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空から落ちてきた桜の舟

作者: 本棚
掲載日:2026/10/27

約2万字の短編です。春の吉野山で起きた、少し不思議な話です。

吉野山(よしのやま)の坂は、思っていたより急だった。


紗良(さら)は駅で買った水のペットボトルを肩掛けの鞄(かばん)に押し込み、前を歩く弟の背中を見た。律(りつ)は小学五年生で、こういう場所に来るとすぐ先へ行きたがる。今日は父も母も仕事なので、花見に行きたいと言い出した律(りつ)の付き添いを、紗良(さら)が引き受けることになった。


「姉ちゃん、遅い」


律(りつ)が振り返った。額(ひたい)に汗が浮いているのに、声だけは元気だった。


「先に行くなって言うたやろ」

「行ってない。待ってる」

「それは待ってるって言わへん」


坂の両側には土産物屋が並んでいた。葛餅(くずもち)、柿の葉寿司(かきのはずし)、桜色の菓子。店先から甘い匂いと醤油(しょうゆ)の匂いが混ざって流れてくる。観光客はみな上を見て歩いていた。スマートフォンを掲げる人、杖(つえ)をつく人、子どもの手を引く人。誰もが少しずつ息を切らしている。


律(りつ)は店の前で足を止めた。


「アイス」

「あとで」

「今がいい」

「溶ける」

「食べるから溶けない」

「そういう問題ちゃう」


律(りつ)は不満そうに口を尖(とが)らせたが、次の桜を見つけるとすぐ忘れた。道の先、寺の脇に一本だけ八重桜(やえざくら)が枝を張っていた。山の桜はほとんどが白っぽい山桜(やまざくら)なのに、その木だけが重たく咲いている。青い空の下、淡い桃色の花がいくつも固まって咲いている。葉は黄緑(きみどり)でところどころ橙色(だいだいいろ)に近く、日差しを透かして薄く光っていた。


紗良(さら)は足を止めた。


桜の枝は寺の屋根の上へ斜めに伸びていた。古い瓦(かわら)が奥でぼけている。枝の皮はざらつき、節(ふし)がいくつもある。その上に重たい花房(はなぶさ)が乗っていた。風が吹くと、花だけが少し遅れて揺れる。


「撮って」


律(りつ)が言った。


「何を」

「あれ。空と一緒に。母さんに送る」

「自分で撮ったらええやん」

「姉ちゃんのスマホのほうがきれいやん」

「腕の問題」

「じゃあ腕を貸して」


紗良(さら)は笑い、スマートフォンを取り出した。画面の中に桜の枝を入れる。花が近すぎて空が少ししか入らない。紗良(さら)は一歩下がり、枝の隙間(すきま)から青空と白い雲が見える位置を探した。


「そこ、車来るで」


律(りつ)が言った。


「来えへん。ここ歩道」

「観光バス、でかいから」

「分かってる」


シャッター音が鳴った。

その瞬間、風が止まった気がした。


周りの声も消えたわけではない。店の人が客を呼ぶ声も、靴音も、遠くのバスのエンジン音もある。ただ、桜の枝だけが音を吸ったように静かだった。


紗良(さら)は画面を確認した。


写真はよく撮れていた。手前の桜は明るく、花びらの重なりまで見える。青空の右側には大きな白い雲が流れていた。寺の屋根は斜めに入り、瓦の丸い形がぼけている。


その雲の下に、小さなものが写っていた。


最初は鳥かと思った。けれど鳥にしては形が丸い。拡大すると、それは舟だった。子どもの手のひらに乗りそうな、精巧(せいこう)な小舟に見えた。色は白に近い桃色で、縁(ふち)が細かく波打っている。木ではない。花びらが何枚も重なって、舟の形を作っているように見えた。


「何これ」


紗良(さら)はつぶやいた。


律(りつ)が横から画面をのぞいた。


「何が?」

「ここ」


紗良(さら)は指で拡大したまま、雲の下を示した。


律(りつ)は眉を寄せた。


「桜?」

「舟に見えへん?」

「見えへん。白いのがぼけてるだけちゃう」

「ここ。ほら、縁があるやろ」

「分からん」


律(りつ)はすぐ興味をなくし、近くの石段へ歩き出した。紗良(さら)はもう一度空を見上げ、写真と同じ角度で桜の枝と雲を探す。


何もなかった。


青い空があり、白い雲があり、桜が揺れている。それだけだった。


気のせいだと思おうとした。レンズに花びらでも重なったのかもしれない。光の加減で雲の端が舟の形に見えただけかもしれない。


そのとき頭の上で何かが枝を擦(こす)る音がした。見上げても何もない。花びらが数枚だけ遅れて降ってきた。


「姉ちゃん、どこ見てるん」


律(りつ)の声がした。


紗良(さら)は答えなかった。寺の屋根の端、桜の枝がかかるあたりに、淡い色のかたまりが引っかかっている。花房にしては大きい。布にしては薄い。風で少しだけ揺れた。


紗良(さら)は足元を見てから石段を上がった。


「入っていいとこ?」


律(りつ)が後ろから聞いた。


「分からん。あかんって書いてへん」

「あかん人の言い方や」

「見るだけ」


石段の上はさっきより人が少なかった。境内(けいだい)の端には立入禁止の札があり、その向こうに屋根の低い建物が続いている。建物の前には低い塀(へい)があり、その上に立てば軒(のき)へ手が届きそうだった。


屋根の上のかたまりは、その建物の隅にあった。


近づくほど、胸が変にざわついた。


それは確かに舟だった。


桜の花びらが重なってできた舟。写真では小さな飾り物のように見えたのに、ここから見ると子ども一人が横になれるほどの長さがあった。舟底(ふなぞこ)は屋根瓦に乗り、舳先(へさき)が桜の枝に軽く引っかかっていた。花びらでできているはずなのに、重さがあるように瓦を少し沈ませている。花びらの重なりの奥に一本だけ黒い筋が通っていた。枯れ枝のように見えた。


そして舟の中に子どもが眠っていた。


「……見える?」


紗良(さら)は声を落とした。


「何が」


律(りつ)は首をかしげた。


「舟」

「舟?」

「屋根の上」


律(りつ)は目を細めた。しばらく見てから肩をすくめた。


「桜の枝しかない」


紗良(さら)は息を吸った。子どもは五歳くらいに見えた。古い形の着物を着ている。頬(ほお)は白く、まぶたは閉じていた。髪にも袖にも桜の花びらが貼りついている。死んでいるようには見えない。ただ深く眠っている。


「姉ちゃん、顔怖い」


律(りつ)が言った。


「静かにして」

「俺、何もしてへん」

「分かってる」


紗良(さら)はスマートフォンを握りしめた。もう一枚撮ろうとしたが、指がうまく動かなかった。

背後で砂利(じゃり)を踏む音がした。


「その場所で、何を見ておられますか」


低い声だった。


紗良(さら)が振り返ると黒い衣(ころも)を着た年配の住職(じゅうしょく)が立っていた。穏やかな顔をしていたが、目だけが紗良(さら)の後ろ、屋根の上へ向いていた。


「すみません。入ったらあかんかったですか」

「そこから先は、お客様にはご遠慮いただいています」


住職はそう言ったあと、少し間を置いた。


「ですが、今はそれより、あなたが何を見たのかを聞きたい」


律(りつ)が紗良(さら)の袖を引いた。


「怒られるやつ?」

「たぶん」

「たぶんて」


住職は律(りつ)を見た。それから紗良(さら)に視線を戻した。


「写真を撮りましたか」


紗良(さら)は答えなかった。答えたら、何かが決まってしまう気がした。


「撮りましたね」


住職の声は静かだった。


「見せていただけますか」

「なんでですか」

「確認したいものがあります」

「何を」


住職は屋根の上を見た。紗良(さら)もつられて振り返った。舟はまだそこにある。眠る子どもの胸が、ほんの少し上下したように見えた。


「ここで話すことではありません」

「ほな、話さんでいいです」


紗良(さら)は律(りつ)の手を取った。


「行こ」

「アイスは?」

「あと」

「またあと?」


律(りつ)は文句を言いながらも、紗良(さら)の手に引かれた。


住職が一歩、前に出た。


「待ってください」


その声は大きくなかった。けれど、紗良(さら)の足は止まった。


「その舟を見つけた人を、こちらは長く待っていました」


紗良(さら)は振り返った。


「舟って、言いました?」


律(りつ)が紗良(さら)と住職を交互に見た。


「舟? ほんまにあるん?」


住職は律(りつ)には答えなかった。紗良(さら)だけを見ていた。


「見つけたのは、あなたですか」

「写真に写ってただけです」

「先代が残した記録にも、写真に写ったのが最初だったとあります」

「先代?」

「百年前のことです」


紗良(さら)は笑いそうになった。けれど笑えなかった。住職の顔が冗談を言う人の顔ではなかったからだ。


「意味が分かりません」


住職は何かを言いかけ、口を閉じた。


「だったら、もう帰ります」

「帰れるなら、それが一番いい」


住職はそこで初めて、苦しそうに息を吐いた。


「けれど、たぶん山はもう、あなたを見ています」


紗良(さら)の手の中で、律(りつ)の指が動いた。


「姉ちゃん、痛い」


強く握りすぎていた。紗良(さら)は慌てて力を緩めた。


「ごめん」


住職は律(りつ)の顔を見た。目元がわずかに曇った。


「弟さんですか」

「そうですけど」

「お名前は――いえ」


住職はそこで言葉を切った。


「口には出さないでください。舟のそばで呼ぶと、山に届きます」


紗良(さら)は答えなかった。


住職はもう一度、屋根の上を見た。桜の舟は、さっきより少しこちらへ向きを変えているように見えた。舳先が紗良(さら)ではなく律(りつ)のほうを向いている。


「見つけたのが、あなたでなければよかった」


住職は低い声で言った。


紗良(さら)は律(りつ)を自分の後ろへ引いた。


「名前なんて、聞いてどうするんですか」

「記録と照らして、確かめたいのです。名を山に渡さずに済むよう、紙に書いていただきたい」


住職は袂(たもと)から、折りたたんだ紙と短い鉛筆を取り出した。


律(りつ)が後ろで小さく言った。


「姉ちゃん、帰ろう」


紗良(さら)は屋根の上を見た。眠っている子どもの指先に、桜の花びらが一枚、貼りついていた。風が吹いても、それだけは落ちなかった。


紗良(さら)は、紙を受け取らなかった。


律(りつ)は紗良(さら)の背中に半分隠れるようにして、住職を見ている。さっきまでアイスのことで文句を言っていたのに、今は黙っていた。小学生なりに、ここで余計なことを言わないほうがいいと分かったのだろう。


「名前を書いたら、どうなるんですか」


紗良(さら)は聞いた。


住職は頭を上げた。顔は穏やかだったが、目元に深い皺(しわ)が寄っている。


「記録には、名を呼ばれて影を失った子のことが残っています。弟さんの影に変わりがないか、名を呼ばずに確かめておきたい」

「せやったら、名前なんか書かんでも影を見たらええやないですか」


住職の手が止まった。


「……そうですね」


差し出されていた紙が少し下がった。


「なぜ紙なんですか」

「音にした名は山へ届きます。文字なら、こちらだけで読めると伝わっています」

「ほんまに?」


住職はすぐには答えなかった。


紗良(さら)は屋根の上を見た。桜の舟は瓦の上に乗ったまま、動いていない。花びらでできた舳先がこちらを向いているように見える。舟の中の子どもは眠ったままだった。小さな胸がゆっくり上下している。


「意味が分かりません」

「庫裏(くり)へ来てください。ここでは人目(ひとめ)があります」

「人目って、誰も見えてへんのでしょう」

「舟が見えなくても、私たちを見ている人はいます」


住職は参道のほうへ目を向けた。境内の向こうでは観光客が桜を見上げ、写真を撮っていた。笑い声が聞こえる。誰かが「満開やな」と言った。別の誰かが団子(だんご)の包みを開けていた。


同じ場所なのに、紗良(さら)たちの周りだけ空気が違っていた。


律(りつ)が袖を引いた。


「姉ちゃん、帰ろう」

「うん」


紗良(さら)はうなずいた。


「帰ります」


住職は止めなかった。ただ、静かに言った。


「山を下りられるなら、それがいい。ですが、もし同じ場所へ戻ってしまったら、無理に歩き続けないでください」

「どういうことですか」


住職は紗良(さら)と律(りつ)を見た。答えを選んでいるような間があった。


紗良(さら)はもう聞かなかった。


律(りつ)の手を引いて石段を下りた。急ぎすぎないように歩いた。走ると、本当に怖いことが起きていると認めることになる気がした。


土産物屋の前まで戻ると、さっきと同じ匂いがした。葛餅の甘い匂い。焼いた醤油の匂い。観光客の靴が砂利を踏む音。全部が普通だった。


「なあ、舟ってほんまにあるん?」


律(りつ)が小声で聞いた。


「知らん」

「姉ちゃんは見えてるんやろ」

「見間違いかもしれへん」

「住職さんも舟って言ってた」

「聞き間違い」

「姉ちゃん、さっきから全部まちがいやん」


紗良(さら)は言い返せなかった。


坂を下りる道に入った。駅へ続く道のはずだった。来たときに通った土産物屋の前を過ぎ、赤いのぼりの横を曲がる。律(りつ)は途中で何度も振り返った。


「アイスは?」

「今それどころちゃう」

「さっき、あとでって言った」

「あとでって言うたけど、今日はなし」

「えー」


律(りつ)の声がいつもの調子に戻った。そのことに紗良(さら)は少し安心した。大丈夫。まだ普通だ。弟は見えていない。自分が落ち着けばいい。


十分ほど歩いたはずだった。


けれど曲がり角の先にさっきの寺の門が見えた。


紗良(さら)は足を止めた。


「……なんで」

「戻ってきた?」


律(りつ)が首をかしげた。


「道、間違えたかな」

「姉ちゃん、方向音痴(ほうこうおんち)やしな」

「黙っといて」


紗良(さら)はスマートフォンの地図を開いた。現在地の丸印は寺の少し下を示している。駅へ向かう道は右へ折れるはずだった。紗良(さら)は地図の通りに歩いたつもりだった。


もう一度、別の道を選んだ。


人の流れに逆らいながら、坂を下りる。途中で律(りつ)が息を切らしたので、水を飲ませた。桜の枝が道の上に張り出している。花びらが一枚、律(りつ)の肩に落ちた。


「ついてる」


紗良(さら)が取ろうとした。


花びらは律(りつ)の肩に貼りついていた。


指でつまむと、すぐ取れた。けれど布に薄い桃色の跡が残った。汚れではない。影のように見えた。


「痛い?」

「何が」

「なんもない」


律(りつ)はペットボトルを返しながら、あくびをした。


「眠い」

「昨日、夜更かしするからや」

「してへん。ちょっとゲームしただけ」

「それを夜更かしって言うねん」


紗良(さら)は言いながら、律(りつ)の足元を見た。


傾きかけた日が斜めに差している。通りを歩く人の影は濃く長く伸びていた。紗良(さら)の影も石畳(いしだたみ)の上にはっきり落ちている。


律(りつ)の影だけが、薄かった。


輪郭がぼやけ、色が淡い。黒ではなく、桜の花びらを水に溶かしたような色をしていた。


紗良(さら)は息を止めた。


「なあ」

「ん?」

「そこ、動かんといて」

「なんで」

「ええから」


紗良(さら)は自分の影と律(りつ)の影を見比べた。光の角度のせいではない。律(りつ)の靴、足、肩の形は影になっている。けれど全部が薄い。今にも石の上から消えそうだった。


律(りつ)は自分の足元を見た。


「何これ」


その声で紗良(さら)は弟にも見えていることを知った。


「姉ちゃん、俺の影、変」

「大丈夫」

「大丈夫ちゃうやん」

「大丈夫やから」


自分でも信じていない言葉だった。


また道を下りた。今度は地図を見ながら、一つずつ角を確認した。観光案内所の看板を過ぎ、バス停の前を通り、茶店(ちゃみせ)の横を抜ける。けれど細い坂を曲がった先にまた寺の門があった。


同じ門。

同じ石段。

同じ屋根。


屋根の上には、桜の舟があった。


舳先はさっきより低く、こちらへせり出していた。舟の中の子どもの手が縁から少し出ている。指先に貼りついた花びらは落ちていない。


住職は門の脇に立っていた。待っていたようだった。


紗良(さら)は律(りつ)の手を強く握った。


「何をしたんですか」

「私ではありません」

「ほな、誰が」

「山です」

「そういうの、やめてください」


住職は律(りつ)の足元を見て、唇を結んだ。


「影が、薄くなっていますね」

「分かってたんですか」


住職は答えなかった。


「今ならまだ、話せます。弟さんを休ませたほうがいい」


律(りつ)は紗良(さら)の手を握ったまま、目をこすっていた。さっきより顔色が白い。


「眠いだけ」


律(りつ)が言った。


「歩いたから」

「うん。分かってる」


紗良(さら)は住職をにらんだ。


「少しだけです。話を聞いたら帰ります」

「帰る道は、話のあとで探しましょう」


その言い方が気に入らなかったが、律(りつ)の手が熱かった。いや、熱いのではない。紗良(さら)の手だけが冷えているのかもしれなかった。


庫裏は本堂の奥にあった。観光客の声は戸を閉めると遠くなった。木の廊下は冷たく、少し湿った匂いがする。壁には古い写真がかかっていた。満開の桜。今より細い道。和服の人々。どの写真にも同じような屋根が写っている。


座敷に通されると、住職は麦茶を出した。律(りつ)は畳に座るなり、湯飲みを両手で持った。


「まず、弟の名前を書かせるのはやめてください」


紗良(さら)は言った。


「分かりました」


住職は紙と鉛筆を自分の脇へ置いた。


「では、お姉さん。あなたのお名前は」

「それも必要ですか」

「舟を見つけた方の名は、眠る子を定める名ではありません」

「信じられません」


住職はうなずいた。


「では、お姉さんとお呼びします」


紗良(さら)は少し黙った。


「紗良(さら)です」


住職は小さく頭を下げた。


「紗良(さら)さん。あなたが見た舟は、こちらでは桜舟(さくらぶね)と呼ばれています」

「作り物ですか」

「いいえ」

「ほな何ですか」

「返すための舟です」

「何を」


住職は床の間(とこのま)の横に置かれた低い箪笥(たんす)を開けた。中から布に包まれた帳面(ちょうめん)を取り出す。表紙は黒ずみ、紐(ひも)は毛羽立(けばだ)っていた。開くと、墨(すみ)で書かれた名前が並んでいる。名前の横に書かれた年は、どれも百年ずつ離れていた。いちばん新しい行(ぎょう)だけ、名のところが墨で黒く塗りつぶされている。表紙の裏には太い字で一行だけ書かれていた。舟の芯(しん)の枝に、触れるべからず。


「昔、山の桜が咲かなくなった年がありました。いつのことかは、もう分かりません。いちばん古い帳面にも、すでに『先の例にならう』と書かれています」


紗良(さら)は黙っていた。


「花が咲かなければ、人は来ない。人が来なければ、店も寺も道も保てない。当時は今よりずっと、山に頼って暮らしていました。飢(う)えた家もあったと聞いています」

「それで、子どもを?」


声が思ったより低く出た。


住職は目を伏せた。


「死なせたのではない、という言い方を、昔の人はしました」

「同じことやないですか」

「そうかもしれません」


律(りつ)が湯飲みを置いた。


「子どもって、屋根の上の?」


住職は律(りつ)を見た。


「はい」

「寝てるだけ?」

「山の眠りに入っていました」

「百年?」

「百年です」


律(りつ)は眉を寄せた。


「退屈やな」


紗良(さら)は弟を見た。怖がるかと思ったのに、律(りつ)はまずそこを気にした。住職の口元が少しだけ動いた。笑いかけて、やめたようだった。


「百年に一度、桜舟は戻ります。眠っていた子を一人、人里へ返すために」

「ほな、ええことやないですか」


紗良(さら)は言った。


「返して終わりなら」


住職の声が低くなった。


「舟は、空っぽのままでは戻れません。次の眠りを乗せなければ、山へ帰れない」


律(りつ)が湯飲みを見つめたまま、またあくびをした。


紗良(さら)は住職の言葉をすぐには理解しなかった。理解したくなかった。


「次の眠りって」

「次の百年、山の春を支える子です」

「誰が選ぶんですか」

「舟です」

「舟が?」

「正確には、山が」

「ふざけんといてください」

「ふざけてはいません」


住職は静かに言った。


「桜舟を見つけた者の、大切な人が選ばれます。本人ではありません。大切な人です」


紗良(さら)は律(りつ)のほうを見た。


律(りつ)は畳に手をつき、眠気をこらえるようにまばたきをしていた。傾いた日が障子(しょうじ)越しに入っている。畳の上に落ちた律(りつ)の影は、やはり薄かった。桜色に近い。人の影ではなく、花びらの跡のようだった。


「嘘(うそ)です」


紗良(さら)は言った。


住職は帳面を閉じなかった。


「そんな話、あるわけないやん」

「そう思います」

「ほな、帰ります」


紗良(さら)は立ち上がった。律(りつ)も慌てて腰を上げようとしたが、ふらついた。


「律(りつ)」


名前を呼んだ瞬間、住職の顔が変わった。


紗良(さら)は自分の口を押さえた。


「今のは」


障子の外で桜が一斉に揺れた。


風の音ではなかった。遠くから近くへ、ざわざわと花が擦れる音だけが押し寄せた。律(りつ)の足元の影がさらに薄くなる。


住職は目を閉じた。


「届いてしまいました」

「だって、弟の名前を呼んだだけです」

「この寺も、舟のそばです。名を呼べば、山に誰なのか知られてしまう」

「もう、決まったんですか」

「まだです。名だけでは、眠りは定まりません」

「ほな、どうしたら」


住職は帳面の端を押さえた。指に力が入っているのが分かった。


「弟さんに、眠ると約束させないでください。自分が行くとも。その言葉を口にしたあとで、大切な人から名を呼ばれれば、迎えが始まります」

「そんなこと、最初に言うてください」


住職は顔を上げなかった。


紗良(さら)は律(りつ)の腕をつかんだ。


「帰る」


今度は住職も止めなかった。


庫裏を出て、廊下を抜け、境内へ戻る。夕方になりかけていた。観光客の数は減っている。けれど桜はまだ明るく咲いていた。淡い桃色の花が空の光を集めている。


紗良(さら)は山門へ向かった。


右の坂を下りる。地図を見る。分岐で左へ行く。観光案内の矢印に従う。律(りつ)は何度も足を止めた。眠い、少し休みたい、と言う。そのたびに紗良(さら)は、大丈夫、もう少し、と言った。


三度目の角を曲がったとき、また寺の屋根が見えた。


屋根の上の桜舟は、さっきより軒の近くにあった。まるで瓦の上を少しずつ滑ってきたようだった。舳先はまっすぐ律(りつ)を向いている。


舟の中の子どものまぶたが、かすかに動いた。


律(りつ)が紗良(さら)の手を離した。


「姉ちゃん」

「何」

「俺、眠い」

「寝たらあかん」

「なんで」

「あかんから」

「ちょっとだけ」


律(りつ)はその場にしゃがみ込んだ。紗良(さら)が腕を引いても、体に力が入らない。石畳の上に律(りつ)の影が薄く広がっている。桃色の影は足元から少しずつ欠けていた。


「立って」

「無理」

「お願い」


紗良(さら)の声が震えた。


そのとき屋根の上で小さな音がした。


花びらが瓦を擦る音だった。


舟の中の子どもが、ゆっくりと目を開けた。


黒い目だった。眠っていたとは思えないほど、はっきりこちらを見ている。子どもは体を起こさないまま、首だけを少し動かした。紗良(さら)を見て、それから律(りつ)を見た。


唇が開いた。


「次に眠るのは、あの子」


声は小さかった。けれど、境内の端まで届いた気がした。


律(りつ)は聞こえていないように、目を閉じかけていた。紗良(さら)は弟の肩を抱き、屋根の上の子どもを見返した。


桜の花びらが一枚、子どもの袖から落ちた。瓦に触れる前に黒くなり、音もなく消えた。


子どもは、まだ舟の中にいた。


目を開けたまま、瓦の上からこちらを見ている。黒い目だった。百年も眠っていた子どもの目には見えなかった。眠りから覚めたばかりなら、もっとぼんやりしていてもいいはずなのに、その目は紗良(さら)よりも、住職よりも、山のことを知っているように見えた。


律(りつ)は紗良(さら)の腕の中で半分眠りかけていた。頭が肩に寄りかかり、呼吸が浅い。足元の影は薄く、石畳に落ちた花びらの跡のように見える。


「起きて」


紗良(さら)は頬を軽く叩いた。


「ん……起きてる」

「寝たらあかん」

「眠いだけやって」

「あかん」


律(りつ)は不満そうに眉を寄せたが、立ち上がろうとはしなかった。膝(ひざ)に力が入っていない。


住職が近づこうとした。


「触らんといてください」


紗良(さら)は言った。


住職は足を止めた。


「抱えて、庫裏へ戻りましょう。ここにいるほうが危ない」

「何されるか分からん場所に戻れって言うんですか」

「私が何かをするわけではありません」

「さっきもそう言いました」


紗良(さら)の声は自分で思ったより鋭かった。住職は反論しなかった。ただ、屋根の上を見た。


舟の中の子どもが、ゆっくりと体を起こした。古い着物の袖から花びらが数枚落ちる。瓦に触れる前に、その花びらは黒くなり、薄い灰のように消えた。


「その子は誰ですか」


紗良(さら)は聞いた。


「分かりません」

「分からへん?」

「帳面には、眠った子の名が百年ごとに残っています。ですが、百年前の行だけは、名のところが塗りつぶされている」

「誰がそんなこと」

「分かりません。誰にも呼ばせないためだったのかもしれません」

「本人に聞いたら」


住職は舟を見た。


「覚えているかどうかも、まだ分かりません。まず、こちらへ降りてもらわなければ」


子どもは舟の縁に手をかけた。花びらでできた舟がまるで固い板のように子どもを支えていた。舟の真ん中を通る黒い枝が、その背を受け止めている。


「ここ、どこ」


子どもが言った。


小さな声だった。けれど、はっきり聞こえた。


「吉野山です」


住職が答えた。


子どもは空を見上げた。青かった空は夕方に近づいて少し白く濁っている。桜はまだ咲いていた。けれど花の端に墨を落としたような黒が混じり始めている。


「まだ、咲いておる」


子どもはそう言った。


その声に、うれしさがあった。


紗良(さら)は息を止めた。助け出された子どもなら、泣くと思っていた。家に帰りたいと言うと思っていた。なのに、その子は自分の手足より先に、桜を見た。


「降りられますか」


住職が聞いた。


子どもはうなずいた。舟の縁をまたぎ、屋根瓦に足を置く。小さな足袋(たび)は汚れていない。軒の端へ進むと、低い塀に片足を下ろした。住職が差し伸べた手にはつかまらず、そのまま境内へ降りた。


足音は、ほとんどしなかった。


「百年、経ったんですか」


子どもが聞いた。


「はい」

「じゃあ、わたし、ちゃんと眠れたんですね」


住職は答えなかった。


紗良(さら)は律(りつ)の肩を支えながら子どもを見た。


「ちゃんとって、何なん」


子どもは紗良(さら)を見た。


「春の役目です」

「役目?」

「眠って、春を置いておくんです。山が忘れぬように」


紗良(さら)は言葉を失った。


結局、律(りつ)を休ませるために庫裏へ戻るしかなかった。住職が律(りつ)の反対側へ回り、紗良(さら)と二人で肩を支えた。子どもは、その後ろをついてきた。


座敷へ入ると、住職は古い帳面をもう一冊出した。さっき見せたものより薄く、表紙の端が虫に食われていた。座敷の外では桜の花が揺れている。さっきより風が強い。風が吹くたび、花びらの縁の黒が少し広がる。


律(りつ)は座布団に横になっていた。眠らせたくなかったが、座っていられなかった。紗良(さら)は何度も名前を呼びそうになり、そのたびに口を閉じた。


「呼ばないほうがいい」


返された子どもが言った。


「分かってる」

「分かってない顔してる」

「あんたに何が分かるん」


子どもは畳の上に正座していた。古い着物は乾いていて、桜の匂いがした。土の匂いも汗の匂いもしない。眠りの中にいたものの匂いだった。


住職は帳面を開いた。


「残っている中でいちばん古い例では、この山の桜は三年続けて咲きませんでした。虫、病、雨、土砂崩れ。理由はいくつも書かれています。けれど最後には、山が春を失った、と」

「だから子どもを差し出した?」


紗良(さら)は言った。


「どうかしてる」

「そうです」


住職は静かに認めた。


「どうかしていたのだと思います。ですが、当時の人々には、それ以外の方法が見えなかった」

「見えへんかったら、何してもええんですか」

「よくありません」

「せやったら今すぐ止めてください」


住職は帳面に視線を落とした。


「止め方は、伝わっていません」


紗良(さら)は笑った。乾いた声だった。


「続け方だけは分かるんですね」


住職は何も言わなかった。


子どもが、帳面の文字をのぞき込んだ。


「花が戻った日」


細い指が墨の行をなぞった。


「山が明るくなった日。店が開いた日」

「読めるのですか」


住職が聞いた。


「少し」


紗良(さら)は子どもの指先を見た。


「あんたは、覚えてるん」

「少し」

「眠ってたんちゃうの」

「眠ってました。でも、春は分かりました」


子どもは窓の外を見た。


「花が開くと、明るいんです。人の声が上がってくる。きれいやな、今年も咲いたな、って。お腹が空いて泣いてる声は、だんだん聞こえなくなりました」


紗良(さら)は黙った。


「だから、よかったんです」


子どもは言った。


「何が」

「わたしが眠ったから、咲いたんでしょう」


その言い方には、疑いがなかった。


紗良(さら)の胸が冷えた。


「ようない」

「でも咲いてます」

「あんたは百年も眠ってたんやで」

「はい」

「家族は?」


子どもは少しだけ首をかしげた。


「いたと思います」

「会いたくないの」

「もう、おりますまい」


声は平らだった。泣くでもなく、怒るでもない。その平らさが、紗良(さら)には怖かった。


律(りつ)が小さく寝返りを打った。紗良(さら)は慌ててそばに寄った。まぶたは閉じている。呼吸はある。けれど影がさらに薄くなっていた。障子越しの夕方の光の中で律(りつ)の体だけが少し遠くにあるように見える。


「この子は連れていかせへん」


紗良(さら)は言った。


「連れていけば、次の百年も咲きます」


返された子どもが言った。


「何言うてるん」

「山が眠りを欲しがってます」

「せやから何」

「眠れば、死なない」

「百年戻れないなら、同じことやろ」


思わず、強い声が出た。子どもは少しだけ目を伏せた。


「同じじゃないです」

「同じや」

「死んだら、春は分かりませぬ」


子どもは窓の外を見た。


「眠っていれば、桜が咲くのが分かる。誰かが笑うのが分かる。自分がまだ役に立っているのが分かる」


紗良(さら)は、その言葉をすぐには否定できなかった。


もし律(りつ)が眠ることで、山が守られると言われたら。人が飢えず、店が続き、春が戻ると言われたら。それでも絶対に違うと言える。言えるはずだった。


けれど頭のどこかで、ほんの一瞬だけ、眠るだけなら、と思った。


死ぬわけではない。百年後には戻る。そう思えば、窓の外で広がり始めた黒ずみも止められるのかもしれない。


その一瞬が、自分で怖かった。


「姉ちゃん」


律(りつ)が目を開けた。


紗良(さら)は膝をついた。


「起きた?」

「うん。外、暗い?」

「まだ夕方」

「なんか、寒い」


紗良(さら)は自分の上着を律(りつ)にかけた。


そのとき廊下の向こうから人を呼ぶ声がした。


住職が立ち上がり、座敷を出た。短い話し声のあとで、戻ってくる。顔色が変わっていた。


「境内で、人が倒れ始めています」


紗良(さら)は立ち上がった。


「倒れる?」

「眠りです。まだ浅い。ですが、このまま舟が戻れなければ、広がると記録にあります」

「脅してるんですか」


住職は首を振った。


「寺の者に、参道の店にも様子を見に行くよう頼みました。倒れた方は、安全なところへ移します」


紗良(さら)は廊下へ出た。境内には数人の観光客が座り込んでいた。茶店の前で女性がベンチにもたれて眠っている。子どもを抱いた男性が立ったまま船をこぐように揺れていた。寺の人が駆け寄り、男性を腰かけへ誘導している。


桜の花は枝の先から黒ずんでいた。満開の桃色の中に焦(こ)げた紙のような色が混じっている。


「なんで」


紗良(さら)はつぶやいた。


「あなたが逃げようとしたからではありません」


住職が後ろで言った。


「舟が戻れないからです」

「同じことやないですか」


返された子どもも廊下に出てきた。小さな足袋の足音は、しなかった。


「早く乗せないと、もっと眠ります」

「やめて」

「弟さんだけなら、一人で済みます」


紗良(さら)は振り返った。


「そんな言い方せんといて」


子どもは不思議そうに見返した。


「一人で済むのは、いいことです」

「ようない」

「みんな眠るより、いいです」

「ちゃう」

「何が違うんですか」


紗良(さら)は答えられなかった。違う。絶対に違う。けれど、何がどう違うのか、言葉が追いつかなかった。


律(りつ)が廊下の柱につかまりながら立っていた。


「俺が寝たら、みんな起きるん?」


紗良(さら)は息をのんだ。


「聞かんでええ」

「でも、そういう話やろ」

「ちゃう」

「違わへんやん」


律(りつ)は外を見た。眠っている観光客たち。黒くなり始めた桜。それから、屋根の上。律(りつ)に舟は見えないはずだった。それでも律(りつ)は、そこから目を離さなかった。


「俺、百年寝るん?」

「寝えへん」


紗良(さら)は即座に言った。


「絶対に寝えへん」

「でも、姉ちゃん困ってる」

「困ってへん」

「困ってるときの顔してる」


律(りつ)は小さく笑った。笑う場面ではなかった。


「俺、寝るだけなら、できるかも」

「何言うてるん」

「注射よりましやし」

「ふざけんといて」

「ふざけてない」


律(りつ)の声は弱かった。けれど、さっきよりはっきりしていた。


「姉ちゃんが困るなら、俺が行く」

「あかん!」


紗良(さら)の声が境内に響いた。眠っていた人の何人かが少しだけ身じろぎした。桜の枝がざわつく。舟の中の花びらが浮き上がった。


紗良(さら)は律(りつ)の肩をつかんだ。


「そういうこと言わんといて。絶対に言わんといて」

「でも」

「私は、あんたを連れて帰るためにここにおるんや」

「山は?」

「知らん」


言ってから、紗良(さら)は自分の言葉に息を止めた。


知らん。

そう言えば楽だった。弟さえ助かれば、山がどうなってもいい。倒れている人たちがどうなってもいい。桜が枯れてもいい。


本当にそう思ったのか。


返された子どもが、紗良(さら)を見ていた。


「ほら」

「何」

「大切な人がいると、ほかの人のことは小さくなります」


紗良(さら)は言い返せなかった。


子どもは静かに続けた。


「だから、一人が眠るんです。みんなを同じ大きさにするために」

「ちゃう」

「違わないです」

「ちゃう」


紗良(さら)はそれだけを繰り返した。


律(りつ)が紗良(さら)の手から抜けた。廊下の端へ向かい、足を踏み外しかける。


「律(りつ)」


呼んでしまった。


名前が、境内の空気に触れた。


住職が腕を伸ばした。律(りつ)は柱に手をつき、かろうじて立っていた。


返された子どもが、小さく言った。


「行くと言った子を、呼んだ」


屋根の上の桜舟が音を立てた。


「今ので、迎えが始まります」


花びらが一斉に開く。舟の縁が眠る場所を広げるように大きくなった。


律(りつ)は庭へ降り、ふらつきながら歩いた。紗良(さら)が腕を伸ばす。届いたはずなのに、指先が空(くう)を切った。距離は一歩分しかないのに、律(りつ)の背中が遠い。


「待って」


律(りつ)は振り返らなかった。


「姉ちゃん、泣くなよ」

「泣いてへん」

「声が泣いてる」


律(りつ)は屋根の下まで行き、低い塀に手をかけた。桜舟が瓦を滑り、軒からゆっくり降りてくる。舳先は律(りつ)の目の高さで止まった。


返された子どもが、そっと言った。


「触れたら、舟は手を離しません。乗ってしまえば、次の百年です」


紗良(さら)は走った。叫びかけた名前を、喉(のど)の奥で止めた。

弟が、何もない宙へ手を伸ばす。


「見えへんのに、なんかある」


律(りつ)の指が、空を探った。そこに、舟の縁があった。

その指先が花びらに触れた瞬間、律(りつ)の足元から影が消えた。


律(りつ)の影が消えた。


石畳の上には紗良(さら)の影だけが残っていた。夕方の光はまだある。住職の影も、返された子どもの小さな影も、柱の影もある。それなのに、律(りつ)の足元だけが抜け落ちたように白かった。


名前を叫びそうになり、紗良(さら)は唇を噛(か)んだ。


弟の肩をつかむ。律(りつ)は舟の縁に指をかけたまま、ぼんやりと屋根を見上げている。眠っているわけではない。けれど目の焦点が合っていなかった。


桜舟は低い塀の上に浮かんでいた。舳先が軒から斜めに下がり、律(りつ)の目の高さまで伸びている。花びらでできているはずなのに、近くで見ると厚みがある。舟の縁は何枚もの花びらが重なり、乾いた紙のように硬そうだった。中心には一本の古い枝が通っている。黒く、細く、枯れているのに折れていない。


「手を離して」


紗良(さら)は律(りつ)の指をはがそうとした。


律(りつ)の手は冷たかった。


「なあ、聞こえてる?」

「……眠い」

「寝たらあかん」

「うん」


律(りつ)はうなずいたが、手を離さなかった。桜舟のほうが律(りつ)の指をつかんでいるように見えた。


住職が背後で息をのんだ。


「触れてしまった」

「だから何ですか」

「まだ乗ってはいません。ですが、名を受け取った舟は、迎える相手を離さない」

「止め方は分からへんのでしょう」


紗良(さら)が振り返ると住職は言葉を失ったように黙った。


返された子どもだけが静かに舟を見ていた。


「乗れば、楽になります」

「黙って」

「眠るだけです」

「黙ってって言うたやろ」


子どもは紗良(さら)を見た。怒ってはいなかった。ただ、不思議そうだった。


「怖いんですか」

「当たり前やろ」

「死ぬわけじゃないのに」

「百年戻られへんなら同じやって、さっき言うた」

「同じじゃないです」


子どもは繰り返した。


「わたしは春を見ていました」

「あんたは、自分にそう言い聞かせてるだけや」


紗良(さら)の声が震えた。言ってはいけないことを言った気がした。住職がわずかに顔を上げる。


子どもの表情は変わらなかった。けれど指先が着物の袖を握った。


外で風が吹いた。


境内の桜が一斉に鳴った。ざわざわという音の中に低い声のようなものが混じる。紗良(さら)には言葉までは分からない。ただ、急かされていることだけは分かった。


律(りつ)の体が少し前へ傾いた。


「あかん!」


紗良(さら)は弟の腰に腕を回し、後ろへ引いた。桜舟がきしむ。花びらがこすれ、乾いた音を立てる。律(りつ)の指は舟の縁から離れない。


「姉ちゃん、痛い」

「痛くても離して」

「なんもないのに、離れへん」


律(りつ)の声は泣きそうだった。


紗良(さら)は舟の縁をつかんだ。


冷たいと思っていた。けれど熱かった。火ではない。長い時間、日差しを吸い込んだ石のような熱だった。触れた瞬間、頭の中に声が流れ込んできた。


きれいやな。

今年も咲いた。

助かった。

あの子のおかげや。


知らない人たちの声だった。古い声も、新しい声もある。泣いている声。笑っている声。店先で客を呼ぶ声。寺で祈る声。子どもを呼ぶ声。


その奥に、別の音があった。


暗い場所で、誰かが息をしている。

目を閉じたまま、春を待っている。

百年のあいだ、花が開くたびに人の声だけが降ってくる。


紗良(さら)は手を離した。指先がしびれていた。自分の手は離れるのに、律(りつ)の指だけが残っている。


「見えましたか」


返された子どもが言った。


紗良(さら)は答えなかった。


「みんな、よかったって言ってました」

「あんたは?」


子どもは黙った。


「あんたは、よかったん?」

「わたしが眠ったから、山は」

「山やなくて、あんた」


子どもは唇を閉じた。


律(りつ)の指が一本、舟の縁へ沈むように入り込んだ。花びらが指を包んでいる。


舟がわずかに浮いた。屋根のほうへ戻ろうとしている。律(りつ)の腕が上へ引かれ、爪先(つまさき)が石畳から浮きかけた。


住職が律(りつ)の体を抱き留めた。


「私が支えます」


紗良(さら)は弟を離さなかった。


「今さらですか」


住職は律(りつ)を抱え直した。両足が石畳につくように、舟の下へ体を寄せる。


「最初から、全部話すべきでした」

「なんで話さへんかったんですか」


住職は一度、境内を見た。眠っている人たちと、黒ずんだ桜があった。


「この子を助けたいと思いながら、山が助かる道も捨てられなかった。名を紙に書かせようとしたのも、助けるためだけではありません。次に眠る子として、記録に残すことを考えていました」


紗良(さら)は住職を見た。


「それを、確かめるためやって言うたんですか」

「はい」


住職は目をそらさなかった。


「すみませんでした」


律(りつ)の腕がまた上へ引かれた。住職はその体を支え、足を踏ん張った。


紗良(さら)は屋根を見上げた。


「屋根に上がります」

「瓦は滑ります」

「ここにいても危険です」


住職は口を閉じた。


「舟の中心に、枝がありますよね。あれが、帳面に書いてあった枝なんちゃいますか。触れるべからずって」


帳面の表紙の裏にあった一行を、紗良(さら)は思い出していた。それに、最初に屋根の上で舟を見たときから、あの黒い筋が気になっていた。舟の中心を貫くあの黒い枝だけが、花びらと違う重さを持っている。あれが、舟を舟にしている。


「折ればどうなるか、記録にはありません。春そのものが終わるのかもしれない」


住職は言った。


「弟を乗せれば、弟の春が終わります」

「山全体が枯れるかもしれません」

「一人を眠らせて咲く春なら、もう終わったほうがええ」


住職は何も言わなかった。


紗良(さら)は律(りつ)の顔をのぞき込んだ。


「すぐ戻るから」


律(りつ)は小さくうなずいた。


紗良(さら)は弟の体を住職に預け、低い塀に足をかけた。そのとき返された子どもが前に立った。


「だめです」

「どいて」

「折ったら、わたしの百年がなくなります」


その声は、初めて子どもらしく震えていた。


「わたし、ちゃんと眠ったんです。泣かなかった。暗くても、ずっと春を聞いてた。みんなが笑ってるなら、いいと思った。そう思わないと、百年もいられなかった」


紗良(さら)は塀から足を下ろした。


「無駄やったなんて言うてへん」

「同じです」

「同じちゃう」


子どもは紗良(さら)をにらんだ。黒い目に、涙はなかった。


「だったら、どう言えばいいんですか」


紗良(さら)は言葉を探した。風が強くなる。境内では眠っている観光客の体が桜の下に点々と見えた。誰かのスマートフォンが石畳の上で鳴っている。誰も出ない。


律(りつ)が小さくつぶやいた。


「姉ちゃん」

「ここにおる」

「俺、寝たら、姉ちゃん怒る?」

「怒る」

「めっちゃ?」

「めっちゃ」

「じゃあ、やめとく」


律(りつ)は笑おうとした。口元だけが少し動いた。


紗良(さら)は子どもに向き直った。


「意味があったから続けるんちゃう」


子どもは動かなかった。


「苦しかったから終わらせるんや。あんたが眠った百年をなかったことにはせえへん。けど、せやからって次の百年をこの子に渡す理由にはせえへん」

「山は枯れます」

「誰が言うたん」


子どもは着物の袖を握った。


「眠る前に、みんなが。春がなくなるって。だから、わたしが」

「ほんまにそうなるか、分からへんのやろ」


子どもは答えなかった。


「店も、寺も、道も」

「守る方法を探したらええ」

「昔の人も探しました」

「それでも、子どもを眠らせる以外の方法を、もう一回探すんや」


紗良(さら)は自分でも無茶なことを言っていると思った。けれど言わなければならなかった。正しい答えがあるからではない。今ある答えが間違っているからだ。


子どもは屋根の上の舟を見た。


「わたし、家に帰れるんですか」

「分からへん」

「家はもうないかもしれない」

「うん」

「知ってる人も、いない」

「うん」

「じゃあ、どこへ帰るんですか」


紗良(さら)は返せなかった。


住職が低く言った。


「寺で預かります」


子どもは住職を見た。


「それは、帰るところですか」


住職は口を閉じた。


風がまた吹いた。桜舟が律(りつ)を引く。住職の腕の中で律(りつ)のかかとが浮いた。


紗良(さら)は塀へ上がった。今度は子どもも止めなかった。


屋根瓦は冷たく、足の裏で少し滑った。紗良(さら)は瓦の丸みに手をつき、ゆっくり上がる。ジーンズの膝がこすれた。桜の枝が顔に当たる。花びらの縁は黒く、触れると乾いて崩れた。


舟は軒まで戻っていた。


舟底の後ろ半分が瓦に乗り、長く伸びた舳先が軒の外へ垂れている。その先で律(りつ)の手が包まれていた。下では住職が律(りつ)の腰を抱き、つま先だけでも石畳から離れないよう支えている。


近くで見ると舟はさっきよりさらに広がっていた。花びらが幾重(いくえ)にも重なり、子ども一人をすっぽり包めるほどになっている。中心の黒い枝は舟底から舳先までまっすぐ通っていた。枝には古い紐が巻かれている。紐はところどころ切れ、墨で書かれた名前の切れ端が貼りついていた。


紗良(さら)は枝に手を伸ばした。


触れた瞬間、また声が流れ込んだ。


お願いします。

今年だけ。

この子なら。

山のために。

みんなのために。


その声の中に小さな泣き声が混じっていた。返された子どもの声だと分かった。百年前の声。泣かなかったと言った子の、誰にも聞いてもらえなかった声。


「泣いてたんやん」


紗良(さら)はつぶやいた。


下で子どもが顔を上げた。


「泣いてない」

「泣いてた」

「泣いてなどおりません」

「怖かったんやろ」


子どもは何も言わなかった。


紗良(さら)は枝を両手でつかんだ。硬い。細いのに、びくともしない。舟底から引き起こそうとしても、花びらの層に食い込んだまま動かなかった。


「手伝って」


誰に言ったのか、自分でも分からなかった。


返された子どもが屋根を見上げている。


「手伝ったら、あんたの百年が終わるかもしれへん」


紗良(さら)は言った。


子どもはゆっくり首を横に振った。


「もう、終わってました」


その声は小さかった。


「舟が戻ったときに、終わってました」


子どもは低い塀に手をかけた。自分で登り、軒の端へ手を伸ばす。紗良(さら)が片手を差し出すと、今度はその手をつかんだ。


小さな足袋が瓦に乗った。


子どもは紗良(さら)の横に膝をつき、黒い枝に手を添えた。


下で律(りつ)が小さく声を上げた。舟の縁が弟の手首まで包み込んでいる。


「いくで」


紗良(さら)が言った。


子どもはうなずいた。


二人で枝を引いた。


最初は何も起きなかった。枝は固く、山そのものにつながっているようだった。紗良(さら)は歯を食いしばる。手のひらが痛い。黒い枝の表面が皮膚に食い込む。


また声が聞こえた。


やめて。

春がなくなる。

今年も咲いたのに。

この子のおかげなのに。


子どもが目を閉じた。


「もう、いい」


誰に向けた言葉か分からなかった。


「もう、わたしのせいにしなくていい」


枝が少し浮いた。


紗良(さら)は舟の縁に押し当てるようにして、両手を引いた。子どもも体を後ろへ傾ける。


枝が鳴った。


乾いた音だった。骨ではない。木の音だった。一本の古い枝が、長い時間を抱えたまま裂(さ)ける音。


紗良(さら)はもう一度力を込めた。


枝が折れた。


その瞬間、桜舟が燃えるように光った。


火は出ていない。けれど花びらが内側から明るくなり、一枚ずつほどけて空へ舞い上がった。桃色の花びらは空中で白くなり、それから黒い灰に変わる。音はなかった。ただ、境内の桜が一斉に散り始めた。


律(りつ)の手首を包んでいた舟の縁がほどけた。


「律(りつ)!」


名前を呼んでも、もう桜は鳴らなかった。紗良(さら)は屋根から身を乗り出した。


住職に支えられながら、律(りつ)が石畳に膝をつく。両手を地面につき、大きく息をした。足元に影が戻っている。薄いけれど、黒い影だった。


「息はあります」


住職が言った。


「当たり前です」


紗良(さら)はそう言って、力が抜けた。


桜は散り続けていた。


満開だった枝から花が落ちる。黒ずんだ花も、まだ桃色の花も、全部が同じように舞った。眠っていた観光客たちが少しずつ目を覚ます。茶店の前の女性が顔を上げる。子どもを抱いた男性が、なぜ腰かけに座っているのか分からない様子で周りを見回した。


誰も、屋根の上で何が起きたのかは分かっていない。


舟はもうなかった。紗良(さら)の手の中には折れた黒い枝の半分だけが残っていた。もう半分は返された子どもが持っている。


「山、枯れますか」


子どもが聞いた。


住職は散っていく桜を見上げた。


「分かりません」

「分からないんですね」

「はい」


子どもは少しだけ笑った。


「分からないの、久しぶりです」


その顔は、初めて眠りから覚めた子どもの顔に見えた。


翌朝、吉野山の桜はほとんど散っていた。


ニュースでは満開のさなかの突風だと言っていた。観光客の何人かが一時的に体調を崩したことも、小さく報じられた。寺はしばらく拝観を止めることになった。土産物屋の人たちは困った顔をしていたが、誰も紗良(さら)たちを責めなかった。何が起きたのか、知らないからだ。


昨夜、寺の電話を借りて母に連絡し、律(りつ)が熱を出したと伝えた。半分は本当だった。母に送るはずだった桜の写真は、結局、送らないままだった。母は仕事を切り上げて車で来たが、着いたのは夜遅くで、住職の勧めでそのまま寺に泊めてもらうことになった。その母は今、庫裏で住職に何度も頭を下げている。返された子どものことは、寺が保護している身寄りのない子どもだと、住職が説明していた。母は不思議そうな顔をしながらも、それ以上は何も聞かなかった。


律(りつ)は寺の縁側(えんがわ)に座って、柿の葉寿司を食べていた。


「昨日、俺、寝てた?」

「寝かけてた」

「姉ちゃん、泣いた?」

「泣いてへん」

「絶対泣いたやろ」

「うるさい」


律(りつ)は笑った。影はちゃんと足元にあった。


「帰りに、アイス買うたるわ」

「ほんまに?」

「今度はほんま」


律(りつ)は柿の葉寿司を口に入れたまま、二回うなずいた。


返された子どもは住職の隣で庭を見ていた。名前はまだ分かっていない。本人も、呼ばれていた音を思い出せないと言った。


住職は村に残る古い記録をたどって、時間をかけて調べると言った。寺で預かると決める前に、まずこの子が何を食べたいか、どこで眠りたいかを聞くとも言った。


「それから先は、一緒に考えます」


今度は、子どもに向かって言った。


境内の桜は寂しかった。昨日までの満開が嘘のように、枝ばかりが目立つ。観光客の数も少ない。坂の店も、半分ほどしか開いていなかった。


門の外では店の人と寺の人が、散った花を掃きながら話していた。来週の予約をどうするか。来年も咲くのか。誰にも答えはなかった。


紗良(さら)は一本の枝の前で足を止めた。


枯れたように見える枝の先に小さな蕾(つぼみ)があった。桃色ではない。まだ固く、緑がかった蕾だった。


「咲くんかな」


律(りつ)が横に立った。


「分からへん」

「また分からん」

「分からんもんは、分からん」

「でも、ちょっとあるな」


律(りつ)は蕾を指さした。


返された子どもも近づいてきた。三人で、同じ小さな蕾を見上げた。


「春は、戻りますか」


子どもが聞いた。


紗良(さら)は首を横に振った。


「戻るんやなくて、作るんやと思う」

「誰が」

「ここに残った人たちが」


子どもはしばらく黙っていた。それから、小さくうなずいた。


桜は、もう以前のようには一斉に咲かないのかもしれない。

それでも紗良(さら)は、弟と並んで、まだ小さな蕾を見上げる。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

作中の寺や桜舟の言い伝えは架空のもので、実在の吉野山とは関係ありません。

満開の桜を見上げたとき、少しだけこの姉弟のことを思い出していただけたらうれしいです。

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