エピローグ 田中孝子の告白
笠井が去った廃駅で、田中孝子は一人、掃除道具を握りしめていた。彼女は本当に清掃員になっていた。35年前、あの手稿との出会いが彼女の人生を変えたように。
「また一人、旅立っていったわね……」
孝子はため息をついた。これまでに何人の女性研究者が、同じ道を辿ったことだろう。彼女たちの名前をすべて記憶している。それぞれが、自分なりの「真実」を見つけ、そして消えていった。
孝子は知っている。あの地下の広間の存在を。カオス・ジェネレーターの仕組みを。そして、自分自身もまた、このシステムの一部であることを。
「清掃員」という彼女の役割は、迷い込んだ研究者たちに「鏡」の真実を告げること。しかし、誰もその真実を受け入れようとはしない。なぜなら、真実よりも美しい妄想を選ぶのが、人間という生き物だから。
特に女性は、論理よりも感情を、現実よりも可能性を重視する傾向がある。それが女性の美しさでもあり、また弱さでもある。
孝子もまた、かつては吟子と同じだった。そして今、彼女は新しい求道者たちを見守る番人になっている。これもまた、ヴォイニッチ手稿が用意した役割の一つなのかもしれない。
廃駅の時計が午前四時を指している。そろそろ次の「客人」が現れる時間だ。孝子は古びたラジオのスイッチを入れた。微かに聞こえる雑音の中に、新しい研究者の名前が浮かんでくる。
その名は、橘薫子。美術史学者。吟子の親友。
孝子は微笑んだ。また新しい物語が始まる。永遠に繰り返される、女性と謎との対話が。
そして、地下深くで、機械は今日も新しいページを刻み続けている。次は薫子の思考パターンを学習し、新たなアルゴリズムを構築するために。
女性たちの連鎖は、永遠に続いていく。