第74話 なんか……疲れたな
サビーナがブロッカの街に来てから、二週間が過ぎた。
いつもなら五日働いてから戻るのだが、なにを言われるのかと思うと、怖くて村に帰ることができなかったのだ。
サビーナは、セヴェリを貶めたシェスカルを一生許すことはないだろう。それと同じで、セヴェリもレイスリーフェを殺した者を許してくれるとは思えなかった。
しかし、今のセヴェリの状況がわからないということに不安を募らせる。ショックで自殺をしているかもしれないと一瞬でも考えてしまうと、気が気じゃなくなってきた。
急遽昼からの仕事を休みたいという無茶な頼みを聞き入れてもらい、ルッツリオンを走らせてクスタビ村に戻ってくる。
「お、先生、奥さんが戻ってきたぞい」
サビーナが家に着くと、十六歳以上のクラスの授業が終わったところのようだった。
ぜえぜえと息を切らしながら馬を降りると、若者から老年までの十数人が、すれ違いざまに次々と声を掛けてくる。
「おかえりなさい、先生の奥さん!」
「大変だったわねぇ、お疲れ様」
「街で働くのもええが、程々にしとけぇよ」
「奥さん、髪の毛ボサボサだよ」
「セヴェリ先生、ずっと寂しそうだったぜ」
「喧嘩でもしてたの? もっと頻繁に帰ってあげないと、可哀想よ」
「おー、久しぶりー!」
「先生のこと、放っておき過ぎじゃね?」
「夫の傍にいることも、妻の大事な仕事ですよ」
「早く先生のところに行ってあげて」
みんなが通り過ぎて行った後、サビーナはようやくセヴェリに顔を向ける。
目を細めて微笑む姿はいつものセヴェリそのものだが、どこかやつれているようにも見えた。
「セヴェリ……あの……」
「話は後で。すぐに次の生徒達が来ます」
「あ……はい」
その言葉通り、すぐに後ろから子ども達が駆けてきた。
「こんちはー、セヴェリ先生!!」
「あ、奥さんいるー! おかえりなさーい!」
「先生ね〜、奥さんいなくて落ち込んでたんだよっ」
「泣きそうな顔しながら授業してたんだからー」
「ねーっ!」
「いいから、座りなさい」
子ども達の取り囲まれながら言われ、最後にセヴェリが窘めて席に座らせる。セヴェリは困ったように笑ってから、「サビーナも良ければどうぞ」と机を指差した。授業を受けていってはどうか、という意味だろう。
思えば、なんだかんだと忙しく、今までセヴェリの授業を生徒として聞いたことはない。
サビーナは促されるままに、机の方に向かった。机は三人掛けになっていて、前列に三つ、後列に二つ、計五つ置いてある。最大で十五人座れるようになっているが、全部の席が埋まっていることはまずない。
身長が低い子は前に、高い子は後ろに座っていた。サビーナは背が高い方ではないが、この六歳から十五歳のクラスでは高い方になるので、後ろの端の席に腰を下ろす。
「お、サビーナさん帰ってたんだ」
そう言いながら一人の生徒がサビーナの隣に座った。確かケーウィンという名前の、このクラス最年長の男の子だ。
「前に変なこと言ってごめんな」
「え? ああ……」
『変なこと』がなにか思い出せずに少し眉を寄せてしまったが、すぐに思い出した。ケーウィンは以前、サビーナの言葉をからかったことがある。どうやらからかいたかった相手はセヴェリの方だったようだが。
「大丈夫、気にしてないから」
「そっか、なら良かった。ま、今度詫びも兼ねて色々計画してるからさ。期待しといてくれよ」
「計画? なに?」
「ヒミツ」
ケーウィンは嬉しそうに歯を見せながら笑っている。その悪戯小僧のような顔を見ていると、デニスが思い出された。
デニスさんは大人なのに、子どもみたいな表情する人だったな。
今その彼は牢獄に閉じ込められ、どんな顔をして過ごしているのだろうか。それを考えると胸が痛む。
「サビーナ、ペンをどうぞ。年長組は先に抜き打ちテストです」
「げ、マジかよっ」
ペラリとテスト用紙をサビーナとケーウィンの前に置かれてしまった。セヴェリを見上げると、彼はクスクスと笑っている。
テストは嫌だと言っておいたのに、本当に意地悪な人だ。でもどこか嬉しそうな顔を見て、少し安堵もした。
「始めて下さい。制限時間は三十分です」
見てみると、よりによって苦手な数学のテストだった。上級学校を出てまだ一年も経っていないというのに、どう解くのだったかよく思い出せない。
とりあえずわかる問題だけ解いてみたが三分の一ほどしか埋められず、早々に諦めた。隣ではケーウィンが必死になってカリカリとペンを進めている。
若いなぁ、ケーウィン。
私と一歳しか違わないけど。
なんだかこの数ヶ月で、十歳くらい年をとってしまった気分だ。
色々なことがあり過ぎた。まだまだ子どもでいたかったのに、一足飛びに大人にならざるを得なかった。
なんか……疲れたな。
ペンを置いて黒板に目を向けると、セヴェリは年少組に星座を教えていた。
古代の神の星座になるとその神話を語り、子ども達は目を輝かせてセヴェリの話に聞き入っている。斯くいうサビーナも、テストそっちのけでセヴェリの言葉に耳を傾けた。
セヴェリ様の柔らかい声、落ち着く……。
ついウトウトとしてしまい、机に手を置いて額をそっとつける。少しだけ……少しだけと頭で思いながら目を瞑ると、深い霧がサビーナの頭を覆い始めた。
「おい、セヴェリ先生。サビーナさん寝ちまったけど」
「疲れているんでしょう。そのまま寝かせてあげてください」
どこか遠くでそんな声が聞こえた気がした。雲の上にいるようなふわふわした感覚でいると、体に温かい羽毛を巻きつけられている感じがする。
その心地よさに落ちるかのように、サビーナは深い眠りに入っていった。
「ん……あれ……?」
ふと気がつくと、なぜかベッドの上にいる。ここで寝ている理由がわからず、首を捻らせた。
「えーと……確か、セヴェリ様の授業を受けてて……」
記憶を辿っていると、セヴェリがランプを持って入ってきた。いつの間にか外は真っ暗である。
「よく眠ってましたね。大丈夫ですか?」
「す、すみません! ついうっかりと……」
慌てて起き上がると、セヴェリの優しい顔が確認できる。
いつもと変わらぬ微笑をたたえた彼の表情に、サビーナは涙が出てきそうになった。
「おかえり、サビーナ」
「セヴェリ、様……っ」
迎え入れてくれるその言葉に、熱いものが溢れてくる。
セヴェリはそっとサビーナの隣に腰を下ろして、口を開いた。
「もう……帰ってこないのかと思いました」
サビーナはそっと首を横に振る。
帰ってくるのは怖かった。でも帰ってきたくないわけではなかった。
もう一度、セヴェリと暮らしたかった。
「すみません。レイスリーフェの死をすぐには受け入れられず……なぜもっと早く言ってくれなかったのかと……」
「申し訳ありません、言わなきゃと思ってました……! でも、どうしても言えなかっ」
「怒っているのではないんです」
サビーナの言葉を遮るように言うと、セヴェリは優しくも苦しそうな顔を向けてくれる。
「あれからずっと、あなたが心を痛めていたのかと思うと……やりきれない」
「セヴェリ様……?」
「もう一人で悩まないでください。私は不甲斐ない男で、あなたを傷付けることもあると思いますが……サビーナがいない生活など、もう考えられない……!」
真剣な眼差しがサビーナを射抜き、不意に込み上げる涙で声を詰まらせる。
「私……ここにいて、いいんですか……? 出ていかなくて、いいんですか……?」
「リカルドの手紙を気にしているんですね」
セヴェリの断定的な問いかけに、サビーナはコクリと頷く。
「リカルドのあの手紙は、あなたを心配してのものですよ」
「……え?」
「私と一緒にいては、一生私の世話に追われることになるでしょう。あなたを私から、自由にしてくれようとしての言葉です」
「そうでしょうか……」
あの眼鏡騎士の顔を思い出し、眉根を寄せる。それを見たセヴェリは、少し困ったようにクスクスと笑い始めた。
「誤解されがちですが、彼は優しいのです。もちろん私の身を心配して……という理由もあるでしょう。しかしそれならば、私がサビーナを囮にしている間に逃げ果せるように、一緒にいた方が都合がいいというもの。つまりリカルドは、若いあなたの未来を守ろうとして、あんな風に書いたのでしょう」
「えーと……そんな感じは微塵も受けない内容でしたけど……」
「そういう男なのです。彼の奥方はサビーナと年が近いため、なにか思うところはあったと思いますよ」
サビーナにはそれを知る術はないが、セヴェリが言うならその通りなのだろう。セヴェリもサビーナのためを思って、出ていくことを考えろと言ってくれたことがある。リカルドの真意もそれと同じだったのかもしれない。
しかしなぜだか、セヴェリの言葉のどこかでサビーナの胸がチクリと痛んだ。
「どうかしましたか?」
「……いえ」
どうにか作り笑いを向けると、セヴェリはそれには気付かず「夕食にしましょうか」と立ち上がる。
「あ、すみません! 今すぐ作ります!!」
「いえ」
サビーナが慌てて立ち上がると、それを制するような笑みを浮かべている。
「今日は新鮮な卵を頂いたので、私が作っておきました」
「え! セヴェリ様が?! 一体なにを……」
「今日のメニューは、『メルヘン山の頂から流れくる愛の川、鳥のさえずりと共に』ですよ」
その言葉に、サビーナはプッと吹き出す。
「オムライス、ですか」
「ええ。お腹が空いたでしょう。どうぞ、食べてください」
食卓に上がっていたのは確かにオムライスと、スープ、それにサラダだった。湯気が立っているところを見るに、ちょうど作り終えて起こそうとしたところだったのだろう。
よく見ると、オムライスの卵はサビーナが作るよりも数段綺麗に乗せられているし、サラダは彩りもセンスも良く盛り付けられている。適当に切ったり千切ったりして乗せるだけのサビーナのサラダとは、わけが違う。
そんな美しい料理を勧められるまま食べて、サビーナの顔はサァーっと青ざめた。
「……美味しくありませんか?」
セヴェリが不安そうにこちらを見ていたが、そんなことがあるはずもない。
「いえ、すごく……すごく美味しいです」
「美味しくて、何故そんな顔を?」
「セヴェリ様、料理を作れたんですね……」
「ええ、当然ですよ。あなたが街に行っている間、誰が作っていたと思っているのですか」
確かにそう言われればそうなのだが、まさかセヴェリの料理の腕前が自分より上だと思っていなかったのでショックを受けてしまった。
「セヴェリ様がこんなに美味しい料理を作れるなんて知らなくて……今まで私の不味い料理を食べさせてしまっていたのかと思うと……っ」
「あなたの料理も美味しいですよ。たまに香ばしさが際立っていたり、とても健康的な味付けだったり、色々と……ね」
「う、ううーーっ! これからはお料理の勉強をしますっ」
「それもいいですが、こちらの方も勉強した方が良いいかもしれませんね」
そう言いながら、セヴェリは四つ折りにされた紙を取り出した。
渡されるまま広げて見て、サビーナの頭は矢が刺さったかのようにガクンと揺れる。
「っぐ! 二十五点……」
「数学は苦手な分野でしたか?」
「は、はい……」
セヴェリはクスクスと笑っていて、サビーナの顔は熱く燃える。
頭の悪さを数字で露呈してしまうというのは、とてつもなく恥ずかしい。『馬鹿だなー』と笑い飛ばしてくれる方が気楽だが、セヴェリは微笑んでいるだけだ。
穴があったら入りたい。自分の頭の悪さが恨めしい。
「サビーナがその気なら、いつでも個人授業をしてあげますから」
「は、う……じゃあ、そのうちお願いします……」
曖昧な答え方をすると、セヴェリは苦笑いをしていた。




