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もう一人

鏡の前でユリアウスは金縛りにあったかの様に体が硬直していた、それに映りだされる幾多の見知らぬ顔に恐怖を感じた事も大きな理由ではあるが、それ以上に彼の周りの雰囲気が急激に変化したのである、目に見えた違いは何もない、だが何か違うのだ、今までいた空間とは全く異質の感覚である。ユリアウスは息を飲みながら似た様な話のキシャラテの話(※39)がふと頭に浮かんだ、その時に鏡の中の顔の一つが不気味な微笑みを浮かべた、それが何を意味していたかはユリアウスには理解出来なかったが何故か冷や汗が流れ出した。このまま鏡に取り込まれてしまう様な理不尽な想像が彼を襲い、何とか目を鏡から反らそうと試みた、しかし彼の顔が鏡に溶け込んでいるかの様に動かしてもまた引き寄せられてしまう。何か強い意志を持てば解放されるかも知れないと思い、ユリアウスは自らの記憶の棚を乱雑に開け始めた、色々な事が思い出されてくる、不思議とそれらの映像は瞬間的にも永続的にも思えた、一つまた一つと引き出される思いでと共に鏡の中の顔達の表情も変化していった、多数の不気味な顔達が大きな鏡の中で喜怒哀楽様々な感情を表している、ユリアウスは極度の嫌悪と言い知れぬ不安に襲われ叫び声を上げた。そしてその不快な感情と共に不義の標の一件が生々しく再演された、その瞬間彼は鏡から解放された。嗚咽を漏らしながらふらふらと立ち上がるとそこには死んだセフィトメアの者達が無表情のまま彼を囲むようにしながら見ていた。ユリアウスは恐怖に我を忘れ逃げ出す様に走り出したが、彼の体は予想以上に弱っていた様で足がついていかず、すぐに倒れてしまった。セフィトメアの亡霊達は何も言わず、表情も変えないままただじっと彼を見ているだけである、だがそれがユリアウスには苦痛であった、彼は生きているという事だけで彼等に責められている様な気がしてならなかった、彼の周りの空間がどんどん歪んでいく幻覚さえ見えた、もう二度とこの不気味な世界からは逃れられないとのだという絶望さえ感じていた。

 ユリアウスが歪む世界と亡霊達に怯え震えているのと同時刻に一人の男が崩壊したセフィトメアの門の前で茫然と佇んでいた、ハスタラフである。彼は昨日の昼頃にようやく酒が抜けて森の泉に水を汲みに行った時にユリアウスが救い出した老婆と少年に出会い、状況を老婆から聞いたのであった。乱心状態にあった老婆と泣きじゃくる子供をそのままにしてはおけず、二人を自らの家に避難させ、二人が落ち着くまで様子を見る事にした。少年が泣きつかれて眠りにつくと老婆も安堵した様であったのでその後すぐにメルギスへ向かった、しかし人の足では時間もかかり崩壊したメルギスへ到着したのは日が落ち始めている頃であった。勿論ハスタラフも老婆から聞いた事以外の事は分からず状況が全く理解出来ずにいた、実際に老婆の話は若干肥大化している物だと思いながら聞いていたので現実の悲惨さを目の当たりにした時は愕然とした。ユリアウスがセフィトメアに向かった事は老婆から聞いてはいたがハスタラフは人命の救助が最優先だと思い、荒れ果てた町の中、生存者を探しながら歩いた。あの時のユリアウスは焦燥の念に駆られており、捜索はかなり粗いものであった、現にハスタラフが大声を上げながら地道に練り歩いていると数名の生存者達を見つける事が出来た。いずれの者も傷は酷く早急な手当が必要であり、そこで一旦彼は救助した者達をかろうじて戦火を免れた市場の荷車に乗せ森の家まで彼らを運んだ。ありがたい事に先に避難していた老婆は手当や薬草に秀でており、怪我人は全て老婆に任せる事にし、再び救助の為にメルギスへ向かった。

 二度目の救助作業は闇夜の中行われた。ハスタラフは原素を効率良く運用し夜間の作業を円滑にする事が出来、そのかいあって二十人近い人々を救助する事に成功した。そしてその怪我人達を森へ運んでいる最中に月が赤い事に気が付いたのであった。怪我人を運びながらハスタラフは妙な胸騒ぎを覚えていた、森の老人の詩の事もあるが、それ以上に何か得体の知れない何かが追いかけてきている、そんな気分になったのであった。そして二度目の救助を完了すると、彼はセフィトメアに向かう決心をしたのであった。食料や水の他に念の為に怪我人の応急処置が出来る薬や道具を持って歩き出し、セフィトメアに到着したのは赤い月も落ち日の出前の朝焼け頃であった。

 セフィトメアが戦場になっているかも知れないという考えがハスタラフに無かった訳ではない、しかしすでに廃墟になっているとは思いもしなかった。襲撃を受けて間もないメルギスとは違い、陥落してからしばらく日数の経っている様子であったので生存者がいる可能性は低いと思いつつも彼は朽ち果てた城下町へ入っていた。虫の声も聞こえない暗く不気味な静寂の中を彼は考えながら歩いていた、考えと言ってもただこの状況について思案していただけではあるが、生き物の気配がないこの殺伐とした場所で恐怖を紛らわすのには何かを考えていないと落ち着かなかった。

 『一体ここで何があったんだろう、メルギスもそうだけど襲われた感じがある…それも圧倒的な戦力差のある相手に…そうじゃなければここまで悲惨な状況にはならないはずだ...そういえば、ネグメゼフという国は強い軍隊で有名だったけど、その国が攻めて来たんだろうか?ここは戦いから何日か経っているからあまり感じられないけれど、メルギスには不自然なくらい大量の原素が溜まってた…やっぱり父さんの言ってた様に人は原素を戦争の道具に使う様になってしまったんだろうか?原素は人の生活を良くする為に使われるべきなに…みんな神話から学ぼうとしない…神話はきっと昔あった出来事が元になって作られてるのに違いないのに、みんなただの作り話程度に聞いてる…もし本当に原素を使って戦争をしたのなら、それこそ神話の最期の日(※40)じゃないか…父さんはいつも人間は同じ事を繰り返すって言ってた…ずっとあれは僕を叱りつけてたのかと思っていたけれど…今はなんだか、父さんはこうなる事を知っていた様な気がする…僕たちは原素を操れるだけで満足していれば良かったんだ...動物には出来ない事じゃないか、それなのにそれに満足しないのは欲ばりなんだ...そして欲と技術が合わさって、こんな悲劇が生まれてしまった…ユリアウスさんは今頃ネグメゼフで戦っているのかな?でも...いくらユリアウスさんでも国を相手にするのは無理がある…捕えられた人を助けるだけにして欲しい、それならまだ可能性があると思う…優しい人達だから、ユリアウスさんとヒュリーラさんとまた食事を楽しみたいな…でもまずは復興が先かな…でも...もし本当にネグメゼフがやったのなら国の復興は無理かな…森の中でひっそりと生活するしかないかな?...でもきっとユリアウスさんなら助かった人達を上手にまとめられるはずだ…そうすれば森をちょっと開拓して、小さい村を作ればいいんだ、生まれてくるお子さんの為にもユリアウスさんはきっと頑張るんだろうな…そうだ、その為にも僕は出来るだけ多くの人を助けなくちゃ…』

 そんな考えをしながら歩いていると、ふと彼は何かの気配を感じた、暗い事を考えていた時ならばその気配に恐怖をしただろうが、彼の考えは前向きなものだったのでその気配が生存者のものであると思い曇りのない顔で気配の感じられた方角へ向かった。そしてハスタラフは地面にうずくまり震えているユリアウスと再会した、ハスタラフはユリアウスはここにいないのだと思い込んでいた為に驚きもしたが、彼に近寄り彼の顔を見て驚き以上に恐怖を覚えた。昨日一緒に飲んだ自信に満ち溢れ優しく力強い顔つきであったユリアウスとは同一人物とは思えないほどの変わり様で、彼の目には生気がなく、唇は渇ききっており、死人の様にやつれた青白い顔であった。そんな変わり果てたユリアウスを見た瞬間に先ほどまで抱いていた楽観的な想像が打ち砕かれた、ユリアウスの目を見た瞬間に彼が全てを失った事を理解し、ハスタラフは何と言葉をかけたらいいか分からずにただ茫然と地面に膝を付き、しばらくの間は彼の友人を見ている事しか出来なかった、しかしユリアウスをそのままにしておく事も出来ず、ハスタラフは力無く伏せっている友人の肩に手を添えた。

 ユリアウスは彼の名前を呼ぶ声は幻聴だと思っていた、そして彼の肩に手が添えられると、それは亡霊達がいよいよ彼を連れて行くのだと思い恐怖に怯えながら顔を上げた、ユリアウスは完全に混乱していた為そこにいるのがハスタラフだと理解するのに時間を要した、先ほどまでの恐怖体験、知識を無限に与えてくれた”本”という存在、それを手にするまでの奇妙な出来事、全てを失ったという現実、それらに加えて休息もとらず何も飲まず食わずであった事が彼の錯乱に拍車をかけていた。ハスタラフは茫然自失でただ目を開けているだけのユリアウスの肩を揺さぶりながら何度も叫んだ。

「ユリアウスさん!しっかりして下さい!僕です!ハスタラフです!」

何度も呼びかけるうちに先ほどまで合っていなかった目の焦点が合い、弱々しい呻き声にも似た声を上げながらユリアウスは言った。

「あぁ…ハス…ハスタラフか…」

その弱々しい声と恐怖に怯える顔を見たと同時に、ハスタラフの目に涙が浮かんできた、彼はユリアウスが想像を絶する体験をしてきた事へ同情すると同時に、変わり果ててしまった友を見て言葉に出来ない悲しみを覚えた。それでも何とか彼を元気づけようとハスタラフは持ってきていた食料と水をユリアウスに渡した、最初ユリアウスは拒絶していたがハスタラフが何度も頼み込むと、彼は水を二口程飲みパンを一口だけかじった。

 その後二人は何も言葉を交わさずにしばらくの間地面に座り込んでいた。ユリアウスは一度顔を上げ鏡の在った場所を見たが、今はそこには何も無かった、それについては何も考える事もせず彼は再び地面に目をやった。ハスタラフは何と言えばいいかも分からず、ただユリアウスが立ち直る事だけを信じながら待っていた、先ほどまで自分の考えていた事がいかに浅はかな思慮だったかを悔やみながら。

 どれ位の時間そこに座っていたかは分からない、しかし言葉も無い重い雰囲気の中でハスタラフが再び人間の欲と業の深さについて思いを馳せている時である、ハスタラフは何かが彼を見ている様な感覚を覚え、視線の感じる方角へ目をやった、少し距離は離れていたが荒廃の背景には浮いた何か蛇の様な形が見えた、ハスタラフがその形を目で捉えると同時にそれは消えた。彼は不思議に思い、それの正体を確かめたくなり腰を上げた、一度ユリアウスに目を向けたが彼は相変わらず地面に目を伏せたまま無気力な体を風に揺らしているだけであった。言葉をかけようかとも思ったが、喉元まで出かかったいた言葉を息と同時に飲み込んだ、やはり何と言っていいか分からなかったからだ。ハスタラフが先ほどの形の見えた場所まで歩いてみると、そこには色こそは違うが彼の家にある父の形見に似た四角い箱の様な物があった、彼はふと考えながらそれを見ていた。

『これは...父さんの残した箱に似てる…父さんはずっとあれを調べていたけど、一体何なんだろう?中にあるのは薄い皮みたいな物に虫が這った様な形があるだけだ...それをいつも父さんは大切そうにしまっていたけど...これも似た様な物なのかな?』

彼はそれを手に取ると軽く塵を払い、適当な場所に腰を下すとそれを膝に乗せおもむろに開いた。やはりそれは父の遺品と同じような作りの箱で、中には幾多の不可解な模様の薄皮があるだけであった。彼はそれを閉じるとため息をつきながらこう漏らした。

「ユリアウスさん...立ち直れるかな…あんな残虐な事に出くわして...」

ハスタラフは最初全く違和感が感じられなかった、当然の記憶を当然の様に思い出し自然と言葉として出て来たのである。それがおかしいと思ったのは、不義の標にくくられたユリアウスの妻の姿を鮮明に”思い出している”時である、思い出すも何もハスタラフは何も知らないはずであった、それがあたかも自らの目であの場にいたかの様に”思い出せた”、視覚情報だけではなく、その時に聞こえていた風の音も、早まる心臓の鼓動も、沸き上がる涙と悲しみの感覚も全て自らが経験したかの様に再演された。ハスタラフがこの奇妙な現象に気が付くと同時に、下を向いたまま伏せていたユリアウスが急に顔をあげ、ハスタラフの方を向いた。ユリアウスは先ほどとは別人の様にしっかりと立ち上がるとハスタラフに近づいて来た、そしてハスタラフも何ら迷う事もせずに水と食料を取り出すとユリアウスが何かを言う前にそれらを手渡した。ユリアウスも何も言わずにそれらを自然に受け取ると先程の様な弱々しさは全く表す事もせず、ガツガツと勢いよく飲み食いし始めた。そして食料を咀嚼しながら彼はハスタラフにこう言った。

「面白い”本”だぞ、もっと読んでみろ。」

”本”という単語を知らないはずのハスタラフだが、”本”とは何かが分かっているかの様に何も聞く事をせずに”本”を読みはじめた。ユリアウスと同様にハスタラフも”本”に書いてある内容が理解出来る様になっていた、その事を不思議に思う事もせず彼は先のユリアウスの様に”本”から得られる知識を貪欲に求めた。そして、しばらくすると彼も何か彼を呼ぶ様な声を聴いた、しかしハスタラフが顔を上げると同時にユリアウスが彼の顔をみたまま無表情で顔を振った。そしてユリアウスの『対した事じゃない、気にするな』と言わんばかりの顔を見たハスタラフはそのまま目線を”本”に戻すと再び黙々と詠みはじめた。

 二人の男は何も言葉を交わす事もなく順番を交代しながら”本”を読んでいた。一人が読んでいる間にもう一人は荒廃を歩きながら使えそうな石や木材を集めていた。何をしているのか、何が目的なのか、そんな事を全く口に出さないまま二人は各々の作業を進めた、それは他人から見たら不可解な光景であった、何をしているかが不可解なのではなく、二人の間に言葉がないのもそうだが、それと同時に無駄な動作が全く存在していなからだ。言葉を要しない意志疎通の方法などは色々ある、しかしそれでも意志疎通を行う事は必要だ、それが表情であったり、腕を振ったり、手を叩いたり、何かしらの情報伝達が必要なはずなのだが、二人の間にその様な動きは全くなかった。”本”を読んでいる者はそれこそ交代の時間きっちりまで”本”を読んでいて、その時が来ると同時に立ち上がり、もう一人が一瞬も待つ事無く”本”を受け取ると腰を下し読みはじめた。しかもその交代の時を知らせるもの等何もないのだが、その時は二人とも理解していた様だ。全く無駄のない一連の流れる様な動作であったがため、二人が”本”を読み終えると同時に作っていた何かも完成した、それは丸い石幾つかの石の上に木の箱が乗っておりその箱の中にもいくつかの石が置いてあるだけであった。見た目は簡単な造りであったが、これを作る為に使用した原素技術は今までには考えもされなかった完全に異質の技術が用いられていた。

 二人はそのまま木の箱の中に入った、二人の乗った箱は原素車を連想させる形ではあったが通常の物とは大きく異なっていた。ネグメゼフの最も優れた物でも原素車の原理は大体同じである、原素の力を利用して軸を動かし車輪を回すのが基本であった、しかしこの二人の作り上げた箱には車輪が無く、それが動いても跡が残らなかった。原素という科学の最も基礎の考えを二人は根底から無視していた、彼等の原素車の動力は磁力と磁場だったのである、アカデミアで少し習う程度の自然現象を彼等は完全に操っていたのだ。二人は読み終えた”本”を閉じると、、二人同時にこう言った。

「さぁ、時が来た。」

 そしてそれに乗る二人は実に穏やかに、言葉を交わす事なくネグメゼフへと向かって行った。



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※39:キシャラテの話・・・キシャラテが子供達が消えてしまう事件を解決しに洞窟に入っていく話。その洞窟には大人には見えない道があり、キシャラテは童心に帰る為に三日間子供達と行動を共にした。そして純粋な心で道を見つけ、地下に進んでいくと煌びやかな宝石で埋め尽くされた場所であった。しかしそれらには子供達が閉じ込められており、更に子供の心を持った彼は宝石の中に映る自らの犯した罪に罪悪感を苛まれ身動きが出来なくなってしまい、自らも宝石に閉じ込められそうになってしまう。だがその時に自らの使命を思い出す事で大人の心に戻り罪悪感に打ち勝つ事で窮地を脱し、子供たちを無事に救い出したという逸話。

※40:神話の最期・・・アマノフスとサーラァグは増長する人間の高慢に我慢が出来なくなり、人間達を滅ぼそうと決心する。オルフトスとケイミェフは二人とは反対に人間を擁護していたが、人間達が自分達の月を作り、自らの月を美の女神にする為に月を落とそうと高台を建てると月を傷つけ、月が赤く染まった。その事にオルフトスは激怒し、人間達の魂全てを奪い去ってしまった。魂の無くなった人間達は自らの築き上げて来た物を全て壊してしまい、オルフトスの怒りが収まった頃には人間達は言葉すら忘れてしまっていた。そして神々は同じ過ちを踏まない様に人間達とは距離を取って見守る事を決めた。


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