第三章 パラノイアの連鎖
吟子の周囲で奇妙なことが起こり始めた。
まず、自宅のマンションで使っているiPhoneに雑音が混じるようになった。通話中にかすかに機械的な音が聞こえる。ECHELON―アメリカ国家安全保障局(NSA)が運用している全世界通信傍受システム―の存在を知っていた吟子には、それが盗聴の証拠に思えた。
彼女は部屋の窓から向かいのビルを見た。いつも同じ窓に影が見える。双眼鏡らしきものを持っているようにも見えた。夜中にベッドから起きてカーテンの隙間から覗くと、その影はまだそこにいる。
吟子は眠れなくなった。普段のスキンケアルーティンも疎かになり、愛用のSK-IIのフェイシャルトリートメントエッセンスを使うことも忘れがちになった。鏡を見ると、目の下にくまができている。ディオールのコンシーラーでも隠しきれないほどに。
彼らは吟子が真実に近づきすぎたことを知っているのだ。この本の秘密を守る闇の組織。手稿の中に描かれている、あのフードを被った裸婦たちの教団。彼らは今も、この世界のどこかに潜んでいる。
吟子は大学図書館で関連文献を調べた。ヴォイニッチ手稿の来歴を辿ると、必ず不可解な事件が起きていることに気づいた。神聖ローマ皇帝ルドルフ2世の宮廷で手稿が発見された後、複数の学者が原因不明の精神異常を起こしていた。19世紀にイエズス会の修道院に保管されていた時期には、修道士の間で集団幻覚事件が発生していた。
そして、奇妙なことに、これらの事件の多くで女性が重要な役割を果たしていた。皇帝の愛妾エリザベート・バートリが手稿の解読を試みた直後に行方不明になった記録。修道院で手稿を研究していた女性研究者が、突然すべてを投げ出して森に消えた話。
これは単なる偶然ではない。この手稿には、特に女性の精神を蝕む何らかの仕掛けが施されているのだ。
吟子の妄想は膨らんでいった。手稿に描かれた謎の文字は、実は女性の生理周期と連動した暗号なのではないか。あの幾何学的な図形は、女性特有の直感的認知能力に作用するサブリミナル・メッセージなのではないか。
量子力学の観測者効果を思い出した。観測者が対象を観測することで、対象の状態が変化する現象。もしかすると、ヴォイニッチ手稿も同様に、読者が読むことで何らかの変化を起こすのかもしれない。特に、女性の直感的で包括的な認知スタイルが、この手稿の真の力を解放してしまうのかもしれない。
薫子からは心配するメールが届いていたが、吟子は返信できずにいた。友人を巻き込んではいけない。この危険から彼女を守らなければ。
ある夜、吟子は決断した。自分のアパートはもう安全ではない。彼女は大切なものだけをエルメスのバーキンに詰め込んだ。ラ・プレリーのスキンケアセット、シャネルの口紅、そして手稿の複製。それだけが彼女の全財産だった。
深夜、吟子は研究室で五年間蓄積してきた資料をすべて焼き捨てた。二十八年間の人生で築き上げてきた学問的成果、博士論文の草稿、学会発表の資料―すべてを炎の中に投げ込んだ。炎に照らされた彼女の顔は、もはや理性的な学者のそれではなかった。
街は吟子を見ている。街灯の点滅が彼女を嘲笑っている。すべての通行人が教団の一員に見える。コンビニの防犯カメラが彼女を追跡している。ATMのモニターが彼女の行動を記録している。
吟子は地下鉄の迷宮へと逃げ込んだ。ここなら、奴らの監視の目も届かないはずだ。あの植物の下水道網の中枢で、彼女は真実と向き合うことができるだろう。