第四章 地下の邂逅
吟子は廃駅のホームのベンチで息を潜めていた。ここは戦前に建設され、戦後の都市計画変更で廃止された幻の駅だった。薄暗い蛍光灯がちらつき、コンクリートの壁には湿気がにじんでいる。
普段なら絶対に足を踏み入れることのない場所だった。地下の湿った空気が、シャネルNo.5の香りを奪っていく。バーキンバッグも薄汚れてしまった。しかし、もうそんなことはどうでもよかった。
その時だった。暗闇の向こうから一人の女性が現れた。
60代半ばと思われるその女性は、かつて美しかったであろう面影を残しながらも、清掃員の作業着を身に着けていた。不思議なことに、その身なりの中にも品があった。首元にはさりげなくパールのネックレス、手首には古いカルティエの時計が光っている。
「紅林先生でしょう」女性は静かに声をかけた。「私は田中孝子。あなたも呼ばれたのね」
吟子は警戒した。なぜこの女性は自分の名前を知っているのか。
「誰に呼ばれたって?」
「決まっているでしょう。……この本の作者様に」
田中孝子は、自らの身の上を語り始めた。彼女もまた、若い頃、この本の謎に取り憑かれた歴史学者だったという。かつては某国立大学で中世史を専攻していた。
「あれは35年前のことでした」孝子は遠い目をして語った。「私は博士課程で、中世ヨーロッパの女性史を研究していた。その時、指導教官からヴォイニッチ手稿のことを教えられたんです」
孝子もまた、若い吟子と同様に、この手稿の解読に人生を捧げた。しかし、彼女には女性史研究者としての独特な視点があった。手稿に描かれた裸体の女性たちを、単なる装飾ではなく、中世における女性の身体表象として分析しようとしたのだ。
「あの女性たちの表情を見てください」孝子は吟子に近づき、肩に軽く手を置いた。女性同士の自然なスキンシップ。「恐怖ではなく、むしろ解放感に満ちているでしょう?まるで何かから自由になった喜びを表現しているようです」
孝子の温かな手のぬくもりが、吟子の凍えた心に少し安らぎを与えた。
「手稿に描かれた女性たちの浴槽の配置が、当時建設中だった地下鉄路線図と一致していたんです。まるで建設計画を事前に知っていたかのように」
孝子は吟子と同じような発見をしていた。しかし、彼女の場合は35年前の地下鉄建設計画だった。
「私も逃げ回りました。大学を辞め、身を隠し、真実を追い求めた。家族からも友人からも離れて。結婚の話もありましたが、すべて投げ出しました」
孝子の言葉には、女性として失ったものの大きさが滲んでいた。35年前なら、なおさら女性研究者としての道は険しかっただろう。
「そして、ある結論に辿り着いた」
孝子はゆっくりと立ち上がり、廃駅の古びた時刻表を指差した。
「この本はね、鏡なのよ」
「鏡?」
「意味なんて、ありはしない。空っぽの器なの。……でも、それを覗き込んだ人間の欲望や恐怖や妄想を増幅させて映し出す。そして、その人を破滅させる悪魔の鏡よ」
孝子の説明によれば、ヴォイニッチ手稿は一種の心理学的な罠なのだという。人間の脳は、混沌とした情報の中にパターンを見つけ出そうとする性質がある。パレイドリア現象―雲の形に動物を見たり、木の年輪に人の顔を見たりする錯覚―と同じメカニズムだ。
「アポフェニア」孝子は専門用語を使った。「無関係な事象の中に関連性を見出してしまう認知バイアスです。特に女性は、男性よりも直感的で包括的な認知スタイルを持っている。だからこそ、この手稿の罠にかかりやすいのかもしれません」
吟子は孝子の手を握った。その手は温かく、長年の苦労を物語る皺があった。しかし、その眼差しには、すべてを受け入れた女性の強さがあった。
「あなたの監視社会の予言は?」
「あなたがそう信じたかっただけなの」
孝子は悲しげに微笑んだ。
「この複雑で、意味の分からない世界に、何か一つの巨大な意味があると。誰かの陰謀があると。……そう思いたかっただけなのよ。私も昔はそうだった」
現代社会の複雑さに圧倒された人間の心理。グローバル化、情報化、監視社会化といった巨大な潮流の中で、個人は無力感を感じる。そんな時、すべてを説明する単純で壮大な陰謀論は、心理的な安定をもたらすのだ。
しかし、吟子には孝子の説明が受け入れられなかった。
「違う」吟子は立ち上がった。「あなたも騙されているのよ!その清掃員の格好、偶然じゃない。あなたも監視されている!」
吟子は孝子の手を振り払い、線路の闇へと駆け出した。背後から孝子の声が追いかけてくる。
「気をつけなさい、先生。あなたも、じきに、この本の一部になってしまうわ」