のものだったらしく、かなりいいお値段がした。頭にきていた私は今すぐにでもあいつに連絡して請求してやろうかとも考えたが、あいつの浮ついた声をまた聞かねばならないのかと思うとその気もなくなった。あとで第三者を介して請求してやればいいのだ。今日はこれ以上不愉快な思いをする必要はない。
腹を立てた後は腹が減るもので、昼食もまだだったと気づいた私は、目についたレストランに入った。入った後に気づいたのだが、図らずもそこは旦那――もとい、亡き夫――とよく来ていたイタリアンレストランだった。つくづく今日はあいつと縁のある一日である。
多分三年ぶりのレストランに特に変わった様子はなかった。カーペットの色が明るくなったかな、などとも思ってみたが、本当にそうだと言い切る自信はない。
窓際の席に案内してもらうと、オニオンサラダとボンゴレロッソ、デザートにレモンのスフレを頼み、ちょっと迷ったが白ワインもお願いすることにした。自分で稼いお金だ、たまには明るいうちから飲んだってバチはあたらないだろう。
中庭に植えられた松の木を眺めていると料理が運ばれてきた。料理は依然美味しかった。大ぶりのあさりと共にトマトソースの絡んだパスタを口に含む幸せ。ワインも手伝って、食が進む進む。またついでついでに摘まむオニオンサラダの美味しいこと。最後にスフレで口の中をさっぱりさせる。
粗方食べ終え、まだまだ入りそうなのでパスタのおかわりでも、などと考えたが、いくら中年のオバサンとはいえまわりの目が気になるので差し控えた。でももう一杯くらいワインはいいかなと頼んで、一人物思いにふける。
「もっといい生活がしてーなー……」それが亡き夫の口癖だった。ことあるごに言うので、当時でも旦那より稼ぎのあった私は『だったらお前が頑張れよ!』と何度言いそうになった。
夢ばかりは大きいやつだった。かといって、特別努力をするわけでもなく、ただ言いっ放しなだけだった。しかしそんな男に惚れてしまった私もいる。
「馬鹿だったんだな、私……」
何度口にしたのか分からないことを呟く。たしかに私は馬鹿だった。そんな男に一蓮托生、人生を預けてしまってもいいと考えていた時期もあるのだ。
「僕はロマンスを持っていたんだ……」
これが散々罵り合った後、あいつが最後に口にした言葉だった。何がロマンスだ、と私は思った。稼ぎの悪い亭主が浮気して出ていっただけじゃないか。
あれ、と私は思った。目頭が熱い。慌てて席を立つと、逃げるように店を後にした。
バカ、バカ、バカ! 何もかもほっぽり出して、私のもとからいなくなった旦那。私にあれ以上何が出来たっていうのよ……私なりに精一杯がんばったわよ……最後くらい、優しい言葉をかけてくれても良かったじゃない……それが駄目なら、せめて私のもとから全部持って行ってよ……記憶も含めて持って行ってよ……
私は家に帰ると、崩れ落ちて、ただ一人で泣いた。誰にも聞かれない泣き声を上げ、思う存分泣いた。多分それが私には必要だったんだろう。
数日後、残りの一冊は案外簡単な所で見つかった。本棚の端にぽつんと突っ込んであった。値段の割には薄い本だったので変な笑いがこぼれた。
明日、これを返しに行こうと私は思う。たとえあの司書さんに、変な顔をされようとも。それが多分、私がしなければならないことだ。