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010 指輪     /記憶喪失、切ない

 目が覚めると、頭の中が真っ白になっていた。

「……おい、祐介! 祐介!」

 祐介は病室のようなところで寝ていた。その顔を覗き込んでいるのは、やたら綺麗な顔をした男だった。

「やっと、気が付いたか……?」

 彼は祐介が目を合わせると、泣き笑いのような表情を浮かべた。その表情に、何でだか祐介の胸は痛くなった。胸だけじゃない。頭もずきずきと痛んで、動かそうとしたら彼に止められた。

 彼は自分のことをよく知っているみたいだが、祐介は彼のことを知らなかった。

「誰……?」

 祐介の言葉に彼は表情を強張らせた。

「……もしかして、俺のことわからない?」

 祐介が頷くと、彼は慌ててナースコールを押しに行った。

「すみません! 彼、意識が戻ったみたいなんですが……」

 彼の後ろ姿を目で追う。左手に、きらりと銀色に光るものがあった。

「……指輪だ」

 祐介は小さな声で呟いた。彼がいぶかしげな顔でちらっとこっちを見た。

 祐介はふと思いつき、布団から自分の指を覗かせた。……やっぱり。薬指にリングがはまっている。彼のものとよく似ていた。


 祐介は自分の名前さえも、思い出せなかった。

 彼(千尋と名乗った)は、祐介のルームメイトだという。右も左も分からない状態で見舞いに来てくれる彼だけが、祐介の心の支えだった。

 祐介は家のまん前で車にはねられたそうだ。偶然ベランダから見ていた彼が救急車を呼んでくれたおかげで、祐介は一命をとりとめた。

 でも、頭を強く打ったせいで記憶を失っている。

 つまらない記憶はすぐに戻った。首相が誰、流行ってる歌は何とか。……でも、自分に関することはさっぱり思い出せないまま、体だけは回復し、退院の時期が来た。

 

「うわ。すげえ家……」

 千尋に連れられて退院した祐介は、マンションのエントランスホールの前で呆然と立ちすくんだ。

 駅前の一等地、三十階はありそうな新築のマンション。出入り口にはカードキーが二つと警備員室までついている。家賃は最低二十万はくだらないんじゃなかろうか。

「でもここ、ほとんど祐介が払ってくれてたのに……」

 千尋はおかしそうに笑った。

 千尋に促され部屋に入る。住んでいたはずなのに、案の定覚えていなくて居心地が悪い。彼が一緒にいることだけが、救いだった。

「退院祝い」

 そういって、千尋から缶ビールを渡された。喉が渇いていたので、一気に半分くらい飲み干した。自分はそこそこ飲める口だったのだろうか。あまり酔っ払わない。

 ……そう思っていたら、急にきた。頭がぐらぐら揺れる。ずっと禁酒状態だったせいだろうか。

 千尋が祐介を支えてくれた。

「酔ったの? 珍しいね。ベッドに連れてくよ、祐介……」

 祐介は千尋に甘えるように抱きついた。彼の優しい声の響き、柔らかな体温、かすかな体臭までも、祐介の失われた記憶を揺さぶった。

 初めてじゃない、と思った。この感触は知っている。……


 祐介が何も覚えていない、といったとき。千尋は血の気が引いた。自分のせいだと思った。

 

 記憶喪失になったら、酒まで飲めなくなるんだろうか。前はワインを一本空けても、平気な顔をしていたのに。

 千尋は酔った祐介をベッドに寝かせた。無防備な顔ですうすう寝ている彼の頬をそっと撫でる。……もし記憶が残っていたら、きっとこんなことはさせて貰えないだろう。

 彼が好きだ。千尋は彼の男らしく整った顔をじっとみつめた。好きで、もうどうしようもない。本当のことなんて言えない。隠し通すしかない。そうすれば、せめて記憶が戻るまでは……、このままでいられる。

 ……せめて、記憶が戻るまで。神様。

 

 祐介と千尋はもう五年以上付き合っていた。大学のときに出会い、紆余曲折あって恋人同士になり、社会人になってからは一緒に暮らしていた。

 きっかけは、祐介が受けた見合いだった。

「上司から勧められて、どうしても断れないんだ。一回会うだけだから……」

 祐介がそういうので、千尋は不承不承頷いた。

 見合いの一週間後、千尋は祐介の部屋で紺色の小箱を見つけた。まさか、と思いながら好奇心に逆らえず開いた。きらきらと輝く指輪がセットされていた。

 女と結婚するつもりなんだ、と思った。……どん底に突き落とされる感じがした。

 せめてもの腹いせとして、祐介の目の前で指輪を窓の外に放り投げてやった。

 祐介は必死の形相で外に飛び出した。

 ベランダから下を見る。祐介は道路のほうまで一生懸命探している。

 ざまあみろ、と思った。指輪なんて失くしてしまえばいいんだ。……なくすついでに、結婚もなくなってしまえばいいのに。涙がぽろりと頬を転がり落ちた。

 ……不意に、つんざくようなブレーキ音が聞こえた。


 夜半過ぎ、祐介が起きてきた。

「お前、まだ起きてるのか……」

「締め切り前なんだ」

 ダイニングテーブルでカタカタとキーボードを叩く千尋の傍らで、祐介は喉が渇いたのか、グラスに入れた水をごくごくと飲んだ。そのかたちの良い喉仏の動きについ見惚れてしまう。……気付かれぬよう、そっと目を逸らした。

「お前、この指輪って知ってるか?」

 不意に、祐介が千尋に話を振ってきた。彼の左手を見せられて、千尋は動揺した。

「し、知らない」

「俺とお前、一緒に住んでたんだろう? そんなことも聞いてないのか」

「……知らない」

 千尋は意地になったように、知らないという言葉を繰り返した。

 ……指輪。そんなもの知らない。知りたくない。

「じゃあ、これは何だ?」

 祐介が千尋の左手をとった。薬指に指輪が光っていた。

「俺のと、揃いの指輪だろう?」

 祐介の手と並べられる。確かに、一緒だった。

 つい出来心で彼女のものをはめてみたんだ。そしたらぴったりだったんだ。だから……。

 でも、そんなこといえなかった。千尋は黙り込んだ。沈黙が痛い。

「そんな、苛めようと思っていってるんじゃないんだから……」

 祐介は困惑した顔で溜め息をつく。

「……どうして、あのとき指輪を投げたんだ?」

 千尋は弾かれたように視線を上げた。意外にも彼は愛しむような目で千尋を見守っていた。

「記憶、戻ったの!?」

「……まあな。とりあえずそれは置いといて、どうしてだ?」

「……結婚するんだろ?」

「は?」

「見合いした女と、結婚するんだろ? ……投げたのは悪かったけど、指輪くらい買いなおせよ。俺のこと、裏切ったんだから……」

 祐介はしばらく千尋の顔をじっとみつめた後、不意に大きな声で笑い出した。

「な、何で笑うんだよ!」

 千尋は訳が分からなかった。

 祐介はようやく笑いをおさめ、説明してくれた。

「指輪の裏、見てみろよ?」

 リングをそっと抜き取る。日付と名前が彫られていた。

"YUUSUKE TO CHIHIRO"

「ごめん、千尋……誤解させたな。見合いはとっくに断った。……その指輪は、お前にやろうと思って買ったんだ。事故ってまで守った指輪だ……受け取ってくれるか?」

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