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たとえ貴方が地に落ちようと  作者: 長岡更紗


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第7話 ここじゃあ駄目なんですか?

 サビーナは、窓から溢れ落ちる光に目を落とした。

 寝不足の目に朝日は眩しく、薄目でチラリと今日の天気を伺う。

 空は青く、空気は清らかだ。

 ピチチチと鳥が爽やかにさえずる朝は、誰もを清々しい気分にさせるだろう。

 だが、サビーナの気分は重かった。ずどーんと淀んだ空気がサビーナだけを取り囲っている。肩にはまるで、目には見えぬなにかが乗っていそうなだるさだった。


「うう……セヴェリ様を、誘惑……説得……どうしろと……」


 一晩中悩んだが、いい策など浮かんではこなかった。

 マウリッツとセヴェリが謀反を企てているなどと、リックバルドの冗談であってほしいと何度も願ったが、願ったところで事実は変えられない。

 ただ単に説得して考えを改めさせることができるなら、リックバルドは自分でやっているだろう。だからこそ誘惑という手段と共に説得を試みるのであろうが、恋愛経験ゼロの人間にこの役目は重すぎだ。

 婚約者であるレイスリーフェでさえもできないことを、自分がやれるとは到底思えない。


「うう、キアリカさんに頼めばいいのにーっ。さすがに元恋人を使うのは、あのリックでも気が引けたか……くうう」


 やはり兄を恨みつつも、本日最初の仕事に向かう。セヴェリの部屋にお茶を運ぶのだ。彼は起き抜けに一杯のハーブティーを飲むのが習慣になっている。

 いつもはウキウキとした気持ちでノックするのだが、今日はむしろ顔を合わせたくない。普通に接することはできるだろうかと思いながら、扉を叩く。


「どうぞ」


 誰だと確認することもなく、セヴェリは入室を促した。サビーナは、いつもと違う意味でドキドキしながら、部屋へと足を踏み入れる。


「おはようごじゃ……っございます、セヴェリ様!」


 のっけから舌を噛んでしまい、サビーナの顔は熱くなる。それを見てセヴェリは拳を口元に当てるとクスクス笑った。


「ええ、おはようサビーナ。いい朝ですね」

「はい、とても……あの、お茶をお淹れ致します」

「お願いします」


 平常心平常心と心で呟きながらお茶を出す。彼はそれを受け取り、優雅に飲み干した後、やはり「ありがとう」と優しく微笑んでくれた。この瞬間がサビーナの至福の時だ。


「あの……では、失礼致します」

「ああ、サビーナ」


 退室しようとすると声を掛けられて、サビーナは立ち止まった。振り返るといつもの笑みでセヴェリが視線をこちらに向けている。


「はい」

「リックバルドから、なにか聞きましたか?」

「な、なにか、って?」


 胸がバックンと打ち鳴らす中、サビーナは引きつった笑顔でそう返すと、セヴェリは優しい笑みのままこう言った。


「いえ、聞いていないのならいいんです。仕事に戻りなさい」

「は、はい」


 サビーナは逃げるように退室すると、扉の前でハァッと息を吐きだした。

 なにもしていないのになぜか疲れた。これからこんな日がずっと続くのだろうか。気が重すぎる。

 サービスワゴンを押すたびにカチャカチャと音を立てる、空のカップとソーサーを見つめては溜め息が漏れるばかりだ。そんな溜め息だらけの給湯室で片付けをしていると、部屋を覗いてくる者がいた。騎士のサイラスである。


「おっはよー、サビーナちゃん! 今暇?」

「おはようございます、サイラスさん。まぁ暇と言えば暇ですが」

「だよねぇ、この時間は鍛錬所に顔を出すこと多いもんね〜」


 ヘラヘラ笑いながら部屋に入って来たサイラスの服装は、騎士のそれではない。いつも括りあげている長い髪も、今日は下ろしたままだ。


「サイラスさん、今日はお仕事お休み?」

「そう、僕の班は今日は非番。サビーナちゃん、ちょっとだけ時間いい?」

「構いませんけど」

「じゃ、サビーナちゃんのお部屋に行こうかー」

「え? ここじゃあ駄目なんですか?」

「うん、ちょっと込み入った話になるから。わかるでしょ?」


 そう言われて思い浮かぶのは、やはり謀反の話だ。サビーナは「わかります」と頷き、彼を部屋に案内した。

 中に入るとサイラスはキョロキョロを見回して「女の子らしい綺麗な部屋だねー」と褒めてくれる。片付けたのは兄だということは、黙っておいた。


「さて、サビーナちゃんも仕事があるだろうし、早速だけど本題に入らせてもらうよ」

「はい」


 サイラスはさっきまでのヘラヘラ笑いを一転、真面目な顔つきで話し始める。


「さっき僕の言葉に『わかる』って答えたってことは、リックバルド殿から聞いてるって前提で話を進めていいよね?」

「はい、大丈夫です」


 サビーナの肯定の言葉を聞いて、サイラスは頷く。


「今僕たち……隊長と班長は岐路に立たされている。オーケルフェルト家への忠義か、帝国への忠義か……」


 サイラスたちはオーケルフェルト騎士隊に従属しているとはいえ、大きな括りで言えば彼らもアンゼルード帝国の騎士である。悩むのは当然と言えよう。


「シェスカル隊長も班長のみんなも、決めかねているってリックに聞いたけど……」

「うん、みんなそういう風に装ってるよ。リックバルド殿もね」

「装って……?リックも?」


 サビーナは首を傾げた。昨日の話を聞く限り、リックバルドの心は決まっているように見えたのだが、実は迷っていたのだろうか。そもそも装うという意味がよくわからない。

 しかしそんなサビーナの戸惑う様子を見たサイラスはフッと笑った。


「やっぱり彼は、サビーナちゃんには本心を伝えてたようだね。サビーナちゃん、リックバルド殿の考えを、僕に教えて欲しいんだ」

「え? どうして? 直接聞けばいいのに」


 やっぱりわからずに、サビーナは首を今度は逆に傾げる。


「ここが分水嶺だからね……班長同士でも疑心暗鬼になっている部分があってさ、中々おおっぴらにどっちに付くとは言えないでいるんだ。腹の探り合いみたいなことが始まってる。でも僕は早目に味方を見つけたいんだよね。リックバルド殿なら僕と同じ考えを持ってるんじゃないかと、期待してるんだけど」

「なるほど……って、やっぱり私に聞くのはおかしくない?」

「おかしくないよ。口を割らせるなら、リックバルド殿よりサビーナちゃんの方が簡単だから」


 そう言われてサビーナはムッとする。そんなに口が軽いと思われているのだろうか。もしもサイラスがリックバルドと同じ止める側なら問題ないが、もし違えば目に見えて対立してしまう。

 きっとリックバルドもそれを避けたいから、決めかねているという曖昧な態度を装っているのだろう。

 そこまで理解が進んだサビーナは、絶対に口は割るまいと口に手を当てた。


「あれれ、教えてくれないのかなー」

「当然! です!」

「参ったな、教えてくれないと困るんだけどねー」


 そう言いながらサイラスは扉のところまで移動した。諦めて帰ってくれるのだろうか……と思いきや、扉の前でサイラスはクルリと振り返り、こちらを見る。


「全く、サビーナちゃんは危機感がないよね。あれだけリックバルド殿に気を付けろって言われてたのに」

「……へ?」


 サイラスは含み笑いをすると同時に、カチャンと鍵を掛けた。


「な、にを……」

「散らされたい? 処女」


 サビーナは青ざめて後退る。

 リックバルドに注意されていたにも関わらず、迂闊だった。確かに簡単に部屋に上げてしまったのは己の不注意だが、まさか陽の高い時間にこんなことになるとは思わないではないか。


「や、やめて、サイラスさん……」

「いいね。怯えた顔も、すごくそそられるよ」


 ニッコリと笑ってゆっくりと近づいて来るサイラス。

 怖い。こういう時はどうすればいいのだろうか。大声を出せば、誰かが助けに来てくれるだろうか。

 しかし大声を出そうとしても、ああだとかううだとかいう情けない声しか出てこない。身の危険が迫っているというのに、なんの対処もできない自分が腹立たしい。


「可愛いなぁ、サビーナちゃんは」


 そう言って、サイラスが目の前に現れる。逃げなければとわかっているのに、足がすくんでしまって動かない。

 サイラスはゆっくりサビーナの頬に触れてきた。ビクッと体が震え、目をギュッと瞑る。


「言う気になった?」


 ドクンドクンという自分の鼓動が、耳のそばで聞こえる。言わなければ自分の身が危うい。しかしもしもサイラスがマウリッツ側の人間だったなら、リックバルドの立場が危うくなる。

 どうすればいいか答えが出せずに、そっと目を開いた。

 目の前には、悪い顔をした男が……


「なーんて、嘘だよ。ビックリした?」


 いなかった。サイラスは実に楽しそうに、しかし眉を下げながら笑っている。


「……へ?」

「ごめんね、驚かせちゃって。あんまりサビーナちゃんが無用心だから、つい困らせたくなっちゃったんだ」


 ヘラヘラと笑うサイラスを見て、ヘナヘナと腰を抜かした。お尻がペタンと冷たい床に触れる。

 演技だったとわかって心底ホッとした。キスも、その先も興味があるとは言え、こんな形で経験はしたくない。


「サビーナちゃんは口が固い子だってことはよくわかった。だから僕が謀反には反対だってことを教えても、誰にも言わないよね?」

「え? サイラスさんも反対派なの?」


 思わずそう聞いてしまうと、サイラスはプッと吹き出すように笑った。


「あはは、ダメだよサビーナちゃん! そんな簡単にリックバルド殿の政派をバラしちゃー」

「っあ! で、でも、サイラスさんも反対なら別に構わないでしょ??」

「駄目だよ。サビーナちゃんから聞き出すために、反対派だって嘘を付いてる可能性だってあるんだよ。こんなにあっさり漏らしてくれちゃって、リックバルド殿の立場が危うくなったらどうするの?」


 そんな風に言われたら、ぐうの音も出ない。確かにその通りだ。ついうっかりで済まされることではなかった。しかし今は後悔よりも確認すべきことがある。


「サイラスさん、本当は……肯定派、なの?」

「違うよ。僕は正真正銘、謀反には絶対反対派! 民衆を巻き込んで戦乱を起こさなきゃならないほど、この国は悪くないと思うよ?」


 サビーナがサイラスの言葉に同調の頷きを見せると、彼は座り込んでいたサビーナの手を取って立たせてくれた。そしてホッと息を漏らす。

 サイラスが反対派だということに心底安心した。味方のフリをされて、情報をホイホイ渡していたらとんでもないことになっていたかもしれない。

 最終手段は皇帝に密告するつもりのリックバルドだ。賛成派に知られれば、拘束される恐れもある。


「でも、今回は口の軽いサビーナちゃんのお陰で助かったよ。リックバルド殿が味方だとわかったからねー」

「ううう……」


 口が軽いと言われて反論できないのが悔しい。口は、軽い方ではなかったはずなのに。

 そんなサビーナの様子を見て、サイラスは頭を優しく撫でてくれる。


「ごめんごめん、僕が誘導しちゃったからだよね」


 そう困ったように笑った後、突然真面目な顔に変わって彼は続けた。


「でも、これからは本当に気を付けた方がいい。知らぬ存ぜぬを突き通すんだよ。本当なら君は、僕に対して謀反の話がわかるなんて言っちゃ駄目だったんだ」

「う……ん……ごめんなさい」


 素直に頭を下げると、サイラスは目を細めて笑った。柔らかく、優しい笑みだ。こんな表情もできる人物だとは知らなかった。普段のヘラヘラ顔より、何倍も素敵な笑顔である。


「いいんだよ、そのお陰で助かったのは事実なんだからね。でも残りのメンバーは、反対派かどうか微妙だから」

「そうなの?」

「うん。キアリカさんは説得次第では反対派になりそうな気はするけど……デニス殿とリカルド殿は忠義に厚い人物だから、マウリッツ様に従う可能性がある」

「シェスカル隊長は?」

「隊長が一番曲者だな。頭がいいし政治にも明るいから、マウリッツ様の考えに同調してしまうかもしれない。なにより、国をより良くするための労力は惜しまない人だから」


 サイラスの言葉はサビーナには意外だった。サイラスにそこまで言わせるほどの人物にはどうしても見えない。


「そうなんだ。ただの素朴専じゃないんだね」

「っぷ! あははははは! 言うねぇ、サビーナちゃんも!」


 吹き出したサイラスは、笑い過ぎで目の端に涙を溜めている。そしてヒーヒーと声を上げて笑った後、涙を人差し指で拭き取った。


「はぁ、ふう。……うん、シェスカル隊長はただの素朴専じゃないんだよ。まずは隊長をこっちに引き入れないとマズイ」

「うん」

「でも、サビーナちゃんはなにもしちゃダメだからね。リックバルド殿と相談して、僕たちがなんとかするよ」

「わかった。ついでにセヴェリ様の説得は私には無理だって、リックに伝えておいて」


 サビーナがそう頼むと、「なぬ?」とでも言いたげにサイラスは目を見開いた。


「セヴェリ様の説得を頼まれちゃったの?」

「うん。誘惑して説得に持ち込んでほしいみたい」

「リックバルド殿、無茶振りするなぁ〜あははははは」

「ううー、笑いごとじゃないんだってば! 本当に困ってるの! サイラスさんからリックに言っておい……んぷ!?」


 唐突にサイラスが人差し指をサビーナの唇に当てた。指一本で言葉を封じられたサビーナは、サイラスを見上げる。そしてサイラスは指を下ろすと、ヘラヘラと笑いながらこう言った。


「サイラス」

「へ?」

「サイラスさんじゃなくて、サイラス。そう呼んで。それと訓練所でも、今みたいに砕けた口調で喋ってくれると嬉しんだけどなー」


 砕けた口調と言われてハッとする。いつの間にかサイラスのペースに引き込まれて、普通に喋ってしまっていた。なんだか今さら改まるのも馬鹿らしい。


「わかった、サイラスね。私もサビーナでいいよ」

「いやいや、サビーナちゃんは『サビーナちゃん!』って感じだから、このまま呼ぶよー」

「なにそれ、どんな感じ?」


 思わずプッと笑うと、サイラスも嬉しそうにヘラヘラ笑う。最初に警戒していたのが嘘のようだ。一気に打ち解けられて、安心感を覚えた。


「じゃ、サビーナちゃん、セヴェリ様の誘惑、頑張ってねー」

「ええーー?! リックに抗議してくれないの?!」

「ごめんね。騎士の方は僕たちが請け負うから、セヴェリ様はお願いするよ」

「そ、そんなぁああ」

「キスの練習相手が必要なら、いつでも相手になるよ!」


 最後の言葉と同時にウインクされ、サビーナはげんなりと肩を落とす。誘惑するとは、やはりそういうことをしなくてはいけないのだろうか。


「サイラスなら、キスでセヴェリ様を悩殺できるんじゃない。役目変わってよ……」

「ごめん! 僕の唇は、女の子専用だから!」


 そう言って、サイラスは逃げるようにサビーナの部屋から出て行った。

 サイラスという心強い……と言えなくもない人物が味方となったが、サビーナの状況はなにひとつ改善されてはいない。

 やはりサビーナは、げっそりと肩を落として溜息をついた。


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