第103話 なにがあっても、生きていてもらわなければ困るんです
リタ主催のパーティから、数日が過ぎた。
あの後サビーナは、パーティが終わるまで別室で休ませてもらっていた。出席者のつけていた香水の香りで気分が悪くなったためだ。
セヴェリは途中でサビーナがいないことに気付き、パーティを抜け出してサビーナのところに来てしまっていた。しかしとりあえずの目標は達成した後だったので、サビーナとセヴェリはそのままリタの屋敷を出たのだった。
この日、サビーナはいつものようにミラン食堂クスタビ支店で働いていた。注文を取りに店に出ると、そこにはジェレイ一家がメニューを閉じて待っている。彼らは平日のほとんどの昼食を、ここで食べていってくれている。
「いらっしゃい。ジェレイさん、ラーシェさん、ルーフェイくん。ご注文は?」
「おー。日替わりランチ二つな。あとお子様ランチひとつ」
「ジェレイさんはご飯大盛りですよね?」
「おう、今日は特盛りで頼む!」
「よく食べますね……」
「食わなきゃ力でねぇからな! 昼からも働かなきゃいけねぇしよ!」
ジェレイは無意味に力こぶを見せつけてきた。あまりムキムキなのは好きじゃないので、勘弁してほしい。
「サビーナ、顔色が良くないわね。大丈夫?」
「はい、ジェレイさんの筋肉見てたら気持ち悪くなっただけなんで」
「おいおい! 俺の肉体美を見て、そりゃねぇだろ!」
ムキッ! ムキッ! と音を立てそうなくらいのポーズをとる男は鬱陶しいので、視線から外す。ラーシェはチラリと横目で自分の夫を見た後、すぐに視線をサビーナに向けてくれた。
「ところで、セヴェリさんにあのことは言ったの?」
彼女の問いは、妊娠のことで間違いない。サビーナは静かに首を横に振って応えてみせた。するとムキムキポーズを取っていたジェレイはそれを止めて、大きな息を吐いている。
「なんだかなぁ。なんでそこまで頑ななんだよ? いいじゃねぇか、言っちまえばよ」
「言いたくないのって、本当にぬか喜びにさせるかもしれないってだけ? なにか他に理由があるんじゃないの?」
二人は心配そうに顔を覗いてくれたが、サビーナはそれに答えられなかった。
それを見たラーシェが「私にできることがあれば、なんでも言ってね」と寂しそうに笑ってくれる。もちろん、言えるはずもないのだが、その気持ちが嬉しかった。
厨房に戻り注文内容を伝えると、料理人がすぐに調理を開始している。この同じ空間で皿洗いをしなければいけないのが、本当に苦痛だ。つわりのせいをで、匂いが吐き気を催してくる。
しかし画策が上手くいけば、成功報酬を支払う分のお金を用意しなければいけないのだ。辞めるわけにも休むわけにもいかない。
第一、体調不良で休んでいたら、セヴェリに気付かれてしまうだろう。結果、サビーナは気持ちの悪さを我慢して働く以外になかった。
その日の夕方、サビーナが家に帰ると同時に、思わぬ訪問客が家に訪れた。いつもはブロッカにいる、ザレイである。
まだ外でケーウィンとシェルトの勉強を見ていたセヴェリも、ザレイを見るなり切り上げて家に入ってきた。
「いやぁ、すまんな。いきなり押しかけて」
「いえ。しかしキクレー卿のような方がこの村にわざわざ……どういった御用件で?」
「わっはっは! わかっとるだろう?」
そう言われたセヴェリは眉を寄せながら、僅かに首を傾げている。思い当たる節がないのも当然と言えるが。
「クリスタの結婚のことよ」
「クリスタの?」
「うむ。クリスタもその気になっておるし、式は早い方がいいと思っているのだが」
「素敵!! クリスタ様の花嫁姿、早く見たいに決まってます! ね、セヴェリ!?」
「え? ……ええ」
サビーナがすかさず声を上げると、セヴェリからは気のない返事が漏れた。その相手が自分だとは、思いもしていないだろう。
「できれば年が明けたすぐにでも、と思っておるんだが」
「年明け? それはまた急ですね。けれどクリスタの結婚とあれば、もちろん出席……」
「もちろん、いつでも構いませんよね! クリスタ様からのご提案とあれば、断ることなんて致しません!」
またもセヴェリの言葉を遮るように言うと、ザレイは嬉しそうの顔を輝かせた。
「そうかそうか! クリスタも喜ぶ! では、日取りはこちらで決めさせてもらおう。詳しい話は追って通達する」
ザレイは立ち上がると、従者を引き連れて帰っていった。どうにかザレイには、セヴェリにその気がないことを知らせずに済んだようである。
あちらは業者とマティアスが上手くやってくれたのだろう。元々クリスタはセヴェリとの結婚を望んでいたのだから、それほど難しくはなかったに違いない。だが、問題はこちらである。
「おめでとうございます、セヴェリ様」
ザレイが帰った後、サビーナはにっこり振り返りながらそう言った。
「なにがですか?」
「クリスタ様とのご結婚が決まったことです」
「……なにを?」
セヴェリは今までにないくらい、眉根に皺を寄せた。
今の場で、否定させずにザレイを帰せたのは大きい。キクレー家の当主が二人の結婚を認めたということなのだ。つまりそれは、婚約と同意義である。
「クリスタ様の結婚相手は、セヴェリ様ですよ。ザレイ様は、それを確認しにいらっしゃったんです」
「っな?!」
セヴェリは驚き、声を詰まらせながら瞠目している。その顔は「信じられない」という文字で埋め尽くされている。
「なぜ私がクリスタと……?! どうしていきなりそんな話になるのですかっ」
「以前、リタ主催の舞踏会があったでしょう。三曲連続同じ人に踊りを誘うことは、求婚するという意味だったんです。つまりセヴェリ様はクリスタ様に求婚していて、クリスタ様はそれを受け入れた。二人の意思は確認済みというわけです」
「三曲連続で踊ると……? そんな話、私は聞いていませんよ……」
「すみません、言い忘れていました」
視線を逸らしながら答えるも、セヴェリはこちらを睨んでいるようだった。彼の怒りの空気が、徐々に強く濃くなっていく。
「言い忘れ? そんな言い訳が通用するとでも思っているのですか」
「通用するとかしないとか、そんなことはどちらでもいいんです。セヴェリ様とクリスタ様の結婚が決まったこと……それが重要事項ですから」
「騙されて結婚なんてできるわけがないでしょう! 今から断りに行ってきます」
「駄目です!! ようやく、貴族に戻れるんですからっ」
サビーナは縋るようにしてセヴェリを止めた。振り向いたその顔は、愛憎と呼べるかもしれない。そんなセヴェリの表情が印象的だった。
「どうして……どうして、このようなことを……っ」
「もちろん、セヴェリ様のためです。……半分は」
付け足したその言葉に訝しみを覚えたのか、セヴェリは首を捻っている。もう半分の理由を教えるつもりは毛頭なかったが。
「セヴェリ様、クリスタ様と結婚なさってください。そうすれば、もう処刑されることはなくなります。アンゼルード帝国も、ラウリル公国の貴族には手を出せませんから」
「そんな理由で……」
「大切な理由です。セヴェリ様にはなにがあっても、生きていてもらわなければ困るんです」
この子のためにも、とサビーナは心で付け足す。自分はどうなるかわからないのなら、せめてセヴェリだけでも。このお腹に宿った子どものために。
しかしセヴェリはそんなサビーナの心など知らず、そっと首を横に振っている。
「私は追手に捕まろうと構いません。それまでの間、あなたと共に過ごす方が大事です」
「……もう、いい加減にしてくださいませんか?」
サビーナはそう言いながら、視線を大きく逸らした。急に冷たくなった口調に、セヴェリは驚きを隠せないでいる。
「……サビーナ?」
「二年も我慢してきたんです。こんな生活……もう、ウンザリなんです」
「我慢……?」
意味がわからないとでも言いたげなセヴェリを、サビーナはこれでもかときつく睨み上げる。
「私はずっと、セヴェリ様が貴族と結ばれるようにと画策していたんです」
「なぜ……」
「私自身が自由になりたいからに決まっているじゃありませんか」
冷たい瞳のままそう告げると、セヴェリは苦しそうに言葉を詰まらせた。
「心配なさらないでください、セヴェリ様。クリスタ様はもちろん、キクレー卿もセヴェリ様のことを気に入ってくださっています。結婚すればきっと幸せな……っ」
突如、パンッと乾いた音が響いた。無理やりに右側へと視線が動かされる。なにが起きたのか、一瞬理解できなかった。
熱くヒリヒリと痛む左頬を、手で押さえる。
え……? セヴェリ様が、叩いた……?
混乱する頭の中から出てきた言葉は、「痛い……」という簡素な感覚を表現したものだった。その声を聞いたセヴェリが、言葉を被すように叫んでくる。
「私が痛くないとでも思っているのですか!!」
サビーナが顔を上げると、セヴェリの顔は苦痛で歪んでいた。
「サビーナ、あなたは……」
セヴェリは拳をわななかせ、声までも震わせながら言葉を繋げる。
「私になんの感情も抱いてくれてはいないというのですか!?」
感情を剥き出しにしているセヴェリは、どこか滑稽だった。しかしサビーナの胸を抉るような問い掛けに、極めて無表情で答えを口にする。
「主従以外の情はありません。そもそも私はデニスさんのことが好きだって、セヴェリ様はご存知だったはずですよね?」
デニスの名前を出すと、セヴェリはグッと喉を詰まらせてから、振り絞るようにして声を吐き出した。
「あんなに熱い夜を過ごしておいて、なんの感情もなかったと……?」
「セヴェリ様が勝手に私を抱いたんですよ? 高熱に浮かされて、動けない私を無理やりに」
「サビーナから私を求めたこともあったでしょう」
「あ、あれは……っ! お酒を飲まされたからで、それだって私の意思じゃありません! あのとき以外に私から求めたことは、一度だってないです!」
きっぱりと断言すると、彼は今にも泣きそうな顔に変化した。そんな顔をされると、同情心が芽生えてしまいそうになる。苦しくて悲しくて、申し訳ございませんと謝ってしまいそうになる。
しかしサビーナは、その感情をグッと胸の奥にどうにか仕舞い込むことに成功した。セヴェリはやはり、納得のいかない顔立ちをしていたが。
「ではなぜ、あの後何度も私に抱かれたのですか。拒否すれば良かったものを」
「欲望の捌け口が他にないということはわかっていましたから。以前、なにをされてもセヴェリ様を受け入れると約束しましたし、私が我慢すればそれで済むことでしたので……」
自身の言葉が胸に刺さるように苦しくなる。
嘘は言っていない。他の女に手を出されるよりは得策だと思ったから、抱かれていただけのはずなのだ。
なのになぜ、こんなにも心が痛むのか。
「フ……ククククッ、我慢……ですか」
セヴェリが肩を震わせながら笑い始める。いつものその笑いが……どこか怖い。
しばらくの間、なにも言えずにその様子を見ていると、彼は意を決したように顔を上げた。
「ならば、これからも私のために我慢しなさい。この先、一生」
その言葉に愕然としたのは、サビーナの方だ。優しい彼のことだから、ここまで言えばサビーナを解放するという選択を……つまりはクリスタと結婚するという道を選ぶと思った。まさか、こんな言葉を言われるとは、思ってもみなかった。
決断したように語るセヴェリの顔は、とても冷たい。サビーナの体が、井戸水に浸されたかのように一瞬で冷えていく。
「い、嫌です、そんな……」
「あなたの意見など聞いていませんよ。これは命令です。あなたはずっと私の傍にいるんです。私も……あなたの傍から離れません」
そう言いながらズイッと詰め寄って来るセヴェリ。
反論をさせぬその口振りに、ヒヤリとしたものを感じる。今この手に捕まってしまえば、二度とセヴェリから離れられない、そんな予感。
そうなるわけにはいかない。サビーナは思わず身を翻して、外に飛び出した。
「待ちなさい、サビーナ! もう外は暗く……っ」
セヴェリの言葉を聞かず、サビーナは村の外に向かって駆け出す。
彼の言葉に胸が震えた。今、セヴェリは心から離れないと言っていた。それでは困るというのに。クリスタと結婚してもらわなければいけないのに。
サビーナがこのままクスタビ村から消えていなくなれば、セヴェリはクリスタと結婚してくれるだろうか。それともサビーナを待ち続けてしまうのだろうか。
どうすれば……
どうすれば、クリスタ様と結婚してくれるの!?
あれ以上、どう説得すればいいかわからなかった。逃げるように駆け続けていたサビーナは、足を緩める。
いきなり走ってしまったが、お腹の子は大丈夫だっただろうかという不安がよぎった。
はぁはぁと息を揺らしながら、ゆっくりとお腹を撫で下ろした……その時。
村の入り口から誰かがこちらに来る気配がする。馬の手綱を引きながら。
「ここか、クスタビ村ってのは……」
声がサビーナの耳に入ってきた瞬間、全身の血が滾るように熱くなった。その人物は影を抜け、ゆっくりと月明かりの照らすこちら側に向かってきている。
まさか……まさか。
サビーナの心臓は今にも飛び出しそうになりながら、その人物を凝視し続ける。
そしてようやく、人影は月明かりの元へと姿を現した。
闇夜でも映える白銅色の髪。つり上がった目尻。この世に二人といない、究極の美青年。
「……っデニスさん!!」
「サビーナ??」
懐かしのその声に、姿に、サビーナは一も二もなく駆け寄った。




