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第二章:芽吹きの季節

テラナ共和国の東部地区、アルノー・デュランの小さな畑に最初の緑が顔を出したのは、春の終わりだった。灰色の土から伸びる緑の芽を見て、彼は初めて心から微笑んだ。


「生きている」


彼の指先が優しく若葉に触れた。錬金術の力ではなく、土と水と太陽の自然な力によって生まれた奇跡。それは彼にとって、新たな「賢者の石」の発見だった。


「兄さん、見て!芽が出たよ!」


エリーゼの声に、アルノーは急いで駆けつけた。小屋を建てて二ヶ月、毎日水を運び、土を耕し、ようやく最初の収穫が見えてきた。


「本当だ…」


彼は膝をつき、土から顔を出す小さな新芽を見つめた。ジャガイモの芽は力強く、鉄分を含む痩せた土地でも成長を始めていた。


「父上が正しかった。この作物は特別だ」


アルノーは父の言葉を思い出していた。「真の賢者は、石ではなく種から力を引き出す」。当時は比喩的な言葉だと思っていたが、今ならその真意が分かる気がした。


「エリーゼ、今日からもっと広い範囲に植えよう」


彼は決意を新たにした。小さな畑を拡げるために、さらに土地を耕し始めた。


「あれが噂の錬金農夫か」


初夏のある日、アルノーが畑仕事をしていると、数人の地元民が彼を見に来ていた。彼らの視線には好奇心と警戒が混ざっていた。


「フレイナからの難民が不思議な作物を育てている」


そんな噂が町に広がっていたのだ。


アルノーはそれを気にしないふりをした。だが、エリーゼは不安そうだった。


「兄さん、私たちが錬金術師だとバレたら…」


「大丈夫だ。私たちはもう錬金術師じゃない。ただの農夫だ」


そう言いながらも、アルノーは時々錬金術の知識を農業に応用していた。土壌の成分を分析したり、水の純度を高めたり。それは科学としての錬金術であり、彼らが恐れる精霊の力とは違った。


次の日、テラナの役人が訪ねてきた。


「デュラン氏、あなたの栽培方法に興味があります」


厳格な顔の中年男性は、グラン・マリエッタの部下を名乗った。グランはテラナ共和国の支配者であり、土の精霊テラナと契約した人物だ。


「ただのジャガイモです。特別なことはしていません」


アルノーは平静を装った。


「それでも、この痩せた土地で育つのは驚きです。グラン殿が興味を持たれています」


役人の言葉に、アルノーの背筋に冷たいものが走った。テラナの支配者の目に留まるということは、危険でもあった。


「機会があれば、お話ししましょう」


アルノーは曖昧に答えた。役人は去っていったが、監視の目は残されたままだった。


「もっと種イモが必要だ」


初めての収穫から一ヶ月、アルノーは収穫したジャガイモの一部を次の種として保存していた。しかし、本格的な栽培には足りない。


「町の市場に行こう」


エリーゼと二人、彼らは初めて東部地区の中心地へと向かった。戦火を逃れた難民たちが集まる市場は活気に満ちていたが、物資は乏しかった。


「種イモはありませんか?」


アルノーは露店の老人に尋ねた。


「種イモ?珍しいものを求めるな。テラナでは主に穀物だよ」


老人は首を振った。だが、隣にいた中年の農夫が声をかけてきた。


「あんたが噂の錬金農夫か?私のところにジャガイモの原種がある。興味があるなら…」


アルノーは驚いたが、すぐに冷静さを取り戻した。


「錬金農夫などではありません。ただの難民です」


「どちらにせよ、種があるなら見せてほしい」


農夫はバカブという名前で、かつてアクアリウス連邦との国境地帯で農業をしていた。戦争で土地を追われ、今はテラナで細々と暮らしていた。


「これが南方の原種だ。大きさは小さいが、病気に強い」


バカブが見せてくれた種イモは確かに小振りだったが、生命力を感じさせた。


「交換しましょう。私の収穫したものと」


アルノーは自分のジャガイモを差し出した。こうして彼は新たな種類のジャガイモを手に入れた。品種改良への第一歩だった。


市場を離れる時、彼は不意に視線を感じた。振り返ると、黒いマントの人物が彼を見つめていた。その人物は慌てて姿を消した。


「兄さん、あの人…」


「気のせいだろう」


アルノーはそう言ったが、心の中では警戒していた。彼らの存在が注目されつつあることは間違いなかった。


「私たちだけでは限界がある」


夏の暑さが厳しくなる中、アルノーは書物の必要性を感じていた。錬金術の知識だけでは、農業の全てを理解することはできない。


「図書館があるはずだ」


テラナ共和国は学問を重んじる国だった。東部地区の中心には小さな図書館があり、彼はそこに足を運んだ。


「農業に関する本をお願いします」


司書の老女は彼を怪訝そうに見た。


「あなたは新しい難民ね。テラナの土について学びたいの?」


「はい、特にジャガイモの栽培について」


老女は数冊の古い本を持ってきた。テラナの歴史や土壌学、作物の育て方についての基本的な知識が記されていた。


アルノーは夢中で読み始めた。そこには彼の知らない世界が広がっていた。テラナが古来より「食糧の国」として栄えてきた歴史。土の精霊の導きによって発展した農法。そして、かつて存在したという「多品種共存農法」の記録。


「これだ…」


彼は一つの記述に目を留めた。「異なる土壌に適した多様な作物を組み合わせることで、飢饉に強い農業が実現する」という古い理論だった。だが、その方法は土の精霊の意向により、単一作物の大規模栽培に取って代わられていた。


「効率を求めすぎた結果、多様性が失われたのか」


アルノーは考え込んだ。精霊たちは効率と最適化を追求するあまり、本当の豊かさを見失っているのではないか。彼の心に新たな疑問が芽生えた。


図書館を出る時、再び黒いマントの人物を見かけた。今度ははっきりと、その人物が彼を追っていることを確信した。


「誰だ!」


夕暮れの小道で、アルノーはついに黒マントの人物に声をかけた。相手は一瞬驚いたように立ち止まったが、すぐに逃げ出そうとした。


「待て!」


アルノーは相手を追いかけ、ついに路地の突き当たりで追いつめた。


「なぜ私を追っている?」


黒マントの人物はゆっくりと振り返り、フードを下げた。そこに現れたのは、若い女性の顔だった。


「あなたが…フレイナの錬金術師アルノー・デュランね」


女性は静かに言った。


「誰だ、お前は」


「マリカ・シリウス。アクアリウス連邦から来たわ」


彼女の青い瞳には、警戒と好奇心が混ざっていた。


「私を監視していたのか?」


「監視じゃない。確かめたかっただけ。あなたが本当に『賢者の石の真実』を知る人なのか」


マリカの言葉に、アルノーは息を呑んだ。


「どういう意味だ?」


「各国で囁かれている噂よ。フレイナの若き錬金術師が『賢者の石は存在しない』と気づき、戦争を止めようとしていると」


アルノーは警戒心を解かなかった。そんな噂が広がっているとは知らなかったが、それは彼にとって危険なことだった。


「私はただの農夫だ。戦争なんて止められない」


「嘘ね。あなたの目は真実を知る者の目よ」


マリカは一歩近づいた。


「私も探しているの。この狂った戦争を止める方法を」


彼女の声には切実さがあった。


「どうして私を信じる?」


「直感よ。それに…」


マリカは袖をめくり、腕の内側を見せた。そこには水の精霊アクアリウスの印が薄く浮かんでいた。


「私は選ばれし治癒術師。でも、精霊の暴走を目の当たりにした。水による粛清…あれは浄化ではなく、殺戮だった」


彼女の言葉に、アルノーは自分の経験を重ねた。火の精霊フレイナも、かつての穏やかな守護者から、狂信的な破壊者へと変わっていた。


「話を聞かせてほしい。あなたの見つけた真実を」


アルノーは迷った末、決断した。


「私の畑へ来るといい。ただし、誰にも言うな」


小屋に戻ると、エリーゼは心配そうに待っていた。


「兄さん、遅かったね…あら、誰?」


マリカを見て、彼女は驚いた顔をした。


「アクアリウスからの…友人だ」


アルノーは状況を説明した。エリーゼは最初警戒していたが、マリカの誠実さに次第に心を開いていった。


三人は夜遅くまで語り合った。アルノーは自分の考えを打ち明けた。


「賢者の石は実在しない。あるいは、我々が思うような形では存在しない。それなのに、各国の精霊たちはその幻想を追いかけ、人間を操っている」


マリカは深く頷いた。


「アクアリウスでも同じよ。水の浄化という名の下に、異端審問が始まっている。精霊の声を聞かない者は『不純』とされ、排除される」


「メタルグラッドは武力で、ゼフィールは監視で、レアアルカは希少資源で…各国が独自の方法で賢者の石を目指している」


アルノーは溜息をついた。


「でも、なぜ今になって精霊たちが暴走し始めたの?」


エリーゼの素朴な疑問に、マリカが答えた。


「資源の枯渇よ。長い間の利用で、各国の精霊の力が弱まっている。彼らは生き残りをかけて、他の精霊の力を奪おうとしているの」


「つまり、資源争奪戦…」


アルノーは庭の畑を見やった。月明かりに照らされたジャガイモの葉が銀色に輝いていた。


「私が見つけたのは、もっと単純な答えだ。人が生きるために本当に必要なものは、不老不死でも、金の変成でもない。食べ物だ」


マリカは驚いたように彼を見た。


「ジャガイモが答えだというの?」


「一つの答えだ。どんな土地でも育ち、保存がきき、栄養がある。これを広められれば、少なくとも飢餓は防げる」


「でも、それで戦争は止まるの?」


エリーゼの問いに、アルノーは正直に答えた。


「わからない。だが、精霊たちが人間を操れるのは、人間が彼らの力に依存しているからだ。食糧が安定すれば、その依存も弱まるかもしれない」


マリカはしばらく考え込んでいたが、やがて決意の表情を見せた。


「協力するわ。私の治癒の力も役立つはず」


こうして、アルノーは新たな仲間を得た。


夏の終わり、アルノーの畑は見違えるように広がっていた。マリカの治癒の力は、植物の成長にも効果があった。彼女の水の技術とアルノーの土壌分析の知識が組み合わさり、より効率的な栽培方法が生まれていた。


「これならもっと多くの人を養える」


アルノーは満足げに畑を見渡した。様々な種類のジャガイモが育ち、中には彼自身が品種改良した新種も含まれていた。


「でも、これ以上広げるには許可が必要ね」


マリカは周囲の未開墾地を指差した。テラナでは、土地の利用には共和国の許可が必要だった。


「明日、役所に行ってみよう」


だが、彼らの成功は目立ち始めていた。


「噂のジャガイモ農場だ」


毎日のように見学者が増え、中には遠くから来る者もいた。多くは好意的だったが、中には警戒する目もあった。


「穀物以外を大量栽培するなんて、テラナの精霊の意向に反している」


そんな声も聞こえてきた。


ある夕方、バカブが急いでやってきた。


「アルノー、気をつけろ。お前の畑を狙っている者がいる」


「何?誰が?」


「穀物農家組合だ。ジャガイモが広まれば、彼らの利益が脅かされる。昨夜、お前の畑を荒らす計画が話されていた」


アルノーは顔色を変えた。


「エリーゼ、マリカ、今夜は畑を見張らなければならない」


三人は交代で畑を警戒することにした。


夜半過ぎ、アルノーが見張りをしていると、数人の影が畑に近づいてきた。


「誰だ!」


彼は声をかけた。影は一瞬止まったが、すぐに動き出した。手には鎌や棒を持っている。


「やめろ!」


アルノーは彼らに向かって走った。彼の叫び声を聞いて、マリカとエリーゼも飛び出してきた。


「ジャガイモなど、テラナに不要だ!」


男たちは畑に入り込み、作物を引き抜き始めた。


「やめて!」


エリーゼが叫んだが、男たちは聞く耳を持たなかった。


「水よ、守りなさい!」


マリカが両手を広げると、地面から水柱が立ち上がり、侵入者たちを押し戻した。それは明らかに精霊の力だった。


「魔女だ!水の使い手がいる!」


男たちは驚いて後退した。


「もう二度と来るな!」


アルノーは怒りに震える声で言った。男たちは逃げていったが、マリカの力を見たことで、新たな噂が広がることは間違いなかった。


「大丈夫?」


アルノーはエリーゼを抱きしめた。


「うん…でも、畑が…」


一部のジャガイモは引き抜かれていたが、全体としては大きな被害ではなかった。


「修復できるわ」


マリカは傷ついた植物に手を当て、治癒の力を注ぎ込んだ。


「ありがとう。でも…これで私たちの正体がバレてしまった」


アルノーは心配そうに言った。


「明日からはもっと警戒が必要ね」


マリカの言葉通り、この事件は彼らの生活を変えることになった。


「デュラン氏、グラン・マリエッタ殿があなたに面会を希望されています」


翌朝、テラナの役人が再び訪れた。今度は以前より多くの護衛を伴っていた。


「私に?なぜですか?」


「それはグラン殿ご自身からお聞きください。明日、東部行政府へお越しください」


アルノーには断る選択肢がなかった。


「兄さん、これって…」


エリーゼは不安そうだった。


「大丈夫。ただのジャガイモ農家として振る舞おう」


だが、マリカは厳しい表情を浮かべた。


「テラナの支配者は土の精霊と契約している。私たちの正体を見抜かれるかもしれないわ」


「それでも行かなければならない」


アルノーは決意した。これはチャンスでもあった。テラナの指導者に直接、食糧問題の解決策を示せるかもしれない。


「私も行くわ」


マリカの申し出に、アルノーは感謝の気持ちを示した。


「エリーゼは畑を守っていて」


夜、アルノーは自分の研究ノートを見直した。ジャガイモの品種改良や栽培方法の記録。これらは純粋な農業技術であり、錬金術の要素は薄れていた。彼は少しずつ、真の「土の賢者」へと近づいていた。


東部行政府は、かつての鉄鋼都市の中心に建つ石造りの建物だった。テラナの緑の旗が風になびいていた。


「アルノー・デュラン、そしてマリカ・シリウス」


入口で役人が二人の名前を呼んだ。


「マリカの名前も?」


アルノーは驚いた。


「グラン殿は全てをご存知です」


彼らは広間へと案内された。そこには、テラナ共和国の支配者グラン・マリエッタが待っていた。


「ようこそ、フレイナの錬金術師とアクアリウスの治癒術師」


グランは静かな声で言った。彼は中年の男性で、土の力を示す茶色の紋章が刻まれた杖を手にしていた。


「私たちは…」


「隠す必要はない。私は敵ではない。少なくとも今は」


グランは穏やかな微笑みを浮かべた。


「あなた方の活動に興味を持った。特に、ジャガイモの栽培法に」


「単なる農業です」


アルノーは平静を装った。


「いいえ、それ以上のものだ。あなたは『賢者の石は存在しない』と気づいた最初の人物の一人だ」


グランの言葉に、アルノーとマリカは驚きの表情を交換した。


「あなたも…?」


「私もその考えに近づいている。しかし、テラナの意志に逆らうことは難しい」


グランは窓の外を見やった。緑の畑が広がる景色が見えた。


「戦争が迫っている。メタルグラッドの侵攻は時間の問題だ。そして、我が国の食糧備蓄は十分とは言えない」


「だから、私たちのジャガイモに…」


「そうだ。あなたの技術が必要だ。痩せた土地でも育つ作物は、戦時に不可欠だ」


アルノーは複雑な思いに駆られた。彼の技術が戦争の道具になるのは望まなかった。だが、人々を飢えから救うためには必要かもしれない。


「条件がある」


彼は勇気を出して言った。


「聞こう」


「私の畑を広げる許可が欲しい。そして、技術を広める自由を」


グランはしばらく考え込み、やがて頷いた。


「認めよう。だが、お前も私の言うことを聞け。時に、お前の技術は軍にも提供してもらう」


「人々を殺すための技術には協力できません」


マリカが静かに、しかし毅然とした声で言った。


「殺すためではない。生き延びるためだ」


グランの言葉には、どこか悲壮感があった。


「わかりました」


アルノーは同意した。これは妥協だったが、彼の目的を達成するためには必要な一歩だった。


グランとの会談を終え、二人が行政府を出ると、空には不穏な雲が広がっていた。


「戦争が来るのね」


マリカは空を見上げた。


「私たちにできることをしよう。まずは人々を飢えから救うことだ」


アルノーの決意は固かった。彼らが知らなかったのは、すでに国境では、メタルグラッド帝国の軍隊が動き始めていたことだった。


---


### 拡がる畑、迫る嵐


秋の訪れとともに、アルノーの畑は東部地区一帯に広がっていた。グランの許可を得て、彼は多くの難民たちにジャガイモ栽培の技術を教えていた。


「土を深く耕し、芽の出た種イモを植える。覆土は厚めに」


彼の指導は明快で、誰でも実践できるものだった。エリーゼとマリカもそれぞれの役割を見つけていた。エリーゼは子供たちに料理法を教え、マリカは治癒の力で病気の植物を助けていた。


「灰色の土から、希望が生まれている」


アルノーはそう感じていた。だが、彼らの平和な日々は長くは続かなかった。


ある日、テラナの兵士たちが急いでやってきた。


「デュラン、グラン殿が呼んでおられる。緊急事態だ」


「何があったんですか?」


「メタルグラッドが国境を越えた。戦争が始まったのだ」


アルノーの胸に冷たいものが走った。ついに、避けられない時が来たのだ。


「エリーゼ、マリカ、私はグランのところへ行ってくる。畑を守っていてくれ」


彼が行政府に着くと、そこは既に戦時体制に入っていた。


「アルノー、来たか」


グランは地図を広げていた。国境地帯が赤く塗られている。


「メタルグラッドは我々の鉄鉱山を狙っている。そして…」


「そして?」


「お前たちのジャガイモ畑だ」


アルノーは驚いた。


「なぜ?」


「彼らも食糧の価値を知っている。戦争を長引かせるには、安定した食糧供給が必要だ」


グランの言葉に、アルノーは複雑な思いを抱いた。彼の技術が戦争の鍵になってしまったのだ。


「どうすれば?」


「軍がお前の畑を守る。だが、その代わり、お前は軍の食糧供給を担当してほしい」


アルノーには選択肢がなかった。彼は同意した。


「マリカ・シリウスはどうする?彼女はアクアリウスの人間だ」


グランの問いに、アルノーは即座に答えた。


「彼女は信頼できる仲間です。必要な人材です」


グランは静かに頷いた。


その夜、アルノーは重い足取りで小屋に戻った。


「兄さん、どうだった?」


エリーゼの問いに、彼は全てを話した。


「つまり、私たちは戦争に協力することになるのね」


マリカの声には苦さがあった。


「直接、武器は作らない。人々を飢えから救うんだ」


アルノーは自分に言い聞かせるように言った。


「でも、それが戦争を長引かせるなら?」


マリカの問いに、彼は答えられなかった。


窓の外では、国境からの黒煙が見えていた。新たな戦いが始まったのだ。


冬が近づくにつれ、戦況は厳しさを増していた。メタルグラッド帝国の機械化部隊はテラナの国境を越え、北部の鉄鉱山地帯を制圧した。だが、彼らの南下は予想より遅かった。


「テラナの土の力が彼らを阻んでいる」


マリカはそう説明した。土の精霊の影響で、テラナの地形そのものが侵略者に抵抗しているのだという。


アルノーたちの畑は東部にあり、今のところ戦火は及んでいなかった。だが、難民の波は日々増えていた。


「もっと効率的に収穫する方法が必要だ」


アルノーは収穫期に入ったジャガイモの前で頭を悩ませていた。人手が足りないのだ。


「これを使ってみては?」


バカブが持ってきたのは、古い馬車を改造した収穫機だった。木と鉄でできた単純な構造だが、馬に引かせることで土を掘り起こし、ジャガイモを地表に出す仕組みになっていた。


「これは…」


アルノーは感嘆の声を上げた。錬金術の複雑な理論よりも、こうした実用的な知恵の方が今は価値があった。


「昔、アクアリウスとの国境で使っていたものだ。テラナでは穀物が主流だったから、ジャガイモ用の道具は珍しい」


バカブは誇らしげに説明した。


「これがあれば、三倍は速く収穫できる」


アルノーは早速、収穫機を試してみた。確かに効率は格段に上がった。エリーゼとマリカ、そして集まった難民たちが後ろから続き、地表に出たジャガイモを拾っていく。一日でこれまでの倍の収穫ができた。


「兄さん、これならもっと多くの人に食べ物を届けられるね」


エリーゼの顔には久しぶりの笑顔が浮かんでいた。


最初の雪が降る頃、アルノーたちの努力は実を結んでいた。地下の貯蔵庫には大量のジャガイモが保存され、難民キャンプや兵士たちの食料として配られていた。


「これで冬は乗り切れる」


アルノーは安堵の溜息をついた。だが、マリカの表情は晴れなかった。


「でも、戦争は終わらない」


彼女の言葉通り、戦況は膠着していた。メタルグラッドの機械部隊は北部に陣取り、テラナの兵は東部と西部を守っていた。どちらも決定的な勝利を得られないまま、じりじりと資源を消耗していく戦いが続いていた。


「これこそが精霊たちの望む形なのかもしれない」


アルノーはふと思った。効率と最適を追求する精霊たちにとって、長期戦による相互消耗は計算された結果なのかもしれない。


ある夜、グラン・マリエッタが突然アルノーの小屋を訪れた。


「デュラン、お前の助けが必要だ」


彼の顔は疲れきっていた。支配者の威厳よりも、一人の老人の弱さが見えた。


「何ができるでしょうか」


「春に向けて、新たな品種が必要だ。より速く育ち、より痩せた土地でも育つジャガイモを」


グランの要求は切実だった。戦争の長期化で、テラナの土地も疲弊していたのだ。


「私にできることはします」


アルノーは約束した。錬金術の知識と農業の技術を組み合わせれば、新たな品種改良は可能かもしれない。


グランが去った後、マリカが心配そうに言った。


「アルノー、私たちは戦争の道具になっているわ」


「わかっている。だが、今は人々を飢えさせないことが先決だ」


アルノーの心の中でも葛藤は続いていた。


厳しい冬の夜、アルノーが一人で研究を続けていると、窓の外から物音がした。


「誰だ?」


彼は警戒して外に出た。月明かりの中、一人の人影が立っていた。


「久しぶりだな、アルノー・デュラン」


低く渋い声。アルノーはその声に見覚えがあった。


「セレブリア…」


それはセレブリア・カオス、かつてフレイナで共に学んだ錬金術師だった。彼女はアルノーよりも年上で、才能も優れていた。だが、禁忌の研究に手を染め、追放されたはずだった。


「よく覚えていたな」


セレブリアは笑った。その笑みには、かつての優雅さは残っていなかった。


「何の用だ?」


「お前の成功を聞いてな。『灰の賢者』と呼ばれ始めているぞ」


アルノーは驚いた。そんな名で呼ばれているとは知らなかった。


「ただの農夫だ」


「謙遜することはない。お前は正しかった。賢者の石は、我々が思うような形では存在しない」


セレブリアの言葉に、アルノーは警戒心を強めた。彼女が何を望んでいるのか、見当がつかなかった。


「何が言いたい?」


「共に働かないか?各国が精霊に操られて争う中、私たちは真の解決策を持っている」


「私は既にテラナと協力している」


「テラナも精霊に支配されている。グランは土の精霊の操り人形だ」


セレブリアの目には狂気が宿っていた。


「私には独自の計画がある。『逆錬成』だ」


「逆錬成?」


「精霊から力を奪う技術だ。彼らの力を人間の手に取り戻せば、この戦争も終わる」


アルノーは震え上がった。精霊から力を奪うなど、前代未聞の冒涜だった。そしてそれは、新たな災厄を招く可能性もあった。


「狂気の沙汰だ。精霊の力は自然の一部だ。それを奪えば、世界のバランスが崩れる」


「既にバランスは崩れている!精霊たちは暴走し、人間を操っている!」


セレブリアの声には、かつての理性的な女性の面影はなかった。


「私の答えは、精霊と対立することではない」


アルノーは静かに答えた。


「では何だ?ジャガイモか?」


セレブリアの言葉には嘲りが含まれていた。


「そうだ。地に足をつけた解決策だ」


「お前も変わったな」


彼女は後退した。


「考えが変わったら、また来る。私たちは同じ答えを探している。方法が違うだけだ」


セレブリアは闇の中に消えていった。


アルノーは長い間、彼女の去った方向を見つめていた。古き友は完全に変わってしまったようだった。そして、彼女の言葉は新たな不安の種をアルノーの心に植え付けていた。


雪解けの兆しが見え始めた頃、アルノーは新たな品種の実験に成功していた。


「これだ」


彼は小さな芽を出したジャガイモをマリカに見せた。


「何が特別なの?」


「この品種は通常より成長が早く、水が少なくても育つ。バカブの南方種と、私が改良した北方種を掛け合わせたんだ」


アルノーの声には達成感があった。錬金術の知識と農業の経験が融合した結果だった。


「すごいわ」


マリカも感心した様子だった。


「春の植え付けに間に合う。グランに報告しなければ」


だが、報告の前に、思わぬ訪問者が現れた。


「アルノー・デュラン?」


小屋のドアを叩いたのは、テラナの軍服を着た若い士官だった。


「私です」


「至急、前線に来てほしい。グラン殿の命令だ」


「前線?なぜ?」


「メタルグラッドの新型兵器だ。我々の畑を焼き尽くしている」


アルノーの顔から血の気が引いた。


「エリーゼ、マリカ、私は前線に行かなければならない」


「私も行くわ」


マリカが即座に言った。彼女の治癒の力は、負傷者の助けになるだろう。


「エリーゼ、ここを守っていて」


エリーゼは不安そうだったが、強く頷いた。


「気をつけて、兄さん。マリカさんも」


二人は軍の護衛とともに、北部前線へと向かった。


北部前線に到着したアルノーとマリカを迎えたのは、焼け焦げた大地の光景だった。かつての肥沃な農地は、今や黒い灰と化していた。


「これが噂の『灰の賢者』か」


前線司令官のカルヴァンが、二人を出迎えた。彼の表情は厳しく、疲労の色が濃かった。


「状況を教えてください」


アルノーは直接的に尋ねた。


「三日前、メタルグラッドの新型兵器『焼土機』が投入された。彼らは我々の農地を標的にしている」


カルヴァンは前線地図を広げた。赤く塗られた区域が、焼失地域を示していた。


「彼らの狙いは食糧供給の遮断だ。長期戦に持ち込むつもりなのだろう」


「どんな兵器なのですか?」


「小型の飛行機械だ。熱線を放ち、一瞬で作物を焼き尽くす」


アルノーは思わず拳を握りしめた。彼の努力が、こうして破壊されていくのを見るのは辛かった。


「私にできることは?」


「我々は防御に専念している間、お前には一つの任務がある。焼けた土地でも育つ作物が必要だ」


カルヴァンの要求は厳しかったが、アルノーには既に答えがあった。


「試してみます」


彼は新たに改良したジャガイモの種を取り出した。マリカは傷病兵の治療に向かった。


次の日、アルノーは焼け焦げた最前線近くの畑で作業を始めた。兵士たちが警戒する中、彼は黒い土を掘り返した。


「この灰の中にも、生命は宿る」


彼は小さな祈りとともに、種イモを植えていった。マリカも合間に手伝い、水の技術で土壌を調整した。


「本当に育つと思う?」


疑問を呈する兵士もいたが、アルノーは確信を持って頷いた。


「灰は肥料になる。死から生が生まれる。それが自然の理だ」


彼の言葉は、単なる農夫のものではなかった。それは、真の賢者の言葉だった。


驚くべきことに、一週間後、最初の新芽が灰の中から顔を出した。


「見ろ、本当に育っている!」


兵士たちは驚きの声をあげた。アルノーの改良種は、焼け焦げた土地でも生命力を失わなかったのだ。


「灰の中から希望が生まれる」


アルノーはつぶやいた。それは彼自身の旅の象徴でもあった。フレイナの灰の中から、彼は新たな道を見つけたのだから。


この成功は前線の士気を高めた。数週間のうちに、焼失地域の多くに新たな作物が植えられた。マリカの治癒の力も大きな助けになった。彼女は負傷者だけでなく、土地そのものを癒していた。


「デュラン、よくやった」


グラン・マリエッタ自身が前線を視察に訪れた。彼の表情には安堵の色が見えた。


「これで食糧供給は途切れません」


アルノーは報告した。


「だが、戦争はまだ終わらない」


グランの言葉には苦さがあった。


「なぜ、この戦いを止められないのですか?」


アルノーは思い切って尋ねた。


「精霊たちの意志だ…彼らは『賢者の石』の幻想を追いかけ、私たちを操っている」


グランの声は疲れきっていた。その姿は、支配者というより、精霊に囚われた囚人のようだった。


「セレブリアが言っていた『逆錬成』…」


アルノーは思わずつぶやいた。


「何だと?」


グランの反応は鋭かった。


「かつての同僚が、精霊から力を奪う研究をしているようです」


「危険な発想だ。だが…」


グランは言葉を切った。彼の目に、一瞬、何かが閃いたようだった。


その夜、アルノーとマリカは前線の仮設テントで語り合った。


「戦争を止めるには、精霊たちの幻想を解かなければならない」


アルノーは言った。


「でも、どうやって?精霊たちは何千年も存在してきた。人間より遥かに古い知性よ」


「だからこそ、彼らは変化を理解できないのかもしれない」


アルノーの頭には一つの考えが浮かんでいた。


「私たちが示すべきなのは、単なる食べ物ではない。共存の形だ」


マリカは不思議そうな顔をした。


「どういう意味?」


「精霊たちは自分たちの元素だけを重視する。火は火だけ、水は水だけ。だが、真の豊かさは多様性から生まれる」


アルノーは興奮した様子で説明を続けた。


「多品種共存農法。一つの畑で複数の作物を育てる方法だ。お互いが足りないものを補い合う」


「それが精霊たちに影響する?」


「直接は無理だろう。だが、人間が精霊に依存しなくなれば、彼らの力は弱まるはずだ」


二人の会話は夜遅くまで続いた。明日からは、新たな実験が始まる。灰の中から、多様な生命を育てる試みだ。


春の終わり、前線の状況は一変していた。アルノーとマリカの指導の下、焼け跡には様々な作物が育ち始めていた。ジャガイモだけでなく、豆類や一部の野菜も、灰の土地に適応していた。


「多品種共存農法の成功例だ」


アルノーは満足げに畑を見渡した。作物たちは互いに助け合うように育っていた。豆類は土に窒素を与え、背の高い植物は日陰を作り、低い植物は地面を覆って水分を保持していた。


「自然の知恵ね」


マリカの目にも感動の色があった。


そんな中、思わぬ使者が前線に現れた。


「交渉の申し出だ」


カルヴァン司令官がアルノーに告げた。


「メタルグラッド帝国から?」


「そうだ。彼らは戦局の変化を感じ取ったようだ」


実際、メタルグラッドの「焼土作戦」は失敗していた。テラナの食糧供給は途絶えず、むしろ多様化していた。長期戦を覚悟していた彼らの計算は狂いつつあった。


「私に何ができる?」


「グラン殿が、お前も交渉に同席するよう望んでおられる。『灰の賢者』として」


アルノーは驚いた。だが、これは戦争を終わらせる機会かもしれない。


「承知しました」


交渉の場所は国境近くの中立地帯。テラナからはグラン・マリエッタと数人の高官、そしてアルノーとマリカが参加した。メタルグラッド側からは、ローデリヒ・アイゼン皇帝の代理として将軍のシュタインベルクが来ていた。


「テラナの抵抗は予想以上だった」


シュタインベルクは素直に認めた。


「我々は資源を共有する用意がある」


グランの提案は意外なものだった。


「鉄と食糧を交換しよう。戦わずとも、双方が必要なものを得られる」


シュタインベルクは疑わしげな表情を浮かべた。


「なぜ突然?」


「戦争は精霊たちの望みだ。だが、私たちはその幻想から目覚めつつある」


グランの言葉に、メタルグラッドの将軍は興味を示した。


「あなたも気づいているのか…」


「ああ、『賢者の石』の幻想にね」


二人の支配者の間に、初めて理解の糸が生まれた。


「このジャガイモを見てみろ」


アルノーは焼け跡から育った作物を示した。


「灰の中からも生命は生まれる。戦争の後にも、再生の道はある」


彼の言葉は単純だったが、その背後には深い真実があった。


シュタインベルクは長い間考え込んだ後、静かに頷いた。


「持ち帰って検討する。だが、私も同じ考えだ。この戦争は愚かな幻想のためのものだった」


初めての交渉は、予想外の進展を見せた。完全な和平には至らなかったが、一時的な休戦が合意された。


「エリーゼ、ただいま」


前線での任務を終え、アルノーとマリカは東部地区の小屋に戻った。エリーゼは涙ぐみながら二人を迎えた。


「兄さん、マリカさん、よく無事で帰ってきた!」


彼女の管理の下、小屋周辺の畑は見事に育っていた。多くの難民たちが手伝いに来ており、共同体のような絆が生まれていた。


「戦争は終わるの?」


エリーゼの問いに、アルノーは慎重に答えた。


「まだわからない。でも、希望はある」


その夜、三人は久しぶりに静かな夕食を共にした。窓の外では星が輝き、遠くの前線からの雷鳴のような音も聞こえなくなっていた。


「アルノー、あなたは本当に『灰の賢者』になったわね」


マリカの言葉に、アルノーは微笑んだ。


「まだ道半ばだ。真の賢者の石を見つけるまでは」


「でも、もう見つけたんじゃない?」


エリーゼが尋ねた。


「土と人の知恵、それが真の賢者の石なのかもしれないね」


アルノーは畑を見やった。明日からまた、新たな種まきが始まる。灰の中から生まれる希望の種を、彼はこれからも育て続けるだろう。


春の終わり、テラナとメタルグラッドの間で休戦が成立した。まだ完全な和平ではないが、戦火は収まりつつあった。アルノー・デュランは「灰の賢者」として知られるようになり、彼のジャガイモ栽培法は各地に広まっていた。


だが、すべての国が平和への道を選んだわけではない。フレイナ王国とアクアリウス連邦の争いは激化し、ゼフィール自治国の監視体制は強化されていた。レアアルカ王朝も独自の道を歩んでいた。


真の平和への道はまだ遠い。アルノーの旅も、まだ終わりではなかった。


「次はどこへ向かう?」


マリカの問いに、アルノーは北を指差した。


「フレイナへ。故郷に戻る時が来た」


彼の心には新たな決意があった。灰から生まれた知恵を、炎の国にも伝えるために。

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