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白雨の証明

作者: 妙原奇天
掲載日:2025/12/01

第一部 白雨の橋


 六月の終わり、空は朝から濁ったガラスのように曇っていた。

 柏木真弥は、気象研究所の玄関を出た瞬間、湿り気を帯びた風に眉を寄せた。

 ――降る。

 湿度、匂い、風向き。数字ではなく、長年の感覚がそう告げていた。


 研究員としての専門は気象物理だが、彼には“現場”の経験がある。

 学生時代、山岳救助隊のサポート要員として活動していた。

 その頃に染みついた感覚は、今も体のどこかに残っているらしい。


 スマートフォンが震えた。

 画面には、県警捜査一課の刑事・水原からのメッセージ。


〈至急連絡。例の件で協力をお願いしたい〉


 例の件。

 それが示す内容に、嫌な予感が胸をよぎる。

 二日前、水原から「橋で女子高生が転落死した」と聞かされていた。

 事故として処理されつつあるが、いくつか“理屈が通らない点がある”という。


 柏木は折り返しの電話をかけた。


「すまない、急ぎで来てほしい。現場検証の補足だ」

「……事故、ですよね?」

「それがな。どうにも腑に落ちない」


 電話越しの声は、曇天と同じように重かった。


 四十分後、柏木は県北部の郊外に架かる古い“白雨橋”へ到着した。

 梅雨の終盤にだけ現れる白い飛沫が有名で、地元の人間には縁起の悪い場所として知られている。


 橋の中央付近で、水原が手を上げた。


「来てくれたか。悪いな、休みの日に」

「気象データが関係するんですか?」

「いや、そこまでは。ただ……」


 水原は言葉を濁し、欄干の下を指差した。

 そこは少女が落下した位置だ。


「彼女、落ちる前にひとつだけ言葉を残してるらしい」

「言葉?」

「“濡れてはいけない”だ」


 柏木は眉をひそめた。

 この天候で、その言葉は奇妙だ。

 橋の上はすでに霧雨。空気は重く湿り、雨粒が衣服に淡く染みてくる。


「亡くなった少女の名前は?」

「相澤莉子。高校二年。バレーボール部。成績も生活態度も問題なし」


 水原は資料を捲りながら、淡々と続ける。


「……ただし、死因には不自然な点が多い。

 体の向き、靴の摩耗、転落後の体温低下……。

 お前なら気づけるだろうと思った」


 柏木は少女が落ちた地点を見下ろした。

 白い飛沫が舞い、雨は一層強くなっていく。


 その光景の中で、彼はひとつの“違和感”に気づいた。


 ――なぜ、手のひらだけ濡れていない?


 それは、橋の上に残された少女の掌の跡。

 周囲のアスファルトはじっとり湿っているのに、そこだけ乾いていた。


「水原さん、この跡は……」

「俺も不気味に思った。まるで、“触れていない”ようなんだ」


 柏木の胸に、冷たいものが流れる。

 転落ではなく“落とされた”のではないか。

 しかし、その仮説には別の矛盾も生じる。


 少女は転落直前、なぜ空を見上げたのか。

 そして「濡れてはいけない」と言ったのか。


 柏木は、欄干に手を触れながら呟いた。


「……これは、事故ではありませんね」


 濡れ始めた路面に、ふたつの足跡がくっきりと並んでいた。

 それは、少女の靴とは形が違う。

 にもかかわらず、記録には“第三者の痕跡なし”とある。


 柏木は、そこに“ある法則”を読み取った。


 ――雨がすべてを消す前に、真相にたどり着く必要がある。


 白雨はさらに激しさを増し、遠雷の音が微かに響いた。





第二部 濡れてはいけない理由


 白雨橋の下に広がる渓谷は、雨脚の強まりとともに白く煙っていた。細い滝のように落ちる雨が岩肌を叩き、跳ね返る飛沫が霧となって漂う。本来なら視界の悪化を警戒するべきだが、柏木は橋の欄干に指先を触れながら、先ほど見た掌の跡を思い返していた。


 濡れていない。なぜそこだけ。


 水原が書類を閉じ、短く吐息を漏らした。


「遺留品は全部確認した。財布、スマホ、部活のバッグ。それらしいメモはない。友人関係も問題なし。いじめの線も薄い」


「スマホの履歴は」


「家族が提供してくれた。直前に特定のアプリを何度も開いているが、特に異常は見られない。写真も普通の女子高生って感じだ」


 柏木はその「普通」という言葉に引っかかりを覚えた。普通であるはずの少女が、なぜ最後に意味深な言葉を残す必要があったのか。


「水原さん、彼女は転落の直前、空を見上げたんですよね」


「ああ。対向車のドライブレコーダーに映ってた。傘もささずに、まっすぐ空を」


「雨を、見ていた可能性はありませんか」


「雨を?」


「降り始めの雨には、ある特徴があります」


 柏木はゆっくりと橋の中央に歩いた。路面に叩きつける雨粒の大きさが微妙に変わっていく。空気中の匂いも変化している。


「降り始めの雨には、空気中の汚染物質や浮遊粒子が濃く含まれることがある。特にこの地域は工場地帯からの風が吹きやすく、最初の数分は通常の雨よりも刺激が強い。それを嫌がる人もいる」


「人が落ちる理由になるほどか?」


「……心理状態が極度に不安定なら、あり得ます」


 そう答えながら、柏木自身、少女の行動がそれだけで説明できるとは思っていなかった。むしろ、その説明では欠け落ちるものが多すぎる。


 水原が車へ戻ろうと言いかけたとき、橋の端で一人の女性が立ち止まっているのが目に入った。白い傘をさし、視線はずっと谷底を見下ろしている。


「知り合いですか?」柏木が問うと、水原は小さく頷いた。


「相澤莉子の母親だ。連絡はしていないはずだが、来たんだろう」


 傘を握る手は震え、目は深い疲労の影を宿していた。


「少しだけ、話を聞かせてください」

 柏木の声に、女性はゆっくりと顔を上げた。


「……娘は、私に何も言っていませんでした。部活も勉強も、全部普通でした。でも……」


「でも?」


「三日前から、急に窓を開けなくなったんです。いつもは風を入れるのが好きだったのに。雨の日も、晴れの日も、ずっと閉めたまま」


 柏木と水原は目を合わせた。


「その理由は?」


「聞いたんです。でも、娘は……『外の空気は、濡れてる』って。意味が分からないでしょう。私にも分かりませんでした」


 濡れている空気。

 少女が最後に残した言葉と、どこかで繋がりそうな響きだった。


「莉子さんは何かに怯えていた様子は」


 母親は肩を震わせ、小さく首を振った。


「怯えていたというより……避けていました。雨とか風とか、外から入ってくるもの全部を。まるで、外界そのものに触れちゃいけないみたいに」


 柏木は橋の上に目を戻した。


 濡れてはいけない。

 外の空気は濡れている。


 これらは単なる比喩ではなく、本人にとっては切迫した警告に近かったのではないか。


「……娘は、何も悪いことなんてしていません。どうして、どうしてあんな場所に行ったのか」


 母親の声は雨に溶け、細く震えていた。


 柏木は深く頭を下げ、車へ戻った。


「水原さん」

「分かってる。事故じゃない可能性が高くなった」


「ええ。でもその理由が分からない。まだ一つも繋がっていない」


 水原がエンジンをかけようとしたが、手が止まる。


「ひとつ聞きたい。お前は本気で、この少女が何かを“恐れていた”と見てるのか」


「恐れていたのではなく、避けていた。違和感のある外界を」


「だとしたら、何のために橋に?」


「そこに、落ちる理由があったからでしょう。あるいは、落ちるしかなかった」


 水原は表情を曇らせたまま、車を発進させた。


 白雨橋が遠ざかる。

 雨脚はさらに強まり、ワイパーが追いつかない。

 しかし、柏木の意識は橋から離れなかった。


 少女の掌が濡れていなかった理由。

 第三者の足跡。

 窓を開けなくなった三日間。

 外の空気は濡れているという言葉。


 それらは、ひとつの方向を示している。

 まだ形にならないが、確実にどこかで繋がる予兆があった。


「水原さん。相澤莉子のスマホ、もう一度見せてもらえますか。今度はアプリの使用時間とか、細かい行動ログが必要です」


「家に預けてある。後で届けるよ」


「お願いします。たぶん、鍵になります」


 車は市内へ入り、分かれ道で柏木は降りた。

 自宅マンションに戻る途中、横断歩道でふと足が止まる。


 雨が、違う音を立てた。


 金属を叩くような乾いた音。

 通常の雨音とは異なる、形のある粒の衝突だ。


 柏木は傘の下から空を見上げた。

 雨粒が光を反射している。

 降り始めよりも粒が大きく、重く、そして──不自然に白い。


 白雨の本質が、別の顔を見せ始めていた。




第三部 白い雨の正体


 自宅に戻ると同時に、柏木は濡れた服を着替えるより先に、ノートパソコンを立ち上げた。

 さきほど感じた違和感を、数字で確かめる必要があった。


 気象研究所の観測データにリモートでアクセスし、問題の時間帯の降雨強度と粒径分布を呼び出す。

 さらに、環境局が公開している大気汚染物質の観測値、近隣工場の排出データ、過去数日の風向きとを重ねていく。


 画面に並ぶ数値は、一見しただけでは何も語らない。

 だが、時間軸でグラフ化した瞬間、小さな歪みが姿を現した。


「やっぱりだ……」


 転落事故が起きたとされる午後四時十五分の直前、白雨橋周辺の降雨粒径が異常に大きくなっている。

 通常の降雨なら、粒径分布はなだらかな山を描くはずだ。

 しかし、その時間帯だけ、特定の大きさの粒が突出して多い。


 空から落ちてきたものが、純粋な水でない証拠。


 柏木は画面を拡大し、成分推定のアルゴリズムを走らせた。

 大気中の既知データから逆算し、どんな物質が混じればこの分布になるかを推計する。


 数分後、結果が表示された。


 微量のシリカ、金属酸化物、人工高分子。

 どれも工場排煙に含まれ得る成分だが、比率が不自然だった。


「これは……」


 工場地帯の煙突から偶発的に飛び出したにしては、あまりにも整いすぎている。

 むしろ、何かを意図して散布したと考えたほうが自然な配合だった。


 そこへ玄関のチャイムが鳴った。


 水原が、スマホの入った小さなビニール袋を手に立っていた。


「頼まれていたものだ。家族の許可は取ってある。ロックは母親の誕生日で開く」


「ありがとうございます」


 柏木はスマホを受け取り、机に置いた。


「ひとつ聞かせて。さっき橋の上で言っていた“白い雨”ってのは、ただの感覚じゃないんだな?」


「ええ。さっき予備計算をしました。詳しい話は、これを見終わった後に」


「分かった。先に娘さんの痕跡を頼む」


 柏木は椅子に腰を下ろし、スマホのロックを解除した。

 ホーム画面に並ぶアプリは、どこにでもある高校生のものと変わらない。

 メッセージ、カメラ、動画共有、ゲーム。


 しかし、使用時間のログを見ると、ひとつだけ異様に突出したアプリがあった。


 見慣れないアイコン。

 白い点が舞う夜空のようなデザイン。

 名前は「White Air」。


「こんなアプリ、聞いたことありますか」


「いや。天気系か、健康管理か……」


 詳細情報を開くと、簡単な説明文が出てきた。


〈あなたの周りの空気を、きれいかどうか教えてくれるアプリ〉


 その一文に、柏木は微かな嫌悪を覚えた。

 あまりに曖昧で、あまりに都合がいい言い回しだ。


 ログによれば、相澤莉子はここ三日間、このアプリを繰り返し起動している。

 朝、学校へ行く前。

 昼休み。

 部活の後。

 そして、転落する一時間前にも。


 アプリを立ち上げると、画面に白い粒が舞うアニメーションが表示された。

 位置情報の利用許可を求めるダイアログが出る。

 許可すると、画面上部の数字がゆっくりと変化した。


 数値の横には、小さなコメントが添えられている。


〈空気は少し濁っています。今日はあまり外に出ないほうがいいでしょう〉


「……心理誘導か」


 柏木が呟くと、水原が画面を覗き込んだ。


「ただの注意喚起じゃないのか?」


「問題は、その裏にあるアルゴリズムです。何を根拠に“濁っている”“きれい”を判定しているのか。公式サイトは?」


 アプリ内からリンクを辿ると、開発元と称する企業名が小さく表示されていた。

 環境テックを標榜するベンチャー企業。

 所在地は、白雨橋からそう遠くない工業団地の一角だった。


 柏木の胸に、ひとつの線が引かれていく。

 工場地帯、異常な粒径の雨、そして空気を判定するアプリ。


「水原さん。この企業について調べてください。ここ数日の工場排出や実証実験の予定も」


「お前は?」


「私は、このアプリの挙動を調べます。もしこれが莉子さんの行動に影響を与えているなら、見過ごせない」


 水原は短く頷き、電話をかけるために部屋の隅へ移動した。


 柏木はパソコンとスマホを接続し、データ通信のログを解析し始めた。

 位置情報の送信先、時刻、戻ってくるレスポンス。

 それらを一覧にし、白雨橋での通信を中心に重点的に調べる。


 転落一時間前。

 アプリは白雨橋の近くで起動され、サーバーとの間で通常よりも大きなデータのやり取りを行っていた。


 その直後、画面にはこう表示されていたと推定される。


〈空気は危険なほど濁っています。絶対に濡れてはいけません〉


 濡れてはいけない。

 あの言葉と、同じだ。


 柏木は息を呑んだ。


 アプリが、その言葉を植え付けたのだ。

 ただし、それは単なる比喩ではない。

 彼女にとっては、命に関わる絶対命令として受け取られた。


 そこへ、水原が電話を終えて戻ってきた。


「例の企業な。最近、県と組んで環境モニタリングの実証実験をしているらしい。とくに白雨橋付近は“汚れた空気が流れ込みやすいエリア”として扱っていたそうだ」


「それは事実です。地形と風向きの関係で、工場地帯からの空気が溜まりやすい」


「だが、もっと問題なのは……」

 水原は、少し声を潜めた。


「実証実験の内容だ。微量の粒子を散布し、その拡散と沈着を観測するテストをやっていた可能性がある。もちろん“人体に影響のないレベル”という名目でな」


「白い雨……」


 柏木の頭の中で、バラバラだった要素が急速にまとまり始めた。


 異常な粒径分布。

 白く光る大きな雨粒。

 そして、外の空気は濡れているという少女の言葉。


 もしあの白い雨が、実験用の粒子を含んだものだったとしたら。

 しかも、それがアプリと連動していたとしたら。


「水原さん。その企業の担当者は?」


「明日、県庁で説明会が開かれるらしい。環境局と共同でな。お前も来られるか」


「もちろんです」


 柏木は相澤莉子のスマホを見下ろした。

 ホーム画面の隅にある「White Air」のアイコンは、不気味なほど静かだった。


     ◇


 翌日、県庁の会議室には、環境局の職員数名と、スーツ姿の男女が数人集まっていた。

 その中に、三十代半ばほどの男が立っていた。

 細身の体に神経質そうな目。

 胸元の社員証には、アプリ開発企業の名前が記されている。


「空気環境テック株式会社、開発部の三谷です。本日は、当社が開発した空気モニタリングシステムの概要を……」


 淡々とした説明が続く。

 空気中の粒子をリアルタイムで解析し、スマホアプリに「きれい」「濁っている」などの表示を出す仕組み。

 行政がモニタリングに活用すれば、住民に対して迅速に注意喚起ができるという。


 一見すれば、社会にとって有益な技術だった。

 だが、その裏側に踏み込むと、別の顔が見えてくる。


 岡田と名乗る環境局の職員が口を開いた。


「ただ、先日の事故との関連については、きちんと確認しておきたいと思っています。アプリが市民の行動に与える影響は、我々の責任にも関わる」


 その言葉に、水原が軽く目を向けた。

 柏木も、それに合わせて席を立つ。


「一点、質問させてください」


 三谷と視線が交わる。

 柏木は、できるだけ感情を抑えた声で続けた。


「御社のアプリは、危険度が高いと判定した場合、“絶対に濡れてはいけません”という文言を出す仕様になっていますか」


 三谷の瞼が、わずかに跳ねた。


「……そのような強い言い回しは採用していません。“外出を控えましょう”程度です」


「ログを確認しました。少なくとも一件、白雨橋周辺で“絶対に濡れてはいけません”という表示を出しています。時刻は、女子高生が転落する一時間前です」


 会議室の空気が、わずかに揺れた。

 環境局の職員たちが、ざわめきを押し殺しながら視線を交わす。


 三谷は口元を強張らせた。


「それは、開発段階の文言が一時的に残っていた可能性があります。しかし、我々は医学的な安全性を十分に検証しており……」


「医学的安全性の話をしているのではありません」


 柏木は言葉を切り、短く息を整えた。


「私は心理学の専門家ではありませんが、恐怖や不安を抱えた人間に“絶対に”という言葉がどれだけ強い圧力になるかは、容易に想像できます。あなた方は、その影響を軽視しすぎた」


 三谷は目を伏せ、机の端を指で押さえた。


「我々は、ただ正確な情報を……」


「正確ですか?」


 柏木は、持参した資料を会議室のスクリーンに映し出した。

 前日解析した降雨粒径のグラフと、成分推定結果。

 そこには、実験用としか思えない人工的な配合が示されている。


「この白い雨は、自然現象ではありません。

 あなた方が実証実験のために散布した粒子を、多量に含んでいる可能性が高い」


 会議室の空気が一変した。


「ちょっと待ってくれ」

 環境局の岡田が慌てて口を挟んだ。


「それは君の推定にすぎないだろう。企業側からは、人体に無害だという説明を受けている」


「無害かどうかの問題ではありません。

 問題は、その散布情報とアプリの表示が連動していたことです」


 柏木は、相澤莉子のスマホから抽出した通信ログを提示した。


「粒子を散布した直後、アプリは“危険なほど濁っています。絶対に濡れてはいけません”と表示した。

 つまり、彼女にとって“外は敵”であり、“雨は触れてはならないもの”として認識されるよう誘導したのです」


 水原も、そこでようやく口を開いた。


「相澤莉子は、数日前から窓を開けることを避けていた。空気を怖がるようになっていた。

 それは、繰り返しこのアプリから“濁っている”“危険だ”と告げられていたからじゃないのか」


 三谷は椅子の背にもたれ、目を閉じた。

 しばらく沈黙が続いた後、かすれた声で言った。


「……我々は、危険を知らせることが正義だと信じていました。

 少しでも数値が基準を超えれば、ユーザーに警告を出す。

 危険を誇張したほうが、人は真剣に受け止める。

 そう考えていたんです」


「その結果、一人の少女が、世界そのものを恐れるようになった」


 柏木の言葉は淡々としていた。

 責める口調でも、感情的な非難でもない。

 事実を指摘しているだけだった。


「それだけなら、まだ取り返しはついたかもしれません。

 しかし、あなた方はもう一つ、致命的なミスを犯した」


「ミス?」


「白雨橋に散布された粒子は、実験用であり、人には見えません。

 けれど、アプリはそれを“見える化”してしまった。

 莉子さんの目には、世界そのものが汚れていく過程が、数値とコメントで突きつけられ続けた」


 きれいだったはずの日常が、アプリのコメントによって「濁っているもの」に変わっていく。

 空気は濁っている。

 外の空気は濡れている。

 濡れてはいけない。


 その負の連鎖の果てに、白雨橋があった。


 岡田が、震える声で問いかけた。


「だが、彼女はどうして橋に行ったんだ。家に閉じこもっていればいいはずだろう」


「そこが、最後の謎でした」


 柏木は、前日から胸に引っかかっていた違和感を言葉にした。


「莉子さんは、白雨橋の上で空を見上げた。

 アプリの表示が“危険”から“安全”へ変わる境界を、探していたのだと思います」


「境界?」


「安全な場所と、危険な場所の境目。

 この橋は、風向きと地形の関係で、まさにその境界に位置していた。

 向こう側へ行けば、空気は少しだけ“ましになる”とアプリは表示したはずです」


 柏木は、前夜のシミュレーションを思い出した。

 位置情報のわずかなズレで、表示は敏感に変わる。

 橋の真ん中あたりが、ちょうど境界線になっていた。


「彼女は、濡れない場所を求めて、ぎりぎりの境界線を歩いた。

 しかし、風向きが変わり、アプリの表示も急に“危険”側へ振れた。

 そこで、足を踏み外した」


 それは事故のようであり、事故ではなかった。

 誰かが直接手を下したわけではない。

 だが、複数の大人の判断と技術が、ひとりの少女を追い詰めた結果だった。


 水原は、深く長い息を吐いた。


「……つまりこういうことか。

 白い雨を降らせたのは、実験のための散布。

 それを脅威として煽ったのがアプリ。

 そして、その両方を許可したのが、俺たち大人側だと」


 三谷の肩が、わずかに震えた。


「私たちは、彼女を直接殺してはいない。

 でも、彼女が“世界は濁っている”“濡れてはいけない”と信じ込むように仕向けた。

 それが、結果として……」


 その先の言葉は、声にならなかった。


     ◇


 数日後。

 白雨橋には、花束と小さなぬいぐるみがいくつも置かれていた。

 雨は上がり、空は薄く晴れている。


 柏木は欄干に手を添え、流れを見下ろした。

 先日暴れていた白い雨の痕跡は、もうどこにもない。


 隣には、水原が立っていた。


「結局、どう処理されるんだろうな」

「事故扱いは変わらないでしょう。ただし、アプリと実験については調査委員会が入るはずです」


「誰も直接の殺意を持っていない事件は、いつも厄介だ。責任の所在がぼやける」


「ぼやけているように見えるだけです。

 誰か一人ではなく、複数の判断が重なって起きたことですから」


 柏木は、橋の中央に残っていた薄い跡を見つめた。

 雨に打たれても、微かに黒ずんだラインが残っている。

 それは、誰かの靴底が何度も往復したような軌跡だった。


「彼女は、ここを何度も行き来したのでしょう。

 安全と危険の境目を確かめるために」


「その境目を作ったのは、俺たちか」


「ええ。数字と、言葉と、便利さの名の下に」


 風が吹き抜け、川面に小さな波紋を立てた。

 かつて白い雨が叩きつけた場所に、今は静かな陽光が差し込んでいる。


「なあ、柏木」

 水原が、何かを決めたような声で言った。


「お前は、まだこの仕事を続けるつもりか。人の死の理由を、数字やロジックで追いかける仕事を」


「やめる理由は、特にありません」


「きつくないのか。今回みたいな事件は、とくに」


 柏木は、少しだけ空を仰いだ。

 薄い雲の向こうで、陽光が滲んでいる。


「きつくないと言えば、嘘になります。でも……」


「でも?」


「理由が見えなかった死が、少しでも“説明できるもの”になるのなら。

 それだけでも、残された人たちにとっては違うかもしれません」


 相澤莉子の母親の姿が、脳裏に浮かぶ。

 外の空気を怖がるようになった娘を、ただ見守るしかなかった女性。


「彼女の死は、誰かの明確な悪意によるものではなかった。

 ただ、小さな妥協や見落としが、積み重なって形になった。

 それを“証明”することが、せめてもの責任だと思います」


 水原は、しばらく黙っていた。

 やがて、低く呟く。


「証明、ね。

 白い雨がただの水じゃなかったこと。

 世界が、あの子の目にはどう見えていたかということ。

 それを明らかにするのが、お前の仕事か」


「そういうことかもしれません」


 柏木は、ポケットから小さな紙片を取り出した。

 環境テック社から送られてきた謝罪文のコピーだ。


 そこには、「想定外」「遺憾」「再発防止」という、どこかで聞いたような言葉が並んでいた。

 しかし、そのどれもが、白雨橋の欄干に残った靴跡よりも軽く思えた。


「この文章に、相澤さんの心は救えないでしょう。

 だからせめて、何が起きたのかだけは、数字と事実で残しておく必要がある」


「お前らしいな」


 水原は、かすかに笑った。


「俺の仕事は、そこに“人間”を足すことだ。

 誰が、どう迷って、どう誤ったのか。

それを聞き出して、記録に残す」


「難しい仕事ですね」


「お互い様だろ」


 二人は、しばらく無言で川を見下ろした。

 水面に映る空が、少しだけ明るくなっていく。


 ふと、柏木は空を見上げた。

 雲の切れ間から差し込む光が、橋の上に白く落ちている。


 雨は降っていない。

 それでも、空気はどこか湿り気を帯びていた。

 この街が抱える、見えない問題の重さのように。


「水原さん」


「なんだ」


「もし、また似たような事件が起きたら、その時も協力させてください」


「最初からそのつもりだ。

 お前の数字と、俺の聞き込みで、もう少しマシな世界にしないとな」


 柏木は、欄干から手を離した。

 指先に残る冷たさを、そっと握りしめる。


 白雨は、もう降っていない。

 しかし、あの日の白い粒は、確かにこの街を通り過ぎた。

 それを完全に消すことはできない。


 ならばせめて、その痕跡を言葉にし、数式にし、記録に残すしかない。


 それが、ここに立つ自分たちの、小さな仕事なのだと思った。


                  了


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