第85話 私にはまだ早すぎる勉強ですからっ
家に戻ったセヴェリは、いつもと変わらず穏やかな笑みを浮かべている。そしてふと気付いたように一枚の紙を手渡されて、それを受け取った。
「これは?」
「プリシラがカルテを作りたいそうなので、これに必要事項を書いておいてほしいということでした」
ざっと目を通すと、健康診断を行う事前調査のようなものだった。サビーナはペンを取り、名前、生年月日、これまでの病歴等を書き込んでいく。
「煙草は吸わない、お酒も飲まない、目も見えにくくはないし、アレルギーはなし、体の不調も特になし……と」
「健康体ですね。さすが若い」
「セヴェリ様はどこか気になる箇所でもあるんですか?」
サビーナが書き込み見しているの覗いていたセヴェリは、「いいえ」とにっこり笑った。
「ここに来てから健康的な生活を送っていますし、なんの問題もありませんよ。アンゼルードにいた頃はよく胃の痛みがありましたが、それも今はなくなりましたし」
胃が悪かったというのは初耳だ。サビーナにはわからないが、広大な領地を取り仕切る立場にいたのだから、神経をすり減らすこともあったのだろう。
痛みがなくなったということは、アンゼルードでの生活よりここの暮らしの方が合っているからかもしれない。
しかし、もし彼を貴族に戻した時にはどうなるのだろうか。また胃を痛めるような事態にならなければいいのだが。
「お体に不調があれば、すぐに仰ってくださいね!」
「大丈夫ですよ。ここにいれば、百年だって生きられそうな気がします」
実際に百年も生きられるわけはないが、それだけ体の調子がいいということだろう。サビーナはほっと安堵の息を吐き出していた。
「では、これは私がプリシラに出しておきますね」
「あ、ありがとうございます」
隣から手を伸ばして用紙を取っていったセヴェリは、なぜだか少し嬉しそうだった。
「あ、そういえば、セヴェリ様は街で買い物をなさるんじゃなかったんですか? なにも買っている様子はありませんでしたが」
「ああ、あれですか……いいんですよ、特に急がなくても大丈夫そうです。これからは自分で街に行けますし、その時にでも買ってきますよ」
「詮索するつもりではないんですが、どういったお店に用があるんです?」
「そうですね……本屋でしょうか」
本屋ということは、やはり春画の類だろうか。男の人だし、帝国を出てからずっと禁欲生活なので、そういうものがないとやってられないのかもしれない。
彼はサビーナを襲ったりなどせず、ずっと紳士でいてくれているのだ。こんな小さなことでどうこう言うつもりはないのだが、セヴェリでもそういったものを見るのかと思うと、少しだけショックだった。
それからのセヴェリは、日曜になるとキクレー邸に絵を習いに行っているようだった。
サビーナは仕事のため同席はできないが、どうやら二人は楽しく絵を習っているらしい。このまま親交を深め、互いに想い合う仲になってくれれば助かるのだが。
そんな風に思いながら過ごしていたある日。
いつものように皿洗いを終わらせて、寮に帰ろうとした時だった。
「見慣れない顔だったわね」
「ちょっと格好良くなかった?」
そんな声が、遅番で入ってきたばかりの同僚から聞こえてくる。それに食いついたのはいつもの如くリタだった。
「なになに、男前がどこにいたって?」
「そこの入り口よ。誰か待っている感じだったわ」
「貴族?」
「違うわね、あの格好は。一般庶民よ」
「なぁんだ」
彼女が巡らすアンテナには、いつも感心させられる。仕事を終えたサビーナがリタと共に外に出ると、そこには確かに誰かを待っているような男の人がいた。隣にいたリタが、舐めるように見ている。
「あら、確かに中々の男前ね」
「って、え!? セヴェリ!?」
サビーナを確認したセヴェリは微笑みを見せ、こちらに近付いてきた。
「サビーナ、ご苦労様。待っていましたよ」
「ちょっとサビーナ、あなた彼氏がいたの!?」
「ご、誤解っ! 兄だから、兄っ!!」
「なーんだ、お兄さん?」
必死に否定すると、つまらなさそうに息を吐いていた。
リタは悪い人ではないのだが、こういう時の配慮に欠けていると思う。『なーんだ』と言われたセヴェリは笑顔を崩さず、まっすぐにリタの方を見ているのはさすがだ。
「初めまして、サビーナの兄のセヴェリです。いつも妹がお世話になっています」
「リタよ。サビーナにお兄さんがいたなんて初めて聞いたわ。どうして教えてくれなかったの?」
「いや、別に言う必要もないと思って……それよりその、お兄ちゃん……どうしたの?」
リタから逃げるように目を逸らし、セヴェリを見上げる。お兄ちゃんなどという言い慣れない言葉を口にして、どうにもむず痒い。
「今日はサビーナの誕生日なので、祝いに来たんですよ」
「あら、サビーナ誕生日だったの? おめでとう!」
「あ……すっかり忘れてた」
セヴェリに言われるまで、まったく気付かなかった。六月の末日は、自身の誕生日だったということに。
「もう、言ってくれないからなんにも用意してないわよ!」
「いや、いいよ、別に。私も忘れてたくらいだし」
「そう? じゃあ今度なにかするわね。それじゃあまた明日ね、サビーナ! 私は次のバイトがあるから」
「うん。じゃあね、リタ。アルバイト頑張って」
颯爽と去っていく彼女を見送った後、サビーナとセヴェリは目を見合わせた。
「仕事が終わった後にまた仕事とは、大変ですね」
「彼女のバイタリティは目を見張るものがありますよ。私も見習わないと」
「無理はいけませんからね、無理は」
その言葉と同時に頭を優しく撫でられる。そんな事をされると、「はい」としか言いようがないではないか。
サビーナの答えに満足したのか、セヴェリは嬉しそうに微笑んでいる。
「サビーナの寮には、私も入って大丈夫ですか?」
「はい、男子禁制ってわけではないので、大丈夫だと思います」
「ではそこでよろしいですか? どこかお店に入りたいところですが、残念ながら金欠で」
「いえ、祝いに来てくださっただけで十分ですから!」
たかが誕生日を祝いに来てくれたのかと思うだけで、サビーナの心は春の陽に触れたように暖かくなった。
この日は平日だったため、セヴェリは六歳から十五歳までの授業を休みにしてこちらに来たらしい。ちなみに明日の保育も休みにしたということだった。
「私のために、すみませんでした」
「なにを言ってるんですか。あなたの誕生日を祝うのだったらと、皆さん快く承諾してくれましたよ」
サビーナは村の皆の笑顔を思い出した。関わる機会はセヴェリと違って少ないが、サビーナも村人の一員として見てくれていることが嬉しい。
寮に着くと、共同調理場で簡単な料理を一緒に作る。それを持ってサビーナの部屋に入り、小さなテーブルに乗せて二人で食べた。
いつもと違う場所で食事を一緒に取るというのは新鮮だ。レストランなどでなくても十分である。
そんな事を考えていると、セヴェリは手持ちの荷物からなにかを取り出した。
「ケーキのひとつでもあれば良かったのですが……十七歳の誕生日、おめでとうサビーナ」
「え!? あ、ありがとうございます……開けても?」
「どうぞ」
受け取ると、割とどっしりとした重みがサビーナを襲う。まさか、プレゼントを用意してくれているとは思っていなかった。なんだろうとびっくり箱を開けるような気持ちで見てみると、中には三冊の本が入っている。
「本……? あ、お花畑で会いましょうシリーズ!」
「なにがいいのかわからなかったので、このシリーズでまとめてみました。あなたは自分のためにお金を使っている様子がなかったので」
「ありがとうございます! うわー、最新刊もある……嬉しいっ」
本を抱きしめるようにしてそう言うと、セヴェリはより一層満足そうに目を細めている。
「あなたのそんな顔を見られただけで、来た甲斐があったというものです」
「もしかして本屋に用事があるって言ってたのは、私へのプレゼントを買うために……?」
「ええ、もちろん」
「そうだったんですか。私はてっきり……」
「てっきり?」
そこまで言って、サビーナはハッと口を噤んだ。
「私が、なにを買うと思っていたんですか?」
セヴェリがこの上なく楽しそうに問い詰めてくる。これは、からかえるネタができて嬉しい、という顔に間違いない。
こうなると、からかえるまでセヴェリは割としつこいことを知っているので、サビーナは観念して口に出した。
「その……春画でも購入なさるのかと思って……」
「春画ですか。私は必要ありませんが、サビーナのために購入しておけば良かったですか? 勉強になるかもしれませんし……ね?」
「い、いえ!! 私にはまだ早すぎる勉強ですからっ」
顔から火が出そうな勢いで否定すると、セヴェリはいつもの意地悪なクスクス笑いを浮かべている。それを見て、サビーナは義憤の息を吐き出すした。
「もう、セヴェリ様……っ」
「すみません、少々セクハラが過ぎましたか。あなたなら許してくれる気がしまして」
相変わらず、相手の『許容』を調べるのが好きな人だ。もちろん、サビーナには許す以外の選択肢がないわけだが。
しかし春画で勉強と言われてしまうと、嫌が応にも想像して意識してしまう。
それを振り払うようにサビーナは話題を変えることにした。
「けど、よく私の誕生日を覚えていてくださいましたね」
オーケルフェルトで働く者は、自分の誕生日には休みを取ることになっていた。もちろんサビーナも休みをもらっていたので、それを覚えていたのだろうが。
「いえ、白状しますと、六月だったか七月だったか……その辺りであることは覚えていたんですが、日付けが曖昧で」
「え? じゃあどうやって知ったんですか?」
「健康調査票を書いたでしょう。それに書いていた生年月日を確認したんです」
「あ、なるほど……」
「実はあれも、あなたの誕生日が知りたくて、私がプリシラに頼んだものだったんですけどね」
その言葉に、サビーナは目をパチクリとさせてセヴェリを見た。
「なら、直接私に聞いてくださればよろしかったのに……」
「驚かせたかったのですよ。大したことはできませんが」
セヴェリが手を伸ばすと、簡単にサビーナの頭に届いた。その手が、髪を梳くように優しく撫でてくれる。
彼の手がくすぐったくて、でも暖かくて。自然と染まってしまった頬を隠すために、サビーナは視線を下げた。
「来年は、もっとちゃんと祝いましょう。この国では十八歳が成人のようです。お酒も飲めるようになりますしね」
「いえ、私は……それよりセヴェリ様の誕生日は八月ですよね。なにか欲しい物はありますか?」
「そうですね。では、あなたが」
「え?」
「あなたが、欲しいです」
真っ直ぐに伝えられ、サビーナは言葉を詰まらせた。
いつものクスクス笑いや意地悪顔ならからかっているのだと判断できるが、今の彼はなにを考えているかわからない。
「えっと……あの?」
「無理強いはしませんよ。ただ、考えておいてください」
「はぁ……」
首を傾げながら頷くと、セヴェリはいつものように微笑んでから立ち上がった。
「あなたを今日中に祝うことができて良かった。ゆっくり休んでください」
「え? セヴェリ様、泊まっていかれないのですか? 今から村に帰るのは、夜も遅いし危険です」
「ここに泊まるとなると、またあなたはベッドを私に譲り、床で寝ようとするでしょう? 今日はキクレー卿のところに泊まるので大丈夫ですよ」
「キクレー卿のところに?」
「ええ。サビーナのことを言うと、キクレー邸で祝おうとクリスタは言ってくれたのですが、お断りしたのです。貴族のパーティーなど、あなたが嫌がると思いまして」
確かに、たかが一般庶民の誕生日で貴族に祝われるなど気が引ける。きっと断るにも神経を使ったに違いないだろうが、その配慮にサビーナは感謝した。
「お気遣い助かります」
「いいえ、私があなたと二人で過ごしたかっただけなのですよ」
すべてを慈しむような目で言われると、サビーナの鼓動が細かに跳ね始める。それをどうにか抑えつけはしたものの、しかし笑みは堪え切れずに溢れてしまう。セヴェリはがそっとサビーナに歩んできて、その胸にギュッと抱き寄せられた。
暖かな腕の中がいやに心地よく、目を瞑ると彼の鼓動がトクトクと波打つように聞こえてくる。
いつまでもこの鼓動を聞いていたい……そんな思いに駆られてしまう。
サビーナからは離れられなくなってしまった時、セヴェリがゆっくりとサビーナの肩を掴んで距離を取った。
「このままずっとこうしていたいですが……あまり遅くなっては、泊まる場所を提供してくれた卿に失礼です。そろそろ……行きますね」
「はい。わざわざ、本当にありがとうございました」
離れていく体が、手が、寂しいと思ってしまうのはなぜだろうか。
行ってほしくない。行かないで。傍にいて。……そんな言葉は、兄のリックバルドになら言えた我儘だっただろう。
だが、セヴェリ相手に言えるはずもなく。
「おやすみ、サビーナ」
「おやすみなさい、セヴェリ様」
いつもの挨拶を終えると、セヴェリはサビーナの部屋から出て行った。
セヴェリ様、クリスタ様のことを呼び捨てにしてたな……
そんなことを思いながら、サビーナは彼が閉めた扉をジッと見ていた。




