水死体と人魚
水が好きな少年がいた。
普通の水道水だとか、ぬるい飲料水だとかじゃない。海の水が好きだった。
あのしょっぱくて重たい水。海というものに、どううにもこうにも抗えなかった。
潜って、息が苦しくなって、眠くなった。
でも、少年は海に潜り続けた。意味もなく、ただただ。
気づくと少年はいつの間にか青年になっていた。
いや、正確には「青年」になったつもりでいるだけかもしれない。
彼にはその理由がわからない。ただ、それが彼にとって「自然なこと」だった。
少年——いや、青年——は海に潜ったまま何時間、もしくは何日間経った。
時間というものを完全に忘れていた。というより、最初から時間に興味がなかった。
海の中で目を閉じると、自分が自由な気がした。
苦しさも何もない。ただ心地が良く、ずっとここにいたいと思った。
ゆっくりと目を開けた。
少年の目の前には人魚がいた。
耳に残る妙な響きで何かを話している。
「目が覚めたのね」
静かに囁く彼女の姿は童話に出てくるような美しい人魚とはかけ離れていた。
長い黒髪が水の中で絡まり、目は不自然に大きく、その目で少年をぎょろっと見つめていた。
青白い肌は透けるほど薄く、尾びれには無数の小さな傷跡が刻まれていた。
だが、何より印象的なのは彼女の笑顔だった。
笑っているのに目の奥は霞んでいた。
「僕は死んだの?」
少年はそう尋ねたが、少年の口は開かなかった。
彼女は一瞬だけ目を細めた。
「そう思うなら、きっとそうよ」
彼女の尾びれがゆっくりと動いた。その動きはあまりにも静かで、まるで彼女が水を支配しているようだった。
「ここはどこ?」
少年が問うと、彼女は青白い指で少年の胸元を指した。
「ここは、あなた自身よ。あなたが望む限り存在する…あなたの一部よ」
彼女の言葉は理解しがたい。言葉を理解しようとすればするほど、その意味が遠のいていく。
「君は何者?」
彼女はにっこりと笑った。だが、その笑顔はぎこちなく、何かを隠しているように見えた。
「私はあなたがそう思うものよ」
彼女の尾びれが再び動く。
そのたびに少年の体の体の奥深くで奇妙な音が鳴る。まるで骨のきしむような嫌な音だった。
少年はそれを自分の心臓が軋んでいる音だと思った。
少年は気づく。
海には何もない。魚も気泡も何もない。ただ、静寂だけが広がっている。それなのにその静けさの中に潜む不気味な感覚が気持ち悪かった。
目の前に見えるものすべてが海の一部でありながら、何か得体のしれないものが自分を見ている。
「ずっとここにいてもいいかな」
少年が呟くと、彼女は微笑んだ。
「あなたがそう願うなら、いいと思うわ」
彼女の指先が少年の腕に触れる。その冷たさは骨まで染み込むようで、少年は一瞬息を呑んだ。
だが、その冷たさは次第に心地よくなっていく。そして少年は思う。ここにいたい、と。
その瞬間、海の中で何かが歪む音がした。それが何なのかを確認する間もなく、少年は深い眠りに落ちていく。
少年は次第に全てがどうでもよくなる。
海の静けさの中で、少年の体は沈んでいく。
少年の意識はまだそこにある。だが、それがいつまで続くかわからない。
少年は「ここ」にいるが、それが自分なのか見失っていた。
ただ、海の静けさと冷たさだけが、彼を優しく包いた。