第94話 どうしてこんなに胸が苦しいんだろ……
額から流れ落ちる汗が気持ち悪くて、サビーナは目を覚ました。
いつも起きる時間よりも早いというのに、セヴェリの方を見ると、彼はすでにうっすらと目を開けていた。
「大丈夫ですか、サビーナ。うなされていたようですが」
うなされていたのかと額の汗を拭う。上げた腕が、軋むような痛みを発していた。
「はい、だいじょう……っ」
サビーナは自身の発した声に驚き、口を手で封じる。その瞬間、セヴェリがガバッと布団から飛び出し、境界のカーテンを開け放って侵入してきた。
「サビーナ、その声……風邪を引いたのですか!?」
「違います、寝起きはこんな声なんです」
明らかな嘘を吐くと、サビーナは平気な振りをしてベッドをおりた。予想以上にふらふらしたが、気付かれまいと壁で自身を支える。
セヴェリに移しては大変だ。とにかくこの場を離れなければ。
「セヴェリ様、少し早いですが街に行ってきます。お食事の用意ができず申し訳ありません…」
掠れた声でそう告げると、しっかりした足取りで扉に向かう。しかしそう思っていたのはサビーナだけだったようで、セヴェリはそのよろめく姿を見て溜め息をついていた。
「そんな嘘をつくのはやめてください」
「う……」
言い淀むと、少し怖い顔つきになったセヴェリが近づいてくる。
彼の手がサビーナの額に当てられると、ヒヤリとした感覚があった。恐らく、体温は明らかに高かったのだろう。息も浅く、目も虚ろだったかもしれない。自分でも、これはやばいという自覚があった。
しかし、セヴェリの手を取って下ろすと、それを否定するように首を振る。
「おやめください。大丈夫ですから……」
「あなたは、もう……!」
セヴェリは珍しく苛立ちの言葉を口にし、有無も言わさず抱き上げられた。
「なにを!?」
「もう、サビーナの言うことなど聞きません。私は私の思う通りに行動します」
セヴェリが向かった先は自分のベッドで、そこに優しく体を横たえられる。
「セヴェリ様……」
「待っていてください。なにか作ってきますから」
「そんなわけには……」
「これは命令ですよ。大人しく寝ていなさい」
セヴェリは部屋から出て行ったが、その扉は開かれたままで、台所の様子を確認できた。つまりは、あちらもこちらを確認するために開けておいたのだろう。サビーナはそこから抜け出すのを諦め、言われた通りに大人しく寝転がっていた。
サビーナはなにもない天井を見ながら、熱を出すのはいつ以来だっただろうかと考える。
そうだ。川に飛び込んだ時、セヴェリ様に助けられた後で風邪引いたんだっけ……
あの翌日、サビーナは熱を出し、夕方にセヴェリが見舞いに来てくれたのだ。
風邪を引くと人に甘えたくなってしまうサビーナは、その後リックバルドを呼んでもらって一緒に眠ってもらった覚えがある。
もうリックは傍にいないんだから、甘えるのは自重しないと……
そんなことを考えていると、セヴェリが食事を持って部屋に入ってきた。
「起きられますか?」
そう聞かれ、サビーナは自分の身を起こした。セヴェリから食事を受けとると、彼はホッとしたように目を細めている。
サビーナは渡されたその食事をゆっくりと口に運んでいった。
「ありがとうございます、とても美味しかったです」
「食欲があるようでなによりです。私は今からプリシラを呼んできます。それと、ジェレイが街に行くはずなので、あなたの職場に休むと伝えてもらいましょう。今日は保育と授業がありますので一緒にはいられませんが、様子を見にきますので、ちゃんと眠っててくださいね」
セヴェリの言葉にサビーナはこくりと頷いた。素直なサビーナを見てセヴェリは満足そうに微笑み、食器を片して家を出ていく。
しばらくするとプリシラとシェルトが部屋に現れた。セヴェリはジェレイの家に寄っているようで、まだ帰ってきていない。
「口を開けて。……赤くなってるわね。熱もあるし……下痢や嘔吐はどう?」
「それはないです」
「そう。寒気はする?」
「はい。頭は熱いんですけど、背筋は寒いです」
「まだ熱が上がってくるかもしれないわね。前を開けてもらえる?」
プリシラが聴診器を取り出し、耳にかけている。寝巻きのボタンを外そうとしたが、手を止めて視線を後ろに移した。そこには同い年のシェルトが立っている。
「あの……」
「心配すんなって、出てくから。終わったら教えて」
サビーナがなにかを言う前に、シェルトはそう言って自分から部屋を出て行ってくれた。プリシラは気にした様子もなく、サビーナの胸の音を聞いている。
「気を悪くさせちゃったかな……」
「え? シェルト? 大丈夫よ、若い女の子は嫌がる子も多いし、あの子もちゃんと理解してるから」
「でも、医者の卵なのに」
「卵だから、見てほしくないんでしょう? シェルトがちゃんと医師の資格を持って診察できる人だったなら、あなたも嫌がらなかったはずよ」
そう言われると確かにそんな気はする。同世代に裸を見られるのは、恥ずかしいに違いないだろうが。
「うん、胸の音も悪くないわ。まぁいわゆる風邪ね。二、三日で治ると思うけど、薬欲しい?」
「飲まなくていいなら、飲みたくないです……」
「ふふ、重篤な病気じゃないから飲まなくても大丈夫よ。でも、他になにか変わったことがあったら連絡ちょうだい。すぐに飛んでくるわ」
そう言ってプリシラ達は帰っていった。それから少しすると、セヴェリが帰ってくる気配がする。
「大丈夫ですか? 帰りがけにプリシラに会いましたが、薬を断ったらしいですね?」
「はい、お薬苦手なんで……」
「まったく……今日は大人しく寝ていなさい。また様子を見にきますから、つらかったら言うんですよ」
「……はい」
首を竦めるようにして布団を被ると、セヴェリはクシャっとサビーナの髪を撫でて行ってしまった。
どうしようもない寂しさが心に募る。風邪を引いた時の悪い癖だ。人恋しくて、誰かに傍にいてもらいたくて仕方がない。
一日中傍にいてほしい……なんて我儘、言っちゃダメなんだから……気をつけなきゃ。
喉から出そうになる言葉を、グッと我慢して飲み込んだ。それでなくとも前日に、我儘を言わないと決めたばかりである。
セヴェリが出ていって間もなく、子ども達の楽しそうな声が集まってきた。午前の保育が始まったのだろう。
セヴェリは好かれているんだということは、その声を聞けばわかる。きゃーきゃーと騒ぐ子ども達の声と共に、セヴェリの笑い声も聞こえてきた。
普段、二人でいる時にセヴェリがこんな風に笑うことはない。子ども達がセヴェリを笑わせてくれているのだ。
その事実に、なぜだかサビーナは嫉妬した。胸が刺すように痛み、苦しくなる。
どうしてこんなに胸が苦しいんだろ……
熱のせいなのか、異様な息苦しさを覚える。
私は、あんな風にセヴェリ様を笑わせてあげられない。
レイスリーフェ様や、クリスタ様の前なら、セヴェリ様はああやって笑ってるのかな……。
サビーナは子ども達とセヴェリの声を聞きながら、気だるさに耐えかねて眠りに落ちていった。
「サビーナ……一度起きてください」
そんな声とヒヤリとした手が額に乗り、サビーナは目を覚ました。
「私…」
「まだ熱が高いようですね。お昼は眠ったまま起きてこないので心配しましたよ」
窓の外はすでに日が暮れてるようだったが、それを確認する元気すらない。ゼーゼーという音と共に熱風がサビーナの口から吹き出してくる。
「待っていなさい、いまなにか食べる物を……」
「ここにいて、リック……」
サビーナは、目の前にいる金髪の青年にそう声を掛けた。なぜリックバルドがここにいて、しかも金髪になっているのかなど、不思議には思わなかった。
食べ物を持ってくるつもりだった男は、眉を寄せながら振り返っていた。サビーナの目は、開けていることすら耐えられずに徐々に目を閉じる。
すると、寝言だと思われたのだろうか。彼はやはりその場を去ろうとしている気配を感じる。
「行かないでよ、リック……」
再度そう呼びかけると、立ち止まったようだった。
「どうしたのですか、サビーナ」
「風邪引いた時くらい、傍にいてくれてもいいでしょ……」
いつものように嫌味の一言でもあるかと思いきや、彼がベッドの端に腰掛けるのがわかる。なにも文句を言われないのは珍しいなと心のどこかで思いつつも、優しくサビーナの髪を撫でられて少し微笑んだ。
「リック……」
サビーナは男の手を掴むとベッドの中に引き込むように引っ張り始めた。
いつものように隣で寝て、背中をトントンと優しく叩いてほしい。そうしたら安心できる。人恋しさが緩和できる。
「サ、ビー……!?」
なぜか驚きを隠せないような声を上げているが、それでも同じ布団に入れることに成功した。しかし固まったままなにもしない彼に、サビーナは自分から相手の背中に手を回す。
「こうやって、して……」
背中を軽くトンと一度だけ叩いて見本をみせてあげる。それでも男は硬化したまま動いてくれない。
「あなたたちは……そういう関係だったのですか……?」
困惑した声で意味不明な問いを掛けられ、サビーナは苛立った。病気の時くらい、優しくしてくれてもバチは当たらないというのに。
「早く……いつもみたいに、してよ……」
そう言うと同時に、いきなり強く抱き寄せられた。いつもと違うリックバルドの行動に驚きながらも、サビーナは顔を相手の胸へと押し付ける。そしてそのまま大きく息を吸い込んだ。その瞬間、その息が止まる。
リックバルドの、あの男臭い匂いでは、なかった。
「……誰?!」
脳が冷え固まるかのように、急速に正常な判断を取り戻す。体を仰け反らせるようにして距離を取ると、そこにいたのは自身の兄ではなかった。
「……私ですよ」
「セ、セヴェリ様……!」
なぜリックバルドだと思ってしまっていたのだろうか。しかし混乱しているのはサビーナだけではなかったようだ。セヴェリもまた、困惑顔を隠せないでいる。
「どうしてセヴェリ様がここに……」
「……あなたが誘ったんですよ、サビーナ」
そう答えると同時にもう一度背中に手を回されて、体を強く抱き締められた。理解ができずに顔を上げた瞬間。
「セ……」
名を呼ぼうとするサビーナの唇を、同じ物で塞がれた。驚く間もなく舌を割り入れられ、蠢くものに目を白黒させる。
「や、やめ……」
抵抗しようとするサビーナの力は弱い。元々男に敵うだけの筋力はないのだが、熱で力が出せない。それとも、抵抗する意思なんて本当はなかったのか。
頭の中が掻き混ぜられたかのようにクラクラし、自分の感情すら理解できない。
唐突の激しい口づけが終わると、最後は名残惜しそうに唇が離された。サビーナは呆然としたままセヴェリを見つめる。
「どう、して……」
「あなたのファーストキスの相手は誰ですか?」
「……え?」
問いの答えはもらえず、質問で返された。答えのわかりきった問いを出されて、サビーナは首を傾げる。
「なにを、いきなり……」
「リックバルドですか?」
「まさか、違います!」
「では、誰ですか!?」
セヴェリがどうして苛立っているのかはわからない。しかし答えを誤魔化す必要もなく、サビーナは真実だけを伝える。
「セヴェリ様、あなたです」
「……本当に?」
どうして彼はこんなにも怯えているというのか。
その態度はサビーナがコクリと頷いた後も、変わることはなかった。
「デニスでもないのですね?」
「違います。なぜそう思われるのかわかりませんが……」
「リックバルドとはいつもこうしていたのでしょう? なのになにもなかったというんですか」
「リックとは本当になにも……」
「同じベッドで眠っていて、この体はまだ穢されてはいないと?」
セヴェリはそう言いながらサビーナの体をまさぐり始めた。サビーナは体を震わせながら答える。
「私、本当にまだ誰とも……っ」
「本当に処女かどうか、確かめさせてください」
そう言うとセヴェリはサビーナの体にどんどん手を這わせてくる。
サビーナは、なぜこんなことになっているのかと混乱の中、されるがままになっていた。あるいは一切抵抗しなかったのは、心のどこかでこうなることを望んでいたからなのか。
しかしサビーナはその考えを否定し、熱のせいにして、その夜……セヴェリに体を明け渡したのだった。




