第67話 あなたのことの方が大切ですから
まだ暗い時刻に目を覚ますと、灯りをつけて着替えを始めた。
隣ではセヴェリがまだ眠っているが、カーテンがあるので安心して寝巻きを脱ぎ去る。冷たい外気が肌に刺さった。
「……さむっ」
思わず声が漏れて、急いで服に袖を通す。最後にマントを羽織ると、ようやく寒さから逃れられた。
この国では雪が降ることは滅多にないらしいが、やはり寒いものは寒い。昼間は比較的暖かいが、太陽が出ないうちは凍えるほど冷たかった。
「おはよ、ルッツリオン。今日もお願いね」
外に出ると、そう挨拶して馬にまたがる。ルッツリオンは白い息を吐きながら、今日も懸命に走ってくれた。
一旦寮に戻って荷物を置くと、急いで出勤する。ルッツリオンは厩舎に預けていて、世話をしてもらっているので安心だ。もちろんお金は掛かるのだが、そんなに高額ではないので助かっている。
「おはようございまーす」
「おはようサビーナ。早速仕事がたまってるわよ」
サビーナと同じく、皿洗い専門のリタが山積みにされた皿を指差している。サビーナは袖捲りをしてリタの隣に移動した。
蛇口を捻ると容赦のない冬の水が流れ落ちてきて、サビーナは身震いする。
「うー、水が冷たいなぁ。ちょっとお湯沸かしてこようか」
「あ、じゃあサビーナが石鹸で洗ってくれない? 私が水で流すから」
「いいの?」
「手が荒れちゃって、泡がしみるのよ。サビーナは大丈夫?」
「うん、私は肌は割と丈夫な方だから」
リタは少し年上の十九歳で、キレイ系美人だが気さくな女性だ。気兼ねなく話せるので、サビーナとしても助かっている。
「ねぇねぇ、知ってる?」
並んでカチャカチャと皿を洗っていると、リタが話しかけてくる。彼女は割と噂話が好きなので、自分のことは詳しく話すまいと心に決めている。
「なに?」
「ソサルさんの娘さんが、貴族に嫁ぐことになったらしいわよ。それも公爵家ですって! 」
ソサルというのは、この食堂ミランを経営している商人だ。他にも多くの店を出していて、かなりのやり手の商人のようである。
「へぇ、貴族に……すごいね」
「いいわよねぇ。元々金持ちの生まれってだけで羨ましいのに、貴族になんて……一生安泰じゃない」
「じゃあ、リタも貴族との結婚を狙ってみれば?」
「ふふふ……そうね」
知り合う機会があれば狙う気満々の彼女を見て、サビーナは苦笑する。
「なによ、サビーナにはそんな気はまったくないっていうの? 女の子なら、貴族や……そうね、異国の王子様なんかに憧れたりしない?」
「うーん、憧れないわけじゃないけど……現実問題、身分差は埋められない気がして。私がマナーにも政治にも疎いだけだけど、堅苦しい生活をするくらいなら貧乏でも自由な方がいいかなぁ」
「もう、若いのに夢がないわねっ!」
リタが口を尖らせながら皿を洗い流していく。
彼女の気持ちもわからなくはないのだが、サビーナの夢は貴族や王族との結婚ではない。好きな人との平凡な結婚である。しかしそれは王族と結婚するくらい、叶わない夢であったが。
「あのね、ここだけの話なんだけど」
リタは『ここだけの話』も結構あって、またかと苦笑しながら彼女に耳を寄せる。リタはサビーナの耳に口がくっつきそうなほど近寄って、ぽそりと呟くように言った。
「私、実は結構本気なのよ」
「……なにが?」
「貴族との結婚よ」
「ふーん」
「ちょっと、できないと思ってるでしょう?」
いきなり大きな声を出されて、サビーナは耳を彼女から遠ざけた。
「思ってないよ。リタは美人だし、見初められることも十分にあると思うけど」
「あら、そう? ふふふ」
不機嫌顔から一転、今度は嬉しそうに含み笑いをしている。そして今度はその笑みを若干悪いものへと変化させ、再びサビーナの耳元に口を寄せてきた。
「業者がいるらしいわ」
一言そう耳打ちされるも、なんのことだかさっぱりわからない。サビーナは眉を寄せて目だけで耳元のリタを見る。
「……なにそれ」
「貴族との結婚を実現させてくれる業者がいるのよ。かなりのお金が掛かるようだけど、私、それを利用して狙うつもりよ」
そう言いながら離れていったリタの顔は、とんでもなく真剣だった。玉の輿を狙う女の意気込みというのは凄いものなのだなと、乾いた笑いを上げるしかない。
しかしそのためにがむしゃらに働けるのなら、玉の輿に乗らなくても十分に生きていけるだろうのにとサビーナは考えてしまう。
安定した生活を得るため、貴族の嫁となるべく業者に支払うお金のために働くというのは、どうにも矛盾に思えて仕方なかった。
「サビーナ、あなたも私と一緒で田舎から出てきたんでしょう? 」
「え……うん、まぁ」
「金持ちと結婚すれば、田舎への仕送りもたっぷりできるわよ」
そう言われてハッとする。確かにその通りだ。サビーナがここで身を粉にして働いたとしても、たかが知れている。クスタビ村の家は家賃がいるわけでもないので、普通に暮らしていく分には問題ないが、欲しい物がすべて買えるかと言われればそうではない。セヴェリに不便を強いているのは紛れもない事実だ。
そう考え込んでいると、リタに「業者との仲介がほしいなら言ってね」と軽く言われてしまった。
サビーナがこの国の金持ちと結婚して、セヴェリに楽をさせてあげる……それもひとつの手かもしれない。でも、そのために見知らぬ誰かと結婚できるかと問われると、やはり抵抗感の方が先立ってしまった。
うーん、これは最終手段かな。
私が怪我や病気で働けなくなった時とか……
そう考えると怖いなぁ。
やっぱりお金はできるだけ貯めておこう。
サビーナはリタに「ありがと」とだけ答えて、この話は打ち切った。
仕事五日目は昼までで終わらせてもらい、セヴェリに頼まれた物を買って村へと戻る。ちょっと奮発してセヴェリのコートも買った。昼間は暖かいとはいえ、外で授業をするならば必要だろう。あっという間に稼いだお金が消えてしまったが、できれば次回は自分のコートが欲しい。
マントで寒さを凌ぎながら帰ってくると、そこにはやはり青空授業をしているセヴェリと子ども達の姿があった。しかし前回とは違い、机があり、椅子があり、さらには教卓まであって『学校』らしくなっている。
「あ! 先生、奥さんだよ!」
生徒の一人がいち早くサビーナに気付いてそう声を上げた。『奥さん』と言われると、どうにもムズムズとモヤモヤが入り混じった変な気分になる。
授業は六歳から十五歳までのクラスが始まっているようだった。九人しかいない生徒がこちらを見てくる。
「おかえり、サビーナ。お疲れ様」
「ただいま戻りました。中断させてごめんなさい。続けてください」
授業の邪魔にならないようにそっと離れて馬を繋ぎ、荷物を中に運び入れる。
テキストは一度目を通してから使うだろうが、コートは今から羽織っておいてもらいたい。
サビーナは家を出ると、授業の邪魔にならぬようコソコソとセヴェリに近寄った。もちろん生徒らには丸見えで、大注目されてしまっていたのだが。
「あの、コートを」
「買ってくれたのですか? サビーナ、あなたのコートは」
「先にセヴェリに……風邪をお召しになっては大変なので」
「自分のを先に買えば良かったものを……」
「私にとっては、あなたのことの方が大切ですから」
そっと微笑んでコートの襟を掴むと、セヴェリが袖に手を通してくれた。そんな彼の表情もまた優しい。
「温かいですよ、ありがとうサビーナ。でも今度は自分のコートを買いなさい」
「はい」
素直に頷くと、セヴェリはサビーナの深緑の髪を撫でるように触れてくれる。
「っかー、らぶらぶー」
そんな風に生徒の一人に囃し立てられてしまい、サビーナの顔はカッと熱くなった。見ると、このクラスでは最年長であろう少年が半眼でニヤニヤとこちらを見ていて、サビーナは縮こまる。
「羨ましいでしょう、ケーウィン」
「風邪をお召しになっては大変なのでー? あなたのことの方が大切ですからー? 想われてんなぁ、セヴェリ先生!」
己の言葉をリピートされ、サビーナの顔は燃えるように熱くなる。年齢の近そうな男子にからかわれて、余計に恥ずかしくなってしまった。
「あの、余計なことを、すみません! 失礼します!」
バタバタと逃げるように家に入って、火照った顔に手を当てる。
すべて心からの言葉だが、生徒達の前でいう台詞ではなかった。
「うう、恥ずかしい……っ」
ぎゃー、と叫びたい気持ちを抑えて感情を抑え込む。そうしてうずくまっていると、また授業が再開されたようだ。
サビーナもいつまでもうずくまっていても仕方なく、大きな息と共に力の入っていた筋肉を緩めると、夕食の支度に取り掛かった。
やがて授業が終わり、二人で夕食を取っている時のこと。セヴェリが可笑しそうに笑いながら言った。
「ケーウィンが、あなたに悪かったと伝えておいてほしいと言ってましたよ」
「え?」
「彼がからかいたかった相手は、サビーナではなく私の方だったんですよ。あなたを傷つけてしまったんじゃないかと気にしていました」
そう言われると、確かにからかう対象はセヴェリだったのかもしれない。自意識過剰な自分がさらに恥ずかしくて睫毛を伏せる。
「いえ、あの、大丈夫です。傷ついてませんから……」
「私は嬉しかったですよ。あなたに大切だと言ってもらえて」
セヴェリが食事をする手を止めて、サビーナの手を握っていた。
男の人に触れられるだけで赤くなってしまう顔をどうにかしたいものだが、そうそう性格は変えられないらしい。
茹で蛸のように真っ赤になっているであろう顔でモジモジしていると、セヴェリが目を細めてこちらを見ている。
「私もあなたがとても大切ですよ」
「あ……ありがとうございます」
なぜだかそれは、胸が苦しくなる言葉だった。
セヴェリが自分のことを、大切に思ってくれている。嬉しい反面、胸を壁に押し付けられるかのような冷たさと痛みを感じた。
彼はレイスリーフェのことを知っても、同じように大切だと言ってくれるだろうか。
そう考えると怖くて、セヴェリの手を振り払うように手を引っ込める。
「……サビーナ?」
「食べましょう。料理が冷めてしまいますから……」
サビーナの言葉にセヴェリは気を取り直すかのように微笑し、そして再びフォークに手をやっている。楽しかったはずの夕食は途端に味気ないものへと変わり、サビーナは無理やり飲み込むようにして食事を終えたのだった。




