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第一章 言語学者の執念


 その本は呪われている。


 言語学者の紅林吟子は、研究室のアンティーク・デスクに広げられた羊皮紙の複製を見つめながら、そう確信していた。午前三時を回った研究室に響くのは、換気扇の単調な回転音と、彼女自身の荒い息遣いだけだった。吟子は無意識に、愛用のティファニーのダイヤモンド・バイ・ザ・ヤードネックレスを指で弄んでいた。緊張すると必ずこの癖が出る。


 ヴォイニッチ手稿。15世紀に書かれたとされる、人類史上最も謎めいた写本。240ページにわたって記された意味不明の文字と、この世のものとは思えない植物や裸体の女性たちの挿絵。ウィルフリッド・ヴォイニッチが1912年にイタリアの修道院で発見して以来、一世紀以上にわたって世界中の言語学者、暗号解読者、歴史学者たちを苦しめ続けてきた悪魔の書物。


 吟子は、この五年間、人生のすべてをこの本の解読に捧げてきた。東京大学大学院で言語学博士号を取得した後、コロンビア大学で博士研究員として過ごし、最終的にこの小さな私立大学の言語学科准教授に辿り着いたのも、すべてはこの手稿と向き合うためだった。


 彼女の研究室は、まるでパリの古書店のような雰囲気だった。壁一面に並ぶのは各国の言語学文献。机の上には、イヴ・サンローランのゴールドのペーパーウェイトと、シャネルNo.5のミニボトルが小さなアクセントを添えている。彼女にとって美しいものに囲まれて研究することは、思考の質を高める重要な要素だった。


 だが、彼女が掴んだのは答えではなかった。狂気への片道切符だった。


 机の上には、統計学的分析ソフトウェアの出力結果が散乱していた。ヴォイニッチ語の文字頻度分析、エントロピー値、n-gram解析。吟子は計量言語学の最新手法を駆使し、さらに自然言語処理の機械学習モデルも応用していた。しかし、この言語は既知のどの言語系統とも一致しなかった。それどころか、ゴードン・ラグの「意味のない造語」説を裏付けるような統計的特徴すら示していた。


 しかし、吟子は諦めなかった。いや、諦められなかった。何かが彼女を引きつけてやまなかった。それは学問的好奇心を超えた、もっと深く、暗い衝動だった。


 夜遅く、一人研究室にいるとき、吟子はしばしば手稿の中の女性たちのことを考えた。あの神秘的な浴槽の中で微笑む裸体の女性たち。彼女たちは何を語りかけているのだろう。600年の時を超えて、現代の女性である自分に。


 「言語とは何か」―この根源的な問いが、彼女の脳髄を蝕んでいた。ソシュールの示した「シニフィアン」と「シニフィエ」の関係性。記号と意味の恣意的な結びつき。しかし、フェミニスト言語学者エレーヌ・シクスーの「エクリチュール・フェミニン」の概念を援用すれば、もしかするとヴォイニッチ手稿は男性中心的な言語体系の外側にある、女性的な表現形式なのかもしれない。


 手稿の、あの奇妙な植物の挿絵。それらは確かに既知の植物とは一致しない。しかし、よく見ると、根系や葉脈のパターンには妙な規則性があった。吟子は植物学の専門書を漁り、フィボナッチ数列に従う螺旋構造、フラクタル幾何学に基づく自己相似性を発見した。まるで、この世界の根底にある数学的秩序を、14世紀の写本作者が既に知っていたかのように。


 深夜の研究に疲れたとき、吟子は鏡台の前に座り、ラ・メールのクレンジングオイルで丁寧にメイクを落とすのが習慣だった。その瞬間だけは、手稿の呪縛から解放される気がした。クラランスの美容液を肌に馴染ませながら、彼女は鏡の中の自分を見つめた。28歳。まだ若い。人生にはまだ可能性があるはずなのに、なぜこんな奇書に人生を捧げているのだろう。


 そして、ある夜のこと。吟子は気づいてしまった。


 手稿に描かれた、あの螺旋状の葉脈のパターンが、この都市の下水道網の設計図と完全に一致していることに。



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