湖の畔より
太古の昔から、今も変わらず、山奥に人知れず、湖がありました。
深く暗い森が辺りを覆い、誰も森の真ん中に湖があるとは知りませんでした。
その湖は大きくそして何十メートルも水深があるにもかかわらず、何の曇りも無く澄んでいました。湖の真上から覗き込んだら、湖のそこが手に取るように見えるのです。
一見、生命は何も住んでいないように思われ、魚の影すら見えませんでした。
だからと言って、生物が棲んでいないのではなく、そこに棲む魚や蝦は、その湖が余りの透明であったため、その姿も透明になってしまいました。
もし湖の底を見たとしたら、時々、水底がゆらゆらと揺れるのを、見えるでしょう。
それこそが、魚の群れが、泳ぎまわっている姿なのです。
魚をねらう鳥も、獣も、そこに魚がいるとは思いもしませんでした。
何百万年も湖はそこにありました。
木々は湖にせり出し、湖面に柔らかい陰をつくりました。
そして魚たちと一緒に、その湖の畔には、とてつもなく大きな木が聳えておりました。
見上げると、その頂上が、雲に隠れるほどの大きさでした。
その木には、これもまた大きな祠があり、そこに年老いた仙人が住んでいました。
何万年も生きてきましたが、殆ど仙術を使う必要が無かったため、既に仙術はすからかんと忘れてしまったようでした。
この湖のほとりに暮らしていると、仙術を使う必要はありませんでした。
ただ湖の周辺に暮らす動物や植物は、誰も年老いた仙人の術を見たことも無いのに、その仙人が世界で一番力のある仙人と信じておりました。
湖の水は、一杯飲むだけで、年老いた仙人を養うには十分すぎるくらいの栄養を含んでおりました。
日の出とともに、年老いた仙人は、殆ど仙人と同じ歳月をともに暮らした巨木の祠の家から出て、ゆっくりとした歩調で、湖を一周するのが日課でした。
周囲がおよそ、四キロほどの小さな湖でした。
湖の周囲には、様々な花が一年を通して、咲いていました。
年老いた仙人がとおると、花々や木々は葉をよそぎながら、「おはよう。」とか「こんにちは」という具合に、嬉しそうに、声をかけました。
花々は言葉をそれくらいしか知りませんでしたが、そう言いながら、脇に茎を傾けて年老いた仙人を通りやすくしました。仙人も、花々や草木をいたわるように、踏まぬように少し体を浮かしたように歩くのでした。
実際は、浮いているのですが、傍から見ると、しっかりと歩いているようにしか見えませんでした。
また水底の魚たちは、年老いた仙人のその一周が終わるまで、ついてまわり、そして、「ここにいるよ」と、これも一つしか知らない言葉で、水面を飛び跳ねました。
飛び跳ねた瞬間には、陽の光が、湖面の水を跳ね、透き通った魚を、きらきらとした光を、更に輝かせ、まるでちりばめられたダイヤモンド粉のようにきらめかせました。
年老いた仙人は、優しくその魚一匹ずつに、微笑んで、挨拶を返しました。
「おはよう」には「おはよう」と「こんにちは」には「こんにちは」
そして「ここにいるよ」には「わしもここにいるよ」というぐあいでした。
そして夜になると、年老いた仙人は、大きな木の祠に帰るのですが、そこには、熊や鹿、狐に狸、にリスに兎が、集まり、皆、なんの警戒も無く、年老いた仙人の寝息とともに、一緒になって眠るのでした。
そこにいる動物達は、皆仲良く、肉食動物が草食動物を襲い、又、草食動物が草木を食べるということはありませんでした。
どの動物や植物も、湖の水を飲むだけで、必要以上に食事をする必要がありませんでした。
年老いた仙人の元では時間はゆっくりと流れ、どの動物や植物も、時や季節を忘れてしまうようでした。
冬になっても、この湖の周辺だけは、雪が積もらず、暖かいままでした。
本当の静かで平和がその湖にはありました。
ある日の、日差しも高くなったころに、その湖の平和と静けさが、無造作に植物を切り裂く音によって、乱されました。
伐られた植物は大きな悲鳴を上げて、年老いた仙人に助けを求めました。
生い茂った植物の間から、人間が一人、湖のほとりに顔をだしました。
植物の悲鳴は、どうやらその人間には聞こえていないようでした。
湖にしーんと静まり返った緊張が走りました。
誰もが初めて見る人間に戸惑いながら、様子を伺いました。
人間は湖のほとりで目をつむって大きく伸びをし、降り注ぐ日差しを体一杯に気持ちよさそうに受けました。
人間の年齢はそう40歳前後、小太りで、黒ぶちの眼鏡をかけ、Yシャツにネクタイ、そして灰色の作業着とひざまである長靴をはいていて、肩から、地図とか三脚とかを一杯にかかえていました。何より、その場を緊張させたのは、人間の右手に持っている大きなナイフでした。
相当、歩いてきたらしく、かなり疲れているように見受けられた。
男は暫く、草むらに横になり、空を見上げました。
肩で息をしていた男は、大きな深呼吸を繰り返すうちに、次第に呼吸が落ち着いてきたようであった。
日差しは柔らかく、その男に降り注ぎ、次第に、眠気に教われたらしく、頻りと目を擦り始め、そして深い眠りに落ちていった。
一体どのくらい眠ったか分からないくらに、その男は、仄かな暖かさで目が覚めた。
本当に年老いた老人が部屋の中に置かれた岩の上で、本を読んでいた。
それはよく書店で見かける文庫であった。
辺りを見渡すと、部屋の真ん中に、赤く揺らめく炎があった。
明かりは、どうみても火には見えなかったが、確かに辺りを明るくし、熱も発していた。
床は、部屋全体をそうとう古めかしい絨毯で覆われていた。
一見、洞窟のように思われた、その部屋も、よく見ると、どうやら木の祠であるらしいことが分かった。ごつごつとした木の節が壁からむき出しになっていて、天井はあまりの高さに暗く光が吸い込まれていくようであった。
それにしてもとてつもなく大きな祠だった。
「おや、目がさめたのかい。それにしてもよく眠ったものだ。」
老人は言葉を思い出すような口調で、かすかに聞こえるかどうかというほど小さな声で言った。
「ここはどこですか。」
男は驚いて、体を起こし老人に言った。
「ここは、わしの家でもあるし、ほらそこらにいる動物たちの家でもある。何と言っても、この木はわしが若いときからあってのう、わしらにとっては兄弟か親みたいなものでのう。」
そう言って、老人は真っ暗な部屋の奥を、指差した。
男はじっと部屋の奥の暗がりを、じっと見つめた。
一見、暗くて何も見えなかったが、その暗さに目が慣れるに従い、ぼんやりとその輪郭を見ることが、出来るようになってきた。
そうすると、そこに熊や狐や猪や鹿やウサギやリスが、一緒に固まって、こちらを不安そうに見つめていた。
男は慌てて、近くにあったリュックサックの横に置かれた大きなナイフを手に取った。
ナイフが明かりに照らされて、ぎらりと光った瞬間に、辺りを言いようの無い緊張が走った。
「なになに、心配することは無いさ、彼らは、私の友達で、ここで一緒に暮らしているのさ。顔つきは皆、獰猛でも、そこらの人間よりずっと理性的でのう。人や動物を襲ったりは皆したことはないのじゃよ。」
それでも、男は腰を上げ、ナイフを胸のところで構えると、いつ襲われても抵抗できる姿勢を崩さなかった。
「まあまあ、その物騒なものしまいなさい。皆、恐れているからのう。それよりそこにある水でも飲んで、落ち着いたらいい。少しは腹のたしになるでのう。」
いつの間にか、目の前に置かれた木のコップに注がれた水を見ると、男は、急にお腹が減っていることに気づいた。
ナイフを左手に持ち替え、恐る恐る、コップを持つと、その匂いをかいだ。
何の匂いもせず、本当の水であった。
「何も入ってないでのう、もし、あなたに何かしようと思ったら、寝ている間に、どうにかしていたよ。安心して飲むがいいでのう。」
確かに老人の言うとおりである。
男は、意を決したように一呼吸置くと、コップの中の水を一気に飲み干した。
おいしい水であった。
生まれて初めて飲む、おいしい水であった。
不思議なことに、それまでの空腹が嘘のように、満腹になった。
飲み干してからになったコップの底をを不思議そうに覗き込んだ。
「どうです。おいしい水でしょう。この湖の水でのう。皆、この水を飲むと他の食べ物はいらないでのう。もう一杯のむかのう。」
男は、コップを傍らに置くと、最近出てきた大きなお腹をさすった。
確かに、食事をしたての満腹感があった。
あまりにも非現実的な光景が目の前にあり、受け入れることが難しかった。
「これは夢の中だろうか。」
薄暗い非現実的な明かりの中で男は不思議そうに老人に聞いた。
「いやいや、何の仙術もかけてないのう。純粋に湖の水でのう。どうして飲むだけで、他の食事は要らなくなるのか、調べたことがないがのう。それより名前を聞いてないがのう。」
「私は越智といいます。環境調査会社につとめています。」
越智は名前を名乗ると、老人の顔を窺った。
「わしかね。わしの名前はなんだったのかな。だいぶ前に呼ばれたっきり、ここに住んでいるのでのう。まあ、爺さんとでも呼んでくれ。」
越智は、話していると少しずつ、気持ちが落ち着いてくるのを感じていた。
「そうそう、もう落ち着いたころだろうから、仲間を紹介しよう。」
年老いた仙人は、暗がりで怯えていた動物たちに声をかけた。
おそるおそる暗がりから、動物たちが顔を出したが、その顔は、この侵入者を警戒し、リスは兎を兎は狐を狐は狸を、狸は鹿を鹿は熊の背を押し出しながら、じわりじわりと近寄っていった。
越智も、先頭の熊の三メートルはあるかと思われる熊の大きさに圧倒されて、じわりじわりと熊の姿が近づくと、じわりと越智もさがっていった。
「いつまでそうしてるんだね。それじゃいつまでたったって、紹介など出来やしない。さあ、越智さんもみんなも、灯りの周りにお座りな。」
じれったそうに年老いた仙人が言った。
熊がようやく、祠の中心にある明かりは端にすわると、皆、意を決したのか、明かりの周りに座り始めた。
越智は、明かりに浮かび上がる動物たちの姿に、ほっとしたのか、恐る恐る熊の隣に腰をかけた。
動物たちが腰をかけ終えると、越智は明かりに浮かび上がっている、動物たちの姿を、見渡した。
どの動物も、大きく感じられ、どの目にも、人間のような知性を感じることが出来た。
目をつむると、人間の中にいるようなきがして、今にも動物たちが話し出しそうなそんな気がした。
動物たちに気を取られていると、いつの間にか、あの老人が、隣に座っていた。
老人は、越智を顔一杯に、笑みを浮かべて見つめた。
「どうじゃのう、びっくりしただろう。ここでは、動物たちは争うことはしないのじゃよ。さあ皆越智さんにご挨拶をしようじゃないか。」
「はじめまして、こんばんは。」
と熊から始まり、兎まで、皆同じような照れるように挨拶をした。
越智は、動物が話すのを聞き、ひっくり返らんばかりに、驚いて老人を見つめた。
しかし、どの動物も名前は持っていなかった。
ただの熊、ただの鹿、ただの狐であった。
「名前はここには必要ないでのう。それよりも越智さん、こんなところにどうして足をふみいれてきたのかのう。人間がここまで来るのは、もう何百年も昔だのう。確か、明智とかゆう落ち武者が、来て以来だのう。わしのほうはしょっちゅう街中に行っているでのう。しかしながらのう、山との相性がよほどよくない限りここには来れないでのう」
落ち武者、明智と言ったら、
「落ち武者。明智。もしかして、明智光秀ですか。」
としか思いつかなかった。
越智は驚いて、老人を見つめた。
「そうそうそんな名前だったのう。」
老人は時間の流れに無頓着なように、言った。
「そんな、明智光秀は、500年以上も前に死んでいるのに。おじいさんは何歳なんですか。」
どうみても、越智にはそこにいる老人が、ただの、年老いた浮浪者にしか見えず、ただの気のおかしくなった老人にさえ思えた。
辺りの薄暗さも手伝って、どうやら全てが夢の中の出来事のように感じられた。
「もうそんなにたつかのう。つい最近のことのように思っておったがのう。あのときの様子だと、人より50年は長生きしただろうに。どうも最近は時の流れるのが早くてのう。特にこの土地は、時間がとまったところがあるので、どうも時間にうとくなってのう。いっておくが、決してぼけたわけじゃないでのう。」
老人は越智の考えていることを見透かしたように、言ったので、越智はあわてて、両手を振りながら、否定した。
その様子を、見ていた動物達は、越智のそのしぐさに、大笑いしながら、真似をしてみた。
越智は動物が笑うの初めて見た。
そのおかげで、その祠の雰囲気は、一遍に、緊張から、陽気なものへと変わった。
「動物って笑うんですね、初めて見ました。」
越智は老人に言った。
「動物は、笑わないものでのう、普通の動物は、自然の厳しさの中におかれていて、いつも生命の危機にさらされているからのう。いつの間にか笑わなくなってしまったのじゃ。まあここに住んでいる動物の中には決して笑わないのもいるがのう。ここにはいないが、すぐにでもあえるじゃろう。それにしてもよくここにたどり着いたものじゃ。いったいどうやって来たのかのう。」
老人は、微笑みの中に、見透かすような、深い目で、越智を見ながら言った。
越智は、自分がここに来た目的を、言うべきか、一瞬とまどったが、動物達の食い入るように、越智を見つめる、その目に、嘘が言えなくなり、重い口を割った。
「私は、県の委託を受けた地質調査会社のものですが、昨年の県議会の中で、電力不足を解消しようという案が提議されました。実際は、このところ県下は不況で、大規模な公共事業を行わないと、失業者があふれてしまうとの予測から、ダムを作ろうということになりました。それに、国から7割の補助が出るということもあり、そこで、請け負った建設業者から私のj会社に、地質調査と環境調査の依頼があったのです。」
シーンと静まり返った、祠の中は、時折、動物達の盃に注がれた水を、飲む音が響いた。
越智は、このまま話を続けていいのだろうかと、彼を見ている動物と、老人に伺うような目で見た。
老人は、静かにうなずくと、先を続けるように促した。
「当初は幾つか候補が挙がったのですが、ちょうど、地図の上で、本当に目のつかない、絶好の場所があったのです。不思議なことに、この場所には、今まで誰も気がつかずにいたかのように、大きな原生林が広がっていました。
当初は自然保護団体の反対があったようですが、いつまにか議会と建設会社に押し切られてしまったようです。
建設は早くて来年にも着工する予定で、地質調査にはいりました。
どうも、途中で霧が深くなって、迷ってしまいましたが、こんなところに湖があるなんて、思ってもいませんでした。航空写真でも、こんなに大きな湖が写っていなかったものですから。」
越智の声が、静まり返った祠の中で、不思議なくらいにこだまする。
ふと、越智は、熊を見上げると、不安そうな目を老人に向けていたが、老人は深く考え込むように、目を瞑っていた。
越智は、話を続けたものか迷ったが、ふとのどが渇いていることに気づき、おわんに注がれた水を一気に飲み干した。
もう一日以上はおなかに食べ物を入れてなかったが、不思議と、おなかはすいていなかった。
「ここにいる動物はみなこの水を飲んでいるおかげで、食事にはこまらないでのう、飲むたびに寿命が延びていくのじゃよ。昔は、いたるところにこんな水があったのじゃけれど、人間がすみはじめて、汚れてくるとその効力がなくなるのじゃよ、よく寿命が延びる水が湧いているのがあるが、その殆どは、何の効力も失われた水になってしまっている。ここが最後の地かもしれないでのう。開発はどこまで進んでいるのかのう。」
老人は、淡々とした、抑揚のない静かな言葉で、越智に尋ねた。
「ええ、道路は着々と作られていますが、ここのもう20キロ近くまで、開発用の道が出来上がってます。その道が通ると、この辺りに人や、トラックが押し寄せてくるでしょう。」
皆、大きなため息をついた。
「ここは、太古から続く森でのう、本当に手付かずの、森でのう、そしてこの湖は生命の湖なんじゃ。ここに住む、動物や植物は、みな、どこにもいない既に絶滅した、貴重な種族なんじゃ。わしも、ずっと昔に、人間の住む地をはなれて、人間が森を焼き、自然を破壊する度に放浪し、やっと安住の地を見つけたのに、この動物達や、植物達をつれてどこに言ったらいいのかのう。」
老人は今にも眠ってしまいそうに、瞼を閉じそうに下を向いた。
その老人が哀れで、小さく見えました。
越智には自分に何が出来るかを考えましたが、結局なにもしてあげることの出来ないことに気づきました。
祠の中の明かりは、こころなしか消え入りそうに思われ、静けさは、更に深まり、動物達の息遣いすら、聞こえないほど静まり返りました。
「困ったことになったのう。まあ、まだ時間はあるでのう、ゆっくりとかんがえるでのう。
もう時間も遅いし、明日、考えるとしよう。越智さんも床につくといい。」
そう老人は言うと、祠の奥に、消えるように歩いていった。
動物達も、越智に、挨拶をて老人の後に付いて行った。
越智は、祠の真ん中に取り残された。
辺りを見渡しても、何も見えなかった。
おそるおそる祠の端を探して這うようにあるいた。
藁が敷き詰めてあり、越智はその藁の中にもぐりこむように、横になった。
藁はふかふかで、今までこんなに柔らかな寝床に寝たことが無かった。
横たわり祠の暗闇を見つめた。
果たして、現実であろうか、まるで夢を見ているような。気がしていた。
現実を確かめるように、越智は、傍らの藁をつかんだ。
藁の感触は本物であった。
口に含んでみると、青臭い藁の匂いと、ともに苦さが口中に広がった。
夢ではなく、現実であった。
祠の中心にあった光は次第に弱弱しくなり。
もうそこには老人も動物もいなかった。
光がすっかり消えたかわからないうちに、越智はその柔らかな藁の中で再び眠りについた。
朝になったと越智が感じたのは、祠の入り口から、日の光が差し込んできたことで、目が覚めた。
それは本当に大きな入り口であった。
静かに起き出すと、越智は、入り口の外に出た。
祠のあった木は、当初、枯れ木と思っていたが、幹一杯に、青々とした葉を繁らせていた。
幹は遥かに太く、その円周が100メートルもあるかのようであった。
どうしてこんなに立派な木が、今まで人目につくことが無かったのだろうか、と越智は木の先端を見上げながら思った。
その大きな木は、根元を横に、湖に突き刺すように、生えていた。
越智が、湖に目をやると、この湖さえ今まで見たことのない、と感じる湖であった。
湖は、朝日を浴びて、その光が、湖の底を照らし、辺りを、まるで、水の中にいるかのような、ゆらゆらとした光を、照らし出した。
その光にあわせるかのように、木々や草木が揺れ、幻想的な光景を映し出していた。
越智は、湖にそって、光の中を歩き出していた。
「おはよう、しんいりさん」
どこからか、小さな消え入るような声が聞こえた。
越智は辺りを見渡したが、そこには誰もいなかった。、
気のせいかと思い、再び歩き始めたが、次第にその声が何度も聞こえてきた。
「おはよう」とか「おはようしんいりさん」とかさらに、「おはようおちさん」
と名前まで知っている声まで聞こえてきた。
越智は、どうも下から聞こえてくると思い、地面に這いつくばって、その声のでどこを確認した。
越智が体を草地で横になると、それまで、にぎやかだった声が、突然止んだ。
もの音ひとつしない静けさがあたりを支配したが、越智が目を瞑り、じっとしていると、
再び、小さくかわいらしい、声が聞こえてきた。
ゆっくりと越智は目を開けると、どうやらその声の主は、きれいに咲いた小さな花から聞こえてくるようだった。
越智は、その声に聞き入った。
なんとも言えず心が落ち着いてくる、そんな声であった。
なんだろうこんなに癒されるなんて、生まれて初めてだと越智は思いました。
このままゆっくりとこのままでいたいと越智は横たわっていました。
花は相変わらず、越智へ呼びかけていました。
突然、草むらが、がさがさという音が聞こえ、花々の声がその音に、かき消されました。
その雑音に、越智は、音のした方に顔を上げました。
草むらから、越智の三倍はあるかのような恐ろしく大きな、獰猛な顔が、越智を見下ろしていました。
とっさに「狼だ」と越智は思いました。
この狼に比べれば、昨日の大きな熊が、レッサーパンダに見えるほどでした。
「ああっ、やられる。」と越智は、恐ろしく大きな狼の顔を見ながら、思いました。
狼は、その冷たい目で、越智を見下ろして、口を開きました。
「お前は何者だ。なぜここにいる。」
恐ろしいほど冷たい太い声でした。
越智はすくみあがりました。
距離にして、ほんの1メートルもありませんでした。
越智は答えなきゃと口を動かそうとするのですが、恐怖で、何もいえませんでした。
逃げ出すことすら出来ませんでした。
ただただ、地面に這いつくばって、狼を見上げるのが精一杯でした。
もう、花々の越智へ挨拶をする声も聞こえてきませんでした。
その時間は一瞬であったが、越智には永遠に続くほど、長い時間に思われました。
「おおかみさん、おなかま。」「しんいりさん」
花々が、狼にしきりに声をかけました。
その声は、身動きがとれない、パニックに陥っている、
越智にもはっきりと聞こえるほど大きな声となってきました。
狼を見つめる越智は、狼の目が突然、柔らかくなったように思われました。
そうして、狼は、草むらを、出て、越智の傍に座り込みました。
「しんいりかい。ということはここにいることを認められたわけだ。」
越智は、「助かった。」と思い、全身の筋肉がほぐれていくのがわかりました。
「どうやってここを見つけたのか、普通の人間には見つけられるはずはないのだが。仙人の一種か?」
相変わらず、狼は、今にも噛み付きそうな太い声で、うつぶせになっている越智を見下ろしながら言った。
「いいえ、私はただの環境調査会社の社員です。ここへは、迷い込んできてしまったのです。」
越智は、やっと首を振りながら、顔を上げることなく、地面に向かって話すように、言った。
「迷い込んでこれるところじゃないんだが。なにかしら、ここを見つける力をもっているんだろう。もうすでに、花の声を聞けるのは、力を持っている証拠だ。普通の人間は決して、花の声を聞けやしない。」
越智はそれを聞いて、花に助けられたと思った。
花々は、繰り返し、陽気な声で、狼と越智に呼びかけていた。
おそるおそる、越智は、顔を上げ、草むらの上に、胡坐をかいた。
やはり昨日の熊よりも、この狼が大きく思われた。
「初めて、狼を見た。皆、そんなに大きいのですか。」
狼の圧倒的な力強さに卑屈になりながら、越智がたずねた。まだアドレナリンは収まらず、声が上ずっていた。
「普通の狼は、私ほど、大きくはない。もう、仙人の老人と私は、老人がここに住み着いて以来だから、相当たっているから他の動物より、大きいんだ。もう、この世に、仲間の狼はいなくなってしまった。誰も、狼の大きさなんて証明できない。人間が私達を滅ぼしてしまった。最後の一匹になったって、もう決して、無害だってわかっているのに、滅ぼしてしまう。人間は絶対じゃないはずなのに、自分達の身勝手さで、動物や自然を我が物としている。自然の秩序は人間の秩序ではないはずなのに。そこを決して理解することのない、我々動物に、押し付けてくる。そしてその秩序を破ったからといって、平気で、猟銃を向けて殺害する。熊だって、いつまでも、仲間がいるとは限らない。毎年、何十頭という熊が、人間の猟銃の前に、死んでいっている。単に、人間の住む土地に現れ、人間に自分の縄張りだって、主張するだけでね。もう自然の中で、人間以外の所有権がないかのような扱いをうけてしまう。我々狼が、滅んでしまったことに、人間を恨んでもうらみきれないが、人間の中にだって、それをしっかりわかってくれることを、老人に教わったのさ。お前だって、花と話す言葉を理解するからには、多少なりとも、仙術を使えるはずだから、それくらいは、わかるはずだと思うのだが。」
確かに、狼の言い分は正しかった。
越智はひたすら、狼のいうことにうなずくだけだった。
確かにテレビとか見ていて、動物が町に現れると、決まって、猟銃を片手にその動物を追い掛け回し、最後に、仕留めた、動物を誇らしげに、皆で担ぎ上げて、その大きさを、カメラの前で誇示する光景をよく目にする。
生け捕りにして放してやればいいのにと何度となく、思ったものだった。
「狼さん、私が仙術を使えるって言ったけど、花の話を聞けることが、仙術をつかえるってことなのでしょうか。」
「仙術は普通の人には、決して使うことが出来ない。まして、老人のような、大仙人は世界には殆どいない。すこしでもそれを使えるってことは、老人の血筋か、過去に存在した、仙人の、血筋かだが、お前は、どうやら若いころの、老人の似ているところがある。もしかすると、老人の子孫のような気がするが・・・」
越智は、老人の子孫であるかもしれないって、聞いて、急に、老人への親近感が生じた。「まあ、ここにいれば、素質があれば自然に覚えていくさ。」
いつの間にか、狼との距離が縮まり、
決してこの狼が、自分を襲うことはないことを確信した。
狼と越智は、二人で並んで、朝日があがって、きらきらと輝く湖面を見ていた。
ちょうど、そのとき、湖畔の草むらを掻き分ける音とともに、老人が、姿を現した。
老人はまるで、草花を踏みつけないように、少しばかり浮かんでいるように見えた。
昨晩の祠の中で見た、老人の姿とは別人のように、陽気で、老人のやさしさが全体から、滲み出ていた。
老人は二人の並んで座っているのを見ると、更に、顔を崩して笑いかけた、「ほう、もう知り合ったのか、その様子だと、大分分かり合えたようだのう。越智さんや、これで祠の住人とは皆会ったことになるなあ。」
老人はそういうと、狼と越智の間に割り込むように座った。
座ったというより、わずかに宙に浮いていて、どうやら、草を押しつぶさないようにしているようにも思われた。
越智は、それをみると、お尻のあたりが、むずむずとしてきて、今にも、草の悲鳴が聞こえて気やしないかと思い、全ての体重をかけていた草を、いたわるように元に戻し、中腰になった。
「越智さん、あまり気にしないように。草は強いでのう、少々押しつぶされてもそう簡単に、悲鳴はあげはしないでのう。」
「それより、どうだね、越智さん、この素晴らしい光景を見て。そうそうお目にかかれない光景だのう。どうだね、泳いで見てはどうかのう。」
その言葉に、何か意味があるかのような響きを、越智は感じながら、「でも、まだ季節的に、湖の水は冷たいんじゃないですか。」と言った。
「この湖は、意思を持っていてのう、自分の気に入らない相手だと、いつもの冷たい水だが、気に入ると、本当に気持ちいいくらいだのう。」
「じゃ、試金石みたいなものですね。」
越智は、少しばかりいやな気分になりながら、老人をみると、相変わらずそこには、笑みをたたえて頷くだけだった。
狼を見ると、恐ろしい顔をして、まるで、怒っているかのような顔をして、越智を湖に入るように顔で促した。
まるで、ここに居るべきか居ないべきかを試そうとしているかのようであった。
辺りを沈黙が支配し、強い意志が、何が何でも、越智を湖へと、入らせようとする。
あまりの唐突さに、どうしていいのか判らずにいたが、老人は相変わらず笑みを顔中にたたえて、越智を見ているが、その目は、湖に入る事を強制しているようにも見えた。
越智は、観念してしぶしぶ立ち上がり、上着を脱ぐと、湖へと足を浸してみた。
足に、水の冷たい感覚が伝わってくる。
もしかして、入れないかもしれないと、越智は振り向いた。
狼と目が合ったが、ふとその獰猛な容姿とは別に、目の中に暖かく越智を見守るように見ていた。
越智はその時になってあきらめたように、湖と向き直ると、恐る恐る、足を進めた。
湖の水は本当に冷たく、実際体を浸すなんて出来そうもなかった。
湖の水を手ですくうと、体に、水を擦り付けると、すこしずつ水の中に体を沈めていった。
さすがに冷たく、今にも凍えてしまいそうであったが、越智は湖に体を任せるように横になった。
水は越智の体中にまとわりつくような感覚を覚えた。
その時になって、水は不思議と冷たくなかった。
それどころか、暖かくも感じられ、心の中の歳を経るごとに抱え込んだわだかまりが、解きほぐされ、そして経年劣化による幾つかの体の不調が、治っていくのがわかった。
それとともに大きな力がその水をとおして、押し寄せるように入り込んでくるのがわかった。
滝のような大きな音が聞こえ、次第に音が小さくなり、そして完全に音が止んだときに、最後の一滴が静まり返った場所にある盃に落ちるように、ぽつん、という音が体を貫いた。
その後は何の音もしなかった。
相変わらず、水は暖かく越智を包み込み、差し込む光と空の青いコントラストが目を瞑っている越智の脳裏に鮮明に焼きついた。
老人と狼のしたかったことがこのことだと始めて、理解した。
もうそれ以上の音は聞こえてこなかった。
越智は仰向けになった体をひっくり返し、もといたところへ泳ぎだした。
体は軽く力強く、そしてそれまで下腹についていたぶよぶよの脂肪さえすっきりと無くなったような気がしていた。
老人のいるところにたどり着くと、目がゆがんで見えた。
めがねのせいであった。
もうめがねが要らないほど視力は回復していた。
ビンの底のようなめがねをとると、今まで見たことが無いほど新鮮に、はっきりとした風景が飛び込んできた。
「どうやら儀式が終わったようじゃのう。湖はすっかり越智さんをうけいれたようじゃのう。」、
越智は、湖から這い上がると、まるで自分の体じゃないように、あちこち動かしてみた。
眼鏡をとると、小学生以来すっかり見えなくなっていた鮮やかな景色が広がり、ぷくっと出ていた下腹は、すっきりと脂肪が落ち、筋肉が盛り上がり、体のあちこちにあったしみや皺やほくろは、無くなっていた。
水にぬれると、ばたっと皮膚に張り付いていた、水滴は、玉のように体から滑り落ちた。
20歳は若返った感じであった。
「見違えたようだのう。」
老人は、最初からこうなることがわかっていたかのように、大して驚きもせず、淡々と越智の体の変化に感想を言った。
狼は、今にも噛み付こうとするかのような鋭い目で、見てはいるが、その目の奥底には、老人と同じ優しさがあるように思われた。
越智は、大きな力を授かったように、体中に力がみなぎってくるのを感じていた。
花や草や、木々までもが、にぎやかに、越智に話しかけてきた。
「新しい仙人の誕生だ。」木々がそよぎながらうれしそうに言った。
「越智さん、仙人」花々が花を一杯に広げて合唱するかのように言った。
「新しい仙人。」越智は何か、幼いころのあほな夢を見ているような気がしていた。
「ご老人、木々や花々が、新しい仙人と言っているように思えるのですが、これって私のことでしょうか。」
越智は何かトリックに引っかかっている道化のような気になりながら言った。
老人は、笑みを一杯に顔にたたえながら、大きくうなずくと、「まあ、仙人と言うより、仙人の見習いになったってところかのう。しかし、湖が、越智さんを祝福したところを見ると、相当な力をもった仙人になれそうだのう。しばらくは、ここにいて力をつけるがいいのう。」
「ご老人、申し訳ないのですが、今頃、私が帰らないので、きっと、捜索隊が出ていて大騒ぎになっていると思われるのですが、それに、このままここにいると困る人が沢山でてしまうのですが。」
越智は、よくテレビでやっている山で遭難した人を捜索する、人々やヘリコプターや、それを伝えるレポーターの姿を思い起こした。
それとともに、越智はふと、日本の社会から取り残された気がして、老人の期待にこたえられないことを伝えようとした。
「まあ、それは越智さんの意思として、暫くこの森にとどまってくれんかのう。森も湖も、木々や花々も越智さんが一緒にいてくれることを期待しているでのう。」
越智は狼を見ると、その恐ろしい顔が、大きくうなずくのを見た。
「私に何ができるのでしょうか。ただのサラリーマンですし、たいしたことは出来そうも無いのですが。」
「いやいや、既に、この湖の、力を十分に取り込んだ越智さんは、偉大な力を手にしたでのう。あとは、その力の使い方を学ぶだけだのう。いずれにせよ、一週間ばかり、ここにいて欲しいでのう。」
越智は一週間もここにいることで、捜索隊がどのように動くかを想像した。
最初の二三日はテレビの報道もあり、越智の足取りうをたどってくれるだろうが、報道が他の重大ニュースに覆いかぶさってくると、次第に誰も意識にもとめなくなるだろう。越智には、両親は既に亡くなっており、未婚の、中年男であった。その点で、気がかりは少なかった。
もしかして、この老人は、その点も知っているのではないだろうかと、越智は考えた。後は、仕事だけだった。会社の連中は、少しは心配してくれるかもしれない。いや、きっと会社中で、越智の遭難を会社をあげて心配しているかもしれない。
などと越智は思ったりもしたが、自分が今どこにいるかとか、どこで遭難したのか、全く想像が出来なかった。
どうやってここにたどり着いたのか、思い浮かべようとしても、どうも記憶に霧がかかってさだかではなかった。
ただひたすら、山を歩き回っていたという記憶しかなかった。
まあ一週間ならと、越智は思い、老人と狼に頷いた。
老人は何か考える様子ではあったが、越智の頷きに、満足したようであった。
「帰るときは、狼さんが送ってくれるでのう。」
その時から、越智は老人とともに、湖の水汲みや、花や木々へのその水をやるといった作業を手伝うようになった。狼や他の動物たちは、どこに行ったのか日中は顔を出すことが無く、夜になると、あの祠に戻ってくるということを繰り返しているようであった。
水をかけると花や木々は見違えるように元気になり、しぼみかけた、花や、枯れ落ちそうな葉が、再び色づいた。
この湖のほとりには、季節感は全く無かった。
いろんな季節の花々が、咲き乱れ、一瞬今の季節が、春なのか、夏なのか、秋なのかわからなかった。
湖のせいか、この辺りの気温は一定のようで、暑くも無く寒くも無かった。
越智は忙しく老人の手伝いをしていると、ふともう幾日も食事をしていないことに気がつき、越智の傍で、花に水をやっている老人へと聞いてみた。
「ここ何日も、食事をしていないのですが」
そういえば、老人もその他の動物達も、食事をとっている様子は無かった。
「腹が減っているのかね。」
越智は、別に腹が減っている気はしなかったが、習慣的に食事の時間になると、口に何かを入れたくなるのだが、湖の水を飲むと、不思議と、お腹が満たされるのだ。
「いいえ、そんなに食べたいという気ではないのですが、もう何日も食事をしていないなと思いまして。」
「それじゃ、いいじゃないかのう。湖の水は生きるに十分な栄養があるでのう。もしかしたらそれ以上のもがあるでのう。腹が減ったと感じたら、まず、湖の水を飲むでのう。」
老人はさも当たり前といった口調で言った。そして、柄杓を越智へと差し出した。
越智は、柄杓を受け取ると、そこに入っている水を飲み干した。
たちまち、お腹の中が、まるでステーキランチでも食べたかのように、満たされた。
「でも、水だけで、生きていけるなんて聞いたことが無いですが、皆、食事はどうしているのでしょう。」
越智は柄杓を老人に返しながら言った。
老人はその言葉に大げさに手を振って、否定した。
「いやいや、ここの動物はみなわしを含めて、この美しい湖の水しか飲んでないでのう。越智さんもここにきていて、水しか飲んでないが、何の問題もないじゃろう。」
越智は、老人のその顔中に笑みをたたえた、冗談ともとれる言い方に、何と言っていいかわからず、うつむいた。
老人は、枯れ木で作った、見事なバケツから水を花々に優しくまいていた。
越智は、休んでいた手を、再び動かし始めた。
「そうそう、わたしもここに暮らす動物達も、皆、この水しか、口にいれてないでのう。」
付け加えるように、老人が言った。
越智は、頷かざるえなかった。
老人の歩みは、確かに地に足を着いているように見えるのだが、足音が聞こえず、越智の足音だけが当たりに響いた。
不思議な老人だと、越智は思った。
ここにいる老人や動物たちが、生きているのか死んでいるのか、それすらも超越しているかに思えた。
陽は次第に高くなり、森からは、山鳩の鳴き声が響き、蝉がにぎやかに、騒いでいた。
突然、高く繁った草むらが掻き分けられ、山のような黒い狼が駆けて来た。
「森の西の端で、鹿が人間の罠にかかっているんだ。助けてくれ。」
狼は、越智を見ると、越智の頭の中に語りかけるように、言った。
越智は、どうして良いかわからずに、老人を見た。
「越智さん、森の動物が、あなたの助けを待っているでのう。狼と一緒に行ってやって欲しいでのう。」
越智は条件反射的に老人と狼へと頷き、狼の来た方向に歩き出した。
狼は、越智の前に体を出すと、いらいらするように「のれ」と殆ど命令調に越智へと言った。
越智は、その大きな体によじのぼり、しっかりと前足の付け根のふさふさとした毛をつかんだ。
「よし、それでいいい、落ちるなよ。」と狼が言うと、老人を振り返る間もなく、駆け出した。
草むらを疾走するや、顔や腕に草が叩きつけられるように、当たってくる。
森の中に入ると、今度は、枝葉が体の傍、ぎりぎりに通り過ぎ、時折、飛び出た枝葉に、こすれ、引っかき傷がいたるところに出来、血が出ていた。
狼は越智の状況にはお構いなしに、森を矢のように走り抜ける。
越智は、辺りを見渡すことも出来ずに、ひたすら狼の背中にしがみつき、枝があたらないように、狼のふさふさとした毛の中に顔をうずめた。
湖から大分走ったろうと思われるころ、ようやく、狼の走る速度が落ちた。
風を切る音が止んだ。
木々の間の光が射しこむ草むらから、鹿の弱々しい鳴き声が聞こえる。
今にも絶え入りそうなほど、細く、小さい鳴き声だ。
越智は、狼の背中からのそのそと降り、草むらを掻き分けた。
鹿は、越智を見るとびっくりしたように、目を見開き、必死に逃げようとするが、人間の仕掛けた罠は、ガラガラという音がするだけで、その金属の歯が、鹿の後ろ足に食い込んでいく。大分弱っているようで、その逃げ出そうとする、力もやっとやっとだった。
越智は、安心させるようにゆっくりと、近寄り、罠を見た。
罠は、真ん中から二つに折れて、ばねの勢いで、左右ののこぎり状の歯が食い込む種類であった。
鹿はゆっくりと落ち着き無く右に左に動いてはみるのだが、どうしようもなかった。
このままでは、いずれ、息絶え人間に殺されるか、動物の餌になってしまうことは、必至だった。
越智は、鹿を落ち着かせると、力いっぱい罠をはずそうとした。
バネの力は強力で、どうやら越智の力では、外せそうにはなかった。
越智は、困って、狼を振り返った。
狼は、鹿の傍によって、恐怖におびえる鹿を、なだめつつ、越智を見ていった。
鹿の目は、次第にあきらめの表情に変わり、ほんの少しの抵抗も見せなくなっていった。
「大いなる自然の大仙人の子よ。仙術を使え。」
狼は殆ど命令するように、越智に言った。
「仙術?どうやって、使い方なんか知らないし、呪文すら何もしらない。」
越智は訳のわからずに、狼に聞き返した。
映画でよくある仙人は、まるで忍者のように、呪文を言って仙術を使うが、それを間違えると、自分自身が蛙になりかねないという本当にしょうもない知識しかなかった。
「呪文なんぞいらん。力を望め、さすればおのずと判ってくるだろう。」
「力を望めって、どうすればいいんだ。」
越智は、罠と格闘しながら、頭の中で、開けと一生懸命念じた。
しかし、罠はいっこうに外れる気配は無かった。
越智は、すがるような目で、狼を見たが、狼は冷たい視線を投げかけるだけだった。
「望み方が足りないんだ、本気で思え。」
痺れをきらしたかのように、狼が怒鳴りながら言った。
親から怒られたようで、越智は、本気にならざる得なかった。
力を込めて、再度、罠の左右をつかむと、「開け」と強く念じると、頭の中で、火打石のような火花が飛び散ったかと思うと、力が、飛び出していくような解放感が体を支配した。
罠は、いとも簡単に左右に開き、がっちりともとの開いたままの状態に戻った。
鹿は、飛び出すように跳ね上がったが、すぐに動けなくなりうずくまり、越智を、恐れるように見ていた。
罠にかかってから大分たったのだろう、鹿の体力は限界であったようであった。
狼が鹿へと近づいて行くと、鹿は、もう抵抗せず、自分の運命を察知したのか、顔をうなだれて、死を覚悟したかのようであった。
狼は、さも今にも襲いかからんとするような怖い顔で、鹿の傷口に顔を持っていくと、その鹿を一飲みしそうな大きな口を広げて、舐め始めた。
越智は、その傍らで、成り行きを見守っていた。
傷は、狼が舐める度に、消えていった。
すっかり傷がふさがり、そこに傷があったことがわからなくなるほど、舐めると、狼は越智を振り返った。
狼の口から血がしたたり、その恐ろしい容貌をさらに恐ろしいものに見えた。
越智は思わず後ずさりすると、狼は吼えるように、越智に言った。
「何を恐れている、お前に恐れるものは、今や何もないはずだ。私にはこの鹿の傷を癒すのが精一杯だが、お前の役目は、この今にも絶えそうな生命に活力を与えるのだ。さあ早く、生命が無くなる前に、やらなければ意味が無い。」
狼は越智を、息も苦しく横たわっている鹿へと越智を促した。
越智は、鹿へと近寄るが、もう目を瞑り、小さな息をしているだけであった。
「さあ、手を鹿にかざせ。そして、先ほど罠をはずしたように。心の底から望め。」
狼は、強い命令口調で、越智に言った。
越智は、言われるまま、鹿の体の前に手をかざし、目を閉じて、心の中から、鹿が元気になることを望んだ。
鹿の絶え入りそうな精神が、越智の心の中に入り込んできた。
もうまもなく、その小さな光が消え、その周りに壁が出来ていた。
その壁さえ取り外せれば。
越智は、その壁を壊すことを念じると、罠をはずしたの同様に、大きな音が、頭の中に響き渡った。お寺の大きな鐘が、コーンという音に似ていた。
鹿の消え入りそうな、小さな光の精神が、大きく広がり、今にも閉じそうだった、その周りの壁が、取り壊されたのを感じた。闇の中で、小さな光がはじけ、まばゆいばかりに、越智の中に飛び込んできた。
越智は、鹿の鼓動が力強く、打ちはじめるのがわかった。
辺りが急に騒がしくなったのを感じて、目を開けると、鹿はすくっと立ち上がり、何事も無かったかのように、走り出した。森の中へ姿を消そうとする瞬間に狼と越智を振り向いた。その目には感謝の目で見ていたような気がした。
その後姿を見送ると、越智は途方も無い疲労感に襲われ、倒れこんだ。
それまでの痩せた姿ではなく、元のぶよぶよと肥った姿に戻っていることに気がついた。そして目もいつものビンの底のようなめがねが必要なほど、見えなくなっていた。
「まだまだ力の使い方が、わからないようだな。どうだ、立ち上がれるか。」
狼は、越智のズボンのベルトを咥えて、起こそうとしながら言った。
「いいや、駄目そうだ。どうしても体に力が入らないんだ。」
越智は、地べたに這いつくばって、今にも眠ってしまいそうになりながら言った。
狼はようやく越智を背中に乗せると、来たときとは違い、ゆっくりと、越智を振り落とさないように歩き出した。
越智は、ごわごわとした、狼の背中で、眠りに落ちるのを感じていた。
眠りから覚めたのは、その時間がわからなくなるほど眠り、強い空腹を感じた時であった。
目を開けると、そこは最初に来た時の祠の中であった。
熊とうさぎが心配そうに越智を覗き込んでいた。
めがねを探すと、横たわった藁の横にリュックサックと一緒においてあった。
めがねをかけると、ようやく辺りを見渡すことが出来た。
熊が、その大きな手に小さなお碗を越智に差し出した。
越智は、お碗を受け取ると、そこにはいっている水を飲み干した。
たちまち、空腹が収まり、少しばかり、楽になったような気がした。
その時になって、越智は、全てから開放されるような気持ちのいい湖に、はいりたくてたまらなった。
「大丈夫ですか。」
大きな熊は、越智に気を使いながら、越智からお碗を受け取ると、勺を上手に使いながらもう一杯注いだ。
越智の体は、以前のぶよぶよの脂肪の固まりの、厚いめがねをかけた、ただの中年男に戻っていた。
体の節々が痛く、心が、とてつもなく年老いたような気がしていた。
「だいぶつらそうですね。」
熊は、お碗を越智に再び、優しいおじいさんの声のように、差し出しながら言った。
「ええ。ただ手をかざして念じただけなのに、こんなに大変だなんて経験したことがない。」
丁度、そう言うと、祠の外から老人が入って来た。
「おおっ、大変だったなあ、わしらにとってはありがたいことだが、越智さんにとっては本当に危険なことじゃったのう。生命を取り戻すことが、どんなにか大変か、それにもまして一回でそれが出来るだなんて、よほど、力のある仙人になれそうだのう。」
「危険ってどのくらい危険なんですか。それと湖に入る前の体型に戻ってしまっているんですが。」
越智は、自分を哀れむように、お腹の横の肉を撫でながら言った。
「まあ、力の無いものが同じことをしようとすると、まず間違いなく、生命の交換が行われるでのう。力のあるものは、体を犠牲にすることで、その対価となるでのう。慣れてくれば、その対価は、ほんの少しで済むでのう。それより大分疲れておるようじゃのう。熊さんや、越智さんを、湖まで連れて行ってくれんかのう。」
越智は立ち上がると、歩こうとするが、足がもつれて今にも、倒れてしまいそうだった。
熊は、二足立ちになり、そのとてつもなく大きな手を、越智に優しく添え、静かに抱え上げると、ゆっくりと、湖へと連れて行った。
湖は越智を受け入れ、その疲れた体を、癒していった。
一週間はあっという間であった。
その間、越智は、仙術の使い方を老人に教わり、少しずつではあるが、疲れない方法をマスターしていった。
狼は、次から次へと、森の傷ついた、動物達を、見つけると越智を連れていった。
疲れると、湖に入り、その疲れを癒し、空腹時には、湖の水を飲んでは、満たすということが続いた。
越智は、不思議と今までに感じたことの無い幸せを感じていた。
ここにいる全ての動物や、老人にも、愛着を感じはじめていた。
動物達も完全に、越智へと心を許していた。
祠で眠るときは、越智の横には、熊やウサギが一緒になって、眠り、その近くで、狼が越智を守るように、うずくまって眠るのであった。
今までにない開放感と、安堵感が体中に満ちていた。
時折感じる死ぬことへの恐怖すら、遥か遠くに行ってしまったかのような落ち着きがあった。
陽が落ち、いつものように、不思議な明かりの中で、老人が越智に声をかけた。
「さて、越智さんがここに来て一週間が経とうとしているが、どうするかね。」
老人は相変わらず、顔中に笑顔をたたえて、越智に聞いた。
越智は、ここでの生活が楽しくてしかたがなかった。
「ご老人、私は、ここにいたいと今、本当に思っております。ただ、私が、ここにいることで、困る人が沢山いると思います。そこで、一度、家に帰って、ダム工事を出来るだけ、阻止できるようにしていきたいと思っているのですが。それが解決してから、ここに戻ってきたいのですが。」
「まあまあ、そう硬く考えることはないでのう。休みの日とか、長い休みには、ここにくるでのう。森の端で、心に念じて、狼さんを呼ぶと、行くでのう。湖も、喜ぶでのう。」
越智は、老人のその言葉を聞くと、ここの仲間といつでも会えることに、幾分、ほっとした。
「そうそう、その体じゃ、戻ったときに、誰かわからないでのう。せっかく力をえたのだから、力はそのままにして元の姿に戻しておこうかのう。」
老人は、そう言うと、越智に手をかざして、目を閉じた。
老人の頭の中で、はっきりとした、カチッと言う音が、越智にも伝わってきた。
越智は、体の変化を感じたが、重くなったことも、目が悪くなることもなかった。
「まあ、見た目だけだがのう。元に戻しておいたでのう。そうそう、めがねのレンズは、外しておいたほうがいいでのう。もうこれで目が悪くなることはないでのう。力は、使いたいときに使うがいいでのう。もうこの一週間で、大分、力の使い方はマスターしたでのう。明日には狼さんが、森の端まで、送るでのう。」
越智は、元に戻った自分の腹の脇についた脂肪をつまんでみた。
いつもの感触が、指先から伝わってくる。
しかし、以前に、力が抜けて元に戻ったときとは明らかに、違った軽さがあった。
その晩も、この一週間がそうであったように、熊と兎に挟まれ、そして、越智を守るように狼が頭のほうで、寝そべる中で、深い眠りについた。
翌日は、祠の動物が見守る中、狼の背に乗り、森の端まで送ってもらった。
越智は、狼と別れると、リュックを担ぎなおしたが、どこでなくしたのか、計測器と三脚は見失っていた。
陽は大分あがってきていて、久々に時計を見ると、9時を指していた。
もうすっと森にいたような気がしていたが、時計の日付は、丁度一週間が過ぎていることがわかった。
青々とした森を背に、小さな道を下ると、太陽に熱く照らされた、畑が現れた。
畑の遥か遠くに、農家が一軒だけ、見えた。
その家の付近を、何人かの人がうごめいていた。
越智は、その家を目指して歩き始めた。
もうまもなくその農家に着こうとするころ、その農家にいた人々が、越智を指差すのが見えると、何か互いに声をかけ、駆け寄ってきた。
「すいません、お名前をきかせてくれませんか。」
年老いた、半天を来た、いかにも地元の消防団と思われる人が、越智の手配書みたいな紙を片手に振り回しながら、尋ねてきた。
越智は、自分の写真の載った紙を、目で追いながら、名前を答えた。
年老いた消防団員とおぼしきひとは、喜びを体中に表し、後ろを振り返ると、そこにいた全員が湧きかえり、かわるがわる、越智の肩を叩いてきた。
「大丈夫かあ、この一週間どうすごしただ。わしら、もうあきらめようとしていただが。」
最初に声をかけてきた年老いた消防団員が、越智の体を叩いて確かめるように言った。
越智は、ぜんぜん平気だった、それどころか、以前より元気で、若々しい精気に満ち溢れていた。
「まってろや、今、救急車がくるだ。」
越智の、姿は、どう見ても、一週間も森をさまよっていたようには見えなかった。肌は今さっき風呂に入ったようだし、服にしても今おろしたてのように、ピカピカしていた。
救急車が来るまで、先ほど目にした、農家で、おにぎりやら、お茶が出されたが、越智はどうしても食べる気にはなれなかった。
捜索隊は続々と増えて、かわるがわる不思議そうに、越智を見ていった。
救急車に運ばれて、病院へ行き、医者にみてもらっても、医者も不思議そうに、診察していた。
翌日には、越智は久々に、事務所へと、顔を出した。
事務所では、所員全員が集まり、越智の無事を喜んだ。
事務所の所長は、
「大変だったねえ。仕事とはいえ、遭難するなんて、一人で行かせてすまなかったねえ。それにしてもぴんぴんじゃないか。こんなこともあるもんだねえ。」
と越智の肩を頻りと撫でながら言った。
いつもと変わらないありきたりのほのぼのとした光景の延長であった。
席に戻ると、同僚の女性が声をかけてきた。
越智が、好ましく思っている女性だ。
「越智さん、もう大丈夫ですの。事務所や本社では、大騒ぎだったんですよ。なにせこんなことは、会社始まっていらいですからね。それにしても、越智さん少し、痩せたんじゃないですか。それと、大分、若返って見えますわ。」
「ええ、三木さんには久々に会うような気がしますね。大分迷惑をおかけしましたね。遭難したおかげで少しは、人に見てもらえるような体型になったかもしれない。」
「遭難しているときって、どうやってすごしたんですか。」
越智は、あの湖であったことを、話してはいけないことはわかっていた。
話したって、今思うと、夢の中のような出来事を、決して信じる人はいないだろうなあと思っていた。
澤の水と、木の実で、飢えをしのいだ話をすると、もうそれ以上の話すことは無くなっていた。
40歳も間近の男が、この年齢まで一人身でいるのも、どの女性にもこれ以上の話に進展がないからでもあった。
結局、いつも話はそこで終わった。
三木が去った後は、越智が遭難する前に、広げていた地図がおかれていた。
越智はしげしげと、その地図を見たが、その地図のどこにも、湖は存在していなかった。夢だったんだろうかと、思ってみるのだが、もはやめがねは伊達めがねになり、顔にあった染みは消え、小さいころから体のあちこちにあったほくろは、既になくなっていた。
ただ、体型だけが、元のままではあるが、体は、十分それが幻であることを知っていた。
越智は再びダムの建設計画へと向き合うことになった。しかし、以前のようには、仕事へと向かうことが出来なかった。それどころか、どうにかダムの建設を阻止する方向へと考えたのだ。
ダムの建設計画は、日本最大のダムになる予定であるが、それに引き換えとして、あの森の全てが水没するほどの大きな計画であった。
建設計画は、県の議員と知事主体で進められており、あくまでも越智の会社は、環境調査の調査会社でしか過ぎなかった。
調べていくにつれ、越智はおかしなことに気づき始めていた。
どうも、大手建設会社が、地元の小さな建設会社から仕事を受注しているようであった。
越智の会社も、その地元の小さな会社から、仕事を受注しているようであった。
所長もどうやら、その建設会社に出入りしているようだった。
このダムの建設に関わる、勢力が幾つかあった。
ひとつは、元受となる小さな建設会社が中心となる地元建設会社のグループと、議員や知事が主体となるグループと、そして、その反対勢力となる、農民中心となる、自然保護団体のグループであった。
越智は、それぞれのグループを尋ねてみようと思った。
まずは、比較的参加しやすい農民中心とする自然保護グループへと行くことにした。
地元のダム反対運動は、森のすぐ傍にある、道路開通予定地の神社を中心として、集結していた。
当然、道路開通に際して、神社は取り壊される予定であった。
神社は、森へと続く小高い丘にあり、既に鳥居の傍まで工事は進んでいた。
越智が神社へと足を向けたときには、工事は一時中断していた。
神社の周りの木々は殆ど、伐採され、禿山にぽつんと、その神社が立っていた。
神社を避けて道を作ればいいのにと思うのであるが、どうもその小高い丘の両側を、川が流れているため、どうしても丘を抜けなければいけないらしい。
昔ながらの巨木の殆どは無残に、切り倒され、大きな切り株だけが、神社へと向かっていた。
あまりにもひどい工事の仕方だと、越智は思った。
神社までの長い階段の傍を、トラックが何台も通ったと思われる、泥だらけの道が出来ていた。木立に射しこむ日差しなど無く、直接、陽の光が暑く越智を照らし出す。
もはや、木々の息吹は感じることは出来なかった。
階段を登りきると、大きなお堂と、最後の一本となった巨木があり、その周りに、ダム建設断固反対、という幟が沢山はためき、そこにいる一見して農民とわかる人々が、鉢巻をして、お堂を守るように、囲んでいた。
越智が、お堂のある広場に顔を出すと、そこにいた、農民達が、殺気だって越智に詰め寄ってきた。
「何しにきたんだ。」
痩せた鷲のような顔をした、老人が越智に言った。
「ここは絶対に明け渡さないぞ。」
周りからその声にかぶせるように響いた。
「ままってください。決してあやしいものではありません。私は、環境調査会社のものです。ダムの建設による環境の変化を、調査しているものです。」
「なにっ、環境調査会社だと、どうせダムの建設に都合のいいことばかり報告するんだろう。ダムになっちまうと、環境もくそもない、あたり一面水の中に水没するのに、どんな環境調査が必要なんだ。」
農民は次第に越智を取り囲むが、誰もが、その手にスコップだの鍬だのを持ち、まるで戦争でもするかのような雰囲気であった。
「水没したら、わしらはどうやって生きていけばいいんじゃ。ここで自然のままに、農業をやっているのが、わしらにとって生きがいじゃ。街に行って、わしらの仕事なんかないんじゃ。ここは頑張って、追い出されるまで、頑張るつもりじゃ。」
一番先に声をかけてきた老人が言った。
老人は、ここのリーダー格であるようだ。
集まっている人数は20人ほどで、殆ど戦力外のようなひ弱さであった。
「最初は、道路が出来そうだと、わかったときには、わしらは、丘のふもとで、敵を撃退するつもりじゃった。しかし、今じゃ、周りを伐採され、次第にここに追い詰められてしまった。ここが最後のとりでじゃ。」
まるで、戦争気分だな、と越智は思った。
越智は、そうした声が、飛び交う中、社を見上げた。
いかにも年代が経ったようで、壁板は、大分朽ちていて、そこらに穴が開いていたが、建立当初は、それはもう素晴らしい社であったことは想像にかたくない。
社の傍にそびえる巨木も、あの湖の傍の祠の木をずっと小さくしたような、大きさであったが、それでも数百年は経ったであろう程の見事な木であった。その神社に残されている最後の木でもあった。
越智は、ふと、その巨木と会話したような気がした。
周りの木々が切り倒され、そして今、社とともに、切り倒されようとしている寂しさが、越智の心の中に入り込んできた。
越智はふと、この木を守ろうと思った。
突然、辺りが騒がしくなった。
越智は何事かと、社と巨木へとやっていた目を、農民の集団に移すと、老人達は、社の鳥居のほうに駆け出していた。
大きな騒音が辺りを支配した。
ブルトーザーやトラックやそれに乗ってきた柄の悪そうに見える、男達が鳥居の前に立ち、今にも鳥居を取り壊そうとし始めた。
老人達は、鳥居の前に壊されまいと立ちふさがった。
老人達は、平均年齢が、70歳近く、若々しく筋肉隆々の男達との力の差は、歴然であった。
男達は、鳥居にしがみつく、老人たちを、枯れ木でも扱うように軽々と脇によけると、ブルトーザーから伸びた鋼鉄のワイヤーを結び始めた。
男達は、鳥居を一気に、引き倒す手段に出ようとしていた。
それでも老人達は、作業員にしがみつき、その作業を少しでも妨害しようとしていたが、大柄の男達の前では、まるっきり意味が無かった。
ワイヤーが鳥居にしっかりと結ばれたときに、ブルトーザーが、大きな音を立てて、引き倒そうと後退し始めた。
大昔の巨木で造られた鳥居は、それでも踏ん張るように、みしみしとした音を立てて、踏ん張っていた。
老人達は、今にも悲鳴を上げるような目で、その倒れるのを、見守るしかなかった。
越智は、ワイヤーに意識を集中させ、心の中で、切れろと念じると、頭の中で、カチッと言う音を聞いた。
その音とともに、切れるはずの無い鋼鉄のワイヤーがぶっつという、鈍い音を放ち、空中に飛び上がった。
ブルトーザーは、その反動で、決して横倒しになるはずの無いのに、横倒しに倒れた。
運転していた男は、ひっくり返ったまま、呆然として運転席の中で、凍ったように固まっていた。
それを見た老人達は、スコップや鋤を頭上に掲げて、歓声を上げた。
作業員達は、切れたワイヤーとブルトーザーを交互に見ると、はっとしてブルトーザーの運転手の方に駆け寄った。
「天罰じゃ。天罰じゃ。」老人達は口々に、言いながら互いに肩を叩き合った。
越智は何もなかったかのようにそれを見物するかのように、境内の階段に座り込んだ。
それまで晴れていた天気が突然曇りだし、大粒の雨を降らし始めた。
あまりの激しい雨に、老人達は、社へと、作業員達は、呆然としているブルトーザーの運転手を引きずり出し、肩に担いで、今来た、トラックの中へと引き返していった。
ブルトーザーをひっくり返したせいか、越智の体はもとの体重に戻ったように重くなり、目はめがねが必要なほど見えなくなっていた。
越智は、喜びに沸き返る、老人達の間を、ふらふらとすり抜け、ようやく車へとたどり着くと、最後に狼と別れた場所に向かった。
車を降りると、倒れこむように、大の字に横たわると、小さな声で、うわ言のように、狼を呼んだ。
吐き気が次から次へとこみ上げ、その気持ち悪さは、風邪をひいてるときに頭を人に揺さぶられるような感じだった。
暫くして、越智は、顔をとてつもない大きな舌で顔を舐められていることに気がついた。
傍から見ると、巨大な狼が、人間を食べてるとしか見えなかったろう。
「大分、気をつかったようだな。それもいい気の使い方だ。」狼の言葉は、夢の中のように遠くから聞こえていた。、
再び、越智が気がついたのは、気持ちよく暖かい、湖の中だった。
水が体の周りを、まとわりつくように力が、体の中に注ぎこまれる。
時折、透明な魚の群れが、越智の体を、まるで餌でもつっつくように、つつきまわすが、変に優しさを感じる。
先ほどまでの疲労感がうそのように消えて、再び、力がみなぎってくる。
夕暮れの、光が水の中に差し込み、幻想的なまんだら模様を、描き出す。
すっかり、回復したと、越智は思うと、水の中で、くるりと回転し、平泳ぎで岸まで、泳ぎだした。
岸には、老人が、じっと越智を、見つめていた。
その時になって、あの小さく感じた老人が、まるで天井から見下ろすように
とてつもなく大きく、見えた。
相変わらず、老人は笑みを顔中に浮かべて、優しそうであったが。
動物達の世界一の大仙人という言葉を、初めて、理解したような気がした。
岸から上がろうとする、越智の手をとる老人の手は、力強く、外見からは想像のつかないほどの力を感じた。
「もう大丈夫かのう。」老人は、越智を湖から行き上げると、そばにあった、大きな岩に腰を下ろして言った。
「ええ、もう完全に大丈夫なようです。」
服から滴り落ちる水滴が、落ちるたびに、服が乾いていった。
もう越智は、そんなことすら不思議ともなんとも思わなく、当たり前のようになっていた。
「よく守ってくれたのう。」
老人は、全てを見透しているかのように、越智に礼を言った。
越智は老人の隣に腰を下ろした。
「あの社は、大昔、わしが住んでいた、ところの上に建っているでのう。飢饉や災害があったときには、いろいろと助けてあげたのう。いつの間にか、神に祭り上げられてのう、あのころは、わしも若くて、いろいろと無茶をしたものでのう。あるとき、全てがいやになって、ここに隠棲するようになってのう。」
「ここって、地図にのってないんですが、本当にあるんですか。」
「ああ、ここは本当にあるでのう。多少の仙術がかかって、見えにくくなっているでのう。今度、じっくりと地図を見てみるがいいでのう。今の越智さんなら必ず、見えるでのう。人間の欲望は際限がないで。まるで全てが自分のものだと言わんばかりじゃ。動物の物でも、いつの間にか、勝手に自分の物にしてるでのう。この湖だって世間に知られれば、その美しさに、人間が押し寄せ、その癒しを知れば、誰かがこの地を所有したがるでのう。自然が破壊されるのはあっというまじゃよ。そうでなくても、今じゃ、ダムの下に消えようとしているでのう。自然だけじゃない、動物だって、その生き死にを人間が左右するのもおかしな話でのう。狼さんだって、最後の狼でのう。まだまだ何千年も生き続けるだろうが、その間は、ずっと一匹じゃよ。狼さんが、この森の動物を必死になって助けるのも、自分と同じ境遇にしたくないからじゃよ。本当に優しい狼でのう。」
老人は、相変わらず、笑みを顔中にたたえながら、狼のことが、好きでたまらないというように言った。
「私は、この湖を守るために、何が出来るのでしょうか。」
越智は、自分の非力さを十分に知っていた。
「思ったとおりにするがいいがのう、あとは自然が導いてくれるでのう。そうそう、もう行った方がいいでのう。また、遭難したと思われてもしょうがないがのう。ほら、狼さんが送りの用意をしているでのう。」
ふと隣をみると、いつも間にか、狼が寝そべりながら、越智に鋭い目で、見ていた。
相変わらず、親しげの無く少しの笑いも見せず、時折、世界で一番孤独な動物に見えた。
日本人として、最後の一人になった時に、同じような顔をしているかもしれないと越智は思った。
狼は、その巨体を、ゆっくりと揺らしながら立ち上がると、体をまるで、水からあがったときのように、震わせた。
「さあ、行こうか。」狼は、越智を見下ろして言った。
全ては夢のようであった。越智は、老人を振り返ると、「これは現実ですか、それとも夢をみているのでしょうか。」というと、老人は、頷いて言った。
「現実じゃよ。今まで、越智さんが経験してきたこととは、大分かけ離れてはいるがのう、確実に現実じゃよ。それをうまく受け入れて、上手に力を使うことじゃ。決して力を悪いように使っちゃいけない。」
「悪いことってどこまでが、悪いことで、そうすると、なにか、罰でもあたるのでしょうか。」
「いいや、罰なぞ何もないし、湖だって、一旦受け入れた人間をずっとうけいれるだろう。しかし、わしらは別じゃよ、仲良くなど出来なくなったら、それまでじゃのう。罰といえばそんなことぐらいかのう。悪いこととは越智さんの良心で判断するがいいのう。」
越智は、狼の背中によじ登り、しっかりとしがみついた。
越智は、一瞬、老人を振り返り、頷くと同時に、狼は駆け出していた。
こころなしか、狼は、今までより、ゆっくりと駆けていた。
「狼さん、老人のいう力は、毎回、湖に来なきゃいけないのですか。」
「それは使い方しだいだ。生命を取り戻すには、死と対決するわけだから、
相当な力が必要になるし、越智さんが、ワイヤーを切り、ブルトーザーをひっくり返して、それに雨まで降らせれば、さすがに、生命を取り戻すほど力は使わないにしろ、それに近い力が必要となるさ。でも、森の端までこれたのは確実に力がついているということだ。次に同じことをしても、そんなに苦にならないさ。気をつけ無ければいけないのは、生命を取り戻すことだけだ、これだけは、どうにも力の消耗が激しいから、いつやっても立ち上がることすら出来ないさ。時には、自分の生命と引き換えにすることもある。まあ気をつけて使うことだ。鹿のときは、まだ死んではいなかったから比較的楽だっただろうなあ。まあ、そうゆうことだ。」
狼の背中は、毛はごわごわしてはいるが、暖かく、越智を包み込むようであった。
越智は、この仲間を本当に大事にしたいと思った。
それからの越智は普通どおりに、仕事をこなし、いつものように三木さんと何の発展性のない会話をし、何事も無く、日々は過ぎていった。
あれから、建設派と反対派の対立は聞かれなく、暫く放置されていた、ひっくり返ったブルトーザーも撤去されたようであった。
雨は降り続いていた。
まるで梅雨に戻ったかのように、毎日が雨であった。
テレビからは、この長雨と、異常気象を取り上げ、出来もしないこれからの対策を報道していた。
越智は、久々に、反対派が立てこもっている神社へと行って見ることにした。
神社に近づくにつれ、賑やかな歓声と、怒号が聞こえてきた。
殆どの木が切り倒され、禿山となった、社に向かう参道の側溝には雨で水があふれていた。
越智は、あふれている水を避け、長靴を泥だらけにしながら、丘の上の社を目指した。
丸裸になった丘の上には、沢山のトラックと、ダム推進派と反対派が押し合いへし合いをしているのが見えた。
心なしか、地面が揺れているような気がした。
ようやく、社の鳥居の近くまで来ると、既に鳥居は取り壊され、老人達がつまみだされようとしていた。
越智は、取り囲んでいる人々の、外側を回って、社に向かった。
どうも、様子を伺うには、今は、入り込めない様であった。
そうして、社の誰もいない階段に腰を下ろした。
あまりにも、老人達は、無力で、ダム推進派はあまりにも圧倒的であった。
雨は、更に強くなり、水がふもとまで流れる音が次第に強くなってきたようだ。
老人達が、社の広場から担ぎ出されようとしたその時に、ゴーっという音とともに、地鳴りがおき始めた。
誰もが、その動きを止め、辺りを見渡した。
一瞬、時間が止まったかのように、シーンとなった。
突然、地面から、水が噴出してきて、辺りを覆ったと思うや、すべるように、越智の目の前からダム推進派の人々や、担がれた老人や、ブルトーザー、トラックが、消えた。
土砂崩れだ。このところ降り続いた雨と、伐採によって、地盤が緩んでいたに違いなかった。
辺りを、悲鳴と地鳴りが渦をまいた。
越智は呆然と、見ているだけであった。
足元の階段の先から下の社の広場は、もう既に目の前には無かった。
ふとわれに返った越智は、立ち上がると、階段の下まで降りると、深くえぐられた地面のくずれた先に、人々が苦しそうに倒れていた。
越智は、それを見ると、力を念じた。
体中を青いオーラが包み込むのを感じた。
越智の体は、肥った今の体から、痩せていた頃の20歳の若々しい体へと、変わっていくのを感じていた。
意識が、遠く空中に舞い上がるように、広がっていくと、
岩が空中に舞い上がり、それとともに人々も宙に浮いた。
越智は、優しく、社の傍の巨木の隣の広場にそっと人々を下ろした。
体力はまだまだいけそうだった。
次に、越智は崩れた、埋もれた人を助けようと、土をどけ始めた。
大量の土が空中を舞い、まだ崩れていない丘の斜面に、降り注いだ、
トラックやブルトーザーとともに、土に埋まった人々が、顔を出した。
越智は力をあるだけ使い、社へと運んだ。
それを終えると、もう越智は力は残っていないことを感じていた。
まだまだ、埋もれている人がいることを感じていたが、もう越智には力を使う余力は残っていなかった。
越智は、社の階段の下で、大の字に横たわると、空中を見上げた。
雨は、間断なく、越智の顔へ振りそそいだ。
もう埋もれた、人々を助けることは出来ないのであろうかと、越智は、大粒の雨に打たれながら思った。
いつ、再び土砂崩れが起きてもおかしくはなかった。
そうなったときにはもう既に、土に埋もれた人々を助けることは出来ないだろう。
辺りから怪我をおった人々のうめきが聞こえてきた。
越智は、目を瞑り、動けないからだのまま、あきらめかけた。
人々の悲鳴が聞こえると、越智は、顔中が暖かい、ざらざらとした舌で、舐められるのに気がついた。
あの狼だ、と越智は思った。
越智は目を開けると、目の前の、狼の首に、手を回した。
狼は、首を起こすと、越智を立ち上がらせた。
すぐにでも、倒れてしまいそうなくらいにふらふらだった。
傍には、老人や熊や兎や狐や狸、そして、越智が助けた鹿が、そして狼までもが微笑みながらそこにいた。
狼の笑う顔は初めて見た。
老人は手にしていた、水のはいったバケツを越智に渡すと、飲むように促した。
越智は、バケツにしがみつくように、飲んだ。
体が回復していくのを感じた。湖の水だった。
老人は、天に向かって、手を広げると、強い力で念じると、大きく気を発した。
老人の体は強い黄金のオーラで包まれていた。
突然、雨雲に覆われた天が裂け、日が差し込んできた。
雨は、止んだ。
次に、老人は、崩れた、土砂に向き直ると、改めて、気を発すると、
全体の土が、宙に浮かび、老人の発する声とともに、消えた。
空には、救助のヘリコプターと、放送局の中継のヘリコプターが飛んでいた。
放送は、全国に流れているようであった。
「いま、白珠山の上空にいます。地滑りが起きた現場にいます。
救助隊が向かっておりますが、たどり着くまでには、相当時間がかかりそうですが、地上では、異様な光景が広がっております。
なんと若い青年と老人の二人と、熊や鹿や狐や狸が、生き埋めになった人々を救助しております。こんな光景を、今まで見たことがありません。あっ、たった今、土のなかから男性が熊によって救い出されました。あっ、あれは狼でしょうか、それにしてもなんと大きな狼でしょうか、熊よりも大きく見えます。青年と狼が一緒になって生き埋めになった老人を助けています。奇跡です。こんなことがあるのでしょうか、初めてみました。この中継を見ている、皆さんも、驚いていることでしょう。動物と不思議な人間が、一緒になって、次から次へと埋もれた人々を救出しております。広場では、一人の老人が、怪我をした人々の介抱をしています。手から青白い不思議な光を放っています。こちらの青年と、狼は、今度は、埋もれたトラックを動かそうとしています。青年の手からも、青い光が放たれました。トラックが空中に浮かび始めました。狼がその下から、ドラックの運転手でしょうか、黄色いヘルメットが見えます。助け出されました。こんなことがるのでしょうか?
どうやら、まだ生きているようです。それにしても老人と、青年は誰なんでしょう。
青年はまだ、20歳ほどにしか見えませんが、老人は70歳ぐらいでしょうか。
もう殆どの人々は助かった模様です。あっ、老人は熊に、青年が狼の背にのりました。どうやら森へと帰るようです。動物達が、狼と熊の後を追っています。」
上空では、越智と老人を追おうと、ヘリコプターの音が響き渡っていた。
越智は、疲れきっていた。頭が重く、体が言うことを拒絶するかのように、動かなかった。
やっとやっと、狼にしがみついていた。
狼は、越智を落とさぬように、ゆっくりと、歩いていた。
熊や、その他の動物も、越智をいたわるように、その周りを、狼の歩調に合わせていた。
湖に着くと、ゆっくりと熊が越智を狼の背中から下ろし、湖へと越智の体を浸すように押し出した。
湖はまるで、生きているかのように、越智を包み込んだ。
越智は、今にも失いそうな意識の中で、湖に祝福されるのを感じていた。
家に戻った記憶はないが、越智は家で目が覚めた。
いつもと変わらない、朝日が射しこむ朝であった。
目覚ましは鳴りはしなかったが、いつもの起床よりは一時間は早かった。
テレビをつけると、昨日の地すべりが報道されていた。
「昨日おこりました。白珠山の地すべりは、不思議な老人と、青年、そして動物達の活躍により、死者が出ず、軽症の怪我人が数名ですみました。現在、老人と青年の行方を、警察と自衛隊とで捜索していますが、今のところ有力な情報は得られていない模様です。」
テレビの画面には、昨日のヘリコプターからの映像が、流れていた。
映像を見る限り、その青年は、いつもの越智の姿からは想像がつかないくらいに若かった。
テレビからは、その不思議な光景を、さまざまなコメンテータが解説しようとしていたが、決して的を得た回答は無かった。
越智は、出社するために、スーツへと着替えを始めた。
テレビからの音声は、話題が切り替わり、県知事が、ダム建設の談合汚職の容疑で、事情聴取をうけたとの報道がされていた。
どうやら、地元の建設会社から、多額の現金を受け取っていたようであった。
いつものコメンテータが、ダム建設の中止になるだろうとコメントしていた。
越智は着替え終わると、時計を見た、いつもの出社時間だ。
テレビの電源を切り、扉に鍵をかけた。
会社は、相変わらず、何事も無い会社である。
机に座ると、三木さんが、寄ってきた。
相変わらず、細く、厚い眼鏡をかけてはいるが、ぴんと張った背は、とても美しく見えた。
「昨日の地すべり、本当にすごかったわね。テレビで見てたけど、あんなことがあるんだ。」
声のトーンは、はっきりとしていて、突き刺すように心の中に入り込む。
笑ってはいるが、何か含みのあるような笑顔だ。
越智は、伊達眼鏡を人差し指で、押しながら、顔を上げた。
三木の目は見透かすように、越智の顔を覗き込んでいた。
周りに聞こえないくらいに小さな声で、そっと越智にささやいた。
「テレビを見て気がついたんだけど、あれはあなたね。」
「えっ。」
越智は動揺して、三木から目を逸らした。
「あんな大きな地すべりがあって、あれだけ人がまきこまれて、誰も死者がいないなんてすごいことだわ。でもね、私にはわかったわ、その青年があなただってことが。でも誰にもいいやしないわ。」
三木はすべてわかってるのよと言いたげの笑みを浮かべて、越智に言った。
窓から日が差し込み、暑かった。越智は、額の汗を手のひらでぬぐうと、再び、三木を見た。優しい笑顔がそこにあった
おわり