18
美帆が倒れたその日のうちに、美帆へのモルヒネ投与による終末期医療が開始された。
神山の話によると、もういつ多臓器不全を起こし死に至ってもおかしくないという。
浩輝も駆けつけたが、もう前の状態ではなかった。
浩輝は黙って美帆の手を握っている。
美帆は浩輝の顔を見て微笑むが、その笑みは弱々しかった。
いざその状態になると、以外と心が座っているもんだと公一は思った。
少し美帆の容態が持ち直し、小康状態に落ち着いた頃だった。
「お父さん・・・。」
横で眠ろうとしていた公一に美帆が声を掛けた。
「どうした?痛むのか?」
公一は起き上がり、美帆の髪の毛を優しく撫でながら聞いた。
「お父さん。お願いがあるの。」
「美帆のお願いなら何でも聞くぞ!」
微笑みながら答える。
「ありがとう・・・。あのね・・・。」
とても穏やかな声だった。
「ねえ、ヒロ。鎌倉の海に行きたい。」
そう言われて浩輝は戸惑った。
外出出来るようには思えなかった。
「大丈夫。先生の許可はもらったから!」
浩輝は不安げに公一を振り返る。
公一は答えずに黙って頷いた。
そして、ふたりは鎌倉へ向かう電車の中にいた。
隣に座る美帆は、いつものように浩輝の肩に頭を預けている。
前と違うのは、美帆の唇に引かれたルージュの色が濃いことだった。
そのままでは唇の青さが目立ってしまうので、由美子が引いてくれていた。
鎌倉駅に着くと、タクシーを拾い、そのまま由比ヶ浜を目指した。
タクシーを降りて砂浜へ向かう。
そして以前、ファーストキスをした階段に腰掛けた。
3月とはいえ風が冷たかった。
浩輝は持ってきた毛布を美帆の肩に掛けた。
「大丈夫か?」
「うん。ありがと・・・。」
美帆は微笑むと、浩輝の手を握りしめ、そのまま海に視線を移した。
浩輝も海を見つめた。
穏やかな波が打ち寄せていた。
そのまま長い時間、ふたりはそのまま佇んでいた。
「ヒロ・・・。」
美帆は海を見つめたまま浩輝の名前を呼んだ。
「なに?」
美帆は浩輝の手を強く握りしめた。
「人間って、何のために生まれてくるのかな?」
浩輝はハッとして美帆の顔を見つめた。
その顔はまるでこの海のように穏やかな表情だった。
美帆は何かを悟っているような気がした。
「それは・・・。」
浩輝には答えが出せなかった。
そんなことを考えたこともなかった。
美帆は不意に浩輝に顔を向け、微笑んだ。
その表情は少し寂しそうに見えた。
「ありがとう・・・。ヒロ・・・。ごめんね・・・。」
笑顔のまま、美帆は続けた。
「しばらくヒロに会えない。」
「え?」
浩輝は絶句した。
「どうして?」
美帆は表情を崩さないまま答える。
「こんな弱っちい私を見て欲しくない。だから・・・。」
ニッコリ微笑む美帆。
「私が元気になったら会いに来て!」
「そんな事出来るわけ・・・。」
「お願い!」
美帆が叫んだ。
「お願いだから・・・。」
美帆は下を向いた。
「美帆・・・。」
少しして美帆が立ち上がった。
浩輝はその姿を見上げていた。
「じゃあね。」
美帆は明るく微笑むと、車道に向かって歩きだした。
「美帆!」
浩輝は立ち上がって追いかけると、後ろから美帆を力いっぱい抱きしめた。
「ヒロ!」
美帆は後ろを振り返り、浩輝の唇に素早くキスをした。
「その時まで、バイバイ!」
もう一度浩輝の頬にキスをすると、車道に向かって歩いていった。
浩輝は追いかけられなかった。
そのまま美帆を見送っていると、そこには公一が立っていた。
公一は厳しい表情で頷いた。
美帆はそのまま公一の車に乗り、走り去った。
病院へ向かって車を走らせていると、後部座席からすすり泣きが聞こえてきた。
やがてそれは嗚咽に変わり、やがて美帆は声を上げて泣いた。
公一は黙ってそれを見守りながら、車を走らせた。
浩輝は、美帆の残していった毛布を頭から被ると、そのまま階段に腰掛けた。
そのまま朝までずっと、波の音を聞き続けた。