出会い
外は雲一つない晴れ晴れとした天気であった、ユリアウスはアカデミアを出てから直ぐに守衛所には向かわずに散歩を楽しんでいた、辺りは数日後に迫る収穫祭の準備に追われ若干慌ただしく見える。収穫祭は毎年恒例であり、この行事には隣国セフィトメア(※6)の者達も多数訪れた。メルギスは中立国家であるので他国の人間が訪れる事を無暗に規制する事はしないが、セフィトメアにしろネグメゼフにしろ各国の方針として自国民が他国の影響を受ける事を好まなかった、その為出国の許可は下りにくく自然と三国の交流は限られていた。しかし収穫祭は特別であった、原素術関連の行事や研究以外では唯一の親善行事である、その準備の為に沢山の人々がメルギスに集うのだ。この行事を一番心待ちにしているのはやはり子供達であった、お祭りに心を踊らせる事は勿論であったが、収穫祭の準備に他国の親子連れが来る、そしてそこで友達の輪が広くなるのである。幼少の時には国家間の問題など気にせずに分け隔てなく友達になれる、しかしそれも年を重ねる事に変化してしまう、一番皮肉な事は幼少期に他国との隔てを感じた子供がその隔てをなくしたいという思いを描いて政治やら軍事の道に進んだ場合だ。幼い頃に抱いていた各国の隔たりをなくすという希望や夢は長年培われた政治体制と思想によって徐々に変化をとげ、気が付けば昔抱いていたはずの自由への憧れは形も名前も違う愛国心という使命に変わってしまうのである。いくら共和主義国家だからとはいえ、際限なしの自由を国民に約束出来る訳などない、他の二国から比べれば出入国は簡単ではあるが、それ以外の外交は国益を一番に考えて行われる、そして最も国益になる事は自国民に深い愛国心を植え付ける事だ。事実、ユリアウスの部下達は感謝祭の頃になるとよく幼少の頃の話をしていた、ほとんどの者達は幼い頃に他国に友達が出来ていて、大きくなったら自由に友達が出来る様な国にしたいと願っていたらしい、そしてそのほとんど全ての者達は異国の友人達の事を忘れてしまっている、本末転倒といえば本末転倒かも知れないが、結果としては全体の為になっているのだ。そんな彼等とは違い、ユリアウスは専制君主時代の騎士という概念に憧れを抱いていた、愛馬に乗って王国の為、美しい姫君の為に命を賭けて戦う、そんな一時代も二時代も遅れた考えが彼の理想の生き方であった、それなので警備隊に配属になった事は願ったり叶ったりである。昔の騎士と違う所は王国や姫君の為ではなく、家族の為に戦う事であろう、しかしそれも今の彼からすると愛する妻を守る事はどんなに美しいお姫様を守るよりも大切であり生きがいであった。
ユリアウスが警備隊の詰め所に来るまでに何人もの異人に出会った、みな青い法衣を着ていたのでセフィトメアの連中に違いない、恐らくジャヴァス教(※7)の布教活動でもしているのであろう。ユリアウスは神話(※8)の類は好きであり、よく会話の中にも神話の逸話や伝説などを比喩に使っていたりした、しかしそれは彼が神話を信じていたからではなくおとぎ話として楽しんでいたのである。ユリアウスは元々考えが若干古いタイプの男であったので、神話に出てくる神々や英雄の常軌を逸した行動がたまらなく好きであった。しかし神話を楽しむユリアウスでも宗教を信じてはいなかった、嫌悪を抱いていた訳ではないのだが、人々の幸せを約束し死後の事も約束するジャヴァス教には全く共感を得る事が出来なかったのである。ジャヴァス教の者達と幾度か会話をしたが、聞いてみる限りジャヴァス神の救いを得られるのはジャヴァスの教えを守る者だけだと言う、ユリアウスの率直な意見は『心が狭いな』であった。ジャヴァス神とは違い、神話のアマノフスとオルフトス(※9)の二神は人間でも動物でも原素でも存在するもの全てを分け隔てなく浄化してくれるのだ、その二人の方が器が大きい様な気がしてならないのである。勿論その様な例を出すと決まってこうかえって来た『それは神話のお話ですから…』全く同意見である、神話が実際にあった話などと考えたのは幼い頃だけだ、だがそれはジャヴァス神も同じではないのか…彼らはジャヴァスが存在する証拠を幾つも教えてくれた、発掘されたサイフに描かれていた内容を何度も複製しながら現在に伝わっているから真実であるそうだ、ユリアウスはいつも考えさせられる、人間が原素を使える様になったのはほんの千年ほど前ではなかったかと...しかしただそう考えるだけで口には出さなかった、出せば恐らく他の『真実』を押し付けてくるからである。ジャヴァス教はセフィトメアの国教であるだけに各国に対する影響力も強く、メルギスにも信仰する者達は多かった。しかしこの感謝祭でも見られる様にメルギス国民は他宗教や神話の行事を完全に混ぜて祝っているのである、元々感謝祭は神話がルーツになっていたが、布教を目的にする為にジャヴァス教の着色が三百年ほど前に行われた。メルギス人の大半は赤ん坊が生まれるとアマノフスに感謝し、祭の行事や結婚はジャヴァス神に幸せを祈り、死者の魂の安らぎはオルフトスにお願いをした、言うなればメルギスの国家体制を個人単位に縮小した様な共和精神である。何はともあれ、ユリアウスには他者の信仰をとやかく言う趣味は無かったので布教に勤しんでいるのであろう法衣連中の邪魔などはしなかった。
ユリアウスが詰め所に到着すると、彼の部下達は隊長が来る事を事前に知っていたかの様でありすでに彼用の椅子は用意されていた、しかもご丁寧に警備隊長に目を通しておいてもらいたい複数のサイフがテーブルに置いてあった。部下達はユリアウスを熟知している、彼がアカデミアに行って丸一日授業に費やす訳がない、休日でも奥さんを連れて遊びにくる様な上司だ、午前の授業が終わったら確実にここに来るであろうと皆が予想していた、そしてそれについての賭けもあったが誰一人としてユリアウスが来ない方に賭けなかったので成立しなかった程である。それくらいユリアウスは部下達からの信頼も信望も厚かった。部下の誕生日を忘れずユリアウスの出費で祝ったり、些細な失敗は冗談交じりで注意してくれる、かと言って重要な場面では真面目に適切な指示をくれ、大事な場面での部下のミスは彼が責任を持って上に対応してくれたのだ、信望が無い訳がない。
仕事をする為に来たわけでもないが、部下が目を通して欲しいという情報だ、ユリアウスは文句一つ言わずサイフに目を通した、しかしそれらは仕事関係のサイフではなく部下達が選んだ子供向けのサイフであった。サイフに映る小動物達の愛くるしい姿を見るとユリアウスは笑顔で首を振りながら顔を上げると部下達もまた笑顔でユリアウスを見ていた。部下達は上司に日頃の感謝をしたかったのでユリアウスが予想していないであろう日にちを選んで上司へのプレゼントを前もって用意しておいたのだ。そして部下達からの感謝の言葉を聞いた後にユリアウスは椅子に座ったまま部下との談話を楽しんだ。
しばらくすると外回りの警備に出ていた部下の数名が戻って来たがその内の一名は何やら神妙な顔つきで話している、この男は若干変わり者で占いや呪術などに精通した者であった。
「きっと何か、深い意味がある様に、思えるんだよ。」
真剣な面持ちで話をする男とは裏腹に話を聞いている男はつまらなそうにただ聞き流しているだけであった。しかしユリアウスは男の話している話題に若干の興味が湧いた、元々神話が好きなユリアウスですある、そういう他人が馬鹿らしいと思う様な話でも十分に楽しめたからだ。そういった他人を批判せず相手の考えを理解しようとした姿勢も彼の人望を集める大きな要因になっていたであろう。
「一体何の話をしているんだ?」
隊長が来る事を予想していた部下達は今戻って来たにも関わらず、非番のユリアウスが詰め所にいる事に一切の疑問も驚きも見せる事はせずに自然な挨拶を交わした。
「隊長、聞いてくださいよ、今朝、外壁の見回りに出た時にですね、ちょっと森の方に行ってみたんですが、あの老人が、詩を詠っていたんですよ。」
彼の言う老人とは、メルギスの少し西に位置する黒い森(※10)の入り口に座っている老人である。誰もこの老人について詳しく知る者はいなかった、言葉をかけても返事はせず、食事を持って行っても手をつけず、どうやって生活しているのかも分からなければ、いつから座しているのかも分からない、そんな奇妙な老人であった。
「詩を詠っていた?どんな詩だい」
ユリアウスがそう聞くと部下はここぞとばかりに小さなサイフを取り出し、情報を再生した、彼の技術では音声原素情報しかサイフに取り込めなかったが十分な役目は果たしていた。多少の雑音が混じってはいたが、中々上手く原素を収縮出来ている様だ。
『月の女神は麗しい 金に光るは優しくて 青く光るは哀しくて 赤く光るは告げる時 始まりあるから嬉しくて 終わりあるから美しい 廻れよ廻れ 月の女神が望むまま』
そこまでで男はサイフを停めた、部下が言うにはこの後も老人は同じ詩を繰り返し詠っていたそうである。今まで一度として喋っている所を見た事がない老人の詩であったのでユリアウスの興味をひいた、サイフを仕舞ってから男は嬉々としてユリアウスの意見を聞いた。ユリアウスもこの詩に何らかの意味がある様に思えてならなかった、それがどんな事かは全く想像もつかなかったが、老人の詩に出てくる内容が深く神話に結びついている事が若干ではあったが彼の気分を高揚させたがそれと同時に彼の意識の一部は不安を覚えていた。
「僕が思うに、月の女神とは、ケイミェフ(※11)だと思うんです。ジャヴァスや他の宗教でも、月の女神は出てきますが、優しくて、哀しんでいる月の女神と言ったら、やっぱり、ケイミェフが思い浮かびますから、隊長は、どう思いますか?」
独特な口調で嬉しそうに意見を聞いてくる部下に対して、ユリアウスもまた少年の様に夢物語を真剣に考えてその意見を述べた。周りの者達は笑っていたがそれは嘲笑とは違う、どうでもいい事に対して真剣に考える隊長の馬鹿正直な程真面目な対応に笑みがこぼれるのであった。現に部下達はユリアウスが子供達の問いかけるどうでもいい質問を真剣に応える姿をよく目の当たりにしていた。
「うん、俺もケイミェフだと思う、詩の中にアマノフスとオルフトスらしい節もあるしな。ケイミェフがオルフトスと引き離された時(※12)哀しみで青くなった話があったろ?多分それについての詩だと思うんだが…」
「僕も、同意見です、神話では、黄金の、美の女神、とも言われてますから、最初の金も、納得いくんです。始まりと、終わりの節も、やっぱり二大神(※13)の事、ですよね?でも、『赤く光るは告げる時』って、どういう意味、なんでしょうか?神話に、そんな話、ありましたっけ?」
「神話自体が古いからな、サイフが出来るずっと前から存在する訳だし、もしかしたら知らないだけであるのかもしれないな。」
この時ユリアウスは若干嘘を付いていた、彼は幼い頃に祖父が話してくれた神話の一節に赤い月が出てきた事を覚えていた、しかしあまりに昔の出来事である為に肝心の内容の事は忘れてしまっていた、しかしただぼんやりとだが彼は赤い月の事を記憶していた。
「そうなんですよね、それが、一番、歯がゆい事です。僕たちは、サイフが、世に出る以前の事なんて、口伝えの事しか、知らないですからね。でも、僕たまに、考えるんです、原素を、操れる様になる以前の人間は、どうやって、情報を、伝達して、いたのですかね?」
そう彼が言うと周りの者達は笑い声をあげた、この笑いは見下した笑いと言ってもいいだろう、それもそのはずである、アカデミアを卒業した者なら皆そんな簡単な質問の答えは知っていたからだ、そんな単純な事も分からない男が神話について話しているのが滑稽に見えたのかも知れない。周りが嘲笑を浮かべる中、ユリアウスは男の疑問に共感を持てた、勿論アカデミアを主席とはいかずともかなり良い成績で卒業したユリアウスである、一般的な模範解答は知っていた。すると一人の男がサイフで仕事の内容を確認しながら少し見下した様に答えた。
「昔の人間は壁や土に絵を描いて情報のやり取りをしていたんだよ、現にセフィトメアの博物館にはそういう太古の絵が飾られている、アカデミアで習わなかったのか?」
そう聞くと神秘主義者の男とは思えない程論理的な答えが返って来た。
「いや、勿論それは、知っているさ、でも、そんな、非効率な方法で、日常生活を、営んできたとは、どうも、考えられないんだよ。僕達は、生まれた時から、サイフという、情報伝達の、手段が、確立されているから、それについて、深く考えなくても、いいかも知れない。でも、サイフがない、状態で、生活をする場合には、何か、皆が、共通で、扱える手段を、確立すると、思うんだよ。」
ユリアウスは彼の意見と同じであった、人々は、特にアカデミア出身の者達は昔の人間は知恵が今の人間よりも劣っていると考えがちである、中には原素を扱えない者は知恵が遅れているからだと信じている者達も多数いた、そんな思想が主流であったため、太古の社会生活は低俗で極めて動物的な社会であったという考えが一般的であった。しかしユリアウスにはそうとは考えられなかった、それは彼が人間を平等に考えていたからだ、彼には原素が使えない人間達でも色々と物事を考えて道を切り開いたのではないかと思えた、原素という概念がない社会では能力の差がないのだからきっと皆がもっと平等であったに違いない、そして皆が平等なら誰かが考えた突拍子のない考えも一つの考えとして尊重されてたかも知れない、そうだとするなら人間達が集まって知恵を出し合えば原素とは違った形で文明が作られたかも知れない。ユリアウスはその様に考えていた、しかし勿論そんな考えを裏付ける証拠など大昔に朽ち果てているだろう、しかし神話とはそんな太古からの伝承である、その神話の中に出てくる神々や人間達は現在ほど高度な文明を有していなかったにしろ、かなり効率的でバランスの取れた生活を営んでいた様に思える描写も多々あった。もちろんそんな彼の意見も一言『それは神話だから』と言われてしまえば何とも言い返せないが。しかしいずれにせよ原素時代以前の文明を低俗と批判する風潮には賛同しかねたのであった。
「よくもまぁそんな下らない事を考えるだけの余裕があるな、過去の人間がどうだったかなんてどうでもいいじゃないか、大切なのは今だよ、今。」
アカデミア出身者ならではの言い回しだ、何か自分が分からない問題や質問があればその問題自体の重要性を否定し、その様な低俗な事を考える事は時間の無駄だと言って煙に巻くのだ。これはアカデミアの教育方針が悪いとも言える、アカデミアの格言の一つにこうある『過去の問題に悩まされるな、未来の不安に悩まされるな、大切なのは今を学ぶ事である。』確かにいい格言ではあったが、何かと生徒達がその意味をはき違えて乱用し、考える事を拒否する為の道具として使われてしまっている事が痛ましい。
「それでも、過去を、知る事は、より良い未来を、創る為には、必要だと、思うけど。」
「それは勿論さ、でもな未来に繋げる過去ってのはそれなりに重要な過去であるべきなんだよ。お前みたいに太古の昔の事を考えてどうやって未来に繋げるっていうんだ?そんな誰の為にもならない様な事を考えてる時間ってのは無駄以外のなんでもないんだよ、その無駄な時間を社会の為になる様な事に費やせよ。」
一人の男がそう言うと他の者達も賛同した。別に責められている訳ではないのだが、神秘主義の男は自分の意見が否定されていて若干感情的になっていた様である、顔はほんのり赤くなり、呼吸にも乱れが出てきていた。その様子を見たユリアウスは少し声を大きくして皆に聞こえる様に言った。
「無駄な事ってのは人生を楽しむ上で必要な事だぞ、必要じゃないっていう奴、酒は生きていく上で無駄な事だ、酒なしでも生きていけるからな。酒なしの人生ってのは楽しいものか?俺は無駄と分かっていても酒がある人生の方が楽しめるけどな、やっぱり無駄ってのは重要な事だと俺は思うな。」
ユリアウスが真剣な顔で喋る時はいつも少しばかり冗談交じりだ、実際に冗談なのか本気なのかもよく分からないが、かと言って完全に的を外している訳でも無かった。そんな軽いのだか重いのだかよく分からない隊長の言葉に部下達はいつも笑いながらも、自らに落ち度があった事を認めざるを得なかった。そして周りから一方的に責められていた男からすれば、完全に少数派であった自分を擁護してくれたという一種の尊敬すら生まれていた。しかし当のユリアウスは特に何も考えずに発言している、彼にとって少数派を擁護する事は当たり前なのだ、『騎士たる者弱きを助けるべし』その言葉を馬鹿正直に守っているだけである。
ユリアウスはしばらくの間そのまま部下達と喋っていたが、そろそろ腹も減ってきたので酒場に行く事にした。まだ少しばかり早い時間ではあったが、適当に散歩をしながら向かえば着く頃には丁度いい時間になっているだろう。そう決めるとユリアウスは席を立ち、一度大きく背伸びをして体をほぐすと部下達に一言簡潔に酒場に行くと告げた、部下達も彼の自由気ままな性格を熟知していたので上司を引き留める事もしない、しかし部下の一人がユリアウスが出ていく前に質問した。
「隊長、明日はいつも通り奥さんと町の散歩の予定ですか?」
「それがな、嫁の両親が運動させるなって言って一緒に外に出られないんだよ。せっかくの連休もアカデミアに行かされるし、嫁と散歩も出来ないし、酷い連休さ。」
ユリアウスが苦笑いを浮かべ頭を振りながら言うとそのまま扉を開けて外へ出ていった、そして彼が出てく時に部下達は笑いながら言った。
「隊長、それではまた明日。」
外に出た瞬間青い法衣を纏った男達がユリアウスの目の前を過ぎていった。
『今年の感謝祭は何か特別なのだろうか、例年以上にセフィトメアの僧連中が多い様な気がするな、そういえば今年の初めにメルギスとセフィトメアの友好条約が結ばれていたな、内容はよく覚えていないが、大広場の辺りにジャヴァス教の大聖堂を建設する案も浮上しているらしいからな、かなり親密な条約だったんだろうな。確か今期の警備隊を纏める防衛大臣はジャヴァス教信者らしいしな、それが理由かもしれないな。何が理由であれ国家間の規制が緩む事は望ましい事かもな、数百年前までは絶えず戦争を行っていた事が嘘の様だ。』ユリアウスは一人そんな事を思った。
しばらく町を歩きながらユリアウスは先ほど聞いた奇妙な老人の詩の事をぼんやりと考えていた。ユリアウスも以前からこの老人の事は知っていた。社会に属してはいなくとも集団で生活している原素隠者達(※14)とも違う、完全に孤立した老人である。ユリアウスは神秘主義者ではない、しかし神話の内容を口ずさむこの老人に好奇心を抱いた事は間違いなかった。彼は若干うつむき加減で詩と神話の内容とを照らし合わせながらゆっくりと酒場に向けて歩いていた。その時である、女性が悲鳴をあげたと同時に茶色のローブで全身を纏っている男が急に走り出した、ひったくりだ、しかしこの盗人も運が悪い、よりによって警備隊長の目の前での犯行である、言い逃れも何も出来まい。ユリアウスは冷静に原素を集めて男を撃とうとした、しかし彼が撃つ直前に盗人は他の何者かが放った雷撃に撃たれてその場に倒れた。ユリアウスが周りを見渡すが警備隊の者など見当たらない、どうやら一般人が放ったようだ、ユリアウスが盗人に近づくと同時に、変わった白い服を着た茶髪の二十歳位の青年も盗人に近づいた、そしてユリアウスは青年に問いかけた。
「今のは君が放ったのかい?」
青年は若干気まずそうな顔を浮かべながら小さく頷いた。
「見事な腕前じゃないか、見た事ない顔だが、セフィトメアの出身かな?」
青年は少しの間黙って目をきょろきょろさせていたがやっと口を開いた。
「いえ、僕は...」
しかしそれ以上の言葉を発する事もなく、再び黙ってしまった。しかしユリアウスは青年を疑う事はしなかった、恐らく人と喋るのが苦手なのであろう、中々興味深い青年なのでもう少し気楽に会話をしたくなった。そこでユリアウスは取りあえずこのひったくり犯を警備隊に任せる為に原素を集め空に向かって放った、それは一筋の赤い煙になり、直後に警備隊の部下数名が駆けつけた。ユリアウスの事を見た部下達は笑いながら非番でも働く上司に冗談交じりでお礼を言うと罪人を詰め所へ連行した、その際に警備隊の一人が白い服の青年を不思議に思い彼に事情聴取をしようとしたが、ユリアウスが青年は彼の友人だから心配ないと言って部下を止めた。青年は少しオドオドしていたが不安な様子は見受けられず、どちらかというと厄介事は面倒だといった感じであった。その場がひと段落するとユリアウスは青年に聞いた。
「今から酒場に行くんだが、一人で飲んでもつまらない、奢るから一緒に飲まないか?」
青年は少し悩んでいた様だが拒否するのも失礼だろうと思ったのか、若干気乗りのしない返事をしながら彼の提案を受け入れ一緒に酒場に行く事にした。その時にユリアウスが青年の名前を聞いた。
「ハスタラフです。」と青年は簡潔に答えた。
二人が酒場に着くと酒場はまだ開いてはいなかったが、店の前を掃除していた酒場の女の子にユリアウスが話しかけると女の子は笑いながら扉を開けてくれた、酒場にとって警備隊連中は常連だ酒場の営業時間前でも多少の融通は聞いてくれた。彼女が掃除作業に戻る前にユリアウスと一緒に酒場に入っていくハスタラフを見るとユリアウスにこう聞いた。
「ユリちゃん新しい部下の人?」
酒場の女の子である、相手が誰であろうと気さくに人懐っこい声で会話をした、もちろんそれが初対面の人間でもそれは同じことだ。ユリアウスが答えるよりも早くに愛想の良い笑顔を浮かべハスタラフ見をながら言った。
「ユリちゃんの部下にかっこいい人とか珍しいね。」
ハスタラフは顔を赤らめながら少し戸惑っている様だったが、その様子が面白いのか女の子はご機嫌な様子だ。ユリアウスも笑顔を浮かべて女の子の質問に答えた。
「まさか、警備隊で俺よりカッコいい奴は直ぐに他に送り付けるさ、こいつはハスタラフって言ってさっきそこで初めて会ったばかりさ。」
ユリアウスがそう冗談を飛ばすと女の子は笑いながらハスタラフに自己紹介をすると仕事に戻った。
二人が酒場に入ると同時に熊の様な体格の店主がユリアウスを見ると、見た目の屈強さとは裏腹に人当りの良い笑顔を浮かべると頭を振りながら冗談交じりの嫌味を言った。
「おい!うちの店は特別警備なんて頼んでねえぞ!」
そしてユリアウスも笑顔でその嫌味を返した。
「親父が頼んでなくてもここは特別警備区域なんだよ、なんせ喋る熊がいるからな!」
笑ったまま店主は何の注文も聞かずに、二杯の酒をテーブルに持ってくると大きな手でユリアウスの背中を二三度叩いた、常連中の常連であるユリアウスのいつもお決まりの注文など聞くまでもない。ユリアウスは店主に礼を言うと杯を持ち上げて「オグルジィド(※15)」の声と共に乾杯をした。
酒を飲みながらユリアウスはこの不思議な青年との会話を楽しんだ、話を聞けば聞くほど実に興味深い人物であったからだ。
「ハスタラフはどこに住んでいるんだ?メルギスの生まれじゃなくて、セフィトメアでもないとすると、まさかネグメゼフから逃げてきたのか?」酒を豪快に飲みながらユリアウスは聞いた。
「いえ、僕は西の森を抜けた所で家畜の面倒を見ながら暮らしているんです。」ハスタラフは遠慮がちに酒を飲みながら答えた。
「西の森の奥?へぇ人が住んでるなんて初耳だ。」
「住んでるのは僕一人だけですしね。」青年は苦笑いを浮かべたまま酒を飲んだ。
「それにしても原素の扱いも手慣れていたし、アカデミア出身かと思ったよ。あんなに見事な原素術は俺の部下でも出来る奴がいるかどうか…どこかで習ったのか?」ユリアウスはまた酒を一気に流し込んだ、もうほとんど酒は杯に残っていない。
「いえ、あれは父が生きている間に教えてくれたんです。基礎を習った後はただ練習を重ねていただけなので、完全に独学です。」ハスタラフの杯はまだ半分以上残っていた。
「そうか、親父さんはかなり原素に精通していたんだな。」酒を飲もうとしたが一口だけしか残っていなかったのですぐに二杯目を頼んだ、店主は笑いながら首を振っていた。
「父はあまり昔の話をしてくれませんでしたが、何度か原素術の国家大会に出ていたみたいです。」そう言いながらゆっくりと酒を飲んだ、まだ一杯目は残っていたがユリアウスは彼の二杯目も注文した。
「へぇ、国家大会なんていったら相当な術者だったんだな。」二杯目が渡されるなりユリアウスはまた酒を豪快に飲んだ、それを見ていた店主が笑いながら言った。
「お前さんどうでもいいけどまだ昼過ぎだって事忘れんなよ、嫁さんも身重なんだから手煩わせるんじゃねぇぞ。」そういいながらまた大きな手で彼の背中を叩いた。
「当ったり前だ、俺がどれだけ飲むか知ってるだろうが。そうだ、親父ちょっと腹減ったから何か飯も作ってくれよ。」それを聞くと店主は笑い声をあげながら何度か頷き、厨房へ向かっていった。
その後もユリアウスは青年との雑談を楽しんだ、ユリアウスは人付き合いが上手かった事もあり、最初こそは人見知りをしていたハスタラフも時間が経つにつれて心を開いていき、四杯目の酒を飲む頃には二人とも無邪気に笑いながら会話を楽しむ様になっていた。飲んでいる間に人々が酒場に集まりだした、まだ昼過ぎなのでほとんどの者は軽食を食べに来たり、休憩がてら一杯酒を飲みにくる者達がほとんどであったが、それでも大半の常連客はユリアウスと軽い談笑を交わしていった。結構な長い時間二人は酒を飲んでおり、ユリアウスがふと外を見るとすでに夕焼け時であったので、そろそろ家に戻ろうと思い、ハスタラフに聞いた。
「一人で暮らしてるんだろ?どうだい俺の家で嫁さんの作った晩飯食って行かないか?」
素面の時なら断っていただろうがハスタラフも相当酔っぱらっていた、特に考える事もせずに久しぶりに仲良くなった人と出会えた喜びと空腹感から即答した。
「いいですね!是非とも!」
ユリアウスが会計を済ませ、店の者や常連に軽く挨拶をすると我が家へと足を向けた。夕暮れ時にも関わらず町の至る所で未だにせっせと収穫祭の準備をする人々が多い、青い法衣もよく目に付いた、熱心に布教活動を続けているようだ。二人の酔っ払いは少しばかり大きな声で空話をしながら夕焼け色に染まる石畳を愉快に歩いていくのであった。
※6:セフィトメア・・・神聖セフィトメア王国の略称、宗教国家であり、他国にも信者の多いジャヴァス教を国教として定めているため基本的には住民の全てがジャヴァス教信者である。国を治める国王の他に法王が存在し、実権のほとんどは教会が握っている。芸術関連の発展にも大きく貢献している側面もある。
※7:ジャヴァス教・・・単一の絶対神を崇拝する宗教、その歴史は古く人間が原素を操れる様になる以前から存在していたと思われる宗教であり、ジャヴァスの教えを守る者は死後に罪を許されジャヴァスのしもべとして幸せが約束され、信じない者は更に過酷な試練を与えられると説いている。
※8:神話・・・この地方に古くから存在する伝承、宗教とは違い、神話に出てくる神々を崇拝する者達は少ない、ただし逸話も多く存在する為、ことわざや格言として広く人々に引用されている。
※9:アマノフスとオルフトス・・・神話に出てくる最高神の二神、アマノフスが物質世界の神であるのに対しオルフトスが精神世界の神である、またアマノフスが昼の世界を守り、オルフトスが夜の世界を守るとされている。主神である為に数多くの逸話が残されている。
※10:黒い森・・・メルギスの西に位置する森で、神話に出てくる森の引き合いとして使用される事が多い為神話の様に奥深く入れば迷って二度と戻ってこられないとも言われている。
※11:ケイミェフ・・・神話の中に出てくる美の女神であり、月の象徴でもある、太陽の象徴であるサーラァグが彼女の父親、夢の女神ミェフテストルムが妹になる、母親は諸説在り地域によってバラバラである。
※12:ケイミェフとオルフトス・・・ケイミェフがオルフトスを一途に愛するあまり魂の世界と夜の世界にしか現れず、美しさが世界から失われ、人々は昼に何もしなくなった事に対し父のサーラァグが激怒しケイミェフをオルフトスから引き裂いた、そしてケイミェフは深く哀しみ月も青くなってしまったという話が元になっている。
※13:二大神・・・神話での最高神であるアマノフスとオルフトスの事。
※14:原素隠者・・・原素術を限界まで極める為には俗世を捨てて自然に流れる原素を理解する事が重要であると信じた世捨て人達、現在の英知ある者セロフネフィスも一時期原素隠者であった。
※15:オグルジィド・・・戦いの神、数多くの逸話が残っている、彼の最期は自らが酒になってしまった逸話から酒の神としても崇められている為、オグルジィドの化身である酒に感謝を表す為の挨拶としても使用される、また飲む時に彼の名前を呼ぶ事で戦神の力を得られるというゲン担ぎでもある。