第五章 カオスの生成装置
吟子は走った。地下鉄の廃線を辿り、さらに深い地下構造物へと潜っていく。東京の地下は複雑な迷宮だった。地下鉄、下水道、地下街、共同溝、そして戦時中に掘られた防空壕の名残り。それらが幾重にも重なり合い、巨大な地下都市を形成している。
バーキンバッグが重い。中には本当に必要最低限のものしか入っていないのに、まるで人生すべての重みを背負っているような気がした。
どれくらい走ったのか。気がつくと、吟子は見知らぬ円形の広間に立っていた。天井は高く、壁には無数のモニターが埋め込まれている。そこには吟子自身の姿が映し出されていた。監視カメラの映像だ。
モニターには時刻と座標が表示されている。「GRID-7439, DEPTH-85M, 03:47:23」―ここは地下85メートル、東京駅周辺の地下構造物の最深部らしい。
この地下のすべてが監視されていたのだ。フーコーの『監獄の誕生』で論じられたパノプティコン―円形監獄の現代版がここに実現されている。
そして、広間の中央。そこには一台のコンピュータと、それに接続された巨大なペンプロッターが置かれていた。プロッターのペンは自動で動き、一枚の羊皮紙の上に、あの奇妙な文字と絵を描き出していた。
ヴォイニッチ手稿。それは今、この瞬間に生成されていたのだ。
吟子は震える手でコンピュータの画面を覗き込んだ。そこには一つのプログラムが表示されていた。
『カオス・ジェネレーター Ver.3.14159』
プログラムのコメントには開発者の意図が記されていた。
```
/* 混沌情報統合システム
* 世界中のノイズデータを収集し、
* 意味ありげなパターンを生成する
* 人間の認知バイアスを利用した
* 究極の心理実験装置
* 特に女性の直感的認知スタイルに
* 最適化されたアルゴリズム
*/
```
このプログラムは、世界中のあらゆる無意味な情報―株価の微細な変動、監視カメラの映像ノイズ、人々のSNSでの無意識な呟き、量子ノイズの揺らぎ―を取り込み、それを特定のアルゴリズムで変換し、一見意味があるように見える手稿を永遠に生成し続けていたのだ。
さらに恐ろしいことに、このシステムは読者の思考パターンを学習していた。男性読者には論理的で体系的なパターンを、女性読者には直感的で感情的なパターンを生成するようにプログラムされていた。
600年前に作られたのではない。それは常に、今、作られている。
吟子は理解した。ヴォイニッチ手稿は、現代の情報社会が生み出したモンスターなのだ。ビッグデータ、機械学習、パターン認識技術の究極的な応用。人間の認知の弱点を突いた、完璧な騙しの装置。
そして、そのアルゴリズムを完成させたのは……。
吟子は自分のバーキンバッグを開けた。持ってきたはずの手稿の複製が、一枚のメモリーカードに変わっていた。カードには「KUREBAYASHI COGNITIVE PATTERN #001 - FEMALE TYPE」と印字されている。
それは、このカオス・ジェネレーターの学習データだった。
吟子が解読に没頭した、あの日々。彼女の脳が手稿を読み解こうとした、その思考パターンそのものが、このジェネレーターの女性向けアルゴリズムを完成させてしまったのだ。彼女の妄想、恐怖、欲望のすべてが、プログラムの学習データとして吸収されていた。
私が作者だったのだ。いや、私という狂気が。