第一章:灰の記憶
テラナ共和国の東部、かつて鉄鋼都市と呼ばれた廃墟の一角で、アルノー・デュランは焦げた土を掌に取った。黒く、粉々になる土は、まるで錬金術の失敗作のようだった。
「この土でも、育つかもしれない」
風に舞う灰を見つめる彼の瞳には、五年前に失った故郷フレイナの炎が今も映っていた。
春の陽気が窓から差し込む朝、アルノーの研究室は既に活気に満ちていた。壁一面には錬金術の図版が貼られ、煌めく試験管と蒸留器が朝日を受けて輝いている。彼の指先は慎重に、赤い結晶を乳鉢に入れていた。
「今日こそは」
彼はつぶやいた。二十年の研究生活で何度口にしたか分からない言葉だった。錬金術師の多くが人生を捧げる「賢者の石」。不老不死と万能の変成を可能にするという伝説の物質。アルノーもまた、その追求に青春を費やしてきた。
「お兄さん、また徹夜?」
ドアが開き、妹のエリーゼが朝食の盆を持って入ってきた。彼女の明るい笑顔は、研究に沈むアルノーの唯一の救いだった。
「もう少しで核心に迫れる。今回は違うんだ」
エリーゼは兄の熱狂を見慣れていた。彼女は窓を大きく開け、新鮮な空気を部屋に招き入れた。フレイナ王国の首都は、朝から活気に満ちていた。遠くには王宮が朝日に照らされ、その赤い屋根は炎のように輝いていた。
「お父さんが言ってたよ。今日は特別な来客があるって」
アルノーは一瞬作業の手を止めた。父親のガスパールは宮廷錬金術師として王に仕えていた。特別な来客とは、おそらく他国の貴族か賢者だろう。
「忘れていた。正装しなくては」
彼は急いで実験器具を片付け始めたが、その時だった。
遠くから、轟音が響いた。
「警報だ!」
アルノーは窓から身を乗り出した。北の空が赤く染まっている。フレイナを守る防壁に、何かが衝突していた。
「エリーゼ、地下室へ!」
彼は妹の手を引き、階段を駆け降りた。家の地下には父が用意した避難所がある。両親はまだ王宮にいるはずだ。
「お兄さん、あれは…」
エリーゼの指差す方向、空には無数の飛行船が浮かんでいた。その船体には明らかに見覚えのあるマークがあった。
「メタルグラッド帝国の紋章だ」
アルノーは息を呑んだ。メタルグラッド帝国はかねてより火と金属の資源を求めていた。錬金術に欠かせない火の精霊フレイナの力を持つこの国は、常に侵略の標的だった。
「でも防壁があるから大丈夫、でしょ?」
エリーゼの声には不安が混じっていた。アルノーは答えられなかった。防壁を突破する技術があるとすれば、それはメタルグラッドの金属技術しかない。
二人が地下室に辿り着いた時、再び大きな爆発音が響いた。今度は近かった。
「父上、母上…」
アルノーは呟いた。王宮は最初の標的になるだろう。
爆撃は三日間続いた。
地下室で震える日々の中、アルノーはラジオからの情報を必死に集めていた。メタルグラッド帝国は「賢者の石の素材となる火の精髄を解放するため」という名目で侵攻してきたという。
「賢者の石のため…?」
アルノーは信じられなかった。自分が人生を捧げてきた研究が、戦争の口実になるなど。
四日目、ついに爆撃が止んだ。アルノーは恐る恐る外に出た。彼の目に映ったのは、灰と化した街並みだった。かつての赤い屋根の建物は黒く焦げ、通りには瓦礫が積もっていた。
「王宮へ行かなければ」
エリーゼを地下に残し、アルノーは瓦礫の山を越えて王宮へと向かった。だが、そこにあったのは巨大な陥没跡だけだった。
「父上!母上!」
彼は崩れた石の間を掻き分け、必死に探した。やがて見つけたのは、父の錬金術の印章が刻まれた腕輪だけだった。それは焦げ、曲がっていた。
アルノーは膝をつき、天を仰いだ。
「ご無事で…」
帰宅したアルノーを見て、エリーゼは安堵の表情を浮かべた。だが、兄の顔に浮かぶ表情を見て、彼女は全てを悟った。
「お父さんとお母さんは…」
アルノーは黙って首を振った。
その夜、残された兄妹は語り合った。メタルグラッド帝国の侵攻は、フレイナ王国だけではなかった。アクアリウス連邦の水源地帯も攻撃され、ゼフィール自治国の情報網も破壊されていた。
「賢者の石のための資源争奪…」
アルノーはラジオの断片的な情報を繋ぎ合わせていた。各国が「賢者の石」製造のために精霊の力を独占しようとしている。それが戦争の真の理由だった。
「兄さん、私たちどうなるの?」
エリーゼの問いに、アルノーは答えられなかった。窓の外には、まだ炎が街を照らしていた。
その時、不意に研究室の書棚が崩れ落ちた。振動で本が散乱する中、一冊の古い文献が開いた。そこには「真の賢者は石を求めず、土に帰る」という一文が記されていた。
アルノーは長い間その言葉を見つめていた。
「エリーゼ、ここを出よう。テラナ共和国へ向かおう」
「テラナ?なぜ?」
「答えは土の中にある。真の賢者の石は…存在しないのかもしれない」
アルノーの心に、新たな疑念が芽生えていた。
夜明け前、兄妹は数少ない荷物をまとめていた。アルノーは研究ノートだけを持っていくことにした。何年もの研究の集大成だったが、今はもう違う答えを探さなければならなかった。
「準備はいい?」
エリーゼは小さく頷いた。彼女の瞳には不安と決意が混じっていた。
家を出る直前、アルノーは振り返った。幼い頃から育った家、父の研究室、母の花壇。全てが灰と化していく運命にあった。
「さようなら」
彼は小さく呟き、妹の手を取った。二人はフレイナ王国の裏路地を通り、南の門を目指した。あちこちでメタルグラッド帝国の兵士が巡回している。金属の鎧は朝日に冷たく光っていた。
南門に着くと、そこには難民の群れがいた。フレイナを脱出しようとする人々だ。
「検問がある」
アルノーは警戒した。メタルグラッドの兵士たちは、特に錬金術師を見つけると連行していた。彼らの知識を利用するためだろう。
「兄さん、どうする?」
その時、爆発音が響いた。別の場所で戦闘が始まったようだ。検問所の兵士たちが騒ぎの方へ駆けていく。
「今だ!」
アルノーとエリーゼは混乱に乗じて門を抜けた。振り返ると、フレイナの街は黒煙に包まれていた。かつて火の精霊が守っていた赤い城塞は、今や灰色の廃墟と化していた。
「さようなら、フレイナ」
エリーゼは小さく呟いた。アルノーは黙って前を向いた。テラナ共和国までは険しい山道を越えなければならない。だが、彼の心は既に揺るぎない決意で満ちていた。
賢者の石の真実を知るため。
そして、この戦争を止めるために。
彼らの長い旅が、始まった。
「兄さん、休みましょう」
三日目の夕暮れ、エリーゼの足取りが重くなっていた。アルノーは小さな洞窟を見つけ、そこでキャンプを張ることにした。
「火を焚くのは危険だ」
彼は錬金術の技で、光なき温かさを生み出した。小さな石に熱を封じ込める技だ。その暖かさは二人を包み込んだ。
「兄さん、本当に賢者の石は存在しないの?」
エリーゼの問いに、アルノーは深く考え込んだ。
「わからない。だが、存在するとしても、それは我々が思うような物ではないだろう」
彼は父から学んだ古い伝説を語り始めた。
「最初の賢者は、石を求めて世界中を旅した。だが最後に辿り着いたのは、自分の故郷だった。そこで彼は土を耕し、種を植え、実りを得た。人々はそれを『賢者の奇跡』と呼んだという」
エリーゼは静かに聞いていた。
「もし賢者の石が本当にあるなら、それは変成や不老不死のためではなく、人を養い、土地を豊かにするものなのかもしれない」
アルノーの言葉は、新たな視点を開いていた。
夜が更けていく中、兄妹は星空の下で眠りについた。明日からまた長い道のりが続く。
七日目、二人はついにフレイナとテラナの国境に辿り着いた。そこには既に多くの難民が集まっていた。テラナ共和国は難民を受け入れると宣言していたのだ。
「あそこに検問所がある」
アルノーは指差した。テラナの兵士たちが、入国者を審査している。
「錬金術師だと言わないで」
エリーゼは小声で言った。テラナでは土の精霊テラナの意向で、他の元素を操る錬金術は制限されていた。
「名前は?」
検問所で兵士に問われ、アルノーは答えた。
「アルノー・デュラン。妹のエリーゼと二人です」
「職業は?」
一瞬の迷いの後、アルノーは言った。
「農夫です」
嘘ではなかった。これからは本当にそうなるつもりだった。
兵士は二人を長い間見つめた後、頷いた。
「テラナ共和国へようこそ。東部地区に空き地がある。そこで新しい生活を始められるだろう」
アルノーとエリーゼは国境を越えた。振り返ると、フレイナの赤い山脈が夕日に染まっていた。故郷への別れだった。
テラナ共和国東部地区。かつてフレイナとの貿易で栄えた鉄鋼都市は、今や難民であふれていた。アルノーとエリーゼが与えられたのは、都市郊外の荒れ地だった。
「この土地で?」
エリーゼは不安そうに周囲を見回した。灰色の土は痩せており、作物が育つようには見えなかった。
「大丈夫だ」
アルノーは膝をつき、土を手に取った。錬金術師の目で、彼はその土の性質を見抜いていた。
「この土には鉄分が多い。特殊な作物なら育つかもしれない」
彼は懐から小さな袋を取り出した。父から受け継いだ貴重な種だった。
「これは?」
「ポテイト。ジャガイモだ。どんな土地でも育つと言われている」
アルノーは少年の頃、父からその種の話を聞いていた。伝説の作物。飢饉の時にも人々を救うという。
彼は小さな小屋を建て始めた。エリーゼも手伝う。新たな生活の第一歩だった。
夜、星空の下で二人は語り合った。
「テラナなら戦争も来ないよね?」
エリーゼの問いに、アルノーは答えられなかった。各国が精霊の力を奪い合う限り、戦争は止まらないだろう。今はまだテラナは安全だが、いつまで続くかわからない。
「エリーゼ、私は『賢者の石』の真実を探る。そして、この戦争を止める方法を見つける」
彼は決意を新たにした。錬金術師から農夫へ。その変化の中に、真実への道があるかもしれない。
夜風が二人の髪をなでた。明日からまた、新たな挑戦が始まる。
朝日が昇る中、アルノーは黒い土に最初の種を植えた。
「育て」
彼は小さく呟いた。それは祈りのようでもあり、命令のようでもあった。
遠くでは、メタルグラッド帝国の飛行船が国境を偵察していた。新たな侵攻の予兆だろうか。
アルノーは空を見上げた。灰色の雲の隙間から差し込む光が、新たに植えた畑を照らしていた。
これが物語の始まり。灰の中から生まれる、新たな希望の物語