第87話 別に、なにも?
マティアスの後ろ姿を見送ると、もう一度セヴェリとクリスタの方に視線を向ける。
クリスタは椅子に座らされていて、セヴェリは彼女と視線を合わすように片膝をついていた。
「大丈夫ですか、クリスタ。先ほどからぼうっとしているようですが」
「いえ、あの……」
「どこか痛いところでも?」
「大丈夫ですわ。セヴェリ様が、守ってくださったお陰で」
そんな話をしている二人に謝りにいかなければと足を進めた時、それよりも早くクリスタの父親が二人の元に到着する。そして彼は重苦しい雰囲気で口を開いた。
「セヴェリ君。君はうちの娘を呼び捨てにしているのかね?」
その問いかけにクリスタはハッとし、セヴェリは動じることなく頭を下げている。
「申し訳ございません。男爵令嬢というご身分の方に、大変な失礼を働いてしまいました。今後はクリスタ様とお呼びし、このような接触はせぬよう心掛けます」
「ふーむ」
セヴェリの整然とした態度に、クリスタの父親は感心したように顎を撫でている。
「ち、違うんです、お父様! 呼び捨てにしてとお願いしたのはわたくしの方からで……っ! セヴェリさんはなにも悪くはありませんわ! むしろ、わたくしを助けてくださったお礼を言うべきではないのですか!?」
横からクリスタが立ち上がって抗議を始めると、彼女の父親は少し驚いた後、納得したような顔つきに変わった。
「そうだな。セヴェリ君、すまなかった。娘を助けてくれてありがとう」
「いえ、当然のことをしたまでです」
「ふーむ」
やはり彼はクリスタとセヴェリを交互に見遣り、その表情を精察しているようでもある。
ちょうど会話が途切れていたので、サビーナは頭を下げながら割って入った。
「あの、申し訳ありませんでした……私のせいで皆さんに不快な思いをさせてしまい……」
そう切り出すと、周りから『今さら蒸し返すな』とでも言わんばかりの視線を浴びてしまった。どうやら空気の読めない女だったようである。身の置きどころがない。
「気を取り直して、みんなで楽しみましょう。折角のセヴェリさんの誕生日ですものね」
クリスタがそう言って笑顔を向けてくれたお陰で、微妙な空気は澄んだものに変わった。サビーナはクリスタに感謝しながら頭を下げる。
その後は、またしてもセヴェリとクリスタの元に人が集まり始めたので、サビーナは少し下がってそれを見ていた。
こうしていると、なんだかとても遠くの人のように思える。元々、手の届かぬ身分の人ではあったのだが。
手の届く距離に彼がいるという、今の状況の方が特殊なのだ。でも、だからこそセヴェリを早く貴族に戻さなければいけない。
じゃないと……私の方がセヴェリ様に依存して抜け出せなくなる。
サビーナは、ドレスのレース部分をぎゅっと握った。
セヴェリのいない生活を考えると、信じられないくらいの虚無感を抱いてしまう。想像すると真っ白のようで、しかし真っ暗闇のようで。自分の未来を描くことができない。
セヴェリ様がクリスタ様と上手くいった後……
私は、どうなるんだろう。
セヴェリにも、リックバルドにも聞かれた問いだ。セヴェリが結婚した後、自分のやることはわかっている。
クスタビ村で、一人静かに暮らすだけだ。アデラオレンジを育てながら、いつかセヴェリに食べてもらう日を夢見て。
そうやって過ごすことがわかっていながら怖くなるのは、サビーナが感じているのは暮らしに対する不安ではないからだった。
彼がいなくなったあと、一体どんな気持ちで過ごしていくことになるのか……それを考えると、底冷えする真冬の台所の床よりも、さらに体が凍える気がした。
長かったパーティの終了時刻をようやく終えると、人々が徐々に帰り始める。セヴェリは主催ではないが主賓なので、一人一人に声を掛けて見送っている。そして最後の一人を見送った時、セヴェリはどっと疲れたように壁に寄り掛かってしまった。
「セヴェリさん!?」
セヴェリの隣にいたクリスタが慌てて寄り添っている。ザレイも驚いたようにセヴェリに近寄っていた。
「どうした、セヴェリ。気分でも悪いのか?」
「いえ、すみません。実はお酒はあまり強くはなくて……このくらいは平気だと思っていたのですが、しばらく飲んでいなかったため、さらに弱くなっていたようです」
どうにか壁から手を離して立つも、やはり少しつらそうだ。
「どうぞ、お部屋を用意していますので、今日はここでお休みください。サビーナさんもお部屋に案内しますわ」
元々セヴェリはそのつもりだったのか、こくりと頷いている。サビーナはどうしようか悩んだが、あまり気分も良くなさそうなセヴェリを放っておくわけにはいかない。
「あの、私は兄と同じ部屋で大丈夫です。今の状態の兄を一人にしておくのは心配ですし……」
「サビーナさんは明日お仕事なのでしょう? 大丈夫ですわ。この家の者にお任せください。わたくしも責任を持って看病いたしますので」
「大袈裟ですよ、クリスタ。大丈夫ですから。サビーナも心配しないでください」
セヴェリが苦笑いを向けていて、サビーナは口籠った。
「サビーナさんのお部屋はこちらですわ。なにかあれば、遠慮なくメイドに申し付けくださいね」
そう言ってクリスタはセヴェリと共に、別の部屋に入っていった。その姿を見届けると、サビーナは急に心臓をギュッと握られたような苦しさに襲われる。
「サビーナも部屋でゆっくり休むと良い」
後ろからザレイにそう言われ、サビーナはフルフルと首を横に振った。
「申し訳ありません、キクレー卿。私、やっぱりこういうところは慣れなくて……寮の方に戻ろうと思います」
「ふむ、そうか……わかった、若いのに送らせよう」
「いえ、一人で大丈夫ですから」
「そういうわけにもいくまい。おい、マティアス。サビーナを寮まで送ってきてくれ」
たまたま近くを通りかかっていたマティアスが呼び止められた。先ほどサビーナが迷惑をかけた相手だ。彼はこちらに体を向けて、「かしこまりました、大旦那様」と丁寧に頭を下げている。
「ではな、サビーナ。またいつでも遊びに来るが良いぞ」
「キクレー卿、今宵は兄のためにありがとうございました」
「参りましょうか。サビーナ様」
サビーナが礼を言うと、ザレイは威厳ある顔をほんの少し崩して笑い、行ってしまった。次にサビーナはマティアスに体を向ける。
「なんか……色々迷惑を掛けちゃって、ごめんなさい」
「仕事ですから」
マティアスはにっこりと笑って外に出た。営業用の顔だろうなと思いつつ、サビーナも彼の後に続く。
すでに闇に包まれた夜道を、二人は並んで歩き始めた。
マティアスは少し儚げな好青年で、サビーナよりも少し年上、セヴェリよりも年下といった感じだろうか。
「サビーナ様は、本日のようなパーティは慣れていらっしゃらなかったようですね」
彼のその言葉に、サビーナは素直に頷いた。
「うん、あの……サビーナ様っていうの、やめてもらっていいかな。縁あってザレイ様にお招き頂いたけど、私はただの一般庶民だから、敬称を付けられるような立場じゃないし。敬語もやめてもらえる? マティアスさんの方が年上っぽいし」
「じゃあ、サビーナさんで」
「サビーナでいいよ」
サビーナが苦笑いを向けると、マティアスは儚げに笑っていた。
「じゃ、僕もマティアスって呼んで。そんなに年も変わらないだろうし」
聞くと、彼はサビーナよりも二つ年上の十九歳だった。親がキクレーに仕える執事で、マティアスは見習いという立場らしい。はっきり言うと雑務担当だと笑っていたが。
「大旦那様はセヴェリさんを気に入ってるみたいでね。絵の授業が終わった後は、いつも他の貴族も交えて話をしているよ」
「ああ、そうなんだ……今日いらしてた貴族の方は、それで知り合った人達?」
「うん。セヴェリさんは教師をしているだけあって、なんにでも造詣が深いと皆様感心してらしたよ」
「お兄ちゃんは勉強家だから……」
まさか元貴族だとは言えず、そんな風に誤魔化した。
「クリスタ様が彼に興味を持つのも頷けるな。優しくて、頼り甲斐があって、教養があって」
なぜか寂しそうにそういう彼の顔を、サビーナは喫驚の顔で見上げる。
「クリスタ様が? お兄ちゃんに興味を? 本当?」
「内密にしておいてよ。多分そうじゃないかっていう、勝手な僕の想像だから」
「ねぇ、クリスタ様って、子どもはお好き?」
唐突のサビーナの質問に、マティアスは訝しげに眉を顰めている。
「うん、かなりの子ども好きだけど。ボランティアでよく絵本の読み聞かせをしているし、普通に近所の子ども達と戯れてることもあるよ」
「そっか、良かった」
サビーナがホッと息を吐くと、一体何が良かったなのかと言いたげな表情で、マティアスは首を傾げていた。
もう確定的だ。クリスタ以上に条件の良い相手はいないだろう。キクレー邸のみんなに好かれていて、セヴェリもクリスタに対して悪い感情は抱いていない。
このまま同じ時を過ごして行けば、互いに愛情が芽生えるかもしれない。そうなれば、きっと良い方向にいくに違いない。
「サビーナ、君はなにをするつもりだ?」
「……別に、なにも?」
ドキッとしながらも、気取られないように無表情で答える。マティアスは難しい顔をしながらも、それ以上突っ込んでくることはなかった。
やがて寮の前まで来ると、彼にお礼を言って部屋に入った。
今頃セヴェリはなにをしているだろうか。もう眠ってしまったのか、それともまだクリスタと共にいるのか。
これだけ土台を作っておけば、業者に頼んだ時には確実に成功しそうだ。
どうか二人が好きあって、結婚できますように……
サビーナは、秋に移り変わりそうな星空を見ながら、そう願った。
その星空は、いつかデニスを膝枕した時に似ていて、サビーナは胸を痛ませる。
デニスさん……
あの時の約束、必ず守るからね。
今も牢獄にいる彼の分も見るように、その夜はじっと空を見上げていた。
翌朝、カーテンを開けると眩しい陽の光が飛び込んできた。
夜遅くまで星空を見ていたサビーナには眩し過ぎて目を細める。今日も一日中室内で皿洗いだ。今のうちに太陽を浴びておこうと開け放った窓から顔を出した。
「ふう……今日も頑張って稼がなきゃ」
リタが辞めてしまってから、仕事に行くのが憂鬱で仕方がないが、他にサビーナができる仕事は限られている。どこに行っても似たり寄ったりの仕事なら、このまま頑張る方が得策だろう。
朝食を終えて出勤しようとすると、珍しくノックがされた。誰だろうかと思いながら扉を開けると、そこにはセヴェリが立っている。
「セヴェリ様? どう、されたんですか?」
「あなたに、会いに」
サビーナは、勝手に胸が波打つのを抑え、小首を傾げた。
「ええと……昨日は大丈夫でしたか?」
「みっともないところを見せてしまいましたね……キクレー邸に泊まるつもりはなかったのですが、ここまでは帰って来られないと思いまして」
「え? ここに泊まるつもりだったんですか?」
驚いて声を上げると、セヴェリは悔いるような表情で頷いている。
「言ったでしょう。私の誕生日には、あなたが欲しいと」
ドクンと胸がなり、サビーナは一歩後ずさった。あれは、冗談やからかいではなかったというのか。
セヴェリの真っ直ぐな瞳が、サビーナに突き刺さる。ただ、胸が苦しい。
しかしセヴェリは、己の失態を後悔するかのように息を吐き出している。
「まぁ、あなたが今から仕事なのはわかっています。ただ、一言だけ伝えておきたくて」
「なにを……ですか?」
警戒の態勢を取るサビーナに、セヴェリは申しわけなさそうに眉を下げた。
「昨日、あなたはずっとつまらなさそうだった。私のせいで……すみません」
彼の謝罪に、サビーナは驚いて首を振る。
「いえ、そんな! 私こそ、そんな態度をとってしまっていたのなら、申し訳ありません! そんなつもりは……いえ、あの、セヴェリ様が楽しめたならそれでいいんです! セヴェリ様の誕生日なんですから!」
「私はあなたと二人でいられたなら、もっと楽しめたと思いますよ」
にっこりと微笑まれて、サビーナは動揺する。それは、どういう意味でだろうか。サビーナが狼狽えていると、セヴェリは扉を開けてくれた。
「そろそろ行かなくては、遅刻してしまうでしょう?」
「あ……はい」
サビーナは仕事が、セヴェリは村に帰って授業が待っている。分かれ道まで来ると、セヴェリはサビーナに向き直った。
「来年は、二人だけで過ごしましょうね」
そう言って街の出口に向かうセヴェリに、サビーナはなにも言うことができなかった。




