疑心暗鬼
セフィトメアは距離的にはメルギスからあまり離れていない、大人が荷物を持って歩いても三時間程でたどり着ける、それが二国間で友好関係が築けた大きな理由の一つである。ユリアウスは目の前で揺らめく淡い希望を信じてルシュテナを走らせた、しかし彼の心情は愛馬の足が大地に着く度に変化した、一歩進むとその瞬間まで信じていた事が違う考えに飲み込まれた、しかし次の一歩でその飲み込んだ考えが他の想像の渦の中に消えていった、まるで人生で味わう数十年分の喜怒哀楽をこの短時間に経験しているかの様であった、もちろん感情が不安定であるならば考え事も極めて不安定なものである。
『大丈夫だ、きっとヒュリーラもお腹の子も無事だ、最初は怖さで泣くかも知れない、でも夜には落ち着いて明日には笑顔が戻ってくるはずだ...しかし、一体何を根拠にそんな楽観が出来る?ヒュリーラは出産が近いんだぞ、それをこんな過酷な状況下で安堵など出来る訳がない...いや、町の人間は俺達夫婦を良くしてくれたじゃないか、きっと皆彼女を守ってやっているに違いない...もちろん町の人間だけだったらばそうかも知れないが、侵略者達がその様な事を許すとは限らない...奴隷として使うならば無理を強いて体を壊す様な事はさせないだろう...果たして妊婦に奴隷としての価値はあるのか、もしないとしたら...馬鹿な事を考えるな!役に立たないと思っていたのであればわざわざ捕える事はしないはずだ!...奴隷として捕えたのならばそうかも知れない、でも万が一違う事が目的ならば...違う事...アマノフスの怒りを静めたキュフラス人(※25)...キシャラテの奇行(※26)...アズィーヌイ(※27)への生贄...馬鹿な!そんな神話の出来事ばかり考えてどうする!科学もこんなに発展しているのだ、そんな非現実的な事を行う愚か者等どこにいる!...確かに神話は現実の話が元になっている場合が多い、しかしそれは科学が進んでいなかったから行われたんだ...科学は進歩しているが、セフィトメアは原素科学を否定しているじゃないか、知識が進んでもそれを信じないのでは無いのと同然なんじゃないか...科学は信じてないかも知れないが、ジャヴァスの神を信じている、そしてジャヴァス教は残酷な儀式等は全く行わないし、倫理もしっかりしている...ならなぜ連中は侵略して来たんだ、倫理があるならそんな事はしないはずだ、本当に残酷な儀式等ないのだろうか...万が一あったとしても儀式が始まる前に救出すればいいんだ...メルギスを簡単に攻め滅ぼした連中に一人で何が出来る?...真向から戦わなくいい、ヒュリーラさえ救い出せればいいんだ、そうさそれなら簡単なはずだ...そんなに簡単に事が進められるか?敵陣のど真ん中だぞ、どこに捕えられているかも分からなければ、監視が何人いるかも分からない、それで勝算はあるのか?...しかし、一人で乗り込むからこそ出来る作戦もあるはずだ、こんな大それた事をしたからにはセフィトメア内部もかなり困惑しているはず、そこを突けばきっと活路がある...そうだ、彼女のいない人生なんて無意味だ!死ぬ気で助けだそうとすれば何かしらの加護がもらえるはずだ!...救い出した後はどうしたらいい?...家も国も失ったのだ、どうやって生活をしろというんだ...いや、そんな事はどうにでもなる...ハスタラフだって一人で森の中に住んでいるじゃないか、俺たちにだって出来るはずだ...そうだヒュリーラが、彼女がそばにいてくれれば俺は何だって出来る...』
ユリアウスは永遠と思える程長い間自問自答を繰り返していた、その過程で得られたものは何か?目の前の希望の光が強く輝きだした事、ただそれだけだ、些細な事かもしれないがこれは大きな飛躍なのだ、真っ暗闇で前も後ろも分からない世界を照らしてくれるこの光こそ今の彼に最も必要なものなのだ、先ほどまでは彼は悪夢から逃げ回っているだけであった、暗闇から逃げたい一心で走っているのと進むべき道を見つめて走るのでは雲泥の差がある。彼が後ろを振り向かないのは恐れからではなく目の前に輝く希望に惹きつけられているからだ。どんな時代でもどこに住んでいても人間は希望を持って強くなる生き物だ、希望があればどんなに過酷で厳しい状況下でも前を向いて歩んでいける、希望があれば明日死ぬ運命でも力一杯に生きていける、希望があれば未来を信じる事が出来る、そう希望があれば...
体格が大きいからか普通の馬よりもルシュテナは格段に速かった、その事が紛れもなく移動時間を短縮させてはいたが、ユリアウスが希望の火種にまきをくべる事に集中していた事が彼に時間という概念を忘れさせ、時の流れを感じる暇もないままセフィトメアが見えて来た。初めこそは愛する者を救う目的に熱くなり、『どの様に侵入するべきか』『万が一、発見されたら場合、多数の敵をどう相手するか』『出来る限り多くの人を救い出すのに効率的な行動は何か』等と戦う事や戦略的な事しか念頭にはなかった、そして正に獅子奮迅の勢いで敵地であるセフィトメアへ向かって行った。しかしセフィトメアが近づくにつれてその熱気が凍りついた雨(※28)に変わり、それがユリアウスの心に灯っていた炎を脅かし始めた、心の灯が揺らぐ度にユリアウスの心臓は圧迫され、体からは溶けた氷の雨が流れ出してくるかの様に冷や汗が止まらなかった、目の前で辺りを照らしていた希望の光は再び弱々しい光に変わっていくのが感じ取れた。
そして一歩近づく毎に炎は勢いを無くし、光が弱まってくると先ほどまでは炎の明かりで見えていなかった悪夢が、彼の背後をずっと追いかけてきていた彼女が再びユリアウスの精神を蝕み始めた、あたかも彼女はずっとこの機会を待っていたかの様にユリアウスの目の届かない世界を一瞬で彼女の悪戯な考えで覆いつくした。
なぜ一瞬で闘志と熱意に燃えていた彼がそうも弱々しくなってしまったのか、それが恐怖である事は間違いない、しかし戦う事に怖じ気づいた訳でもなければ死を恐れた訳でもない、ユリアウスはそれ程弱い心の持ち主ではない。それでは何に恐怖をしたのか、それはユリアウスの眼に映っている現実にである。メルギスを強襲したセフィトメア、愛する人をさらっていったセフィトメア、敵と認知していたセフィトメア、その神聖セフィトメア王国は、すでに滅亡していた...
状況が全く飲み込めない状況でユリアウスは半ば茫然としたまま崩れ落ちた城壁を超え、焼野原となっていたセフィトメアの城下町を彷徨っていた、周りを見渡しても目に付く物は変わり果てた無残な過去の繁栄のみで、先程まで抱いていたセフィトメアへの深い憎悪と敵意は瞬時に消え去り同情と慈しみの念さえ感じられた。もちろんその感情は混乱している彼にとって思考を惑わす障害にしかならなかった、(敵と思っていた国が滅んでいた、喜ぶべきか、喜ばないべきか)敵では無かったのだから答えは簡単なはずだ、しかし彼は同情するのと同時に先程まで強い敵意を抱いていた者が滅びている事に対し歪んだ喜びの感情もあった、もちろん愛する人がここにはいないという哀しみも、そして周りで起こっている事態に対して未知なる恐怖も感じていた、その複雑な心理状況が彼の思考を著しく鈍らせた。
『一体何があったんだ?セフィトメアも滅ぼされていた?それでは一体...いや、あり得るのはネグメゼフだけだ...それでは、ジャヴァスの法衣を着ていた者達とは一体...この様子じゃセフィトメアが陥落してから時間が経っている...なぜセフィトメアが滅ぼされていた事に誰も気が付かなかったのだ...何故、一体何の目的で...』
どれだけ長考しても答えなど見つかるわけもなかったが、消去法とはいえ今向かうべき場所がはっきりと分かっていたのが救いであった。誰かに情報を聞こうとも崩壊から時間が経っているこの有様では人を見つける事などは無駄な努力に終わるだろう、そう考えたユリアウスは再びルシュテナに乗ると即座に西に位置するネグメゼフ王政国家へと向かった。
ネグメゼフは他の二つの国とは異なり距離が大分離れている、それだけではなく、ネグメゼフへ向かう道はカテテラという巨大な砂漠を抜けるか、少し南に迂回し海岸線を通っていかなくてはならない。少しばかり遠回りにはなるが時間的にも労力的にも効率が良かったため数は少なかったがネグメゼフへの往来は迂回路が好まれて使用されていた。何よりもカテテラ砂漠は神話の上でもジャヴァス教の聖典でも不吉な象徴(※29)として描かれていた為に忌み嫌れていた。
ネグメゼフ王政が他国との交流を持たないのは距離的な事が根本にはあったかも知れないが、それ以上に国家体勢である全体統一主義の思想にとって他国との交わりは害である事以外に他ならなかった。メルギス共和国はアカデミアの長老会と選挙で選ばれた市民が政治を担い、神聖セフィトメア王国は法王と国王を中心に教会と司法議会が国を纏めていた、ネグメゼフ王政国家はそれらとは完全に事なりネグメゼフ国王が全権を握る完全独裁国家であった。その事も政治的な進歩を遂げている他国と鎖国状態になっている大きな理由であった。歴史を見てみてもネグメゼフは極めて好戦的な国であった、古代のネグメゼフは周辺に存在した集落や町を一方的に侵略し短期間で大国になった、そしてそれから数百年の間ネグメゼフは他国との戦争を幾度となく繰り返してきた。メルギスが共和国家になりセフィトメアと不可侵条約が結ばれてからは静かではあったが、その秘密主義体制は一段と強固になりネグメゼフの国民がどの様な生活をしているかも噂程度でしか入っては来なかった。一般的にはネグメゼフ国民は王政に弾圧され、生活水準も半世紀あまり遅れおり、食べる物もろくにない貧困国家として考えられていた。
海岸線を走りながらユリアウスは再び悪夢に追われている嫌悪感を抱いていた、先程まで抱いていた希望は悪夢に完全に取り込まれて彼を嬉々として追い回す女神の道具に変わっていた。今彼はあり得るはずの無い事を考えている、それは『もしネグメゼフも滅ぼされていたら…』という理不尽な想像である、この島に存在するのは三国のみ、歴史や神話では他にも国が存在していたらしいが、それは人間が原素を操れる様になるより昔の太古の事だ、しかも発見された他の島々はどれも不毛の大地で生き物が住める状況ではない。ユリアウスは神話が好きである、しかしそれは娯楽としての楽しみであり、彼が信じている事は原素学や発掘調査など論理的な科学である。しかし、混乱した今の彼には神話の馬鹿らしい話さえも現実に起きうる様な気がする程に疑心暗鬼に陥っていた。
『何なんだ!昨日までは全てが平穏だったのに、昨日あの森へ入って、今朝あの森から出てきたら全てがおかしくなっていた!俺はミューデゥ(※30)の様にどこかに迷い込んだのか?それともミェフテスの悪戯なのか?全く分からない!何が一体どうなっているんだ!ここは本当に俺のいるべき世界なのか?』
有り得ない想像も今の彼は否定する事が出来なかった、神話の話を真実として受け入れていたわけではないが、それでも彼の『論理的な思考』は確実に瓦解し始めていた。
『もし...あり得ない事だが…もし…本当にネグメゼフも滅ぼされていたら…それは…それは一体何を意味するのだろうか…他にも文明が存在していた?…それが突如現れて国々を滅ぼした?…そんな馬鹿げた事があってたまるか…でも…もしそうだとしたら…さらわれた人達は一体どこに連れて行かれたのだ?…この島ではない所?…ヒュリーラも連れて行かれた?…だとしたら俺は一体どうしたらいいんだ…海を渡る?...一体どうやって?...船の作り方等知らない...どうすればヒュリーラに会える?…』
根拠もないただの空想にユリアウスは無意味な恐怖を感じていた、そして女神はその虚像に憂う彼を楽しげに眺めているのであろう。ユリアウスの目の前に浮かぶのは全て彼女の玩具ばかりである、こうなると希望を見つける事が難しい、目の前に広がる大半は虚像なのだ、しかも彼の心理状況では虚像を楽観的に見る事も出来ない、悪夢の中ではただの人形でさえも不気味な怪物になってしまう。ユリアウスが冷静さを欠き正常な思考が出来ない状況でも自我を保てていたのはやはり『愛する人を救い出す』その信念があったからであろう。どんなに馬鹿げた妄想の中でもいつもヒュリーラを助け出す事が最も重要であった、それだからこそ彼は悪夢の中でも前を向き続けられていた、かろうじて自らの存在理由を見いだせていた。
海岸線を走りながら気が付けば太陽はすでに彼の頭上の真上に位置する時間になっていた、しかしそんな事は今のユリアウスには全くどうでもいい事だ。杞憂に悩まされながらも前を見つめるユリアウス、ルシュテナもそんな主人の気持ちを汲み入って前だけを見据えて必死に走っていた、夢の女神だけがそんな必死な様子を喜びながら眺めているのであろう。
夢の女神には愛おしい事が二つあるという、一つは彼女の玩具が全て希望に変わり悪夢にうなされていた人間を救う事、もう一つは彼女の玩具が完全に人間を巣食う事。遠目ではあるが王都ネグメゼフが見えて来た、小さくではあるが王都にそびえる城が見えた、その瞬間ユリアウスの心には再び希望の光が宿った、未だに明確な事は少ないがとりあえず馬鹿らしい杞憂からは解放された。しかし今はそれだけで十分である、疑心暗鬼に陥り自らが馬鹿馬鹿しいと思う想像に悩まされる事からは解放されたのだ。そのまま距離を縮めていくとネグメゼフが他の国を襲ったという証拠が目に見えてきた、王都に繋がる道には何台もの鉄の檻を乗せた馬車や原素車(※31)等が連なっていた、奇妙な事に連中はわざわざ砂漠を抜けて来たらしい、そのおかげで海岸沿いのこの道で連中と出くわす事はなかった事は幸運だったかも知れない。
ユリアウスがこの国に来る事は始めての事である、国の重要な役職に付いている者、もしくは原素科学の権威でもない限りは門前払いを食らってしまう。彼はルシュテナを城壁から死角になる位置に繋ぐと侵入経路を探した、独裁軍事国家であるのだから警備も物々しいだろうと考えていたのだが、城壁内に侵入する事は意外にも簡単であった、見張りはいたが敵を見張るというよりは騒がしい民衆を警戒している様な、まるでお祭の警備をしているかの様な雰囲気であった。
ネグメゼフに侵入したユリアウスは門の近くで商売をしていた市場の一件から薄汚れた大きめの布を拝借するとそれで身を隠した、別段目立つ格好だったわけでもないが、念には念をいれた。市場を歩き回っている間に色々な言葉が彼の耳に入ってきた。
「いよいよ原素科学の最新技術がお披露目されるらしいぞ…」
「あの不吉な予言は未然に阻止されたらしい…」
「一週間近くかかった行軍だったが何かあったんだろうか?」
「聞いた話じゃ、他国で例の暴動があったらしいぞ、どうやら預言者様の言う事は本当の様だな」
「昨日の月を見たかい?ちょっと薄気味悪かったな」
「ケイミェフの悪口を言うと門前払いされるぞ(※32)」
国民達もどうやら何が起こっているかの詳細は知らない様だ、どれもこれも単なる噂話の域を超えるものは無かった。ユリアウスは焦燥感に煽られ、自然と足早になっていた、どこに行くべきかの検討もついてはいなかったがとりあえず王城の方角を目指していた。人質達が王城にいるとも限らないが市場で無為な情報を集めるよりは効率的な様な気がしたからだ。
町の中を歩きながらユリアウスは一般的に考えられていたネグメゼフが誤りである事をすぐに理解出来た、市場で売られている食物はどれも新鮮であり、動物に餌をやる余裕まである様で見かけた犬や猫はどれも肥えており躾もしっかりとしていた、そして何よりもユリアウスはその原素技術の発展に目を疑った。メルギスでも原素技術を利用した保冷箱と呼ばれる食べ物を低温で長期間維持出来る物が一般に普及していた、しかしネグメゼフの商人は何かしらサイフに似た小型の石を軽く二三度振ると目の前に置いてあった煮えたぎった熱湯が瞬時に冷水に変わった、その後もう一度同じ事を繰り返すと水は凍り付いた。この様な高度な技術はアカデミアでも習った事はない、しかも驚く事にこの石は一週間の食費よりも安く売られていた。驚きながら見ていたユリアウスに商人が気が付きニタニタとわざとらしい笑みを浮かべながら近づき言った。
「どうだいお兄さん!実に便利な道具フィリィーダ!(※33)今なら特別に安くしとくよ!」
気にはなったがそれどころではないので、ユリアウスは適当にあしらう為に嘘をついた。
「悪いけど原素は操れないから…」
「何言ってるのお兄さん!面白いねあんた!分かった、そんな面白い事言うお兄さんにだけ特別価格にしてあげる!」
商人はわざとらしく大げさな身振りをしながら四本立てていた指を二本にしながら笑っていた。その笑う男の言った意味が冗談なのか真剣なのかも分からず、ユリアウスは困惑しながら男に聞いた。
「どういう事だ?原素を操れないと使えないだろ?」
サイフにしろ保冷箱にしろ原素道具は全て原素を操って稼働させるのが常識である…少なくともメルギスとセフィトメアではそうである、しかし商人の返答に驚きを隠せなかった。
「お兄さん本当に面白いね!何年間も寝てたのかい?今どきの原素商品で自走収集がついてないのなんて欠陥品か売る気がないだけだよ!」
商人は笑顔を作るのが疲れてきたのか若干顔を引きつらせていた、しかしそれ以上に顔を引きつらせたのはユリアウスであった、ネグメゼフの技術は想像していた以上に遥かに進歩していた、それを理解した瞬間に全身が凍り付いた、何かは分からない、しかし得体の知れない恐怖が骨の髄まで染み渡る様に浸食してきた、何に恐れをなしたのか、彼自身理解していなかった、いや、ぼうっと浮かんできた考えを受け入れたくなかった、だから見て見ぬ振りをしたが悪夢の一番のお気に入りの玩具である『恐怖』は彼を見つけた。
居ても立っても居られなくなりユリアウスは全身を冷や汗で濡らしながら足早にその場から立ち去った。呼吸が乱れ、体から体温が奪われていく様な不気味な悪寒に苛まれながら彼は王城の広場の近くまで逃げて来た。頭の中で何かが叫んでる、それには耳を貸したくなかった、恐怖に怯える彼の目は虚ろになりその場にうずくまって耳を塞ぎたかった。受け入れたくない現実がそこにある、その現実が示す意味を彼自身気が付いていた、しかしそれを受け入れてしまうと何かが崩れ落ちてしまう、そんな言い知れぬ不安が彼を包んでいた。
気味の悪い醜悪な恐れを抱きながら立ちすくんでいるユリアウスの耳に高らかに響くラッパの音が届いた、すると周りの者達は各々が行っていた作業を一旦止めて広場に集まりだした。
「いよいよ国王様からの発表だ…」
「今回は何か進展があったんだろうか?」
「セロフネフィス様もいらっしゃるんだ、悪魔なんて敵じゃないさ!」
国民達の顔は不安と希望が入り混じった複雑な顔つきだ、ユリアウスは身体を震わせながら弱々しく広場に向かった。しばらくすると王城のバルコニーにネグメゼフ国王とみられる中年の男性が表れた、身長はユリアウス程かもしれないががっしりとした逞しい体つきであり巨大に見える、茶色の短く整った髪とは裏腹に髭は長く、勇ましい体つきと相まって獅子の様な男である。その男の後ろに小柄な人影が見えたがすぐに物陰に隠れてしまい見えなくなった。
ざわつく民衆を一度ゆっくりと見渡すと国王はゆっくりと口を開き、獅子の咆哮の様な大地を揺るがす声で彼の民に告げた。
「我が愛するネグメゼフの民よ!喜びたまえ!予言者の告げた滅びの危機は去った!」
その瞬間場は静寂に包まれたが、すぐに歓喜と国王を賞賛する声に場は完全に包まれた、その中でユリアウスは一人自らの中で肥大化していく得体の知れない恐怖に震えていた。
悪夢は手を伸ばせばユリアウスを包み込める程の距離にいた、ガタガタと震えている彼の背中に子猫の様にじゃれついている、悪夢が触れる度にユリアウスの受け入れたくない事実が明確になってくる、そしてその度に彼の息は詰まり、体の震えと吐き気が増していった、自らの心拍の高まりに恐れと焦燥を募らせて言った。
歓喜と歓声に沸く広場は、国王が大振りにゆっくりと右腕で一文字を描くと同時に静まり返った。そして民衆が彼の声に耳を傾ける準備が出来たのを見計らうと国王が深々と威厳のある声で言った。
「破滅を導く信仰をしていたジャヴァスの邪教者共は正義の前に敗れ去り、唯一神の怒りを鎮める為に呪われた地カテテラにて全て処断された!そして予言者は…」
悪夢は微笑みながらユリアウスの心臓を握りしめた、彼は壁に手をついて地面に崩れ落ちる事をかろうじて防いだが足はもう自由がきかない、恐怖が完全に浸透してしまっていた、目に涙が溢れてくる、それでもまだ彼の中では理解する事を否定している。
『急げば…急げばまだ助けられる!』 その一言だけが彼の希望だった。
その希望が灯った瞬間に悪夢は嬉しそうに彼の心臓から手を離した、そして再び彼の背中にじゃれつくかの様に撫でた、背中から伝わる悪寒が体全身に波を打つかの様に広がっていく。彼女にとって獲物が苦しもうが喜ぼうが関係ないのだ、彼女は玩具で遊んでいるだけなのだから。
ユリアウスが力無く外へ向かって二三歩歩きだした時にふと振り返り国王に目をやった、そこには先ほど物陰に隠れて見えなくなった小柄の男が立っていた、見覚えのあるその男はメルギスの大臣であった…
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※25:キュフラス人・・・神話では肉体はアマノフスが管理し、魂はオルフトスが管理するとされていた、その中でキュフラス人は土で作り上げた人形に魂を宿らせる事に成功し不老不死の体を得る、しかし魂の抜けた元の肉体はアマノフスの指示に従おうとしなかった。それに激怒したアマノフスは洪水を起こし土人形を一掃するとキュフラス人の身体を異形にする処罰を加えた。それに対してキュフラス人は処女や子供達の心臓を捧げてアマノフスの怒りを鎮めた。
※26:キシャラテの奇行・・・キシャラテが狂人と言われる所以の一つで、旅するキシャラテがいがみ合う二つの村を諌める事を目的に、傍観者であった他の村をけしかけ三つ巴の争いにさせた。結果は更に悪化する形になり、収拾がつかなくなるとキシャラテは各村の代表の家族を集め、お互いに腕を切らせあい、互いにその傷を治させあった。話によっては奇病にかかった村人達を救う為に腕を切り落としたと美化されている場合もある。
※27:アズィーヌイへの生贄・・・アズィーヌイは天候の神であり、日照りや不作はアズィーヌイの機嫌が悪いからとされ、作物の成長が悪いとその村で最も体温が高い者が生贄に捧げられたという。体温が高い者が生贄にされたというのは後から付け足された話の様であり、地域によって生贄の対象が変わっている、しかし大体は健康になんら異常がある者が選ばれている為、アズィーヌイは健康の神と勘違いされている場合も少なくない。
※28:凍り付いた雨・・・キシャラテが黒い霧に閉じ込められた村を救う為に月の女神から貰ったサーラァグの炎を村に届ける話の中で、ミェフテストルムが面白半分にキシャラテを邪魔する為に雨を降らせたがサーラァグの炎は消えなかった、そこで彼女は雨を凍らせて消そうとするがキシャラテは自分の鎧で炎を守った、がしかし代わりに彼の体が氷漬けになってしまい、ケイミェフに助けられるまで動けなくなってしまったという逸話から。
※29:不吉な象徴・・・神話では砂漠は元々は国であったが太陽神サーラァグの怒りを買ってしまった為に全てを焼き尽くされてしまった、そしてその過ちを忘れさせない様にサーラァグはアジィーヌイに頼み雨を降らせない様にしたという。ジャヴァス教では砂漠とは太古の昔にジャヴァス神がこの地に降り立った時にジャヴァス神を神とは認めない国があった場所であり、その後その国はジャヴァス神の恩恵を受ける事が出来なくなり不毛の地になってしまったという。
※30:ミューデゥ・・・神話の中で人間とも神とも妖精とも言われる少年。元々は人間らしいのだが病気の母の為に暗い森に流れる牛の乳を探しに行き、そこで彼は肉体を持ったままオルフトスの世界に迷い込んでしまう。オルフトスがミューデゥを見つけた時にはすでに彼の体は世界に同化してしまって助けられなかった。そんな彼に同情してオルフトスは彼の母の病気を治し、ミューデュに魂のまま世界を自由に行き来させてあげられる様にした。
※31:原素車・・・石や木で作った荷台車に原素動力を付け、原素により自動もしくは半自動で動かせる様にしている。十年ほど前にネグメゼフが開発した技術だが、他国の開発した原素車はあまり性能が良くなく、他国では未だに馬車の方が主流である。
※32:門前払い・・・普段は冷静沈着で公正に死者の魂を導くオルフトスだが、生前にケイミェフの悪口を言った者達はケイミェフに謝るまで魂を導いてもらえなかったという話から。
※33:フィリーダ・・・アズィーヌイの娘でケイミェフに次ぐ美しさであるとされる女神であり、冬の象徴にもなる。笑顔は一度も見せた事がないとも言われ、それと同時に孤独を好み、天候を自由に操れるが彼女は寒さしか呼び寄せないのは自分が一人になれる様に人々を家に篭らせるが為とさえとも言われている。