愛されていなくても、せめてあなたのために。
暗闇のなかふと目を覚ますと、寝ている私を見下ろす視線があった。
炎を纏ったような怒りに燃える赤色の瞳。その瞳を見るたびに、私が感じるのは安堵だった。
私が起きたことに気づくと、赤い瞳はすぐに逸らされてしまう。
音もなく寝室からいなくなり、部屋の中に私が一人だけが残された。
その瞬間、わけもなく虚無感とともに罪悪感に押しつぶされそうになる。
いつか、私は夫であるオーギュストに殺されるだろう。
そう信じているのに、その時はなかなかやってこなかった。
◇
フォレスティ公爵家の娘である私――シルヴィアが、王命でヴァンタール公爵家に嫁いだのは、いまから三年前のことだ。
ヴァンタール公爵家は、代々風の魔法を操り、魔物を狩ることを生業にしている。
それは現当主であり、私の夫であるオーギュストも例外ではなく、ヴァンタール騎士団を率いて魔物を狩るために邸宅を空けることが多い。二、三日で帰ってくることもあれば、一週間や一カ月も帰ってこないことはざらにあった。
帰宅しても会話はなく、ただ定期的な夫婦の営みがあるだけ。仮面でも仮初でもない、ただ冷たいだけの関係。
そんな生活を続けているからか、使用人の態度もどこかよそよそしかった。ある事情から邸宅から出ることができない私にとって、そこはまるで鳥籠のようだった。
水や食事を与えられて、身ぎれいにされて、それでも狭い鳥籠のなかで暮らすことしかできない、羽根のない飛べない鳥。
そんな生活に普通の娘なら嫌気がさして家を出ていくのかもしれない。
だけど私はそれができなかった。――いや、したくなかったと言った方が正しいだろう。
なぜならその生活は、私自身も望んでいることだからだ。
私は、ただオーギュストのそばにいられるだけで幸せだったから。
たとえオーギュストが、私のことを殺したいほど憎んでいるのだとしても。
私がオーギュストと初めて顔を合わせたのは、五歳の頃だった。
フォレスティ家の第二子として産まれた私は、唯一の娘だということもあり両親や兄から可愛がられて育った。
フォレスティ家特有の翠緑の髪に褐色の瞳。母に似た肌は真珠のように白く、幼いころから森の妖精のようだともてはやされていた。
自分の見た目には自信があったのだけれど、オーギュストと初対面の時、私は彼の神秘的な美しさに目を奪われた。
白銀色の髪にルビーのようにキラキラと輝く赤い瞳。
まるでおとぎ話に出てくる王子様だと、私は喜んだものだ。
しかも、「はじめまして、お姫様」と挨拶をしてくれて、それにまた胸がドキドキとして、彼にすっかり夢中になった。
いまの冷たい瞳が嘘かのように、あの時のオーギュストは花が咲くような笑みを浮かべていた。ほころばせた唇を開けば、私のことを「かわいい」と連呼して、それに何度も頬を赤らめることになった。
「シルヴィアと、一緒にいるのはとても楽しいね」
それが彼との最初の想い出だった。
そのあとも、彼とは頻繁に会って、フォレスティ家の森の中を探検したり、ヴァンタール家の湖に出かけたりと、たくさんの想い出を重ねていった。
「ねえ、シルヴィア、知ってる? 僕たち、結婚するんだよ」
「けっこん?」
「僕の父上や母上、それからシルヴィアの両親のような関係になるんだ」
「つまり、一緒に暮らせるということ?」
「そうだよ」
「毎日遊んで暮らせるの?」
「ああ、もちろんさ」
苦笑しながらも幸せそうに笑ったオーギュストと一緒に、私たちは未来のことにつって語り合った。あの頃は本当に楽しかった。
だけど楽しい日々は、私が十歳の頃に終わってしまった。
十歳の頃、私とオーギュスト、それからお互いの母親と共に、いつものように森の中に遊びに行ったときのこと。
魔物が出たのだ。
フォレスティ家の森は神秘の森だ。それまで森に魔物が出たことがなく、誰もが油断していた。
本来なら魔物がでない森。広場にシートを敷いてお茶をしながら語らっている母たちから離れて、私とオーギュストはふたりで遊んでいた。
そこに突然、鋭く長い爪と大きな牙を持った狼のような魔物が現れて、私たちは囲まれてしまった。当時すでに、オーギュストは魔法を使うための戦闘訓練を受けていたが、力はまだ未熟だった。どうにか逃げる道は確保したものの、狼は群れを成す生き物だ。魔物にもその特徴があられていて、私たちは広場まで逃げたもののそこでまた魔物に囲まれてしまった。
「シルヴィア、君だけでも逃げて!」
「オーギュストも一緒に」
「僕は大丈夫だよ。強いからね」
オーギュストは引きつるような笑みを浮かべていて、強がっているのはすぐに気づいた。
私はフォレスティ家の魔法の才を受け継いでいたけれど、それがこの状況で意味をなさないことを知っていた。自分にできることはないことも。ここにいるのが無駄なんだということも。
それでもすっかり震えてしまった足は思うように動かず、地べたに尻餅をついてしまった。
それを逃す魔物ではなかった。
尻餅をついた私に、魔物が数匹飛びかかってくる。
「シルヴィアちゃん!」
誰かの叫び声が聞こえたかと思うと、何か大きなものが私に覆いかぶさった。
温かいと思った。腰に回されたのが腕だと気づいたのはその後だ。
「――っ!」
誰かの大きな悲鳴。狼の断末魔のような咆哮。
ブツ、と周囲の音が途切れたような、静寂。
「シルヴィアちゃん」
耳元でささやかれた声。正気の戻った私の視界に映ったのは、オーギュストの母――ヴァンタール夫人の顔だった。
「オーギュストを、よろしくね。あの子、頑張っちゃうから。ささえてあげて……」
私を包んでいた温もりが離れていく。荒い息を吐いて、ヴァンタール夫人は地面に倒れた。
「母上!」
駆け寄ってきたオーギュストに何かを伝えていたのだと思う。
声は全然聞こえなかったけれど、動揺した彼が目尻の涙を飛ばして、母親の身体に頭をすりつける。
その姿を、私はただ見ていることしかできなかった。
しばらく経って、オーギュストが「ああ、うそだ……」と呟いた。
漏れていた嗚咽が少しずつ大きくなっていく。
次第に周囲の喧騒が戻ってきて、使用人や私の母が駆け寄ってきた。
だけど、私はそれらのことがいっさい視界に入っていなかった。
私たちを囲んでいた魔物は、血を流して地面に倒れていた。――これは後から知ったことなのだけれど、その魔物の死因は母親が襲われる姿を見て覚醒したオーギュストの魔力の暴走によるものだったらしい。
その異様な光景に呆然としながらも、私の視界を奪ったのは、オーギュストの瞳だった。
爛々と輝く、血のような赤い瞳。
「シルヴィア……」
その唇が紡いだ言葉は乾いていた。
私は慰める言葉も、彼の母親を死なせてしまった謝罪も、何もできなかった。
それでも、彼の瞳が物語っていた。
憎々しげに、私を見つめるオーギュストの赤い瞳が。
彼の母親が亡くなったのが、私のせいだということを。
それからしばらくして、私とオーギュストの婚約は解消された。
それまで仲の良かった両家は疎遠になり、私とオーギュストは二十歳になるまで会うことはなかった。
というのも、私は社交界に顔を出すことなく、邸から出られない生活をしていたからだ。
魔物に襲われた日に判明したのだが、フォレスティ家の人間に希に現れる特異体質を、私は受け継いでいた。
フォレスティ家の魔法は、主に森の生命力を糧にしている。生命力を魔力に変換して魔法を使うことができて、それは枯れた植物を生き返らせたり、植物を操ったりすることができた。それから植物だけではなく、生物を治癒する能力もあった。
そんな治癒能力を私は受け継いでいて、そして同時に特異体質も持っていた。
それまでの私は知らなかったのだ。
いや、おそらく家族すらも考えていなかったことだろう。
私の身体の秘密。特異体質により私の身体からは微力な魔力が漏れ出ていて、その香りが魔物を惹きつけることを。
だからあの日、普段から生命力にあふれていて魔物の寄り付かないフォレスティ家の森に、魔物が現れたのだ。
成長するにつれて、魔力の香りは強くなるらしい。
そういったこともあり、私はこの魔力が外に漏れ出ることを封じることのできる結界があるフォレスティ家の邸宅のなかから、出ることができなかった。
二十歳を目前としたある日、王命が下された。
フォレスティ家とヴァンタール家の子孫が『聖女』として産まれてくるといる神託があったからだ。
それにより、私とオーギュストは婚姻をすることになった。
結婚と聞いて、私は不安とともに喜びを感じていた。
会えなかった十年間、毎日祈っていたから。彼の役に立ちたい。役に立つためならなんでもやると。
たとえそこに愛がないのだとしても、彼のそばにいられることが一番の幸せだった。
結婚式は盛大に行われた。
十年ぶりに顔を合わせたのに、赤い瞳と視線が交わることはなく、どこか乾いたような誓いの儀式だった。
「君は、これでいいのか?」
初夜の席でオーギュストからそう問いかけられて、私は頷いた。
彼は赤い瞳を鋭くさせた。もう子供の頃のあどけない面影はなく、立派な男性の姿になっている。それでも美しさは健在で、私の胸がときめくが、そんな資格は自分にないと戒める。
ただの儀式。ただの使命。
夫婦の営みは、何度重ねてもあまりにも簡素だった。
そのまま、三年の年月が過ぎた。
◇
鏡の中に、純白の服を着た私の姿が映っている。
今日は、三カ月に一度の夫婦の営みの日であり、私が外出を許された日でもあった。
というのも、私の治癒の力は森の生命力を糧にしている。森から離れたところだと次第に魔力は弱まっていき、効力を発揮しなくなる。
そのため定期的に森に行く必要があった。『聖女』を産むためにも、森の力が必要なのだ。
外出すると魔物が出る危険があるため、ヴァンタール家の騎士を連れて行くことになっている。オーギュストも一緒だ。
フォレスティ家の森は、いつ来ても変わらない。
ここだけ時間の流れに逆らっているようで、幼いころから何も変わっていない。
変わったのは、私たちのほうだけだ。関係も、何もかも違う。
何も知らなかったあの頃にはもう戻れないのだと、ここに来るたびに思い知らされる。
たくさんの木々がひしめくところに、一本の巨大な木が立っている。
樹齢千年はあると言われているその木は、フォレスティ家の力の源でもあった。
木の幹に掌を当てる。ざらりと樹皮が剥がれて、その下から新しい木の皮が覗く。
目を閉じて、そのままじっと木の温もりを感じる。鼻先を緑の匂いが通り過ぎて、風が私を歓迎しているかのようだった。
どれだけそうしていたのか。いつも時間が経つのを忘れる。
それでも体に満ちる気力はすっかり回復していて、いまならどんな生物の傷でも完全に治せそうだった。
「終わったのか?」
少し離れたところで待っていたオーギュストに問いかけられて、頷く。
眉間によせられた皺から察するに、彼はきっとこの儀式を面倒に思っているのだろう。
無言のまま、私たちは並んで森の道を歩く。
その時、遠くから吠え声が聞こえた気がした。
「近くにいるな」
オーギュストが舌打ちをする。
吠え声は耳慣れたものだった。毎回この森に来るたびに聞こえてくる吠え声は、十歳のあの日、彼の大切な人の命を奪ったモノだ。
「急ぐぞ」
「はい」
周囲にいる騎士たちに声を掛けながら、オーギュストが道を進んでいく。その後を、私はただついて行く。
「くそ、きたか」
草を踏みしめる、人とは違う足音。
騎士たちが臨戦態勢に入り、オーギュストが私を庇うように前に出る。
その大きな背中は、十歳のあのころよりも大きくて、同じように頼もしい。
狼の姿をした魔物であれば、騎士たちだけで充分相手にできるだろう。
オーギュストも剣を抜き、辺りを警戒する。
瞬間、魔物が現れた。
瞬時に騎士たちが応戦して、魔物を切り捨てていく。
すっかり馴染みの光景だ。十歳の頃はあんなに怖ろしかったのに。
魔物はすぐに斬り捨てられて、怪我をした者もいなかった。
そのまま馬車に移動しようとしたとき、周囲の空気が変わったような気がした。
大きな足音がした。
なんの音かはわからないけれど、少なくともいつもの狼の足音ではない。
息を飲む。
静寂のあと、木々が押し倒されていく。
どんどんこちらに向かって倒れる木々。
同時に、見たこともない大きな魔物が姿を現した。
姿はいつもの狼を大きくしたモノだった。
だけど桁違いに大きい。木と同じぐらいの高さがある。それに、狼の頭が三つも生えている。
「なんだあれは?」
しかも、現れたのは一体ではなかった。二体もいる。
「チッ。魔物が進化したのか。厄介だな」
進化する魔物もいるにはいるらしいけれど、それは希なことだ。
オーギュストがチラリと私に視線を向ける。それからまたチッと舌打ちをした。
私を護りながらだとまともに戦えないからだろう。
周囲の騎士たちが二手に分かれて、三つ頭の魔物の討伐にかかる。
オーギュストが剣を持っていない左腕を振り上げる。そこに、風が集まってくる。目に見えるほど渦を巻く風は、彼が操れば刃と化す。
オーギュストが腕を振り下ろす。風は勢いづいて三つ頭の魔物に向かって行った。
魔物の絶叫が響いた。
普通の狼の魔物ならオーギュストの風魔法で一撃で倒れるのだけれど、三つ頭の巨体は息の根を止めるのに至らなかったようだ。
まだふらつく足取りで、こちらを忌々し気に見つめてくる。
その視線はオーギュストを――いや、その背後にいる私に向けられている。口から悲鳴がもれそうになる。
体が震える。あの大きな鉤爪で切り裂かれたら、人なんてひとたまりもないだろう。いくらヴァンタール騎士団が精鋭揃いだからと言って、あの巨体相手に勝てるのだろか。
「……また、私のせいで……」
あの魔物が惹かれているのは、私の魔力の香りだ。
この特異体質のせいで、また人が亡くなったりしたら……。もし、それがオーギュストだったりしたら。耐えられない。
「……私がいるから……」
「シルヴィア」
呼び声にいつの間にか俯いていた顔を上げる。
血のように赤い瞳が私を見ていた。眉間によせられた皺からは、私に対する疎ましさのようなものを感じる。
「オレを誰だと思っている」
彼はただ冷たい目で私を見ている。
「オレはあの頃よりも強くなった。騎士団のみんなもいる。だから、安心しろ」
「……オーギュスト」
オーギュストは冷たい瞳のまま、剣を三つ頭の魔物に向ける。
「あんな魔物、オレの一撃でどうとでもなる。そこで、見ていろ」
周囲の騎士たちに私を護るように指示を出して、オーギュストが魔物に向かって駆けていく。
オーギュストの剣に風が集まっている。
瞬間、オーギュストが飛んだ。木よりも大きい魔物よりも高く飛んで、上からたたきつけるように剣を振り下ろす。
三つ頭の魔物は断末魔を叫ぶ間もなく、真っ二つに引裂かれて息絶えた。
もう一体の魔物も、他の騎士たち総出でどうにか息の根を止めたようだ。
魔物様子を確認したオーギュストが戻ってくる。
私を護ってくれていた騎士たちの表情にも安堵が浮かんでいる。
最悪な事態にはならなかった。それに胸を撫でおろす。
オーギュストは赤い瞳で私を見つめていた。その口が開いて「シルヴィア」と私の名前を呼ぶ。
「オレが勝ったぞ」
そのどこか勝ち誇ったような顔に、幼いころのオーギュストの面影が重なった。
「オーギュス……」
呼びかけようとした声が止まる。私は考えるよりも先に走り出していた。
油断していた。私も、騎士たちも、それからおそらくオーギュストも。
まるで時間がとまっているかのようだった。
背を向けたオーギュストに、生き残っていたらしい狼の魔物が襲い掛かる。
オーギュストならおそらく、不意打ちでも斬り払うぐらいはできただろう。
だけど私の動きに、赤い瞳が固定されて、反応が遅れた。
そして私は、オーギュストを庇うために魔物の前に躍り出て――。
「……シルヴィア。おい、しっかりしろ!」
オーギュストの声が遠くに聞こえる。
視界がぼんやりしていてよく見えない。
「オーギュスト……」
手を上げて彼の顔を確かめたいのにできない。
だけど声が聞こえるということは、彼は無事なのだろう。
よかった、庇うことができて。
だって、オーギュストのお母さんから言われたから。あの子をよろしくね。ささえてあげてと。
最後の約束は、ちゃんと果たせただろうか。
「……オーギュスト」
「しゃべるなっ。くそっ。どうして、どうしてオレを庇って……!」
心なしかオーギュストの声に嗚咽が混ざっているように思えた。
ぼんやりする視界に、オーギュストの赤い瞳が混ざる。
どうやら私の身体に頭をすりつけているようで……。
ふと、視線が合った。
「シルヴィア……!」
「……オーギュスト」
なんとか手を動かして、オーギュストの頬に当てる。
その手に、オーギュストか頬をすり寄せてきた。
その赤い瞳から、雫のようなものが飛んだ気がした。
「……泣いているの?」
「あたりまえだ。オレは……ッ、母上と約束したのに。君を護るって。それなのにッ」
オーギュストはずっと私のことを恨んでいると思っていた。
いつか殺されるだろうと。私が死んだら、彼は喜ぶと。
だから、せめてあなたのためにと、そう思っていたのに。
――どうやら、私は勘違いをしていたみたいだ。
視界がどんどん暗くなっていく。
もうオーギュストの輝く赤い瞳ですら、見えそうもない。
「オーギュスト」
最後の声を絞り出す。
これだけは、伝えておきたかった。
「愛していたわ」
「……なぜだっ。オレなんかを……。シルヴィア!」
オーギュストの声が遠く聞こえる。
伝えたいことは伝えた。
あとはもう、心残りはない。
私は、自分の願いを叶えることができたのだから。
◆◆◆
十年ぶりに再会したシルヴィアは、すっかり大人の女性になっていた。
翠緑の髪は背伸びをするように腰の下まで伸びていて、褐色の瞳に真珠のような肌をした女性。少女の面影はなくなってしまったけれど、代わりに大人の色香を纏っている。
息を飲む美しさに、彼女に差し出そうとした手を握りしめる。
十歳の頃とは違って、オレの手はすっかり魔物の血で染まってしまっている。これで触れてしまえば、彼女を傷つけてしまうかもしれない。
それにシルヴィアは、オレのことを苦手としているだろう。十歳の時、目の前で襲われるシルヴィアを護ってあげることができなかった。
オレの母が彼女を庇って魔物に襲われたとき、ただ見ていることしかできずに絶望したのを覚えている。
魔力の暴走で魔物は倒せたけれど、それでも取り返しのつかない命を失ってしまった。
その日、オレは無力なんだと知った。
不甲斐なさを知り、自分の力のなさを呪った。
それからオレは、剣と魔法の鍛錬に打ち込むようになった。
『シルヴィアを、まもってね』
それが、母が残した最後の言葉だったから。
彼女を護るために、力を磨いてきたというのに――。
目の前で、またシルヴィアが魔物に襲われた。
しかも、オレを護るために。
「……なぜだっ。オレなんかを……。シルヴィア!」
腕の中で、シルヴィアが冷たくなっていく。
あんなに護ろうと、絶対に傷つけないと誓っていたのに。
「なぜ、なんだ……」
彼女が残した言葉が耳にこびりついている。
『愛していたわ』
どうして、いまになって気づくのだろうか。
ずっと情けないオレのことを、愛しているわけないと思っていたのに。
シルヴィアは、ただ王命のためだけに、オレと結婚をしたと思っていたのに。
こんなことならもっと早く伝えていればよかったと、このときになってまた後悔している。
「……オレも、シルヴィアのことを愛しているのに」
どうせ死ぬのなら、オレのほうが良かった。
縋りつくようにシルヴィアの胸に頭を押し付ける。離れたくないと、このままここにいたいと。ずっと、一緒にいたいと。
それでも心臓の鼓動は聞こえなくて――。
全身が冷たくなる。母のことを思い出してしまう。
「シルヴィア。目を開けてくれ……。オレを、置いて行かないでくれ」
「団長!」
周囲の騎士たちがなにやら騒いでいる。何か魔物でも現れたのだろうか。
そんなこといま考えられないのに。
シルヴィアを抱きしめる手に力を入れようとすると、何か長いものがシルヴィアの腕に巻き付いた。払おうとするが、それはするするとシルヴィアの身体を包み込んでいく。
よく見ると、それは細い木の枝のようだった。
いや、枝だけではない。草や花も彼女の身体を包み込もうとしている。
「森がおかしいです!」
騎士の声に顔を上げると、周囲の森は様変わりしていた。
木々が、花や雑草までもが金色の粉を吐いている。
フォレスティの森が、彼女を死を嘆いているかのようだった。
「……そうだ」
フォレスティの森には生命力がある。それで、彼女の傷を治せないだろうか。いや傷だけじゃだめだ。彼女の心臓の鼓動を戻してほしい。
そのためなら、オレの命だってくれてやる。
「頼む! シルヴィアを、救ってくれ!」
まるでオレの懇願が届いたかのようだった。
シルヴィアとともに、オレの身体も木の枝や草の葉、花たちに取り囲まれる。
金色の輝くそれは温かかった。
胸に痛みが走る。だけどそれに不快感はなく、むしろ安堵を覚えた。
体の中から、何か大切な物が流れていくような感覚があり、すぐに気づく。
これはきっと、オレの生命力だ。
森は、オレの願いを聞いてくれたのだ。
周囲の喧騒が戻ってくる。騎士たちがなにやら騒いでいるが、オレにはよく聞こえなかった。
金色の草花はもうとっくに、シルヴィアとオレの身体を解放していた。
腕の中にあるあたたかさは彼女のものだ。
「シルヴィア」
頬を流れる涙も、唇から紡ぐ彼女の名前も、すべてが愛おしかった。
「シルヴィア……。これからは、もう絶対に傷つけない」
彼女の睫毛が微かに震える。瞼が細く開き、褐色の瞳にオレの姿が映る。
これから何があろうと、オレは彼女を護って見せる。
たとえ、寿命が縮んたとしても、彼女とともに歩めるのなら。
それが一番の幸せだった。
それに彼女がオレのことを愛してくれるのなら、オレも自分の気持ちに正直になろう。この溢れんばかりの想いを、彼女に伝えるために。
◇◆◇
「おはよう、シルヴィア」
目を覚ますと、赤い瞳と目が合った。すぐ隣にオーギュストの顔があるからだ。
思わず手を伸ばしてオーギュストの頬に触れる。彼は目を逸らさなかった。
あの森の出来事から、もう二カ月は過ぎていた。
どうやら私は森の生命力のおかげで一命をとりとめたらしく、彼を庇って死ぬことはなかった。
そしてオーギュストは、あれから変わった。
会話もなく、夫婦の営み以外で触れ合うこともなかった関係。渇いていた結婚生活。それに、潤いがもたらされたのだ。
夫婦の営みの日以外はそれぞれの寝室で寝ていたのに、いつの間にか毎日のように夫婦の寝室で寝ることになった。朝は必ず挨拶をしてくれたり、食事も一緒にとって、オーギュストの方からよく話しかけてくるようになった。
しかも――。
「今日もきれいだ、シルヴィア。その褐色の瞳はオレを閉じ込めて離さないし、まるで森の妖精のような翠緑の髪はオレの視線を奪ってしまう」
いままで聞いたことのないような、甘い言葉を吐かれるようになった。
幼いころの、「かわいい」という言葉とはぜんぜん違っていて、頬が熱くなって、私はどうしたらいいのかわからなくなる。
それから出かける時や、討伐に向かう時は必ず、口づけをしてくれるようになった。
どうやらあの時――今際の際だと思って口にした言葉を、オーギュストはしっかりと憶えていたのだ。
「あの日、君が言ってくれたからな。オレのことを愛していると。それまでオレみたいな情けない奴は、嫌われて当然だと思っていたんだ。そもそも王命で結婚したから、ほんとはシルヴィアは嫌がっているんじゃないかと思っていた。だから、ずっと我慢していた」
それは私も同じだ。
オーギュストは私のことを憎んでいると思っていた。彼が憎むは当然のことで、私は彼のそばにいられることが幸せだった。
きっと私も、オーギュストも、あの出来事がなければ一生気づかなかったのかもしれない。
「いままでの分を取り戻すのは不可能だということはわかっている。だけど、それを埋められる以上の愛を、これから君に捧げたい。オレのすべてを持ってしても」
「私も同じ気持ちよ」
これまでのことは変えられない。
だけど、未来はどうなるかわからない。
すれ違っていた想いだけれど、これからお互いに歩み寄って行ければいい。
「君を愛している、シルヴィア」
「私も愛しているわ、オーギュスト」
お互いの気持ちを確かめ合うように、私たちは幼い頃のようにただ笑い合った。
最後までお読みいただきありがとうございます。
すこしでも、なにか心に残るものがありましたら幸いです。