第84話 それこそが嘘ではありませんか
新しい月に変わった、最初の日曜日。
サビーナは仕事を調節して休みになるようにしてあった。
野菜を卸しに来るというジェレイにセヴェリを連れてきてもらい、ブロッカの街で待ち合わせる。無事に落ち合うと、二人でキクレー邸に向かった。
今回はアポもあったので、順調にザレイとクリスタに会えた。セヴェリは出来上がったばかりの紅茶をクリスタに渡していて、彼女は大袈裟なほどに喜んでいる。
「サーフィトさんのところの紅茶はとても美味しいから嬉しいわ」
「いえ、今回は私達が作りましたから、味の方は保証できないのですが」
「後でじっくりと味わわせて頂きますわね」
柔らかな微笑みを見せるクリスタに、セヴェリもまた優しく微笑んでいる。
なんという絵になる光景だろうか。セヴェリが田舎服であることだけが悔やまれる。ちゃんとした服を新調しておけば良かった。
二人とも優雅な立ち居振る舞いで、キラキラという音と共に、花びらが舞い散りそうな勢いで輝いている。一言で言うと、とてもお似合いの二人だ。
「この度はクリスタが呼びつけたようで悪かったな。好きな時に来てくれればと思っていたのだが」
「私も丁度お二人にお会いしたいと思っていたところでした。お誘いくださり、嬉しかったですよ」
ザレイの言葉に、セヴェリはそう答えている。それが社交辞令なのか本音なのか、サビーナにはわかりかねたが。
セヴェリ、ザレイ、クリスタの三名は、絵画の話で盛り上がっている。相変わらずサビーナは聞く専門でポツンと座っていた。クリスタは最近絵を描き始めたようで、セヴェリもどうかと勧められている。
「もし習いたいなら、良い美術教師を紹介するぞ、セヴェリ」
「いえ、私は見る専門で、描く方はあまり得意ではありませんし」
「誰だって最初は上手く描けぬものだ。だからこそ習うのだしな」
「そうですね。興味はありますが本格的に習うとなるとお金も掛かりますし、恥ずかしながら私の収入は微々たるものですので」
「あら……では、わたくしと一緒に習いませんか?」
クリスタのその提案に、セヴェリは驚いたように目を丸めている。
「いえ、ですがそれではクリスタ様のお邪魔になってしまいますし」
「構いませんわ。一人より二人の方が楽しく続けられそうですし。興味がお有りなら、ぜひ一緒に習ってくださいません? もちろん、費用はこちらで持ちますわ。ね、お爺様」
クリスタの言葉に、ザレイは当然だと言わんばかりに頷いている。しかしセヴェリは遠慮するように首を竦めていた。
「そこまでして頂くわけに……」
「セヴェリ、お言葉に甘えましょう」
断ろうとするセヴェリに、サビーナはすかさず口を挟む。
「サビーナ?」
「だって、セヴェリは『教師』でしょう。芸術に関する授業をしているのを見たことがないし、このままじゃ、生徒の可能性を見逃してしまうかもしれません」
「まずは私が勉強して授業に組み込むべきだと?」
その問いにサビーナがコクリと頷くと、セヴェリは少し唸ってから「そうですね」と首肯してくれた。セヴェリも生徒の……特に子ども達の可能性を見逃したくはないと思っているのだろう。
そんなセヴェリの様子を見て、クリスタが「それじゃあ!?」と目をキラキラさせている。
「しかし私は日曜しか休みがないので、そちらと予定が合うかどうか……」
「大丈夫です、わたくしは日曜でも一向に構いませんから!」
「畑もあるので、毎週というわけにもいきませんし」
「ご都合の良い時にだけ来てくだされば結構ですわ」
「とは言いましても、この街まで来る足がないもので」
「では、毎週日曜の朝に馬車を向かわせましょう」
「いえ、そこまでして頂くわけには」
セヴェリが拒否の姿勢を取ると、クリスタは残念そうに……しかし諦め切れないようで、縋るように次の言葉を口にした。
「セヴェリさんは馬を扱えますの?」
「ええ、乗馬は問題なくできますが」
「それでは馬を一頭お貸ししますので、ご自由にお使いください! ね、お爺様!?」
クリスタがザレイに同意を求めると、ザレイは大きな声で笑い始める。クリスタはハッとして、その頬は開き始めた花のように染まっていた。
「ふははははははっ! 必死になっているな、クリスタ!」
「お、お爺様っ」
「すまんがセヴェリ、可愛い孫娘の頼みだ。日曜には首根っこ引っ捕まえてでも連れに行くからな」
その言葉に、セヴェリは苦笑いを漏らす。
「それは村の者を驚かせてしまいそうだ。大丈夫ですよ、馬を貸してくださるならば、私の方から伺いますから」
「そうかそうか。ありがとう、セヴェリ!」
「こちらこそ、絵を習わせてくださること、感謝致しますよ」
クリスタを見ると、心がどこかに行ってしまったような、信じられない顔でポーッとしている。
「クリスタ様、これからよろしくお願いしますね」
「は、はい。よろしくお願いしますわ」
これは想定外に幸運な出来事だ。いちいち約束を取り付けずとも、セヴェリとクリスタは親交を深めることができるようになるのだから。
ただその前に、認識を一つにまとめておかなければならなかった。サビーナはザレイとクリスタに丁寧に頭を下げながら、それを伝える。
「ありがとうございます、キクレー卿、クリスタ様。どうか、兄をよろしくお願いします」
その言葉に一番驚いた顔をしたのは、やはりセヴェリだった。訝るような目付きを彼は寄越してくる。
「……サビーナ? なにを……」
「兄はこちらで学ばせていただいたことを、しっかりと吸収して村の者に還元するでしょう。村の皆に代わって、お礼申し上げます」
「クスタビ村の者にも喜ばれるというなら、これくらい安いもんだ」
わははは、とザレイの笑う声にセヴェリの声は掻き消される。サビーナはセヴェリの横顔を尻目に、にっこりと微笑んだ。
「サビーナ、お前もなにかやりたいことがあるなら言うが良い。サーフィトの孫になら、いくらでも投資してやろう」
「ありがとうございます。けれど兄のことだけで十分ですので」
「私はサーフィトさんの孫ではありませんけどね」
会話の途中でスパンとセヴェリが割り込んできた。その顔は少し怒っているようである。しかしザレイは少しも動じず笑って言った。
「ああ、血の繋がりはないんだろう? イーフォの再婚相手に子どもがいたと聞いたことがある。セヴェリはサーフィトと血の繋がりはなくとも、サビーナの兄であることに変わりはない。それに儂はセヴェリが気に入ったからな。なにも遠慮することはないぞ」
「ありがとうございます、キクレー卿」
セヴェリがなにかを言う前に、サビーナは礼を言った。
ここまで話を肯定してしまうと、反論すれば亀裂が生じると思ったからか、セヴェリはもうなにも言わなかった。それでも泥水を含んでしまったかのような苦々しい顔を隠し切れてはいなかったが。
案の定、キクレー邸を出ると、セヴェリは恨めしそうな視線をこちらに向けていた。
その手には、貸してもらった馬の手綱が握られている。
「どういうことですか。なぜあんな嘘を」
セヴェリの声は冷ややかで、サビーナの意図を全く理解できてはいないようだった。
「セヴェリ様はキクレー卿に、私達のことをなんと説明するつもりだったんですか?」
「もちろん、夫婦であると言うつもりでしたが」
「それこそが嘘ではありませんか」
そう言うと、セヴェリの顔はくしゃりと歪んだ。
「それは……しかし、クスタビ村ではそういうことになっていますし、矛盾しないように夫婦と言っておくべきだったと思いますが」
「私はこの街で独身として働いています。ブロッカでは結婚した女性よりも独身女性の方が雇ってもらいやすいようですので、そうしました。なので、この街では夫婦だと宣言してしまう方が矛盾です。キクレー卿やクリスタ様には、夫婦だなんて口が裂けても言わないようにお願いしますね」
冷たい視線のままそう言い切ったサビーナを一瞥し、セヴェリは息を吐き出していた。
「わかりましたよ。ブロッカの街では私は独身で、サビーナの血の繋がらない兄として振舞っていればいいんですね」
「はい、お願いします」
「……早く帰りましょう」
街の出口まで来るとセヴェリは借りた馬に飛び乗り、サビーナも厩舎からルッツリオンを連れ出して乗った。クスタビ村に帰るまでの間、二人はずっと無言だった。
家に帰ると食事の用意をする前に、お茶にしようと声を掛ける。
「セヴェリ様、紅茶にしますか? それともいつものお茶がよろしいでしょうか」
「いえ……日没までまだ少し時間があります。サビーナが疲れていなければ、散歩に出掛けませんか」
「あ、はい。大丈夫です」
そう答えると、なぜか手を繋がれた。サビーナが驚いて視線を上げるも、セヴェリは平然として夕暮れの中を歩いていく。
「あの、セヴェリ様? なぜ、手を……」
「いけないのですか」
「いえ、あの、でも」
「あの街ではあなたの言う通り、兄妹として振舞いましょう。しかしこの村でいる限りは、夫婦として振舞ってもらいますから」
そう言ったかと思うとグイッと引き寄せられ、サビーナの頭はセヴェリの肩に乗せられてしまう。さらに繋がれた手が別れを告げたかと思った瞬間に、腰をグンと引き寄せられた。
あまりの密着具合に、サビーナの頰は徐々に上気していく。
「あの……村の人に見られてしまいますっ」
「構いませんよ。ここでは夫婦なのですから、不思議はないでしょう。ジェレイとラーシェも、いつもこんな風に歩いていますよ」
本物の夫婦と偽装の夫婦を一緒にしないでもらいたい。
けれども反論はできずにそのまま道を歩いた。暮れかけの麦畑を照らしていて、サビーナは目を細める。
風と共にさやさやと流れるような穂が、暮れかけた陽を反射させて眩しく輝いている。サビーナは思わず「綺麗……」と呟いた。
「これは、麦……ですよね?」
「そうです。米は秋ですからね」
「お米は黄金色、麦は小麦色って表現されますけど……麦の色ってこんなに光り輝いてるんですね」
麦畑をこんなにじっくり見る機会がなかったので、知らなかった。秋に実る黄金の海も美しいが、初夏の小麦色も負けてはいない。むしろ、サビーナにはこちらの方が印象的だった。
黄金色は優しくて心を穏やかにしてくれるが、小麦色は胸に響く。強い生命力を感じさせ、力を与えてくれる気がした。
「サビーナ」
「あ、すみません。ちょっと魅入ってしまって」
そう言うとセヴェリは、両腕で全ての視界を奪うかのように抱きしめてきた。
セヴェリの香りはリックバルドとは違う。もっと爽やかでいて、優しい香りだ。
「セヴェリ……?」
「時折、あなたが消えてしまいそうな感覚に陥ってしまいます。今この手の中にあっても、するりと逃げてしまいそうな……」
「消えも逃げもしません。セヴェリが真の幸せを掴むまでは」
「……っ」
彼はそれ以上なにも言わず、ギュッとサビーナを抱き締めていた。
途中、農作業帰りの村人がサビーナ達を冷やかしていったが、それでもセヴェリはその手を離そうとはしなかった。
小麦色の畑は徐々にその姿を闇に染め、やがて一時的な休息を取るようにひっそりと佇んでいた。




