空から落ちてきた桜の舟
約2万字の短編です。春の吉野山で起きた、少し不思議な話です。
吉野山の坂は、思っていたより急だった。
紗良は駅で買った水のペットボトルを肩掛けの鞄に押し込み、前を歩く弟の背中を見た。律は小学五年生で、こういう場所に来るとすぐ先へ行きたがる。今日は父も母も仕事なので、花見に行きたいと言い出した律の付き添いを、紗良が引き受けることになった。
「姉ちゃん、遅い」
律が振り返った。額に汗が浮いているのに、声だけは元気だった。
「先に行くなって言うたやろ」
「行ってない。待ってる」
「それは待ってるって言わへん」
坂の両側には土産物屋が並んでいた。葛餅、柿の葉寿司、桜色の菓子。店先から甘い匂いと醤油の匂いが混ざって流れてくる。観光客はみな上を見て歩いていた。スマートフォンを掲げる人、杖をつく人、子どもの手を引く人。誰もが少しずつ息を切らしている。
律は店の前で足を止めた。
「アイス」
「あとで」
「今がいい」
「溶ける」
「食べるから溶けない」
「そういう問題ちゃう」
律は不満そうに口を尖らせたが、次の桜を見つけるとすぐ忘れた。道の先、寺の脇に一本だけ八重桜が枝を張っていた。山の桜はほとんどが白っぽい山桜なのに、その木だけが重たく咲いている。青い空の下、淡い桃色の花がいくつも固まって咲いている。葉は黄緑でところどころ橙色に近く、日差しを透かして薄く光っていた。
紗良は足を止めた。
桜の枝は寺の屋根の上へ斜めに伸びていた。古い瓦が奥でぼけている。枝の皮はざらつき、節がいくつもある。その上に重たい花房が乗っていた。風が吹くと、花だけが少し遅れて揺れる。
「撮って」
律が言った。
「何を」
「あれ。空と一緒に。母さんに送る」
「自分で撮ったらええやん」
「姉ちゃんのスマホのほうがきれいやん」
「腕の問題」
「じゃあ腕を貸して」
紗良は笑い、スマートフォンを取り出した。画面の中に桜の枝を入れる。花が近すぎて空が少ししか入らない。紗良は一歩下がり、枝の隙間から青空と白い雲が見える位置を探した。
「そこ、車来るで」
律が言った。
「来えへん。ここ歩道」
「観光バス、でかいから」
「分かってる」
シャッター音が鳴った。
その瞬間、風が止まった気がした。
周りの声も消えたわけではない。店の人が客を呼ぶ声も、靴音も、遠くのバスのエンジン音もある。ただ、桜の枝だけが音を吸ったように静かだった。
紗良は画面を確認した。
写真はよく撮れていた。手前の桜は明るく、花びらの重なりまで見える。青空の右側には大きな白い雲が流れていた。寺の屋根は斜めに入り、瓦の丸い形がぼけている。
その雲の下に、小さなものが写っていた。
最初は鳥かと思った。けれど鳥にしては形が丸い。拡大すると、それは舟だった。子どもの手のひらに乗りそうな、精巧な小舟に見えた。色は白に近い桃色で、縁が細かく波打っている。木ではない。花びらが何枚も重なって、舟の形を作っているように見えた。
「何これ」
紗良はつぶやいた。
律が横から画面をのぞいた。
「何が?」
「ここ」
紗良は指で拡大したまま、雲の下を示した。
律は眉を寄せた。
「桜?」
「舟に見えへん?」
「見えへん。白いのがぼけてるだけちゃう」
「ここ。ほら、縁があるやろ」
「分からん」
律はすぐ興味をなくし、近くの石段へ歩き出した。紗良はもう一度空を見上げ、写真と同じ角度で桜の枝と雲を探す。
何もなかった。
青い空があり、白い雲があり、桜が揺れている。それだけだった。
気のせいだと思おうとした。レンズに花びらでも重なったのかもしれない。光の加減で雲の端が舟の形に見えただけかもしれない。
そのとき頭の上で何かが枝を擦る音がした。見上げても何もない。花びらが数枚だけ遅れて降ってきた。
「姉ちゃん、どこ見てるん」
律の声がした。
紗良は答えなかった。寺の屋根の端、桜の枝がかかるあたりに、淡い色のかたまりが引っかかっている。花房にしては大きい。布にしては薄い。風で少しだけ揺れた。
紗良は足元を見てから石段を上がった。
「入っていいとこ?」
律が後ろから聞いた。
「分からん。あかんって書いてへん」
「あかん人の言い方や」
「見るだけ」
石段の上はさっきより人が少なかった。境内の端には立入禁止の札があり、その向こうに屋根の低い建物が続いている。建物の前には低い塀があり、その上に立てば軒へ手が届きそうだった。
屋根の上のかたまりは、その建物の隅にあった。
近づくほど、胸が変にざわついた。
それは確かに舟だった。
桜の花びらが重なってできた舟。写真では小さな飾り物のように見えたのに、ここから見ると子ども一人が横になれるほどの長さがあった。舟底は屋根瓦に乗り、舳先が桜の枝に軽く引っかかっていた。花びらでできているはずなのに、重さがあるように瓦を少し沈ませている。花びらの重なりの奥に一本だけ黒い筋が通っていた。枯れ枝のように見えた。
そして舟の中に子どもが眠っていた。
「……見える?」
紗良は声を落とした。
「何が」
律は首をかしげた。
「舟」
「舟?」
「屋根の上」
律は目を細めた。しばらく見てから肩をすくめた。
「桜の枝しかない」
紗良は息を吸った。子どもは五歳くらいに見えた。古い形の着物を着ている。頬は白く、まぶたは閉じていた。髪にも袖にも桜の花びらが貼りついている。死んでいるようには見えない。ただ深く眠っている。
「姉ちゃん、顔怖い」
律が言った。
「静かにして」
「俺、何もしてへん」
「分かってる」
紗良はスマートフォンを握りしめた。もう一枚撮ろうとしたが、指がうまく動かなかった。
背後で砂利を踏む音がした。
「その場所で、何を見ておられますか」
低い声だった。
紗良が振り返ると黒い衣を着た年配の住職が立っていた。穏やかな顔をしていたが、目だけが紗良の後ろ、屋根の上へ向いていた。
「すみません。入ったらあかんかったですか」
「そこから先は、お客様にはご遠慮いただいています」
住職はそう言ったあと、少し間を置いた。
「ですが、今はそれより、あなたが何を見たのかを聞きたい」
律が紗良の袖を引いた。
「怒られるやつ?」
「たぶん」
「たぶんて」
住職は律を見た。それから紗良に視線を戻した。
「写真を撮りましたか」
紗良は答えなかった。答えたら、何かが決まってしまう気がした。
「撮りましたね」
住職の声は静かだった。
「見せていただけますか」
「なんでですか」
「確認したいものがあります」
「何を」
住職は屋根の上を見た。紗良もつられて振り返った。舟はまだそこにある。眠る子どもの胸が、ほんの少し上下したように見えた。
「ここで話すことではありません」
「ほな、話さんでいいです」
紗良は律の手を取った。
「行こ」
「アイスは?」
「あと」
「またあと?」
律は文句を言いながらも、紗良の手に引かれた。
住職が一歩、前に出た。
「待ってください」
その声は大きくなかった。けれど、紗良の足は止まった。
「その舟を見つけた人を、こちらは長く待っていました」
紗良は振り返った。
「舟って、言いました?」
律が紗良と住職を交互に見た。
「舟? ほんまにあるん?」
住職は律には答えなかった。紗良だけを見ていた。
「見つけたのは、あなたですか」
「写真に写ってただけです」
「先代が残した記録にも、写真に写ったのが最初だったとあります」
「先代?」
「百年前のことです」
紗良は笑いそうになった。けれど笑えなかった。住職の顔が冗談を言う人の顔ではなかったからだ。
「意味が分かりません」
住職は何かを言いかけ、口を閉じた。
「だったら、もう帰ります」
「帰れるなら、それが一番いい」
住職はそこで初めて、苦しそうに息を吐いた。
「けれど、たぶん山はもう、あなたを見ています」
紗良の手の中で、律の指が動いた。
「姉ちゃん、痛い」
強く握りすぎていた。紗良は慌てて力を緩めた。
「ごめん」
住職は律の顔を見た。目元がわずかに曇った。
「弟さんですか」
「そうですけど」
「お名前は――いえ」
住職はそこで言葉を切った。
「口には出さないでください。舟のそばで呼ぶと、山に届きます」
紗良は答えなかった。
住職はもう一度、屋根の上を見た。桜の舟は、さっきより少しこちらへ向きを変えているように見えた。舳先が紗良ではなく律のほうを向いている。
「見つけたのが、あなたでなければよかった」
住職は低い声で言った。
紗良は律を自分の後ろへ引いた。
「名前なんて、聞いてどうするんですか」
「記録と照らして、確かめたいのです。名を山に渡さずに済むよう、紙に書いていただきたい」
住職は袂から、折りたたんだ紙と短い鉛筆を取り出した。
律が後ろで小さく言った。
「姉ちゃん、帰ろう」
紗良は屋根の上を見た。眠っている子どもの指先に、桜の花びらが一枚、貼りついていた。風が吹いても、それだけは落ちなかった。
紗良は、紙を受け取らなかった。
律は紗良の背中に半分隠れるようにして、住職を見ている。さっきまでアイスのことで文句を言っていたのに、今は黙っていた。小学生なりに、ここで余計なことを言わないほうがいいと分かったのだろう。
「名前を書いたら、どうなるんですか」
紗良は聞いた。
住職は頭を上げた。顔は穏やかだったが、目元に深い皺が寄っている。
「記録には、名を呼ばれて影を失った子のことが残っています。弟さんの影に変わりがないか、名を呼ばずに確かめておきたい」
「せやったら、名前なんか書かんでも影を見たらええやないですか」
住職の手が止まった。
「……そうですね」
差し出されていた紙が少し下がった。
「なぜ紙なんですか」
「音にした名は山へ届きます。文字なら、こちらだけで読めると伝わっています」
「ほんまに?」
住職はすぐには答えなかった。
紗良は屋根の上を見た。桜の舟は瓦の上に乗ったまま、動いていない。花びらでできた舳先がこちらを向いているように見える。舟の中の子どもは眠ったままだった。小さな胸がゆっくり上下している。
「意味が分かりません」
「庫裏へ来てください。ここでは人目があります」
「人目って、誰も見えてへんのでしょう」
「舟が見えなくても、私たちを見ている人はいます」
住職は参道のほうへ目を向けた。境内の向こうでは観光客が桜を見上げ、写真を撮っていた。笑い声が聞こえる。誰かが「満開やな」と言った。別の誰かが団子の包みを開けていた。
同じ場所なのに、紗良たちの周りだけ空気が違っていた。
律が袖を引いた。
「姉ちゃん、帰ろう」
「うん」
紗良はうなずいた。
「帰ります」
住職は止めなかった。ただ、静かに言った。
「山を下りられるなら、それがいい。ですが、もし同じ場所へ戻ってしまったら、無理に歩き続けないでください」
「どういうことですか」
住職は紗良と律を見た。答えを選んでいるような間があった。
紗良はもう聞かなかった。
律の手を引いて石段を下りた。急ぎすぎないように歩いた。走ると、本当に怖いことが起きていると認めることになる気がした。
土産物屋の前まで戻ると、さっきと同じ匂いがした。葛餅の甘い匂い。焼いた醤油の匂い。観光客の靴が砂利を踏む音。全部が普通だった。
「なあ、舟ってほんまにあるん?」
律が小声で聞いた。
「知らん」
「姉ちゃんは見えてるんやろ」
「見間違いかもしれへん」
「住職さんも舟って言ってた」
「聞き間違い」
「姉ちゃん、さっきから全部まちがいやん」
紗良は言い返せなかった。
坂を下りる道に入った。駅へ続く道のはずだった。来たときに通った土産物屋の前を過ぎ、赤いのぼりの横を曲がる。律は途中で何度も振り返った。
「アイスは?」
「今それどころちゃう」
「さっき、あとでって言った」
「あとでって言うたけど、今日はなし」
「えー」
律の声がいつもの調子に戻った。そのことに紗良は少し安心した。大丈夫。まだ普通だ。弟は見えていない。自分が落ち着けばいい。
十分ほど歩いたはずだった。
けれど曲がり角の先にさっきの寺の門が見えた。
紗良は足を止めた。
「……なんで」
「戻ってきた?」
律が首をかしげた。
「道、間違えたかな」
「姉ちゃん、方向音痴やしな」
「黙っといて」
紗良はスマートフォンの地図を開いた。現在地の丸印は寺の少し下を示している。駅へ向かう道は右へ折れるはずだった。紗良は地図の通りに歩いたつもりだった。
もう一度、別の道を選んだ。
人の流れに逆らいながら、坂を下りる。途中で律が息を切らしたので、水を飲ませた。桜の枝が道の上に張り出している。花びらが一枚、律の肩に落ちた。
「ついてる」
紗良が取ろうとした。
花びらは律の肩に貼りついていた。
指でつまむと、すぐ取れた。けれど布に薄い桃色の跡が残った。汚れではない。影のように見えた。
「痛い?」
「何が」
「なんもない」
律はペットボトルを返しながら、あくびをした。
「眠い」
「昨日、夜更かしするからや」
「してへん。ちょっとゲームしただけ」
「それを夜更かしって言うねん」
紗良は言いながら、律の足元を見た。
傾きかけた日が斜めに差している。通りを歩く人の影は濃く長く伸びていた。紗良の影も石畳の上にはっきり落ちている。
律の影だけが、薄かった。
輪郭がぼやけ、色が淡い。黒ではなく、桜の花びらを水に溶かしたような色をしていた。
紗良は息を止めた。
「なあ」
「ん?」
「そこ、動かんといて」
「なんで」
「ええから」
紗良は自分の影と律の影を見比べた。光の角度のせいではない。律の靴、足、肩の形は影になっている。けれど全部が薄い。今にも石の上から消えそうだった。
律は自分の足元を見た。
「何これ」
その声で紗良は弟にも見えていることを知った。
「姉ちゃん、俺の影、変」
「大丈夫」
「大丈夫ちゃうやん」
「大丈夫やから」
自分でも信じていない言葉だった。
また道を下りた。今度は地図を見ながら、一つずつ角を確認した。観光案内所の看板を過ぎ、バス停の前を通り、茶店の横を抜ける。けれど細い坂を曲がった先にまた寺の門があった。
同じ門。
同じ石段。
同じ屋根。
屋根の上には、桜の舟があった。
舳先はさっきより低く、こちらへせり出していた。舟の中の子どもの手が縁から少し出ている。指先に貼りついた花びらは落ちていない。
住職は門の脇に立っていた。待っていたようだった。
紗良は律の手を強く握った。
「何をしたんですか」
「私ではありません」
「ほな、誰が」
「山です」
「そういうの、やめてください」
住職は律の足元を見て、唇を結んだ。
「影が、薄くなっていますね」
「分かってたんですか」
住職は答えなかった。
「今ならまだ、話せます。弟さんを休ませたほうがいい」
律は紗良の手を握ったまま、目をこすっていた。さっきより顔色が白い。
「眠いだけ」
律が言った。
「歩いたから」
「うん。分かってる」
紗良は住職をにらんだ。
「少しだけです。話を聞いたら帰ります」
「帰る道は、話のあとで探しましょう」
その言い方が気に入らなかったが、律の手が熱かった。いや、熱いのではない。紗良の手だけが冷えているのかもしれなかった。
庫裏は本堂の奥にあった。観光客の声は戸を閉めると遠くなった。木の廊下は冷たく、少し湿った匂いがする。壁には古い写真がかかっていた。満開の桜。今より細い道。和服の人々。どの写真にも同じような屋根が写っている。
座敷に通されると、住職は麦茶を出した。律は畳に座るなり、湯飲みを両手で持った。
「まず、弟の名前を書かせるのはやめてください」
紗良は言った。
「分かりました」
住職は紙と鉛筆を自分の脇へ置いた。
「では、お姉さん。あなたのお名前は」
「それも必要ですか」
「舟を見つけた方の名は、眠る子を定める名ではありません」
「信じられません」
住職はうなずいた。
「では、お姉さんとお呼びします」
紗良は少し黙った。
「紗良です」
住職は小さく頭を下げた。
「紗良さん。あなたが見た舟は、こちらでは桜舟と呼ばれています」
「作り物ですか」
「いいえ」
「ほな何ですか」
「返すための舟です」
「何を」
住職は床の間の横に置かれた低い箪笥を開けた。中から布に包まれた帳面を取り出す。表紙は黒ずみ、紐は毛羽立っていた。開くと、墨で書かれた名前が並んでいる。名前の横に書かれた年は、どれも百年ずつ離れていた。いちばん新しい行だけ、名のところが墨で黒く塗りつぶされている。表紙の裏には太い字で一行だけ書かれていた。舟の芯の枝に、触れるべからず。
「昔、山の桜が咲かなくなった年がありました。いつのことかは、もう分かりません。いちばん古い帳面にも、すでに『先の例にならう』と書かれています」
紗良は黙っていた。
「花が咲かなければ、人は来ない。人が来なければ、店も寺も道も保てない。当時は今よりずっと、山に頼って暮らしていました。飢えた家もあったと聞いています」
「それで、子どもを?」
声が思ったより低く出た。
住職は目を伏せた。
「死なせたのではない、という言い方を、昔の人はしました」
「同じことやないですか」
「そうかもしれません」
律が湯飲みを置いた。
「子どもって、屋根の上の?」
住職は律を見た。
「はい」
「寝てるだけ?」
「山の眠りに入っていました」
「百年?」
「百年です」
律は眉を寄せた。
「退屈やな」
紗良は弟を見た。怖がるかと思ったのに、律はまずそこを気にした。住職の口元が少しだけ動いた。笑いかけて、やめたようだった。
「百年に一度、桜舟は戻ります。眠っていた子を一人、人里へ返すために」
「ほな、ええことやないですか」
紗良は言った。
「返して終わりなら」
住職の声が低くなった。
「舟は、空っぽのままでは戻れません。次の眠りを乗せなければ、山へ帰れない」
律が湯飲みを見つめたまま、またあくびをした。
紗良は住職の言葉をすぐには理解しなかった。理解したくなかった。
「次の眠りって」
「次の百年、山の春を支える子です」
「誰が選ぶんですか」
「舟です」
「舟が?」
「正確には、山が」
「ふざけんといてください」
「ふざけてはいません」
住職は静かに言った。
「桜舟を見つけた者の、大切な人が選ばれます。本人ではありません。大切な人です」
紗良は律のほうを見た。
律は畳に手をつき、眠気をこらえるようにまばたきをしていた。傾いた日が障子越しに入っている。畳の上に落ちた律の影は、やはり薄かった。桜色に近い。人の影ではなく、花びらの跡のようだった。
「嘘です」
紗良は言った。
住職は帳面を閉じなかった。
「そんな話、あるわけないやん」
「そう思います」
「ほな、帰ります」
紗良は立ち上がった。律も慌てて腰を上げようとしたが、ふらついた。
「律」
名前を呼んだ瞬間、住職の顔が変わった。
紗良は自分の口を押さえた。
「今のは」
障子の外で桜が一斉に揺れた。
風の音ではなかった。遠くから近くへ、ざわざわと花が擦れる音だけが押し寄せた。律の足元の影がさらに薄くなる。
住職は目を閉じた。
「届いてしまいました」
「だって、弟の名前を呼んだだけです」
「この寺も、舟のそばです。名を呼べば、山に誰なのか知られてしまう」
「もう、決まったんですか」
「まだです。名だけでは、眠りは定まりません」
「ほな、どうしたら」
住職は帳面の端を押さえた。指に力が入っているのが分かった。
「弟さんに、眠ると約束させないでください。自分が行くとも。その言葉を口にしたあとで、大切な人から名を呼ばれれば、迎えが始まります」
「そんなこと、最初に言うてください」
住職は顔を上げなかった。
紗良は律の腕をつかんだ。
「帰る」
今度は住職も止めなかった。
庫裏を出て、廊下を抜け、境内へ戻る。夕方になりかけていた。観光客の数は減っている。けれど桜はまだ明るく咲いていた。淡い桃色の花が空の光を集めている。
紗良は山門へ向かった。
右の坂を下りる。地図を見る。分岐で左へ行く。観光案内の矢印に従う。律は何度も足を止めた。眠い、少し休みたい、と言う。そのたびに紗良は、大丈夫、もう少し、と言った。
三度目の角を曲がったとき、また寺の屋根が見えた。
屋根の上の桜舟は、さっきより軒の近くにあった。まるで瓦の上を少しずつ滑ってきたようだった。舳先はまっすぐ律を向いている。
舟の中の子どものまぶたが、かすかに動いた。
律が紗良の手を離した。
「姉ちゃん」
「何」
「俺、眠い」
「寝たらあかん」
「なんで」
「あかんから」
「ちょっとだけ」
律はその場にしゃがみ込んだ。紗良が腕を引いても、体に力が入らない。石畳の上に律の影が薄く広がっている。桃色の影は足元から少しずつ欠けていた。
「立って」
「無理」
「お願い」
紗良の声が震えた。
そのとき屋根の上で小さな音がした。
花びらが瓦を擦る音だった。
舟の中の子どもが、ゆっくりと目を開けた。
黒い目だった。眠っていたとは思えないほど、はっきりこちらを見ている。子どもは体を起こさないまま、首だけを少し動かした。紗良を見て、それから律を見た。
唇が開いた。
「次に眠るのは、あの子」
声は小さかった。けれど、境内の端まで届いた気がした。
律は聞こえていないように、目を閉じかけていた。紗良は弟の肩を抱き、屋根の上の子どもを見返した。
桜の花びらが一枚、子どもの袖から落ちた。瓦に触れる前に黒くなり、音もなく消えた。
子どもは、まだ舟の中にいた。
目を開けたまま、瓦の上からこちらを見ている。黒い目だった。百年も眠っていた子どもの目には見えなかった。眠りから覚めたばかりなら、もっとぼんやりしていてもいいはずなのに、その目は紗良よりも、住職よりも、山のことを知っているように見えた。
律は紗良の腕の中で半分眠りかけていた。頭が肩に寄りかかり、呼吸が浅い。足元の影は薄く、石畳に落ちた花びらの跡のように見える。
「起きて」
紗良は頬を軽く叩いた。
「ん……起きてる」
「寝たらあかん」
「眠いだけやって」
「あかん」
律は不満そうに眉を寄せたが、立ち上がろうとはしなかった。膝に力が入っていない。
住職が近づこうとした。
「触らんといてください」
紗良は言った。
住職は足を止めた。
「抱えて、庫裏へ戻りましょう。ここにいるほうが危ない」
「何されるか分からん場所に戻れって言うんですか」
「私が何かをするわけではありません」
「さっきもそう言いました」
紗良の声は自分で思ったより鋭かった。住職は反論しなかった。ただ、屋根の上を見た。
舟の中の子どもが、ゆっくりと体を起こした。古い着物の袖から花びらが数枚落ちる。瓦に触れる前に、その花びらは黒くなり、薄い灰のように消えた。
「その子は誰ですか」
紗良は聞いた。
「分かりません」
「分からへん?」
「帳面には、眠った子の名が百年ごとに残っています。ですが、百年前の行だけは、名のところが塗りつぶされている」
「誰がそんなこと」
「分かりません。誰にも呼ばせないためだったのかもしれません」
「本人に聞いたら」
住職は舟を見た。
「覚えているかどうかも、まだ分かりません。まず、こちらへ降りてもらわなければ」
子どもは舟の縁に手をかけた。花びらでできた舟がまるで固い板のように子どもを支えていた。舟の真ん中を通る黒い枝が、その背を受け止めている。
「ここ、どこ」
子どもが言った。
小さな声だった。けれど、はっきり聞こえた。
「吉野山です」
住職が答えた。
子どもは空を見上げた。青かった空は夕方に近づいて少し白く濁っている。桜はまだ咲いていた。けれど花の端に墨を落としたような黒が混じり始めている。
「まだ、咲いておる」
子どもはそう言った。
その声に、うれしさがあった。
紗良は息を止めた。助け出された子どもなら、泣くと思っていた。家に帰りたいと言うと思っていた。なのに、その子は自分の手足より先に、桜を見た。
「降りられますか」
住職が聞いた。
子どもはうなずいた。舟の縁をまたぎ、屋根瓦に足を置く。小さな足袋は汚れていない。軒の端へ進むと、低い塀に片足を下ろした。住職が差し伸べた手にはつかまらず、そのまま境内へ降りた。
足音は、ほとんどしなかった。
「百年、経ったんですか」
子どもが聞いた。
「はい」
「じゃあ、わたし、ちゃんと眠れたんですね」
住職は答えなかった。
紗良は律の肩を支えながら子どもを見た。
「ちゃんとって、何なん」
子どもは紗良を見た。
「春の役目です」
「役目?」
「眠って、春を置いておくんです。山が忘れぬように」
紗良は言葉を失った。
結局、律を休ませるために庫裏へ戻るしかなかった。住職が律の反対側へ回り、紗良と二人で肩を支えた。子どもは、その後ろをついてきた。
座敷へ入ると、住職は古い帳面をもう一冊出した。さっき見せたものより薄く、表紙の端が虫に食われていた。座敷の外では桜の花が揺れている。さっきより風が強い。風が吹くたび、花びらの縁の黒が少し広がる。
律は座布団に横になっていた。眠らせたくなかったが、座っていられなかった。紗良は何度も名前を呼びそうになり、そのたびに口を閉じた。
「呼ばないほうがいい」
返された子どもが言った。
「分かってる」
「分かってない顔してる」
「あんたに何が分かるん」
子どもは畳の上に正座していた。古い着物は乾いていて、桜の匂いがした。土の匂いも汗の匂いもしない。眠りの中にいたものの匂いだった。
住職は帳面を開いた。
「残っている中でいちばん古い例では、この山の桜は三年続けて咲きませんでした。虫、病、雨、土砂崩れ。理由はいくつも書かれています。けれど最後には、山が春を失った、と」
「だから子どもを差し出した?」
紗良は言った。
「どうかしてる」
「そうです」
住職は静かに認めた。
「どうかしていたのだと思います。ですが、当時の人々には、それ以外の方法が見えなかった」
「見えへんかったら、何してもええんですか」
「よくありません」
「せやったら今すぐ止めてください」
住職は帳面に視線を落とした。
「止め方は、伝わっていません」
紗良は笑った。乾いた声だった。
「続け方だけは分かるんですね」
住職は何も言わなかった。
子どもが、帳面の文字をのぞき込んだ。
「花が戻った日」
細い指が墨の行をなぞった。
「山が明るくなった日。店が開いた日」
「読めるのですか」
住職が聞いた。
「少し」
紗良は子どもの指先を見た。
「あんたは、覚えてるん」
「少し」
「眠ってたんちゃうの」
「眠ってました。でも、春は分かりました」
子どもは窓の外を見た。
「花が開くと、明るいんです。人の声が上がってくる。きれいやな、今年も咲いたな、って。お腹が空いて泣いてる声は、だんだん聞こえなくなりました」
紗良は黙った。
「だから、よかったんです」
子どもは言った。
「何が」
「わたしが眠ったから、咲いたんでしょう」
その言い方には、疑いがなかった。
紗良の胸が冷えた。
「ようない」
「でも咲いてます」
「あんたは百年も眠ってたんやで」
「はい」
「家族は?」
子どもは少しだけ首をかしげた。
「いたと思います」
「会いたくないの」
「もう、おりますまい」
声は平らだった。泣くでもなく、怒るでもない。その平らさが、紗良には怖かった。
律が小さく寝返りを打った。紗良は慌ててそばに寄った。まぶたは閉じている。呼吸はある。けれど影がさらに薄くなっていた。障子越しの夕方の光の中で律の体だけが少し遠くにあるように見える。
「この子は連れていかせへん」
紗良は言った。
「連れていけば、次の百年も咲きます」
返された子どもが言った。
「何言うてるん」
「山が眠りを欲しがってます」
「せやから何」
「眠れば、死なない」
「百年戻れないなら、同じことやろ」
思わず、強い声が出た。子どもは少しだけ目を伏せた。
「同じじゃないです」
「同じや」
「死んだら、春は分かりませぬ」
子どもは窓の外を見た。
「眠っていれば、桜が咲くのが分かる。誰かが笑うのが分かる。自分がまだ役に立っているのが分かる」
紗良は、その言葉をすぐには否定できなかった。
もし律が眠ることで、山が守られると言われたら。人が飢えず、店が続き、春が戻ると言われたら。それでも絶対に違うと言える。言えるはずだった。
けれど頭のどこかで、ほんの一瞬だけ、眠るだけなら、と思った。
死ぬわけではない。百年後には戻る。そう思えば、窓の外で広がり始めた黒ずみも止められるのかもしれない。
その一瞬が、自分で怖かった。
「姉ちゃん」
律が目を開けた。
紗良は膝をついた。
「起きた?」
「うん。外、暗い?」
「まだ夕方」
「なんか、寒い」
紗良は自分の上着を律にかけた。
そのとき廊下の向こうから人を呼ぶ声がした。
住職が立ち上がり、座敷を出た。短い話し声のあとで、戻ってくる。顔色が変わっていた。
「境内で、人が倒れ始めています」
紗良は立ち上がった。
「倒れる?」
「眠りです。まだ浅い。ですが、このまま舟が戻れなければ、広がると記録にあります」
「脅してるんですか」
住職は首を振った。
「寺の者に、参道の店にも様子を見に行くよう頼みました。倒れた方は、安全なところへ移します」
紗良は廊下へ出た。境内には数人の観光客が座り込んでいた。茶店の前で女性がベンチにもたれて眠っている。子どもを抱いた男性が立ったまま船をこぐように揺れていた。寺の人が駆け寄り、男性を腰かけへ誘導している。
桜の花は枝の先から黒ずんでいた。満開の桃色の中に焦げた紙のような色が混じっている。
「なんで」
紗良はつぶやいた。
「あなたが逃げようとしたからではありません」
住職が後ろで言った。
「舟が戻れないからです」
「同じことやないですか」
返された子どもも廊下に出てきた。小さな足袋の足音は、しなかった。
「早く乗せないと、もっと眠ります」
「やめて」
「弟さんだけなら、一人で済みます」
紗良は振り返った。
「そんな言い方せんといて」
子どもは不思議そうに見返した。
「一人で済むのは、いいことです」
「ようない」
「みんな眠るより、いいです」
「ちゃう」
「何が違うんですか」
紗良は答えられなかった。違う。絶対に違う。けれど、何がどう違うのか、言葉が追いつかなかった。
律が廊下の柱につかまりながら立っていた。
「俺が寝たら、みんな起きるん?」
紗良は息をのんだ。
「聞かんでええ」
「でも、そういう話やろ」
「ちゃう」
「違わへんやん」
律は外を見た。眠っている観光客たち。黒くなり始めた桜。それから、屋根の上。律に舟は見えないはずだった。それでも律は、そこから目を離さなかった。
「俺、百年寝るん?」
「寝えへん」
紗良は即座に言った。
「絶対に寝えへん」
「でも、姉ちゃん困ってる」
「困ってへん」
「困ってるときの顔してる」
律は小さく笑った。笑う場面ではなかった。
「俺、寝るだけなら、できるかも」
「何言うてるん」
「注射よりましやし」
「ふざけんといて」
「ふざけてない」
律の声は弱かった。けれど、さっきよりはっきりしていた。
「姉ちゃんが困るなら、俺が行く」
「あかん!」
紗良の声が境内に響いた。眠っていた人の何人かが少しだけ身じろぎした。桜の枝がざわつく。舟の中の花びらが浮き上がった。
紗良は律の肩をつかんだ。
「そういうこと言わんといて。絶対に言わんといて」
「でも」
「私は、あんたを連れて帰るためにここにおるんや」
「山は?」
「知らん」
言ってから、紗良は自分の言葉に息を止めた。
知らん。
そう言えば楽だった。弟さえ助かれば、山がどうなってもいい。倒れている人たちがどうなってもいい。桜が枯れてもいい。
本当にそう思ったのか。
返された子どもが、紗良を見ていた。
「ほら」
「何」
「大切な人がいると、ほかの人のことは小さくなります」
紗良は言い返せなかった。
子どもは静かに続けた。
「だから、一人が眠るんです。みんなを同じ大きさにするために」
「ちゃう」
「違わないです」
「ちゃう」
紗良はそれだけを繰り返した。
律が紗良の手から抜けた。廊下の端へ向かい、足を踏み外しかける。
「律」
呼んでしまった。
名前が、境内の空気に触れた。
住職が腕を伸ばした。律は柱に手をつき、かろうじて立っていた。
返された子どもが、小さく言った。
「行くと言った子を、呼んだ」
屋根の上の桜舟が音を立てた。
「今ので、迎えが始まります」
花びらが一斉に開く。舟の縁が眠る場所を広げるように大きくなった。
律は庭へ降り、ふらつきながら歩いた。紗良が腕を伸ばす。届いたはずなのに、指先が空を切った。距離は一歩分しかないのに、律の背中が遠い。
「待って」
律は振り返らなかった。
「姉ちゃん、泣くなよ」
「泣いてへん」
「声が泣いてる」
律は屋根の下まで行き、低い塀に手をかけた。桜舟が瓦を滑り、軒からゆっくり降りてくる。舳先は律の目の高さで止まった。
返された子どもが、そっと言った。
「触れたら、舟は手を離しません。乗ってしまえば、次の百年です」
紗良は走った。叫びかけた名前を、喉の奥で止めた。
弟が、何もない宙へ手を伸ばす。
「見えへんのに、なんかある」
律の指が、空を探った。そこに、舟の縁があった。
その指先が花びらに触れた瞬間、律の足元から影が消えた。
律の影が消えた。
石畳の上には紗良の影だけが残っていた。夕方の光はまだある。住職の影も、返された子どもの小さな影も、柱の影もある。それなのに、律の足元だけが抜け落ちたように白かった。
名前を叫びそうになり、紗良は唇を噛んだ。
弟の肩をつかむ。律は舟の縁に指をかけたまま、ぼんやりと屋根を見上げている。眠っているわけではない。けれど目の焦点が合っていなかった。
桜舟は低い塀の上に浮かんでいた。舳先が軒から斜めに下がり、律の目の高さまで伸びている。花びらでできているはずなのに、近くで見ると厚みがある。舟の縁は何枚もの花びらが重なり、乾いた紙のように硬そうだった。中心には一本の古い枝が通っている。黒く、細く、枯れているのに折れていない。
「手を離して」
紗良は律の指をはがそうとした。
律の手は冷たかった。
「なあ、聞こえてる?」
「……眠い」
「寝たらあかん」
「うん」
律はうなずいたが、手を離さなかった。桜舟のほうが律の指をつかんでいるように見えた。
住職が背後で息をのんだ。
「触れてしまった」
「だから何ですか」
「まだ乗ってはいません。ですが、名を受け取った舟は、迎える相手を離さない」
「止め方は分からへんのでしょう」
紗良が振り返ると住職は言葉を失ったように黙った。
返された子どもだけが静かに舟を見ていた。
「乗れば、楽になります」
「黙って」
「眠るだけです」
「黙ってって言うたやろ」
子どもは紗良を見た。怒ってはいなかった。ただ、不思議そうだった。
「怖いんですか」
「当たり前やろ」
「死ぬわけじゃないのに」
「百年戻られへんなら同じやって、さっき言うた」
「同じじゃないです」
子どもは繰り返した。
「わたしは春を見ていました」
「あんたは、自分にそう言い聞かせてるだけや」
紗良の声が震えた。言ってはいけないことを言った気がした。住職がわずかに顔を上げる。
子どもの表情は変わらなかった。けれど指先が着物の袖を握った。
外で風が吹いた。
境内の桜が一斉に鳴った。ざわざわという音の中に低い声のようなものが混じる。紗良には言葉までは分からない。ただ、急かされていることだけは分かった。
律の体が少し前へ傾いた。
「あかん!」
紗良は弟の腰に腕を回し、後ろへ引いた。桜舟がきしむ。花びらがこすれ、乾いた音を立てる。律の指は舟の縁から離れない。
「姉ちゃん、痛い」
「痛くても離して」
「なんもないのに、離れへん」
律の声は泣きそうだった。
紗良は舟の縁をつかんだ。
冷たいと思っていた。けれど熱かった。火ではない。長い時間、日差しを吸い込んだ石のような熱だった。触れた瞬間、頭の中に声が流れ込んできた。
きれいやな。
今年も咲いた。
助かった。
あの子のおかげや。
知らない人たちの声だった。古い声も、新しい声もある。泣いている声。笑っている声。店先で客を呼ぶ声。寺で祈る声。子どもを呼ぶ声。
その奥に、別の音があった。
暗い場所で、誰かが息をしている。
目を閉じたまま、春を待っている。
百年のあいだ、花が開くたびに人の声だけが降ってくる。
紗良は手を離した。指先がしびれていた。自分の手は離れるのに、律の指だけが残っている。
「見えましたか」
返された子どもが言った。
紗良は答えなかった。
「みんな、よかったって言ってました」
「あんたは?」
子どもは黙った。
「あんたは、よかったん?」
「わたしが眠ったから、山は」
「山やなくて、あんた」
子どもは唇を閉じた。
律の指が一本、舟の縁へ沈むように入り込んだ。花びらが指を包んでいる。
舟がわずかに浮いた。屋根のほうへ戻ろうとしている。律の腕が上へ引かれ、爪先が石畳から浮きかけた。
住職が律の体を抱き留めた。
「私が支えます」
紗良は弟を離さなかった。
「今さらですか」
住職は律を抱え直した。両足が石畳につくように、舟の下へ体を寄せる。
「最初から、全部話すべきでした」
「なんで話さへんかったんですか」
住職は一度、境内を見た。眠っている人たちと、黒ずんだ桜があった。
「この子を助けたいと思いながら、山が助かる道も捨てられなかった。名を紙に書かせようとしたのも、助けるためだけではありません。次に眠る子として、記録に残すことを考えていました」
紗良は住職を見た。
「それを、確かめるためやって言うたんですか」
「はい」
住職は目をそらさなかった。
「すみませんでした」
律の腕がまた上へ引かれた。住職はその体を支え、足を踏ん張った。
紗良は屋根を見上げた。
「屋根に上がります」
「瓦は滑ります」
「ここにいても危険です」
住職は口を閉じた。
「舟の中心に、枝がありますよね。あれが、帳面に書いてあった枝なんちゃいますか。触れるべからずって」
帳面の表紙の裏にあった一行を、紗良は思い出していた。それに、最初に屋根の上で舟を見たときから、あの黒い筋が気になっていた。舟の中心を貫くあの黒い枝だけが、花びらと違う重さを持っている。あれが、舟を舟にしている。
「折ればどうなるか、記録にはありません。春そのものが終わるのかもしれない」
住職は言った。
「弟を乗せれば、弟の春が終わります」
「山全体が枯れるかもしれません」
「一人を眠らせて咲く春なら、もう終わったほうがええ」
住職は何も言わなかった。
紗良は律の顔をのぞき込んだ。
「すぐ戻るから」
律は小さくうなずいた。
紗良は弟の体を住職に預け、低い塀に足をかけた。そのとき返された子どもが前に立った。
「だめです」
「どいて」
「折ったら、わたしの百年がなくなります」
その声は、初めて子どもらしく震えていた。
「わたし、ちゃんと眠ったんです。泣かなかった。暗くても、ずっと春を聞いてた。みんなが笑ってるなら、いいと思った。そう思わないと、百年もいられなかった」
紗良は塀から足を下ろした。
「無駄やったなんて言うてへん」
「同じです」
「同じちゃう」
子どもは紗良をにらんだ。黒い目に、涙はなかった。
「だったら、どう言えばいいんですか」
紗良は言葉を探した。風が強くなる。境内では眠っている観光客の体が桜の下に点々と見えた。誰かのスマートフォンが石畳の上で鳴っている。誰も出ない。
律が小さくつぶやいた。
「姉ちゃん」
「ここにおる」
「俺、寝たら、姉ちゃん怒る?」
「怒る」
「めっちゃ?」
「めっちゃ」
「じゃあ、やめとく」
律は笑おうとした。口元だけが少し動いた。
紗良は子どもに向き直った。
「意味があったから続けるんちゃう」
子どもは動かなかった。
「苦しかったから終わらせるんや。あんたが眠った百年をなかったことにはせえへん。けど、せやからって次の百年をこの子に渡す理由にはせえへん」
「山は枯れます」
「誰が言うたん」
子どもは着物の袖を握った。
「眠る前に、みんなが。春がなくなるって。だから、わたしが」
「ほんまにそうなるか、分からへんのやろ」
子どもは答えなかった。
「店も、寺も、道も」
「守る方法を探したらええ」
「昔の人も探しました」
「それでも、子どもを眠らせる以外の方法を、もう一回探すんや」
紗良は自分でも無茶なことを言っていると思った。けれど言わなければならなかった。正しい答えがあるからではない。今ある答えが間違っているからだ。
子どもは屋根の上の舟を見た。
「わたし、家に帰れるんですか」
「分からへん」
「家はもうないかもしれない」
「うん」
「知ってる人も、いない」
「うん」
「じゃあ、どこへ帰るんですか」
紗良は返せなかった。
住職が低く言った。
「寺で預かります」
子どもは住職を見た。
「それは、帰るところですか」
住職は口を閉じた。
風がまた吹いた。桜舟が律を引く。住職の腕の中で律のかかとが浮いた。
紗良は塀へ上がった。今度は子どもも止めなかった。
屋根瓦は冷たく、足の裏で少し滑った。紗良は瓦の丸みに手をつき、ゆっくり上がる。ジーンズの膝がこすれた。桜の枝が顔に当たる。花びらの縁は黒く、触れると乾いて崩れた。
舟は軒まで戻っていた。
舟底の後ろ半分が瓦に乗り、長く伸びた舳先が軒の外へ垂れている。その先で律の手が包まれていた。下では住職が律の腰を抱き、つま先だけでも石畳から離れないよう支えている。
近くで見ると舟はさっきよりさらに広がっていた。花びらが幾重にも重なり、子ども一人をすっぽり包めるほどになっている。中心の黒い枝は舟底から舳先までまっすぐ通っていた。枝には古い紐が巻かれている。紐はところどころ切れ、墨で書かれた名前の切れ端が貼りついていた。
紗良は枝に手を伸ばした。
触れた瞬間、また声が流れ込んだ。
お願いします。
今年だけ。
この子なら。
山のために。
みんなのために。
その声の中に小さな泣き声が混じっていた。返された子どもの声だと分かった。百年前の声。泣かなかったと言った子の、誰にも聞いてもらえなかった声。
「泣いてたんやん」
紗良はつぶやいた。
下で子どもが顔を上げた。
「泣いてない」
「泣いてた」
「泣いてなどおりません」
「怖かったんやろ」
子どもは何も言わなかった。
紗良は枝を両手でつかんだ。硬い。細いのに、びくともしない。舟底から引き起こそうとしても、花びらの層に食い込んだまま動かなかった。
「手伝って」
誰に言ったのか、自分でも分からなかった。
返された子どもが屋根を見上げている。
「手伝ったら、あんたの百年が終わるかもしれへん」
紗良は言った。
子どもはゆっくり首を横に振った。
「もう、終わってました」
その声は小さかった。
「舟が戻ったときに、終わってました」
子どもは低い塀に手をかけた。自分で登り、軒の端へ手を伸ばす。紗良が片手を差し出すと、今度はその手をつかんだ。
小さな足袋が瓦に乗った。
子どもは紗良の横に膝をつき、黒い枝に手を添えた。
下で律が小さく声を上げた。舟の縁が弟の手首まで包み込んでいる。
「いくで」
紗良が言った。
子どもはうなずいた。
二人で枝を引いた。
最初は何も起きなかった。枝は固く、山そのものにつながっているようだった。紗良は歯を食いしばる。手のひらが痛い。黒い枝の表面が皮膚に食い込む。
また声が聞こえた。
やめて。
春がなくなる。
今年も咲いたのに。
この子のおかげなのに。
子どもが目を閉じた。
「もう、いい」
誰に向けた言葉か分からなかった。
「もう、わたしのせいにしなくていい」
枝が少し浮いた。
紗良は舟の縁に押し当てるようにして、両手を引いた。子どもも体を後ろへ傾ける。
枝が鳴った。
乾いた音だった。骨ではない。木の音だった。一本の古い枝が、長い時間を抱えたまま裂ける音。
紗良はもう一度力を込めた。
枝が折れた。
その瞬間、桜舟が燃えるように光った。
火は出ていない。けれど花びらが内側から明るくなり、一枚ずつほどけて空へ舞い上がった。桃色の花びらは空中で白くなり、それから黒い灰に変わる。音はなかった。ただ、境内の桜が一斉に散り始めた。
律の手首を包んでいた舟の縁がほどけた。
「律!」
名前を呼んでも、もう桜は鳴らなかった。紗良は屋根から身を乗り出した。
住職に支えられながら、律が石畳に膝をつく。両手を地面につき、大きく息をした。足元に影が戻っている。薄いけれど、黒い影だった。
「息はあります」
住職が言った。
「当たり前です」
紗良はそう言って、力が抜けた。
桜は散り続けていた。
満開だった枝から花が落ちる。黒ずんだ花も、まだ桃色の花も、全部が同じように舞った。眠っていた観光客たちが少しずつ目を覚ます。茶店の前の女性が顔を上げる。子どもを抱いた男性が、なぜ腰かけに座っているのか分からない様子で周りを見回した。
誰も、屋根の上で何が起きたのかは分かっていない。
舟はもうなかった。紗良の手の中には折れた黒い枝の半分だけが残っていた。もう半分は返された子どもが持っている。
「山、枯れますか」
子どもが聞いた。
住職は散っていく桜を見上げた。
「分かりません」
「分からないんですね」
「はい」
子どもは少しだけ笑った。
「分からないの、久しぶりです」
その顔は、初めて眠りから覚めた子どもの顔に見えた。
翌朝、吉野山の桜はほとんど散っていた。
ニュースでは満開のさなかの突風だと言っていた。観光客の何人かが一時的に体調を崩したことも、小さく報じられた。寺はしばらく拝観を止めることになった。土産物屋の人たちは困った顔をしていたが、誰も紗良たちを責めなかった。何が起きたのか、知らないからだ。
昨夜、寺の電話を借りて母に連絡し、律が熱を出したと伝えた。半分は本当だった。母に送るはずだった桜の写真は、結局、送らないままだった。母は仕事を切り上げて車で来たが、着いたのは夜遅くで、住職の勧めでそのまま寺に泊めてもらうことになった。その母は今、庫裏で住職に何度も頭を下げている。返された子どものことは、寺が保護している身寄りのない子どもだと、住職が説明していた。母は不思議そうな顔をしながらも、それ以上は何も聞かなかった。
律は寺の縁側に座って、柿の葉寿司を食べていた。
「昨日、俺、寝てた?」
「寝かけてた」
「姉ちゃん、泣いた?」
「泣いてへん」
「絶対泣いたやろ」
「うるさい」
律は笑った。影はちゃんと足元にあった。
「帰りに、アイス買うたるわ」
「ほんまに?」
「今度はほんま」
律は柿の葉寿司を口に入れたまま、二回うなずいた。
返された子どもは住職の隣で庭を見ていた。名前はまだ分かっていない。本人も、呼ばれていた音を思い出せないと言った。
住職は村に残る古い記録をたどって、時間をかけて調べると言った。寺で預かると決める前に、まずこの子が何を食べたいか、どこで眠りたいかを聞くとも言った。
「それから先は、一緒に考えます」
今度は、子どもに向かって言った。
境内の桜は寂しかった。昨日までの満開が嘘のように、枝ばかりが目立つ。観光客の数も少ない。坂の店も、半分ほどしか開いていなかった。
門の外では店の人と寺の人が、散った花を掃きながら話していた。来週の予約をどうするか。来年も咲くのか。誰にも答えはなかった。
紗良は一本の枝の前で足を止めた。
枯れたように見える枝の先に小さな蕾があった。桃色ではない。まだ固く、緑がかった蕾だった。
「咲くんかな」
律が横に立った。
「分からへん」
「また分からん」
「分からんもんは、分からん」
「でも、ちょっとあるな」
律は蕾を指さした。
返された子どもも近づいてきた。三人で、同じ小さな蕾を見上げた。
「春は、戻りますか」
子どもが聞いた。
紗良は首を横に振った。
「戻るんやなくて、作るんやと思う」
「誰が」
「ここに残った人たちが」
子どもはしばらく黙っていた。それから、小さくうなずいた。
桜は、もう以前のようには一斉に咲かないのかもしれない。
それでも紗良は、弟と並んで、まだ小さな蕾を見上げる。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
作中の寺や桜舟の言い伝えは架空のもので、実在の吉野山とは関係ありません。
満開の桜を見上げたとき、少しだけこの姉弟のことを思い出していただけたらうれしいです。
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