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青い月


 酔っ払いの二人がユリアウスの家に到着する頃には太陽もすでに半分以上が沈んでいた。ユリアウスは一度背を伸ばすと落ち着いて呼吸を整え家の扉に手をかけた、酔っぱらっているからと言って義父母に失礼な振る舞いをする訳にはいかない。ハスタラフにも緊張感が伝わった様で彼の顔も若干引き締まった。しかしユリアウスが扉を開けると意外にも彼の嫁のヒュリーラが一人で大きなお腹を愛おしそうに抱えながら椅子に座っているだけであった。ユリアウスは三十代前半だが周りからよく実年齢より大分若く見られる、しかしそんな彼よりずっと若く見られるのが嫁のヒュリーラである、実際にはユリアウスと四つしか違わないのだが、身重になる前には十代に見られた事すらあった程だ。そんな彼女が旦那の帰宅に気付くと笑顔で出迎え椅子から立ち上がろうとした、しかしユリアウスが急いで彼女に駆け寄り彼女の長く美しい黒髪を撫でながらそのまま座っている様に促した。

「義父さん達は?」

ユリアウスが膝をつき嬉しそうにお腹を撫でながら聞いた、彼は日課としてお腹の発育を見る事が楽しみであった、やはり長年待ちわびていただけあってその喜びもひとしおである。そしてユリアウスの嬉々とした顔を眺めるヒュリーラにとってもそれは至福の時であった、特にお腹の子が元気よく動いている時のユリアウスはまるで彼自身が子供の様に両手を挙げて喜ぶのがたまらなく愛おしかった。

「お母さんが腰を痛めちゃって今ベッドで横になってるの、お父さんは様子を見てる。」

もちろん嬉しいのは彼女とユリアウスだけではなく、彼女の両親も例外ではない、妊娠してから、特にここ数週間辺りはほぼ毎日の様に家に来ては嬉々としてお腹の赤ん坊と会話をしている、ヒュリーラは両親が年老いてからはあまり外に出なくなっていたので心配していたが、どうやらいらぬ心配だった様だ。

「お酒臭いわね、飲んできたの?」

彼女はくったくの無い笑みを浮かべながらお腹に耳を当てる旦那の頭を優しく撫でがら聞いた。ユリアウスは目を閉じ、まだ見ぬ我が子の動いている様子を体感しながら喜びに浸っていた、もうそろそろ九回目の慈愛の夜(※16)になるというのにこの喜びは色あせる事がない。お腹の子も父親の喜びを理解しているのか、彼が耳を当てる頃合いを見計らってお腹を蹴ったり、欠伸をしたりするのである、ユリアウスにとってはすでに子供と交流している様な感覚を抱く事が出来て飛び跳ねたくなる事すらある、それだけ嬉しいのでたまに周りの状況を忘れてしまう事がある、今がまさにその状況であった。

「ああ、少しだけね、面白い奴と出会ったからさ、ちょっと酒場に行ってきた...あ、そうそう!」

ユリアウスは突然立ち上がると、未だ外で待っているハスタラフの事を思い出し、彼に家に入ってくる様に伝えた。ユリアウスの友人や部下達ならば促される前に家に入っている所だ、しかしハスタラフは元々生真面目な性格の上に社会生活に慣れていなかったので、招かれてから入ったにも関わらず少し落ち着かない様子でオドオドしていた。ヒュリーラはそんなハスタラフの心境を理解した様で優しく微笑みかけてあげた、するとハスタラフは彼女の暖かい笑顔を見て安心したのか、若干吊り上がっていた肩の力も抜け、自然な姿勢をとる事が出来た。しかしハスタラフは同時に失礼のない様に行動しようという思いも強く、一つ一つの動きを必要以上に意識してしまっていた。ぎこちない自己紹介がそれを物語っていた。

「始めまして、ハスタラフです。」

彼は片膝と両手を地面につき頭を下げた、これは女性に敬意を表する挨拶であったがかなり古い形式ばった挨拶なのでユリアウスもヒュリーラも笑ってしまった、それも当然と言えば当然だ、儀式や祭典の時に見る様な敬礼である、勿論ヒュリーラがその様な挨拶をされた事などは一度してない。古い伝統の好きなユリアウスでさえこの手の挨拶は略式で済ませていたるのだ、しかし二人の笑いは決してハスタラフを嘲笑する様なものではなく純粋にハスタラフの度の過ぎた生真面目さに笑ってしまったのである、そしてハスタラフも何が可笑しいかよく分からなかったが二人とも無邪気に笑っているのでつられて笑った。その後ユリアウスが理由を教えてくれたのだが、日常で使われていないから可笑しかったという理由が釈然としなかった事は確かである、ハスタラフにとっては日常作法であるかどうかは大切ではなかった、重要な事はその動作の意味合いにあると考えていたからだ、隠者の様な生活をしている者ならではの考えであった。

 「ハスタラフは西の森で一人で暮らしてるんだ、しかも俺の部下に欲しいくらい原素の扱いが上手いんだよ、それでさ、話してたら面白くってさ、ちょっと飲み過ぎたかもしれない。」

ユリアウスは子供の様な無邪気な笑みを浮かべながら嫁に話し、ヒュリーラもそんな旦那の顔を指で突きながら微笑んでいた。そしてハスタラフはそんな二人のやりとりを微笑ましく眺めていた、彼は物心付いた時から父親と二人だけで生活していたため夫婦という概念は若干乏しかった、しかしそれでも目の前にいる二人が心の底から愛し合っていて幸せである事は容易に理解する事が出来た上にそれに対して憧憬の念すら覚えていた。

 ユリアウスが何も言わずともヒュリーラは旦那の心を読んだかの様に優しく問いかけた。

「お腹が空いてるんでしょ?今、何か作るわね。」

元よりヒュリーラは料理をするのが好きであったので身重の体でも料理は続けていた、周りは何度か止めたのだが、それでも本人が楽しんでいるので毎日料理を作っている。さすがに手間のかかる料理は作れないが、それでもハスタラフが目を見張る程の料理が振る舞われた。彼女が料理をする時には、酒に酔っていても友人や部下が遊びに来ていてもユリアウスが必ず手伝った、それは何も嫁の為だけではなく、ユリアウス自身も楽しんでいた。料理の内容にもよるが大抵の料理には原素調理が用いられるのであるが、ユリアウスはこの作業が地味ながらも好きであった。確かに技術の進歩が著しい今日では原素調理器具を使用すれば焼く事も煮る事も造作はない、しかし原素を操り食材の内部を直に調理する事で独特の歯ごたえと風味を醸し出す事が出来た。結婚当初はユリアウスにはこの繊細な作業が難しく加減を間違えて焦がしてしまう事も多かった、しかしヒュリーラに励まされながら何度も行っているうちにこの作業が楽しくなってしまった、最近ではもう少し上級の原素調理法に挑んでみようと思い、原素調理に関するサイフもヒュリーラに内緒で購入していたが無駄な出費を怒られるかも知れないという思いと知らぬ間に向上した技術で彼女を驚かせようとの思いから仕事関係のサイフが置いてある棚に隠すように混ぜられていた。

 三人が食卓を囲み男二人は酒を飲み、ヒュリーラは彼女の母親が持ってきてくれた特製の果物ジュースを飲みながら食事を楽しんでいた。ハスタラフは社会的な経験は皆無に等しかったが意外にも話し上手であり、森での生活や、たまに訪れるメルギスでの面白い話等で話題が尽きる事はなかった。食事を終えて談話を楽しんでいると、家の奥からヒュリーラの父親がやってきた、ヒュリーラが若く見られるのはどうやら遺伝らしい、ヒュリーラの父親はもうそろそろ六十代という年齢にも関わらず背筋はピンと伸び、若干の白髪があるものの見た目は四十代と言っても不思議ではない、もし白髪がなければ三十代後半でも通りそうなくらいだ。義父を見ると同時にユリアウスは席を立ち自らの椅子を彼に勧めた、そして全く関係のないハスタラフも何故か席を立っていた、それを見たヒュリーラは笑いながら彼に椅子に座る事を促した。義父は笑顔でユリアウスを再び椅子に座わらせると立ったまま娘と娘婿に尋ねた。

「母さんの腰は思ったより悪いみたいだ、すまないが今晩は泊まっても構わんかね?」

ユリアウスとヒュリーラは顔を見合わせ、お互いに頭を少し動かしながら互いの意志疎通を行った後同時に微笑み、そしてユリアウスが答えた。

「勿論です、明日も休みですので私は友人の家にでも行ってみます。」

「そんな事はしなくていいよ、私は雑魚寝で構わないから。」

「お義父さん、せっかくの機会ですから家族水入らずでくつろいで下さい。」

それを聞いた義父は恐縮そうにしながらも微笑みを浮かべて礼を言うと再び家の奥に戻っていった。ユリアウスもヒュリーラも笑顔であった、実の所この事態は予想済みなのである、ここ数週間辺り義父母は色々と理由を付けては泊まりに来ていた。義母は健康管理がよく出来た人である、そんな人が突然動けなる程腰を痛めるのは不自然だ、しかもご丁寧に宿泊用の着替えまでも持ってきているのである、それなので二人は顔を見合わせ『そらきた』とお互いに笑っていたのである。勿論こうなる事を予見していたので、ユリアウスも部下の数人に泊まりにいくかも知れないと打診していた。しかしその状況を知らないハスタラフはユリアウスにこう提案した。

「ユリアウスさん、ちょっと遠いですけど僕の家には空き部屋もありますし、外泊するのでしたら僕の家に来てみては?」

これは意外な提案であった、ユリアウスは今まで森の奥には片手で数えられる位しか行った事はない、それだけでも十分彼の好奇心をくすぐったが、部下の話していた老人の事がふと頭に浮かび彼の冒険心に弾みを付けた。ユリアウスはヒュリーラの顔を見ると彼女は少年の様に心を踊らせている旦那をよく理解していた様で、彼女は微笑みながら頷き言った。

「行ってみたいんでしょ?ハスタラフ君がいいって言ってくれてるんだから行ってらっしゃいな。どうせ二人とも飲むんでしょ、お酒とおつまみも持っていきなさい。」

ヒュリーラは食材保管庫から干し肉や漬物を取ってくると酒瓶と一緒に革の袋に詰めてユリアウスに持たせた、そのついでに一人暮らしならこれもあれもと袋に色々な日用品や保存食等を詰めていき、気が付けば革袋二つが一杯になる程の荷物になってしまっていた。ハスタラフも最初は「お構いなく」と謙虚な姿勢を取っていたが、嬉しそうに世話を焼くヒュリーラに母の愛を感じ最終的には彼女の行為に甘える形におさまった、母親を知らない彼だからこそ母性の優しさに人一倍心をうたれたのかも知れない。袋一杯の荷物を持ちながらユリアウスはまるでハイキングを楽しみにする少年の様な屈託のない笑顔を浮かべていた、そんな無垢な旦那の笑顔を見ながら微笑むヒュリーラもまた幸せそうであった、そしてハスタラフはそんな二人を見ながら家庭を持つというささいな幸せに憧れを抱いていた。

 ハスタラフが町に来た理由は買い出しであり荷物は多少あったが、中型の革袋に収まっていたので一人で問題なく行き帰り出来たのだが、今の状況では男二人でも苦労する程の量になってしまった。そこでユリアウスは彼の愛馬であるルシュテナも連れていく事を決め、家の横に建てられた馬小屋へ向かった、社会に無知なハスタラフでも馬は見た事があるしどれ位の大きさかも予想していた、しかし彼の前に現れた毛並が整った美しい黒色の馬は彼の知る常識的な馬の比ではなかった、一目見て彼の頭に浮かんだ事は神話の英雄キシャラテの愛馬(※17)であった、ハスタラフもユリアウスも身長は高い方だ、しかしそんな二人が見上げなくてはルシュテナの眼は見えなかった。ユリアウスは荷物全てをルシュテナの鞍に結び付けると愛妻にキスをした、ハスタラフは彼女にお礼を言い、彼女は二人に飲み過ぎない様に注意を促した。ヒュリーラも旦那が酒好きな事を重々承知していたのでいつもはあまり口うるさく言わないが、ハスタラフが無理して飲む事を心配したので何度か念を押した。ユリアウスは「うん、うん」と愛想の良い笑顔を浮かべながら頷いていたが、彼が何を注意されているからはよく理解していなかった。そして行商人の様に荷物を一杯抱えながら男達は森へと向かった。

 普段ならば日が沈んだ後に外壁に出る事は禁じられているが収穫祭の準備で忙しい今は例外であった、もちろん警備隊長のユリアウスならば普段でも問題はないのだが彼は法を曲げる事を好まなかった、法の守護者であるべき警備隊の隊長が法を軽視してしまっては示しがつかない、彼のそんな些細な気配りのおかげで彼の部下達も模範的な行動を常に心がけていた。門番をする部下達は遠目からユリアウスを確認する事が出来た、それもこれも彼の愛馬のおかげである。部下達と少し談笑をした後、ユリアウスはおもむろに革袋から干し肉と漬物を取り出すと門の警備をしている部下達に渡すと、

「夜食だ食え、ヒュリーラの手作りだからな、ありがたく食えよ!勤務中だからな酒はやらん!」

と笑いながら大きな声で言うと部下達も笑顔で上司の気配りに礼を言い彼等を門から送り出した。

 辺りは暗くなってはいたが遠目に森が確認出来る程の薄明かりは残っていた。静かな平野をしばらく歩いているとハスタラフが気になっていた事をユリアウスに聞いた。

「ユリアウスさん、この馬相当大きいですけど、馬ってこんなに大きくなるものなんですか?」

ユリアウスは愛馬の頭を撫でながら笑顔で答えた。

「生まれた時は普通の大きさだったんだけどな、毎日上げる餌に原素をたっぷりまぶしてあげてたんだよ。原素研究者は原素と成長の促進には関連性がない、なんて言ってるけど、俺はあると思うんだよ、ただの原素じゃだめさ、きちんと愛情のこもった原素じゃないと、な?」

そう彼が言うとあたかも彼の言った言葉が分かったかの様に馬がいなないた、そしてそれを見たユリアウスが再び笑顔で馬の頭を撫でた。彼にとってルシュテナは彼の兄弟であり、親友であり、息子であった、毎日の見回りも一緒に行い、食事をする時間も合わせ、寝る前と起きた後には欠かさず新鮮な水を彼自身の手で与えていた。もちろんそれだけ大切にされている愛馬である、主人への忠誠は普通の馬の比ではなかった、ルシュテナは主人の声だけではなく足音も敏感に察知する、しかもその音で主人の身体状況や精神状態を理解してくれた、もちろんどこにいてもユリアウスが呼べば全力で駆けつけてくれる。

 ユリアウスの餌に原素を混ぜ込む話を聞いたハスタラフは今度生まれる羊に試してみようかと考えていた、羊が大きく育てばそれだけ毛も多く取れる、しかしハスタラフは彼自身にある欲を考えると恐らく無駄な努力で終わるだろうと自らを嘲笑った。

 辺りもすっかり暗くなってきた頃、ようやく二人は森の入り口に辿り着いた、ユリアウスは日が沈んだ後にこの森に来た事は一度もない、しかし想像していたより不気味さは感じられなかった。森に入るやいなやしゃがれた声が聞こえてきた、きっと部下の言っていた老人に違いない、ユリアウスは興味津々で声のする方角へ行ってみた、ハスタラフはなんら不思議そうな顔もせずにユリアウスの後を追った。青々と茂る草木の中にボロボロの布を着た老人が座りながら詩を詠っていた。

「月の女神は麗しい 金に光るは優しくて 青く光るは哀しくて 赤く光るは告げる時 始まりあるから嬉しくて 終わりあるから美しい 廻れよ廻れ 月の女神が望むまま...」

サイフで聞いた通りの詩であった、そしてそれから老人は再び同じ詩を繰り返し詠い続けた。ユリアウスは無駄と分かっていても老人に話かけた、もしかしたら何らかの言葉に反応を示すかも知れないと思い神話の神々の名前や、歴史上の大きな出来事、果ては酒の名前までも言葉にしたが老人は眉ひとつ動かす事もなく詩を詠っていた、しかしそれでも声をかけ続けるユリアウスにハスタラフが怪訝な顔つきで言った。

「ユリアウスさん、このお爺さんはずっと昔から誰とも話をせずにただ座っているだけなんです、もしかしたら耳が聞こえないのかも知れませんし、目も見えないのかも知れません。ここにいても仕方ありませんし、あまり遅くならないうちに行きましょう。」

ユリアウスはそう言われると渋々ではあるが立ち上がり森の奥へと歩き始めた、老人の詩を直に聞いて彼は少し憂鬱な気分になっていた、それはまだ完全に思い出した訳ではないが昔彼の祖父から聞いた神話の話を少しばかり思い出したからだ、神話の中ではいつも穏やかなオルフトス(※18)が激怒する話であった様な気がする、神話好きの彼でもその話を聞いたのは祖父が話してくれた只一度きりである、しかも内容があまりにも少年の恐怖を煽る内容だったのかもしくは悲しくなる内容だったのか胸が締め付けられる様な感覚があった様な事位しか思い出せない、しかしその話に赤い月が出てきた事は確かであった。老人の事がまだ頭にあったのでユリアウスはハスタラフに尋ねた。

「あの老人はいつもはただ座っているだけなんだって?いつから詩を詠い始めたんだ?」

「それが本当に奇妙な事なんですが昨日から詠い始めて、ずっと詠い続けてるんですよ。たまに何か喋ったり詩を詠んだりはしていたんですが、同じ詩を繰り返し休まず詠っている事なんて今まで一度もありませんでした。」

そう答えたハスタラフの顔にも若干の不安が見受けられた、しかしそれはユリアウスの感じていた言い知れぬ不安に対してではなく、老人の不可解な行動はもしかしたら老人が自らに先が無い事を感じて行っているのではないのかという思いからであった。自然の中で暮らしているハスタラフは生き物が死を近くすると不可解な行動をとる事があるという奇妙な事実に気付いていた、それは動物だけではなく、彼の父親もそうであった。彼の父親は一度もハスタラフを人里に連れて行った事はなかったが、その父親の亡くなる一月程前に急にハスタラフをメルギスに連れていき始めたり、今まで入る事を許してくれなかった部屋に入る事を許されたり、今まで話す事を拒んできた母親の話をしてくれたりした、そしてそれらの変化に対して父は何も言わなかった。そしてある日、疲れていると言う父の代わりに市場に行って帰ってきてみると父は静かに息を引き取っていたのだ。それなのでハスタラフは老人の奇怪な行動に死ぬ間際の父とを重ね合わせ不安になっていたのだ。理由は違えど不安な気持ちを抱える二人は自然と口数が減り、暗い森の中をゆっくりと歩いて行くのであった。

 小一時間程歩いただろうか、ようやく森の奥に辿り着いた、森は予想以上に入り組んでいたのでハスタラフに案内してもらわなければ到底着く事は不可能であっただろう。森の奥には開けた丘がありそこに小さな小屋が建っていた、その小屋の奥は崖であり海のさざ波が聞こえた。小屋に着いた安堵で二人の抱えていた不安感は消え去った様で二人は陽気な小唄を歌いながら荷物を小屋に運び始めた。ルシュテナは家畜小屋に入る事になったが、黒い巨体が家畜小屋に入ると他の家畜達はその絶対的な存在感に唖然となり、特に混乱等はしなかったが委縮しきってしまい小屋の隅で寄り添いあう様に縮こまっていた。二人の男達は酒の瓶を開け、つまみを食べながら談話を楽しんだ。この小屋には色々と珍しい物が置いてあり好奇心旺盛なユリアウスの興味を惹いた、中でも最も興味深かった物は古ぼけた両手を広げた位の大きさの四角い箱である、正確には箱ではないが、開いてみると薄い今にも破けそうな革の様な素材にアカデミアで習った原素文明以前の人類が使用していたと言われる絵や記号がびっしりと描かれていた、しかもその薄い皮は一枚だけではなく何百枚、もしかしたら何千枚という途方もない量であった。ユリアウスがこれは何かと聞いたがハスタラフも知らない様である、彼の父が若い頃にその薄皮の箱について色々研究していたらしいが詳しくは教えてくれなかったそうだ。その薄皮に描かれた絵は子供が地面に描く落書きとは違い、どこか規律正しく何かの法則に従って描かれている様な感じがした。もしかしたらこれは太古の生活を知る為に重要な手掛かりになるかも知れない、とまでは考えず、大分変った物が置いてあるのだな、としか思っていなかったところが実にユリアウスらしい。

 二人の男達は酒を楽しみながら色々な事について話合い話題が尽きる事はなかった、酔いが回って来た頃には原素の扱いについて話しはじめた、最初は一般的な『原素技術の発展』に対してどうこう意見を交わしていたのだが、それが『原素術で一番大切な事』に変わり、自然とお互いの信じる『原素哲学』の討論に発展し、そしてとうとう外に出て原素術の競い合いまで行い始めた。酒も入っていたし周りは誰もいない森という事で久しぶりに全力を出した彼は両手をゆっくりと動かし原素を集めると両手を軽く合わせた、深く息を吸いながら両手に力を込めた後に勢いよく息を吐き出しながら両手を開くと手の間に炎の柱が生じた。アカデミアで見た原素術から比べたら程度が低い様に思えるが、これは一般的に見ればかなりの手練れという実力だ。ユリアウスは「どうだ、参ったか?」と言わんばかりの微笑みを浮かべた顔でハスタラフを見ると、これまた酒に酔っているハスタラフが笑顔で頷きながら原素術を披露した。それまで酔っ払って体が揺れていたのだが、ハスタラフが大きく息を吸い込むと体の揺れは止まり、更には周りの風も止んだ様にさえ思えた。そして両手を頭より若干高い位置で広げると呼吸を止めているかと思える位ゆっくり長い呼吸をした、そして両手を滑らかに空気を優しく包み込む様な動きをすると水の玉が発生した。それだけでもユリアウスは感心していたのだが、ハスタラフが身体に力を込め手を握りしめながら勢いよく息を吐き出すと水の玉は一線の激流と化し一本の木をへし折った。それを見ていたユリアウスは目と口を大きく開けて呆気にとられていた。ユリアウスは負けず嫌いな男である、しかしこの時彼はぐうの音が出ない程の力の差を見せつけられた、ハスタラフの原素術は全く無駄がなく流れる様に行われ、今朝方見た英知ある者の原素術とまではいかないものの彼の動きを彷彿とさせる様な調和の取れた原素術であったのである。ここまでの力の差を見せつけられると逆に清々しくさえあった、何よりもハスタラフはこれ程絶対的な力を持っているにも関わらず全く自惚れがないのだ、脱帽ものである。二人は原素の技術から、応用、更には原素に対する哲学等について延々と熱心に話合い続けたのであった。夜空に輝く満月がいつもとは違う事に気がつかない程に熱心と。

 

 森の中で老人は涙を流しながら詠っていた、老人は目が見えない、それでも遠くを見据える彼の眼には見えていたのかも知れない、遠くの町にあがる黒煙とそれを哀しく見つめる青い月が…



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※16:慈愛の夜・・・満月の夜の事。ケイミェフがオルフトスと引き裂かれた後、海は荒れ、月は輝きを無くし、芸術から美が消えた事に対しアマノフスがサーラァグと話し合い、三十訪れる夜に一度二人を合わせる約束をした、ケイミェフの喜びで月が輝き満月になるという話から。

※17:英雄キシャラテ・・・神話に出てくる人間の英雄、賛否両論あり悪人であったとも善人であったとも言われる者、世界を愛馬のリキィシュと共に旅し、彼の信じる正義の為に戦ったと言われる、しかしその内容が泣いている子供の為に村を一つ燃やしたり、犬の群れを救う為に十人近くの男達の腕を切り落としたり、常軌を逸した行動も取っている。自由を求めるが為にアマノフスに戦いを挑み彼の怒りをかい、朽ちた肉体に魂だけ残されていた所、同情したオルフトスが彼の魂を解き放ち彼を英霊にした。

※18:穏やかなオルフトス・・・神話の中で人間に対して裁きを下すのはほとんどがアマノフスを始めとする他の神々であり、オルフトスが暴れる話はあまりない。

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