悪役令嬢の定義から教えてください 〜正論を言っただけで世界が壊れ始めました〜
本作は、いわゆる「悪役令嬢もの」を下敷きにしていますが、
ざまぁや断罪を目的とした物語ではありません。
もし、
・感情が正義になる世界
・空気を壊した者が悪になる世界
・説明責任よりも同調が優先される世界
があったとしたら、
そこでは「正しい行動」を取った人間こそが
悪役と呼ばれるのではないか――
そんな発想から書き始めました。
主人公は、自分が悪役だという自覚を持ちません。
ただ確認し、手順を踏み、責任を整理するだけです。
その結果として起きる出来事を、
どう受け取るかは読者の皆さまに委ねたいと思います。
静かな物語ですが、最後までお付き合いいただければ幸いです。
第1章 悪役令嬢の定義から教えてください
王宮の大広間は、晴れの日のために作られた場所だ。光は高窓から降り、磨かれた床は鏡のように人影を返す。ここでは祝福の言葉と拍手が似合う。少なくとも、国にとって都合の良い物語が語られる限りにおいては。
その中心に立たされている自分のことを、アーデルハイト・フォン・リューネは淡々と眺めていた。
王太子レオンハルト殿下の隣に、白い衣の少女がいる。神殿の意匠を纏うその姿は、光そのもののように見えるよう計算されていた。肩を小さく震わせ、目元を潤ませ、しかし俯きすぎない。涙は武器だと、本人が自覚しているかどうかは別として。
周囲には貴族、官吏、神官。加えて、今日という場を“目撃”するために招かれた者たち。空気は最初から結論を知っている。視線は一つの方向にだけ流れる。すなわち、断罪されるべき者へ。
アーデルハイトへ。
「アーデルハイト・フォン・リューネ。貴殿との婚約を、ここに破棄する」
レオンハルトの声が響く。若い声だ。よく通るが、重みがない。重みとは、責任の質量だとアーデルハイトは知っている。今の声は、拍手を求める演説の音に近い。
ざわり、と周囲が震えた。ざわめきは疑問ではなく、期待の揺れだ。来るべき“正義”の瞬間に、皆が立ち会っているという陶酔。
「そして、聖女セラフィナに対して行った数々の嫌がらせ……その罪は看過できない。貴殿は悪役令嬢として、この場で断罪される」
悪役令嬢。
その単語が投げられた瞬間、空気はさらに甘くなった。甘いものは、依存性がある。わかりやすい悪者がいる物語は、とくに。
アーデルハイトは息を吐き、首をわずかに傾けた。あくまで礼節の範囲で、しかし確かに“確認”の姿勢を示す角度で。
「確認してもよろしいでしょうか」
声は通った。大広間にふさわしい音量であり、同時に抑制が利いている。感情が混ざらない声は、聞く者の感情を逆撫ですることがある。なぜなら、この場の多くは“感情で正しさを共有”しようとしているからだ。
レオンハルトの眉が動く。「何だ」
「『悪役令嬢』の定義を、教えてください」
一拍、沈黙が落ちた。
笑いが起きる。小さな笑い。理解者の笑いではない。馬鹿にするための、あるいは空気に追随するための笑い。
レオンハルトは胸を張った。「定義も何もない。聖女を虐げた時点で悪だ」
「では、虐げた行為の具体を」
「言い逃れか?」
言い逃れ。これも便利な言葉だ。具体を求めれば言い逃れになる世界なら、裁判は成立しない。だがここは裁判の場ではない。儀式の場だ。儀式に必要なのは、証拠ではなく同調だ。
アーデルハイトは頷いた。「言い逃れではありません。整理したいだけです。私は、公爵家当主代理として、私の行為が何に該当したのかを記録に残す必要があります。今後の再発防止のために」
大広間の空気が、わずかに冷えた。再発防止という言葉は、責任の匂いがする。責任の匂いは、ここでは歓迎されない。
白衣のセラフィナが小さく息を吸った。怯えたように身を縮める。周囲はそれに反応する。まるで合図だ。哀れみが怒りへ変わる。
「ほら、また追い詰める」誰かが囁いた。 「本当に冷たい」別の声。 「聖女様がかわいそう」
かわいそう。これもまた、免罪符だ。
アーデルハイトはセラフィナに視線を向けた。敵意はない。ただ観察だ。セラフィナの目は、ほんの一瞬だけこちらを見た。濡れた蜂蜜色の瞳の奥に、戸惑いより先に“安堵”があるように見えたのは、気のせいだろうか。
「具体を挙げよう」レオンハルトが声を強める。「セラフィナに対し、神殿への寄付を減らした。さらに、治癒院への支援を停止し……」
アーデルハイトは遮らない。ただ聞いた。
寄付を減らした。支援を停止した。そこには“いじめ”というより、予算の用語が並ぶ。彼らがそれを嫌がらせと呼ぶのなら、この国の財政は最初から物語で運用されていることになる。
「寄付額の減額は、昨年度の収支報告に基づくものです」アーデルハイトは淡々と言った。「公爵家領の洪水復旧が優先となり、臨時支出が発生しました。神殿への寄付は、契約上『余剰収益の一定割合』と定められています。余剰が減れば、額も減ります」
誰も契約書を読んでいない顔をしていた。あるいは読んでも、都合の悪い文字は視界から消えるのだろう。
「治癒院への支援停止についても同じです。支援金の用途報告が未提出でした。監査権限を行使し、提出があるまで一時停止しただけです」
ユリウス・ヴァルト監査官が、広間の端でわずかに目を細めた。視線が交差したのは一瞬。彼は何も言わない。だが、記録の人間だけが持つ“理解の速度”がそこにあった。
レオンハルトが言葉を失ったのは、長くても二秒だった。すぐに取り巻きの誰かが声を上げる。
「屁理屈だ!」 「聖女様が困っていたのに!」
困っていた。困っていたなら、用途報告を出せばよい。洪水復旧より優先される支出なら、議会で承認を取ればよい。だが、この世界ではそれが“冷たい”に変換される。
アーデルハイトは、静かにもう一度尋ねた。
「つまり、この国では『書類を求めること』が、悪役令嬢の要件なのですか」
広間がどよめいた。挑発ではない。確認だ。だが確認は、ときに最も残酷な鏡になる。鏡は嘘を映さない。
セラフィナが、ぽろりと涙を落とした。床に落ちる前に神官が駆け寄り、白い布で受ける。演出として完璧だ。涙が床を汚さないように。聖女の涙が汚れることは許されない。
レオンハルトは、その涙を“結論”として利用した。
「見たか。聖女は傷ついている。これ以上の議論は不要だ。アーデルハイト、貴殿の罪は明白だ」
明白。明白という言葉ほど、曖昧なものはない。明白とは、説明を放棄する合図だから。
アーデルハイトは頷いた。理解したのではない。受理したのだ。この場が裁きではなく儀式であり、儀式は事実ではなく感情を燃料に回ることを。
「承知しました」彼女は礼儀正しく言った。「では、もう一点だけ確認を」
レオンハルトが苛立ちを隠さない。「まだ何か」
「私が今ここで断罪されることにより、公爵家領の治癒院支援の監査は誰が引き継ぎますか。用途報告が未提出のまま、支援を再開するのですか。それとも、監査を継続しますか」
沈黙。
広間の誰も、その問いにすぐ答えられない。なぜなら“物語”の続きに、その項目が存在しないからだ。婚約破棄と断罪の後に来るのは拍手であり、恋の成就であり、祝福の光であるべきで、支援金の監査などは舞台袖に追いやられる。
だが現実は、舞台袖で止まらない。
ユリウス監査官が、初めて一歩前に出た。声は低く、しかし明瞭だった。
「監査局が引き継ぎます。提出期限と、不備があった場合の措置についても、現行規定に従い処理します」
空気が一瞬だけ割れた。儀式に、現実の音が交ざった。
レオンハルトの顔が引きつる。彼は求めていなかった。ここで必要なのは正しさではなく、“雰囲気”だったのに。
アーデルハイトは、ようやく少しだけ安心した。誰かが引き継ぐなら、領民が困る確率は下がる。
そして思う。自分は悪役なのだろうか、と。
悪役とは、誰にとっての悪なのか。誰の感情を守れなかった者なのか。あるいは、誰の“都合”を壊した者なのか。
その定義を、今日のこの場の誰も言語化できないまま、儀式だけが進んでいく。
王太子は声を張り上げる。「アーデルハイト・フォン・リューネ! 本日をもって、王太子妃の座から追放する!」
追放。追放という言葉は派手だ。だが追放先の行政手続きは派手ではない。爵位、領地、資産、監査権限、契約の承継。処理すべき項目は山ほどある。
アーデルハイトは深く一礼した。儀式の終わりを告げるために。観衆にとっては、これで物語が完成するために。
だが彼女の中では、物語はむしろ今、始まったばかりだった。
──悪役令嬢の定義から、教えてください。
世界が間違っているのなら、誰が悪役になるのか。
彼女はその問いを胸に、きらびやかな大広間を後にした。
第2章 確認しますが
王宮の回廊は、外の冷気を上手く閉じ込めたような静けさを持っていた。高い天井と長い窓、磨かれた石の床。足音はよく響く。大広間の熱が嘘のように遠ざかり、代わりに残るのは、儀式の後に生まれる空白だ。
アーデルハイトは背筋を崩さずに歩いた。追放された令嬢に相応しい狼狽を見せるのが、ここでは礼儀なのかもしれない。だが彼女は、礼儀の定義を「形」と「責任」に置いている。崩れるべきではないのは、姿勢よりも手順だ。
側に控える侍女長マルタが、他の侍女を遠ざけるように視線で合図を送った。周囲の者たちは、今のアーデルハイトに声をかけるべきか迷っている。慰めれば“味方”になる。無視すれば冷たく見える。結局、誰も踏み込まない。
「お嬢様」マルタが小声で言った。「ひとまず、控室へ。人の目が多すぎます」
「はい」アーデルハイトは短く応じた。「ただ、控室へ行く前に、確認したいことが一つあります」
マルタの眉がわずかに動いた。これまで何度も見てきた表情だ。あの顔は、嫌な予感を呑み込んだ顔。
「今から、どちらへ」
「王太子殿下の執務室――ではなく、婚約関連の文書が保管されている文書局へ」
「今ですか」
「今です。儀式は終わりました。ならば次は処理です」
マルタが軽く息を吐いた。「……お嬢様は、本当にお変わりになりませんね」
変わる必要があるだろうか。アーデルハイトは胸の内で問いを返し、口には出さずに歩調を変えなかった。
文書局は王宮の奥にある。華やかな場から遠く、事務官と書記と帳簿の匂いが支配する場所だ。ここでは、噂より印鑑が強い。涙より署名が重い。世界がどんな物語を欲していようと、行政は行政の速度で進む。
受付に立つ若い書記が、アーデルハイトの姿を見て顔色を変えた。彼は礼をしようとして、途中で動きを止める。礼をする相手かどうか迷っているのだろう。
「公爵令嬢――いえ、失礼」言い直しが、彼の喉で詰まる。
「そのままで構いません」アーデルハイトは淡々と言った。「婚約契約書と付随文書の閲覧を希望します。閲覧権限は、現時点でまだ有効なはずです」
書記は何か言いかけたが、結局、反論できなかった。儀式は儀式で、法的効力は別だ。その区別を理解している者は、文書局には多い。
閲覧室へ通され、厚い綴りが机に置かれる。封蝋の跡、署名、日付。紙は嘘をつかない。ただし、紙を読まない人間は、平然と嘘を生きる。
アーデルハイトは淡々と頁を繰った。婚約破棄条項。破棄に必要な手続き。証人、議会承認、両家合意。救済措置、賠償、資産移転。公爵家領と王家の共同事業に関する承継条項。想像以上に、絡んでいる。
「……予想どおりです」彼女は小さく呟いた。
マルタが近づいた。「何がです」
「今日の婚約破棄は、少なくとも三点で無効になり得ます。第一に、証人が規定人数に足りません。第二に、両家合意の署名がありません。第三に、議会承認が必要な条項があるのに、議会が介在していません」
マルタは一瞬、言葉を失ったあと、目を細めた。「つまり」
「つまり、あの場は“雰囲気”として婚約破棄を宣言しただけです。手続きは終わっていない」
そう言った瞬間、胸の奥がひどく冷えた。儀式で人を追放し、しかし手続きは放置する。これは、当事者の人生を宙吊りにするやり方だ。彼女が嫌う類の無責任。
扉が乱暴に開いた。閲覧室の静けさが裂ける。
入ってきたのは、王太子レオンハルトだった。取り巻きの青年貴族を二、三名連れている。顔には苛立ちが浮かび、足取りは速い。儀式の勝者が持つべき余裕は、どこにもない。
「何をしている」彼が吐き捨てる。
「確認です」アーデルハイトは立ち上がり、礼をした。形式だけは崩さない。「本日宣言された婚約破棄が、条項上どのように処理されるのかを」
「条項だと? そんなものは――」
「あります」彼女は遮らず、しかし確実に言った。「殿下が署名なさった契約です」
取り巻きの一人が叫ぶように言った。「今さら契約を盾に脅す気か!」
「脅していません。処理です」アーデルハイトは視線を机上の書類に落とした。「契約の存在を無視すると、後で国が困ります。共同事業の承継が空白になりますから」
レオンハルトの喉が鳴った。理解していないのではない。理解したくないのだ。彼にとって婚約破棄は恋の決断であり、民衆の拍手を得る舞台だ。国の仕組みではない。
「お前は、本当に冷たい」レオンハルトが言う。「セラフィナが泣いていたのに、契約の話か」
アーデルハイトは一拍置いて答えた。「泣いていたからこそ、確認が必要です。泣いている人間が正しいとは限りませんが、泣いている人間に権限を与えるなら、その影響範囲を把握しなければなりません」
取り巻きたちが顔を引きつらせた。言葉は鋭いが、刺す意図はない。彼女の中で“泣く”は、判断基準ではなく状況情報に過ぎない。
レオンハルトは机を叩いた。「俺は王太子だ。俺が決めたことに従え」
「殿下」アーデルハイトは静かに言った。「確認しますが、王太子の権限で破棄できるのは、王家内部の手続きと婚約の宣言までです。公爵家との契約と、議会が関わる条項は別です」
「……お前は、俺に恥をかかせたいのか」
「恥は、事実が外部に漏れたときに発生します。今なら、手続きを整えれば恥にはなりません」アーデルハイトは淡々と続けた。「私は、そのためにここにいます」
それは本心だった。彼女にとって国の損失は避けるべきで、王太子の失態もまた国の損失に繋がる。だから助けようとしている。だが、助けは“支配”と誤読されることがある。
レオンハルトの瞳が怒りで揺れた。「お前は、俺を操ろうとしている」
「違います。私は事務をしているだけです」
「その言い方だ。お前のその、感情のない言い方が……!」
言葉が途切れる。怒りは言語化が難しい。彼が欲しいのは、正しさではなく共感だ。彼女の淡々とした声は、共感を拒絶しているように聞こえる。
扉の外で小さな足音が止まった。
白い衣の裾が見える。セラフィナが、控えめに入ってきた。神官が後ろに控えている。彼女は怯えたように見せながら、空気の中心に立つのが上手い。場が彼女のために整っていく。
「殿下……」セラフィナが囁く。「わたしのせいで……」
レオンハルトの表情が一瞬で変わった。怒りが“守る”に変換される。彼は彼女の肩に手を置いた。「違う。お前は悪くない。悪いのは――」
視線がアーデルハイトに向く。矢印が必要だ。物語には悪役が必要だから。
アーデルハイトはセラフィナを見た。怯えの仮面の奥に、ほんの僅かな期待がある。期待とは、守られることへの期待。許されることへの期待。自分は、これから何を得られるのかという期待。
「確認します」アーデルハイトは、セラフィナにも聞こえるように言った。「聖女候補セラフィナ様。あなたは、治癒院支援金の用途報告書に署名しましたか」
セラフィナの瞳が揺れた。神官が一歩前に出る。「聖女候補にそのような世俗の書類を――」
「世俗だからこそ重要です」アーデルハイトは言った。「支援金の出どころは税と領収益です。民の金です。用途不明のまま流せば、治癒院そのものが疑われます」
レオンハルトが声を荒げる。「また金の話か! セラフィナは人を救っている!」
「救っています。だからこそ、疑われる余地を潰すべきです」
アーデルハイトは机の上から一枚の写しを取り上げた。用途報告の催促状だ。日付は三度分。受領印はある。返答はない。事実が積み上がるほど、物語は苦しくなる。
「私は、支援を止めたかったわけではありません。用途報告が出れば、再開するつもりでした。実際、提出期限も明記しました」
セラフィナの唇が震えた。「……わたしは、そんな書類、見ていません」
その言葉は、彼女にとって盾になるつもりだったのだろう。だが盾は、誰が持っていたかを示す。
「では、神殿側の事務が滞っていた可能性があります」アーデルハイトは淡々と答えた。「殿下。確認ですが、神殿への寄付と治癒院支援の管理は、殿下の後援する神官が担当でしたね」
取り巻きが息を呑んだ。矢印が別方向へ向く。物語の悪役が、一人では足りない現実が顔を出す。
レオンハルトは言葉を失い、そして怒りを別の形で爆発させた。
「お前は、セラフィナを追い詰めている!」
「追い詰めていません。守っています」アーデルハイトは静かに言った。「彼女が本当に救いを行っているなら、なおさら不正の疑いから守らねばならない。疑いは、救いを腐らせます」
その瞬間、セラフィナの目の奥に浮かんだものを、アーデルハイトは見逃さなかった。
怖れではない。怒りでもない。
“うるさい”という感情だ。
守ると言いながら、面倒な現実を突きつけてくる女への、静かな拒絶。
セラフィナは涙を落とし、弱々しく首を振った。「わたしは……ただ、皆が仲良く……」
仲良く。これもまた便利な言葉だ。仲良くするために、誰かが黙る必要がある。黙る役はいつも、手続きと責任を語る者だ。
アーデルハイトは息を吐いた。ここで争っても意味はない。必要なのは、定義だ。
「殿下」彼女は再び言った。「私は、あなたが今日この場で用いた『悪役令嬢』の定義を知りたいのです。感情を害したことが罪なら、私は今後も罪を重ねます。なぜなら、行政は感情を優先できない」
レオンハルトの顔が歪んだ。「……お前は、本当に自分が正しいと思っているのか」
「確認します」アーデルハイトは一歩も引かず言った。「殿下は、正しさとは何だとお考えですか。泣いた者が正しいのですか。愛を語った者が正しいのですか。拍手を得た者が正しいのですか」
空気が凍る。
文書局の人間が、遠巻きにこちらを見ている。彼らは騒ぎを好まない。だが、事実が事実として積まれていく瞬間だけは見逃さない。後で記録に残すために。
レオンハルトは、そこで初めて“答えられない”顔をした。
彼の正義は、言語化すると壊れる。だから言語化しないまま、儀式で押し切ってきた。
「……もういい」彼は吐き捨てた。「お前は追放だ。今すぐ王宮から出て行け」
「手続きが終わっていません」アーデルハイトは即座に言った。「少なくとも、私の私物と公爵家の文書は持ち出す必要があります。加えて、共同事業の承継者を指定し――」
「黙れ!」レオンハルトが叫ぶ。「お前のその理屈が、俺たちの幸福を壊す!」
幸福。
幸福を壊す。つまり、彼の定義ではこうだ。
理屈は幸福の敵で、手続きは愛の邪魔で、責任は雰囲気を汚すもの。
アーデルハイトは、その定義を心の中で記録した。必要なら、後で文章にする。
「承知しました」彼女は深く礼をした。「では、最低限の引継ぎだけ行います。国が困ることは、避けたいので」
レオンハルトは背を向け、セラフィナを庇うようにして去った。取り巻きたちも慌てて続く。儀式の勝者は、事務に弱い。事務は拍手をくれないからだ。
残された空気の中で、マルタが低く言った。
「……お嬢様。彼らは、あなたに勝てません。だから怒るのです」
アーデルハイトは机上の契約書を閉じた。紙の束が立てる音は小さいのに、妙に重かった。
「勝つつもりはありません」彼女は言った。「ただ、国が壊れるのは困ります」
マルタが苦笑した。「そういうところです」
アーデルハイトは立ち上がり、控えめに周囲へ視線を走らせた。文書局の奥に、監査官ユリウスがいた。先ほどから動かず、こちらを見ている。
彼は近づいてきて、低い声で言った。
「公爵令嬢。あなたがここまで契約を理解しているとは思わなかった」
「理解していなければ、責任を負えません」
ユリウスは短く頷いた。「王太子は、今日の発言で自分の首を絞めた。議会は黙っていない。神殿も、用途報告を突かれれば立場が悪い」
「……そうでしょうね」
彼女はそこでようやく、“逆ざまぁ”の匂いを感じた。
自分は何もしていない。ただ確認しただけだ。手続きの話をしただけだ。なのに世界の方が、勝手に崩れ始めている。
ユリウスが言う。「あなたは、どうする」
「引き継ぎます」アーデルハイトは即答した。「私が去るなら、去る前に必要な処理を残す。そうしないと、領民が巻き込まれます」
ユリウスは、少しだけ目を細めた。嘲笑ではない。評価だ。
「……あなたは、悪役には向かない」
アーデルハイトは静かに答えた。
「だからこそ、定義が知りたいのです。悪役令嬢とは、何をした人間のことなのか」
窓の外には冬の空が広がっていた。青く、冷たく、澄んでいる。世界が澄んでいればいるほど、歪みは際立つ。
そして彼女は理解し始めていた。
この世界は、正しさで動いていない。定義で動いていない。
雰囲気で動いている。
だから、誰かが定義を問うだけで――世界の方が間違っていることが露見してしまう。
アーデルハイトは書類の束を抱え、王宮の出口へ向かった。追放される者の足取りとしては、あまりに落ち着いている。
しかし彼女の中では、次の手順が既に組まれていた。
公爵家へ戻る。議会へ通知する。共同事業の承継を整理する。神殿への監査を正式化する。治癒院支援を、正しく“守る”。
ざまぁをするつもりはない。
ただ、世界が間違っているなら――正しい処理をするだけだ。
第3章 制度という名の現実
王宮の門を出ると、空気が少しだけ軽くなった。重いのは寒さではない。人の視線と、同調の圧だ。あれは肺に入らないのに、呼吸を苦しくする。
迎えの馬車に乗り込むと、マルタが扉を閉め、外の音が薄い布を被せたように遠ざかった。車輪が石畳を打つ振動は一定で、一定というだけで人は落ち着けるのだとアーデルハイトは知っている。
「まずは公爵家へ」彼女は言った。
「ええ。お嬢様」マルタが頷く。「それで――この後、どうなさいますか」
どうなるか、ではなく、どうするか。問われるべきはいつもそこだ。アーデルハイトは膝の上の書類束を整え、淡々と答えた。
「議会と監査局に通知します。婚約破棄が宣言された以上、契約上の承継と、共同事業の継続可否を整理しなければなりません。止めるべきものと、止めてはいけないものが交ざっています」
マルタが小さく息を吐いた。「……止めてはいけないもの」
「治癒院と水利です。感情で止めれば死者が出ます」
馬車は公爵家の屋敷に到着した。門前にはすでに使用人たちが並び、主を迎える形を作っている。彼らの目には、不安と困惑が混ざっていた。噂は早い。王宮の儀式が終わる頃には、どこかの誰かが面白半分で広める。
アーデルハイトは降り、必要以上に胸を張りもしなかったが、俯きもしなかった。彼女にとって重要なのは体面ではなく、統制だ。統制は、現場を守る。
「当主代理として命じます」玄関ホールで彼女は言った。「本日以降、王宮からの“口頭”の指示は一切受けないでください。受領は書面のみ。受け取ったら私と執事に即時回付。伝言で動かないこと」
使用人たちが一斉に頷く。彼らは混乱していても、命令が明確なら動ける。曖昧さが現場を壊す。
執事が進み出た。年嵩の男で、目の奥の光が冷静だった。
「議会への通知は当家から行いますか」
「はい。私が書きます」アーデルハイトは即答した。「それから監査局にも。ユリウス監査官には、こちらから正式に照会を送ってください。王宮内で口約束をしただけでは不十分です」
執事が深く礼をした。「承知いたしました」
彼女は自室へ向かわず、書斎へ入った。ここから先は感情の時間ではない。行政の時間だ。
机に向かい、紙を広げ、ペンを走らせる。
議会宛の文面は短く、しかし必要事項を落とさない。
――本日、王太子殿下より婚約破棄の宣言があった。
――しかし契約上の手続きは完了していない。
――共同事業(治癒院支援、水利整備、辺境防衛の補給)の承継条項に議会承認を要する。
――ついては、議会として必要な審査と手続きの指示を求める。
内容はそれだけだ。煽らない。泣かない。怒らない。事実だけを差し出す。議会は感情に流されることもあるが、制度の顔も持っている。制度の顔を引きずり出せば、少なくとも“手続きの舞台”には上げられる。
次に監査局宛。
――治癒院支援金の用途報告未提出が継続。
――当家として支援再開の意思はあるが、透明性確保のため期限設定と監査が必要。
――政治的状況の変化により、神殿側が“圧力”を用いて支援再開を迫る可能性がある。
――監査局として監査手続きを正式化し、外部からの介入を遮断してほしい。
書き終えた時、肩の力が抜けた。仕事は、やるべきことをやれば一旦終わる。感情はそうはいかない。
「お嬢様」マルタが紅茶を置いた。「お食事は」
「後で」アーデルハイトは言い、紅茶の香りを吸った。温かい液体は身体を戻す。身体が戻れば頭が働く。
そこへ、執事が早足で入ってきた。礼をして、しかし声の端に緊迫がある。
「議会から使者が参りました。至急、面会を求めています」
早い。儀式を“祝福”として受け取った者もいるだろうが、議会は祝福では動かない。動くのは、予算と責任だ。
「通してください」アーデルハイトは即答した。「応接ではなく書斎へ。ここで話します」
入ってきたのは、議会書記官の若い男だった。形式的な礼をした後、額の汗を拭う。
「公爵令嬢殿……本日、王太子殿下が婚約破棄を宣言されたと聞きました」
「事実です」
「しかし……議会への根回しがない。共同事業の条項が……」
「ええ」アーデルハイトは頷いた。「だから通知しました。議会として、何を必要とされますか」
書記官は一瞬、言葉に詰まった。彼が想定していたのは、追放された令嬢の涙か怒りだったのだろう。だが目の前にいるのは、行政の話を“普通に”する人間だ。
「……議会としては、王家に対し正式な説明を求めます。婚約破棄そのものではなく、事業承継の責任の所在です」
「当然です」アーデルハイトは淡々と言った。「責任の所在が曖昧なら、事業は止まる。止まれば損失が出る。損失が出れば議会が責任を負う。議会がそれを許すはずがない」
書記官が小さく頷いた。「加えて、神殿側が既に動いています。『聖女のために支援を戻せ』と」
「用途報告が出るまで戻しません」アーデルハイトは即答した。「議会としても、その点で一致できますか」
「……一致できます。むしろ、ここで曖昧に戻せば、今後どの事業も“泣けば金が出る”前例になります」
前例。制度の世界では、前例が力を持つ。感情はその場で消えるが、前例は残る。
アーデルハイトは小さく息を吐き、書記官へ一枚の写しを差し出した。催促状の受領印が並ぶ紙だ。
「これが三度分です。返答なし。これは、いじめではありません。未提出です」
書記官は紙を受け取り、目を走らせた。顔が引き締まる。証跡は人を黙らせるのではなく、制度のスイッチを入れる。
「……議会として監査局に協力要請を出します。あなたの通知は、非常に助かりました」
「私は助けたつもりはありません」アーデルハイトは言った。「国を守る手順を踏んだだけです」
その言葉は、書記官にとって異物だったのだろう。彼は一瞬だけ、困ったように笑ってから、深く礼をした。
書記官が去った直後、今度は別の来客があった。監査局からの使者だ。今度は年配で、目つきが硬い。書斎に入るなり、形式を端折って言った。
「治癒院支援金の件、監査局として臨時監査を正式に立ち上げる。あなたの通知は、介入を遮断する理由になる」
「ありがとうございます」アーデルハイトは頷いた。「提出期限は」
「七日。提出がなければ、神殿側の会計に踏み込む。議会も後ろにいる」
“踏み込む”という言葉が出た時点で、儀式の世界は崩れ始めている。泣いているから許されるという価値観は、監査の前では弱い。監査は泣き声を聞かない。聞くのは数字だ。
使者が去ると、マルタが静かに言った。
「……世界が、動き始めています」
アーデルハイトは紅茶を一口飲んだ。温かい。驚くほど、いつも通りの味だった。
「私は、確認しただけです」彼女は言った。
「それが、怖いのです」マルタが低く答えた。「お嬢様は殴っていないのに、相手が勝手に倒れていく」
殴っていない。そうだ。彼女は誰かを貶めようとしたわけではない。ただ、制度を維持しようとした。だがこの世界では、制度の維持が“攻撃”として認識されることがある。感情の支配を壊すからだ。
その夜、王宮から使者が来た。
封蝋付きの書状。開ける前から、匂いがした。焦りの匂いだ。
アーデルハイトは封を切り、読み、眉ひとつ動かさずに紙を置いた。
「王太子殿下より、命令ですか」マルタが問う。
「“直ちに王宮へ出頭し、聖女セラフィナへ謝罪し、支援を再開せよ”です」アーデルハイトは淡々と要点だけ言った。
「書面で寄越しただけ、まだ学習していますね」
「命令に法的根拠がありません」アーデルハイトは言い、別の紙を取り出した。「返書を出します」
返書は短い。
――出頭要請は受理するが、謝罪の要件と支援再開の根拠を提示せよ。
――用途報告未提出の状態では支援は再開できない。監査局の臨時監査が開始された。
――議会承認を要する条項があるため、王家単独の指示では動けない。
――必要なら、議会・監査局同席の場を設定する。
書き終えた時、マルタが小さく笑った。
「謝罪の要件」
「曖昧な謝罪は、次の曖昧を呼びます」アーデルハイトは真顔で言った。「私は、何に対して謝るのかがわからない。わからないまま謝れば、次はもっと大きなものを要求されます」
マルタは笑みを消し、真剣な顔に戻った。
「お嬢様。今夜から、屋敷の警備を厚くします。王宮が焦れば、汚い手を使う者が出ます」
「お願いします」アーデルハイトは頷いた。「私は、“世界が間違っている”と口にした覚えはありません。でも――彼らは、私がそう言ったのと同じくらい怯えている」
怯えている理由は簡単だ。定義を問われると、彼らの正義が言葉にならないからだ。言葉にならない正義は、制度に踏まれる。
アーデルハイトは窓の外を見た。夜空は澄んでいて、冷たい星が瞬いている。
彼女はまだ、ざまぁの実感を持てずにいた。これは報復ではない。断罪でもない。まして勝利でもない。
ただ、“現実”が戻ってきただけだ。
制度という名の現実が。
そしてそれは、物語に酔っていた世界にとって、最も不都合なものだった。
第4章 正しさが破壊するもの
王宮は静かだった。だがそれは、秩序の静けさではない。人が息を潜めるときの、重く湿った沈黙だ。
議会から王宮へ正式な照会が入ったのは、その翌朝だった。婚約破棄の手続き、共同事業の承継、神殿への支援金。いずれも“説明責任”を伴う項目ばかりだ。説明責任は、舞台ではなく会議室で果たされる。拍手はない。代わりに、質問がある。
レオンハルトは執務室で書簡を握り潰しそうになっていた。言葉は丁寧だが、内容は逃げ場を削る刃だった。議会は怒っているのではない。淡々としている。淡々としているからこそ、怖い。
「どういうことだ」彼は吐き捨てた。「婚約を破棄しただけだろう。なぜ、こんな……」
側に控える神官が、慎重に言葉を選ぶ。「殿下。共同事業の条項が……」
「条項、条項と!」レオンハルトは机を叩いた。「誰も条項なんて見ていない! 民は見たんだ、セラフィナの涙を!」
神官は口を閉ざした。彼は知っている。涙は税を生まない。拍手は治癒院を運営しない。
その治癒院では、別の静けさが広がっていた。
帳簿が開かれ、数字が並ぶ。監査官たちの指が走り、印が増えていく。ここには物語が入る余地はない。あるのは、入金と出金、用途、署名、日付。
「三度の催促」監査官の一人が言った。「受領印はある。返答なし」
「聖女候補の権限は?」別の者が問う。
「治癒の実施権限はあるが、会計の決裁権限はない。神殿の事務が握っている」
神殿側の顔色が変わった。彼らは“聖女が救っている”という物語で、事務の遅れを覆ってきた。だが事務は、救いの背後で確実に積み上がる。積み上がった遅れは、崩れるときに大きな音を立てる。
「用途不明金がある」監査官が淡々と言った。「横流しとまでは断定しない。ただし、説明がない」
説明がない。それは罪の確定ではない。だが免罪でもない。説明がなければ、支援は止まる。止まれば、神殿の権威が揺れる。
一方、アーデルハイトの書斎では、別の種類の静けさがあった。仕事が進む音だ。紙が擦れ、ペンが走り、封蝋が押される。
「王宮から、再度の出頭要請です」マルタが告げる。「今度は、議会同席で」
「受理します」アーデルハイトは即答した。「場所は」
「議会会館の小会議室。公開ではありません」
「適切です」
彼女は立ち上がり、必要な文書を揃えた。謝罪の言葉は持たない。持っていくのは、契約と報告書と、承継表だ。
会議室は質素だった。装飾は少なく、机と椅子、そして壁一面の棚。棚には法令集が並ぶ。ここでは、誰が泣いたかより、何が書いてあるかが重い。
レオンハルトは落ち着かない様子で席に着いていた。セラフィナは来ていない。代わりに神官がいる。議員が二名、監査官が一名。空気は、もう“物語”を求めていない。
「本件について」議員の一人が口を開いた。「婚約破棄の是非は、ここでは扱わない。問題は、事業承継と支援の継続だ」
レオンハルトが口を挟む。「支援は再開する。セラフィナの名誉のためにも」
「根拠を」議員は遮った。「用途報告が未提出だ。監査が始まっている」
神官が言い訳を始める。「事務の遅れで――」
「遅れの理由と、再発防止策を」監査官が淡々と言う。「それがなければ再開はできない」
レオンハルトは苛立ちを隠せない。「なぜ、ここまで厳しい」
アーデルハイトが、静かに口を開いた。
「厳しいのではありません」彼女は言った。「これが、通常です」
全員の視線が集まる。彼女は動じない。
「私は、支援を止めたかったわけではありません。止める理由があったから止めただけです。理由が解消されれば、再開する。それだけです」
「だが!」レオンハルトが声を荒げる。「それでセラフィナが傷ついた!」
「確認します」アーデルハイトは穏やかに言った。「傷ついたことと、支援の根拠は、どのように結びつきますか」
沈黙。
議員が視線を落とし、監査官がペンを置いた。神官は言葉を探すが、見つからない。
レオンハルトは、そこで初めて“正しさ”が答えを持たないことに直面した。彼の正しさは、場の空気に支えられてきた。だがこの部屋の空気は、条文でできている。
「……もういい」彼は言った。「では、どうすればいい」
「簡単です」アーデルハイトは言った。「用途報告を提出し、監査を受け、問題がなければ再開する。それまでの間、代替措置として、地方の治癒院へ直接支援を回す」
議員が頷いた。「合理的だ」
神官が慌てる。「それでは神殿の権威が――」
「権威は、正しく運用されてこそ守られます」アーデルハイトは淡々と言った。
その言葉は、神殿にとって刃だった。権威は守るものではなく、示すものだという前提を突きつけるからだ。
会議は結論に向かった。監査継続。支援は条件付き。代替措置の実施。議会承認。すべてが、手順どおりに決まる。
レオンハルトは席に残り、拳を握り締めていた。彼は負けたとは思っていない。だが、勝ってもいない。拍手がないからだ。
会議室を出ると、廊下で声がした。
「……あの人が、悪役令嬢?」
囁きは、今度は別の意味を帯びていた。冷たい、ではない。怖い、でもない。
“面倒”。
物語を壊す人間は、面倒だ。泣けば済む世界に、書類を持ち込むからだ。
アーデルハイトは歩きながら考えていた。正しさは、誰かを救う。だが同時に、誰かの居場所を壊す。
神殿は、聖女という物語で回っていた。王太子は、愛と拍手で回っていた。議会は、予算で回っていた。
彼女がやったのは、それらを同じ軸に載せただけだ。すると、軸に合わないものが落ちる。
それを“破壊”と呼ぶなら、正しさは確かに破壊的だ。
屋敷へ戻る馬車の中で、マルタが言った。
「……噂が変わり始めています」
「どのように」
「“冷酷な悪役令嬢”ではなく、“厄介な正論屋”に」
アーデルハイトは小さく頷いた。進展だ。悪役は物語に必要だが、正論屋は必要悪になる。必要悪は、完全には排除できない。
「私は、悪役で構いません」彼女は言った。「定義が明確なら」
マルタは苦笑した。「まだ、誰も定義できていません」
その夜、王宮で別の会合が開かれた。神殿側の緊急会合だ。監査の報告が回り、用途不明金が表に出始める。誰かが責任を取らねばならない。
責任は、最も弱いところに落ちる。
「聖女候補に、事務を理解してもらう必要がある」神官の一人が言った。
「いや、逆だ」別の者が言う。「事務から切り離せ。彼女は象徴だ。象徴に数字は不要」
象徴。守るべきもの。だが象徴は、制度の外に出た瞬間、危うくなる。
セラフィナは部屋で一人、鏡を見ていた。涙はもう出ない。代わりにあるのは、苛立ちだ。
「……あの人のせいで」
彼女はそう呟いた。だが本当は、違うとわかっている。あの女は、何も奪っていない。ただ、面倒な現実を持ち込んだだけだ。
セラフィナは初めて、自分が“守られてきた”ことを自覚した。泣けば誰かが動いた。今は違う。泣いても、監査官は動かない。
正しさが、彼女の居場所を削っていく。
翌日、神殿から公式文書が出た。治癒院支援の一部返還。事務体制の再編。聖女候補の権限見直し。
世界が、少しずつ、しかし確実に変わっていく。
それを見ながら、アーデルハイトは思った。
自分は、何もしていない。
ただ、正しい手順を踏んだだけだ。
それなのに、誰かの物語が壊れていく。
──悪役令嬢とは、物語を壊す者のことなのか。
彼女は、その問いを胸に、次の書類へと手を伸ばした。
第5章 それでも私は
春は、思ったより静かに訪れた。
王都の噂は騒がしかったが、制度が動き始めると、季節は音を立てない。議会は議事録を積み、監査局は報告書を綴じ、神殿は再編案を公表する。誰も勝利宣言をしない。誰も敗北を認めない。ただ、配置が変わる。
それが現実だ。
アーデルハイトは、公爵家の書斎で承継表を見直していた。共同事業のうち、王家主導だった部分は議会管理へ、神殿が関与していた支援は直接配分へ。効率は上がる。感情は削がれる。だが、死者は出ない。
「お嬢様」マルタが静かに言った。「議会から正式通知です」
封書を開ける。内容は簡潔だった。
――婚約破棄に伴う契約承継は、条項に基づき議会主導で処理する。
――公爵家は当面、顧問的立場で関与を継続。
――功績評価については、後日審議する。
功績評価。アーデルハイトは小さく息を吐いた。評価は後からついてくるものだ。欲しがると歪む。
「王宮からは?」と彼女は尋ねた。
「ありません」マルタが答える。「殿下は……お静かです」
静か。敗北を認めない人間は、静かになる。声を上げれば、何を失ったかが見えるからだ。
王宮では、レオンハルトが一人、執務机に向かっていた。拍手はもうない。代わりにあるのは、書類の山だ。議会からの照会、監査局の報告、神殿再編の承認要請。
彼はそれらを“自分の物語に不要な背景”として扱ってきた。だが今、それが主役として机を占領している。
「……なぜだ」
問いは空に溶けた。彼は間違った選択をしたわけではないと信じている。愛を選んだ。民の心を選んだ。だが、その愛は制度に翻訳されなかった。
翻訳できない愛は、政治では孤立する。
神殿でも、空気は変わっていた。聖女セラフィナは、静かな部屋で神官の説明を聞いている。権限の見直し。象徴としての役割。会計からの切り離し。
「……わたしは、何も悪いことをしていません」彼女は言った。
神官は否定しない。「ええ。ですが、何もしなかったことが、問題になりました」
それは、彼女にとって初めて聞く種類の言葉だった。善意は、行為だと思っていた。泣くことは、働くことだと思っていた。
だが制度は、善意を数えない。数えるのは、処理だ。
セラフィナは初めて、自分が“守られてきた側”だったと理解した。そして、守る壁が透明になったことも。
一方、公爵家では、静かな日常が戻っていた。
アーデルハイトは朝、執事と打ち合わせをし、昼に議会からの照会に答え、夕方に地方の治癒院からの報告を読む。数字は改善している。直接支援は、現場に届く。
「患者数が増えていますが、治癒率も上がっています」執事が言った。
「支援が、迷子になっていないからです」アーデルハイトは頷いた。
彼女はまだ、“ざまぁ”を感じていなかった。誰かが破滅したわけではない。王太子は王太子だ。聖女は聖女だ。ただ、世界の重心が変わっただけだ。
だが、噂は容赦がなかった。
「悪役令嬢が、王太子を追い詰めた」 「神殿を壊した女」 「泣かない怪物」
噂は、理解できないものを怪物にする。アーデルハイトはそれを止めなかった。止めても意味がない。噂は、制度で止まらない。
ある日、監査官ユリウスが屋敷を訪れた。珍しく、私服だった。
「一区切りついた」彼は言った。「神殿の会計は再編され、議会管理に移行する。あなたの提案どおりだ」
「私の提案ではありません」アーデルハイトは言った。「条文どおりです」
ユリウスは苦笑した。「条文を読める人間が、少なすぎる」
沈黙が落ちる。窓の外では、庭師が土を整えている。季節は進む。
「あなたは、これからどうする」ユリウスが尋ねた。
アーデルハイトは一瞬、考えた。考える必要はないはずだが、問われれば答える。
「顧問として、必要な範囲で関わります。前に出るつもりはありません」
「それでも、人はあなたを恐れる」
「恐れられる理由が、定義されていないからです」
ユリウスは小さく頷いた。「……悪役令嬢、か」
その言葉は、もはや断罪ではなかった。分類だ。理解できないが、排除もできない存在へのラベル。
「私は、悪役で構いません」アーデルハイトは言った。「定義が明確なら」
ユリウスは立ち上がり、去り際に言った。
「定義は、あなたが作った。――“制度を優先する者”だ」
彼女はその言葉を、心に留めた。
夜、書斎で一人、アーデルハイトは今日の報告書を閉じた。数字は安定している。現場は回っている。国は壊れていない。
それでいい。
ふと、最初の場面が頭をよぎる。大広間。拍手。涙。悪役令嬢という言葉。
彼女は、今でもその定義を知らない。
悪役とは、誰かの幸福を壊す者なのか。
それとも、誰かの物語を終わらせる者なのか。
あるいは、曖昧な世界に線を引く者なのか。
アーデルハイトは、自分に問い、そして答えない。答えは、世界が出すものだからだ。
彼女はただ、今日も手順を踏む。
明日も、踏む。
それだけだ。
もしそれが“悪役令嬢”と呼ばれるなら――
それはきっと、この世界の定義が、間違っている。
彼女は静かに灯りを落とした。
物語は終わった。
だが、制度は続く。
そしてそれは、誰の拍手も必要としない。
――終――
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
この物語で描きたかったのは
「悪役令嬢とは何をした人間なのか」
という問いそのものです。
主人公アーデルハイトは、
誰かを陥れたわけでも、復讐したわけでもありません。
ただ“制度が動くように”行動しました。
しかしその行動は、
感情で回っていた世界にとっては破壊的でした。
ざまぁが起きたとすれば、
それは彼女が仕掛けたものではなく、
世界の側が自分の矛盾に耐えられなかった結果です。
もし読後に
「悪役だったのは誰なのか」
「本当に間違っていたのはどこなのか」
と少しでも考えていただけたなら、
この物語は役目を果たしたと思います。
感想・ご意見などありましたら、とても励みになります。
また別の形でお会いできれば幸いです。
月白ふゆ




