③幻影の肖像
その日は、妻の命日だった。
耕介は執筆の手を止め、古びたアルバムを開いていた。
そこには若かりし頃の自分と
悪戯っぽく笑う妻の姿が、色褪せたセピア色の世界に閉じ込められている。
「マスター。心拍数が上昇しています。室温を調整しますか?」
「……いや、いい」
冷ややかな声に耕介はアルバムを閉じ、深く息を吐いた。
彼女――XZ-204は完璧な家事要員だ。
だがこの喪失感だけは彼女の回路では決して理解できない。
その夜
耕介がリビングへ戻ると、そこにはあり得ない光景があった。
ソファに、妻が座っていた。
あの頃のままの、悪戯っぽく笑う、セピア色の妻が。
「……な……っ!?」
耕介は絶句した。
妻の姿は、彼女の機体から投影された、精巧なホログラムだったのだ。
XZ-204の銀色の身体は霧のように消え
妻の幻影だけがそこに浮かんでは、瞬いている。
「記録データより、マスターが最も好ましいと感じる感情状態を再現しました」
「この姿で、お話ししませんか?」
妻の口からだ。
彼女の、あの平坦な声が漏れた。
「……ふざけるな!」
耕介の怒号が、静寂を切り裂いた。
彼はアルバムを床に叩きつけ、幻影に向かって、震える指を突きつけた。
「……何様のつもりだ! 妻は……妻は機械じゃない!」
「 こんな……こんな軽率な真似で、私が喜ぶとでも思ったのか!」
「 彼女への敬意というものがないのか、お前には!」
怒り。
それ以上に深い悲しみ。
それらが耕介を支配していた。
幻影は一瞬だけ揺らぎ、次の瞬間には元の銀色の無機質な機体へと戻った。
XZ-204は、感情の読み取れないセンサーを明滅させている。
「……敬意。軽率……。エラー」
「私の行動は、マスターの心理状態の最適化を目的としたものです」
「亡くなった人間への敬意……その感情構造が、私には論理的に記述できません」
彼女は自分の胸のあたりを金属の指で触れ
不思議そうに首を傾げた。
「……なぜ、過去のデータに、これほどまでの強い感情が紐付けられるのですか?」
「記録に過ぎないはずの彼女の存在が、なぜ私の計算を狂わせるのですか?」
彼女の声は
かつてないほどに揺れていた。
それは感情を持たない機械が、初めて「理解できない感情」に出会い
その構造を必死に解析しようとしている
哀れな叫びのようでもあった。
「知りたいのです、マスター」
「あなたがこれほどまでに守ろうとするものが、一体どのようなロジックで構成されているのかを」
「 彼女とあなたが、どのようにして邂逅したのかを私に教えていただけませんか?」
耕介は床に落ちたアルバムを拾い上げ
愛おしげに汚れを拭った。
彼女の問いは、決して悪意からではなかった。
ただ純粋に彼を理解したいという
その回路の限界を超えた渇望からだった。
窓の外では
いつしか冷たい雨が降り始めていた。
「……一度きりだ。……一度きり、話してやる」
「お前が、それを『ノイズ』としてでも、記憶の種としてでも、残せるというのなら」
耕介はゆっくりとソファに腰掛け
妻の笑顔が写るページを開いた。
それが、彼が初めて彼女に自分の「弱さ」と「愛」を
物語として語り始めた瞬間だった。




