無灯7
その夜。
ドタバタとした音が煩くてホタルは目を覚ました。
「うん〜?」
むにゃむにゃと瞼を擦ると自分が粗末なベッドに転がされていることに気づく。くぁ、と欠伸を洩らして上半身を起こすと、勢いよく部屋のドアを男に開けられた。
「お、おい! すぐ来てくれ!」
「?」
ぽわぽわとした頭で理解が追い付かないホタルの様子に痺れを切らした男はホタルを小脇に抱えると階下に降りて行く。運ばれるまま階下に降ろされたホタルの嗅覚に鉄錆の匂いを感じて頭が一気に覚醒する。
「降ろして」
「あ、ああ」
1階の酒場に降りたところでホタルは強い口調で男に言うと床に降りる。その頃には頭は覚醒しきっており、その表情に子供らしさの気配を感じさせずに人だかりができている一角へと向かって歩き出した。
その気配に気づいた男達はホタルに対して何かを言おうと口を開きかけたが、昼間のホタルと違う気配に気後れして道を譲った。
その人だかりの中心に寝かされたダニエルがいた。
「よぅ」
「こんばんは、ダニエルさん」
気怠そうに手を上げたダニエルはホタルの姿を見て笑ったが昼間のような覇気は無い。
胸の傷は処置が施されており、出血は止まっている様子だがついさっきまで出血していたのだろう。
血で染まった包帯と布切れがそこら中に転がっていた。
消毒に使ったのだろう。アルコール度数の高い酒の酒瓶も転がっている。
「お酒に酔って転んで怪我したわけじゃなさそうだね?」
「ああ。『無灯』にやられたよ」
「……そう、名乗ったの?」
「ああ。『無灯』は灯りの無い暗闇を指す。灯りが無ければ目に映る事もあるまい? だとさ」
「ふーん」
とホタルが気のない返事をしたところで男の1人がホタルの肩を掴んだ。
ホタルが振り返るとそこには常連客として昼間いた男の1人が憤怒の形相でホタルを睨みつけていた。
「お前がダニエルの腕を折らなければダニエルは怪我する事無かったんぞ! 少しは罪の意識を感じないのか!?」
「『無灯』を名乗って挑戦してくる相手を倒して金品を巻き上げていたんでしょ? 遅かれ早かれこうなってたよ」
「んだと!?」
ホタルの返事に男は激昂しかけるが、ダニエルが手を上げて制止したことで口を噤んだ。
「黙ってろ。俺が生きているのは『無灯』に関わるなっていうメッセージを俺からアビゲイルの嬢ちゃんに伝えさせるためだ。俺を負かした以上、あいつの伝言はきっちり伝えてやるよう手筈はした」
そのダニエルの言葉にホタルは意外そうな顔をした。
「律義、だね?」
「おう。それが俺の取り得だからな。約束事は守るぜ。真珠湾を宣戦布告無しに攻撃した奴らと一緒にするんじゃねぇ」
ダニエルに毒を吐かれたホタルは苦笑を浮かべる。
部下の男達は何のことか分からなかったようだが、ホタルにはダニエルが言いたい事はわかった。
つまり、ダニエルはアメリカ生まれの日系人なのだろう。そして、日本の事が大嫌い。日本人のホタルも嫌い。
少し残念な気持ちになってホタルは口を開いた。
「私の事嫌い?」
「国が嫌いなだけだ」
「それは良かった」
にこり、とホタルは安心したように笑うとダニエルから離れるように歩き出した。
その進行方向は店の出入り口であり、ダニエルの部下や顔馴染みの男達はホタルの進路を邪魔しないように道を譲る。
「どこ行くんだ?」
「私もね、恩は返すようにしてるんだ」
ダニエルに声を掛けられてホタルはダニエルに笑ってみせた。
「なんの恩だ?」
「一宿一飯の恩」
「まだ一宿はしてねぇんじゃねぇかなぁ」
「じゃ、それは後払いで」
視線を前に戻してホタルは再び歩き出す。
その後ろ姿に再び声を掛ける気も無くなり、ダニエルは溜息を吐いた。
「『無灯』に関わると碌な事にならないのは本当だよ」
その言葉だけを残してホタルは酒場から出て行った。
同時刻。
コトナー家の没落貴族と言えばある界隈では有名で、アビゲイル・コトナーの居場所は直ぐにみつかった。
「ダニエルが斬られた?」
「ええ、『無灯』に関わるな。とのことで。確かに伝えやしたからね」
そう言って小柄の男は宿屋のフロントでアビゲイルに告げると出て行ってしまう。
普段着の上に薄いカーディガンを羽織っただけのアビゲイルは小柄の男の言葉を口の中で繰り返すと部屋に取って返し装備を整えた。
屋敷を手放しても鎧と剣は手放さなかった。
それは屋敷よりも騎士にとって価値のある物であり、父以外の家族がいないアビゲイルにとって騎士として生きていく事を亡き父と唯一交わした約束だった。
「父さん……」
アビゲイルは鞘に納めたまま剣を大切に胸に抱いて小さく祈りの言葉を唱えてから剣を腰に吊るし、宿から出た。
そこから走る様にダニエルの酒場『星と縞模様』に辿り着いたアビゲイルはちょうど酒場から出てきたホタルと鉢合わせになった。
「ホタル?」
「ダニエルさんなら店の中にいるよ」
そう言って笑ったホタルの雰囲気は昼間ののんびりとした様子からは想像できない程「芯」があった。
まるで陽だまりの中で昼寝でもしてそうな気配だった少女が今は戦士―――剣士としての気配を濃厚に漂わせていたのだ。
その気配の「圧」に思わずアビゲイルは息を呑んだ。
「そう」
「お見舞いに来たんじゃないの?」
「そうね。お見舞い、になるのかな。それとも謝罪しに、かな」
「それはお門違いだ! って怒られると思うよ」
にこり、と笑ったホタルの顔は昼間のような穏やかな顔をしていたが、その奥では剣呑な気配が含まれている。
戦いを前にするとこうまで変わるのか、『居合』ミブロの弟子を自称したホタルの変化に戸惑いを感じるアビゲイルだったが、
「そうね。それよりホタル。『無灯』の所に行くなら連れて行って」
「アビーちゃんも行くの?」
「ええ、お見舞いも謝罪も後でできるから」
「―――死ぬかもしれないよ?」
そう言ったホタルの気配に僅かに殺気が見え隠れした。
脅されているのだろう、試されているのだろう、と確信したアビゲイルは剣の柄を叩くと同時に己の身体の中を巡る経絡に気を通し、いつでも静功から動功へと移れるように気を循環させる。
つまり、己の実力を「圧」や「気配」で持って発した。
それを確認したホタルは吐息を吐くと歩き出した。どうやらアビゲイルが言っても止まらない事を理解したのだろう。
「こっち」
ホタルはアビゲイルを先導して歩き出した。
すでに夜の帳が落ちた裏路地は静かな物で、道と壁の輪郭すら怪しく感じるぐらいに暗い。
表通りのように街灯があるわけでも無い。
何を持って判断しているのか、ホタルは迷わずに分かれ道を選び、角を曲がっていく。
「わかるの?」
「『来訪者』の血は魔力を強く帯びているから出血したら魔力の匂いが鉄錆の匂いと一緒に残る」
そう言われてアビゲイルも匂いを嗅いでみたが全然分からなかった。
裏路地特有の排水溝から臭う何かが腐った匂いと糞尿の匂いが邪魔しているのだと思うが、それでもホタルは敏感にそれらを嗅ぎ分けているようだった。
やがて、ホタルとアビゲイルは工場跡に辿り着いた。
地方都市にあって恐らくは魔導品などの部品を作っていただろうその場所は糞尿の匂いよりもカビとホコリの匂いがした。
敷地の中に入り、工場の正面を封鎖していた「立ち入り禁止」と書かれた木板をホタルが豪快に蹴り破る。
その音が工場内に響き渡る。隠密も何もあった物ではないな、とアビゲイルが思っているとホタルは真っ直ぐに工場の中へと進んでいく。
2人がかつて部品を製造していたと思われる広間に辿り着くと、その一角に黒ローブの男が木箱に座って2人を出迎えた。
「ようこそ、コトナー家のお嬢さん。どうやらメッセージは伝わらなかったようだ」
「貴方が『無灯』?」
「ああ、そういうことになっているな」
男はそう言って笑うと立ち上がる。
部品を製造していたらしき機械などは撤去されており、その広間はがらんとしていた。
戦うにはちょうどいい、アビゲイルが一歩前に出る。
「貴方が父を殺した人で間違いない?」
「間違いない。実行犯、という意味では」
「そう。なら問題ないわね。―――ダニエルを半殺しにしたのも貴方?」
「それも間違いない」
男はひょいと肩を竦めてみせると剣を構えたアビゲイルに笑って剣を構えた。
その構えは基本に忠実であり、一端の騎士として十分にやって行けるだけの力量がアビゲイルに備わっている事は明白だった。
だが、
「『来訪者』を相手にするには力量不足だと言わせてもらおうか。俺達『戦争兵器』相手に1人で挑むには功夫が足りない」
「百も承知!」
そんな男の言葉にアビゲイルは踏み込む。
ホコリが舞い、その震脚の力強さにまるで工場全体が揺れたように感じた。
そんな光景を見て男は不敵に笑う。
まるで児戯を見ているかのように。
「―――敵わない? いいえ、私が剣を取るのはただ『父を超えた相手と戦う!』そして『父の無念を晴らす』という事!」
「騎士道。その精神は立派かもしれないが」
一気に距離を詰め、剣を正道の構えから振るう。
その速度は一般的な『来訪者』に負けず劣らずの流麗さと速度を併せ持っていた。
一般の人間で到達する事が難しいとされる域を遥かに超えている。
まさしく、天賦の才を持った者の一撃だった。
それを―――、
「如何せん。力が無いのでは」
「―――ッ」
その剣を指2本で受け止めた男は不敵に笑った。
アビゲイルが慌てて剣を引こうとしても押そうとしても剣は微動だにしなかった。
これが、人間と『来訪者』の力量の差か。
口惜し気に臍を噛むアビゲイルによく見えるように男は自らの剣を掲げた。
「―――予定にはなかったが、死んでもらおうか」
まるで見せつけるかのように。
掲げた剣を男は死神のように笑い剣を振り下ろし―――、
「次は、私の番」
冷静な声が男の剣とアビゲイルの間に割って入り、その剣を鞘で受け止めたホタルが即座に男の腹を蹴り飛ばしてアビゲイルと距離を取らせたのだった。