81.力無き者の痛みと、
ベレスフォルドの騎士達によって、不死スライムの粘液の中から助け出されたマーカスやリチャードら上級騎士は、一か所に集められて治療を受けていた。
集団の中に元騎士団長ライオネルの姿を見て、不覚にも泣き出しそうな程に顔を歪めて放心する者さえ居る。アグレアスは既に捕らえられていると聞けば、安堵と共に悔しさと怒りが込み上げて来る。
そこへ、思い詰めた表情のエリオットがロイドと下級騎士を伴ってやって来た。
唐突に、誤解を解きたいと言われて初めこそ困惑したが、話を聞くうちに誰もが俯き、黙り込んでしまった。その重い沈黙は、彼ら一人一人の、自身に対する失望が生んでいる。
「……俺達は、自分達の勝手な思い込みで、一人の女性の尊厳を、傷つけていたんですね」
虚ろな目で、己を責めるようにマーカスが呟いて、上級騎士達も頷き、唇を噛む。
「一番の原因は……望外の力に溺れて、狂っていたのは、俺自身だ。……全てを自分の不貞の言い訳に、利用していた。アグレアスの謀略など言い訳には出来ない。はじめに、過ちを犯したのは俺なんだ」
エリオットが後悔を噛み締めるように言葉を紡ぐ。自らの声でそれを形にする事が、一番始めに受けるべき罰なのだと、言外でそう語っているように聞こえる。
マーカスは自分も同罪だと思った。エリオットが陥っていた欺瞞をそうとは捉えずに、余計に焚き付けてしまったのは、他でもない自分達なのだと今ならわかる。
同時に、仲間の不貞を諫める発想にさえ至らなかった、改めて思い返せば恥と思うような自らの愚かさをも知る。
エリオットに付き添っていた下級騎士から、既に前を向いている彼女をこれ以上傷つけるなと頼まれて、謝罪すら叶わず、誰もが自らを責めながら黙していた。
現状ではこうして自省しているだけの重荷である事が居た堪れなくて、何か出来る事をと思うが、武器も防具も鉄食いに溶かされてしまって、何も無い。
せめて敵が魔獣の姿をしているならば、武器など無くとも囮や盾役にでもなれただろうが、不死スライムが相手では何の役にも立てないどころか、足手纏いでしかない。
破落戸のような風体の傭兵や、ベレスフォルドの騎士達が、光を纏う武器を手にしているのを見て、胸の奥にひりつくような痛みがある。この期に及んで彼らに嫉妬している自身に気付いて、余計に落胆する。
「……戦う力を持たないというのは、苦しいものだな」
ぼそりと呟いたのは、ロイドだ。エリオットが同意するように小さく頷いて項垂れる。
騎士として生きて来たその場の誰もが初めて知る、脅威を前にして無力である事の痛みを、噛み締めていた。
やがて鍋を抱えた奇妙な老婆がやって来た。
「ほら、あんた達も、不死スライムが身体の中に入っちまってるんだろう? 特製スープ、自分で飲むか、漏斗で飲まされるか、どっちがいい?」
「じ、自分で、飲みます!」
マーカスが焦って答えれば老婆は笑う。
「なんだい、随分と空気が重苦しいね。懺悔するなら、祈ればいいさ」
それこそが力無き者に最後に残される寄る辺である事を、上級騎士達は思い知った。
◆◆◆
武器も無く戦う事の出来ないエリオット達に与えられた役割は、捕らえたアグレアスとジエメルドの騎士達の、監視役くらいのものだった。
それでも、騎士達がアグレアスの詭弁に再び感化される事の警戒も兼ねてだろう、ライオネルが傍に立つ。
「お前達の顛末の責任は俺にもある。自分を責めすぎて動けなくなるな」
ライオネルもまた、後悔を滲ませた顔をしていた。
その場の上級騎士達は、ライオネルが名誉も職もすべて捨てて民の為に行動した事を、今では理解している。その立場に縋って、己の罪を軽くしたい等と思えるはずもなかった。
「はは……。貴方は、相変わらず甘いですね」
酷く耳障りな声が聞こえて、全員が一斉に振り返った。一瞬で空気が怒りを孕む。その先で意識を取り戻したアグレアスが、嘲るように笑っている。
「とはいえまさか、不死化が不可逆ではないのだとは思いませんでした。……私も、甘いですね」
アグレアスはそのまま拘束された自身の姿を一瞥して、今度は力無く笑う。それから再びライオネルを真っ直ぐに見た。
「ライオネル、貴方はあの時、私を殺しておくべきでした。背後から首を落とせたでしょう? 人として裁くなどと綺麗事に囚われて、私に時間を与えてしまったのは、実に愚かな判断ですよ」
アグレアスの覚醒に気付いて傍に来た司祭シドニーが、腕を組み顔を苦渋に歪めた。続いて様子を見に来た傭兵の男も、表情を険しくする。
「こいつは、例の不死スライムを操っているようだったしな。あの時、妙に大人しくなったのは、何か仕込んでた可能性があるかもな……」
傭兵の言葉に、アグレアスは無言で微笑む。
ライオネルは闘技場の中央を振り返り、そびえ立つ赤黒い不死スライムが成す巨大な柱を睨むように見上げた。
「あれの全貌がわからないからな。一旦態勢を整える為に退くべきか」
そこまで口にした時に、まるで見計らったように大きな揺れが起こる。これまでの揺れとは異なる床下から何かが叩いているような振動だった。
「大した事はしていませんよ。貴方がたを、ここから逃がさぬように命じただけ。それで充分ですので」
アグレアスは穏やかに笑んでいる。
「まずいな、ここも足場が崩れる。結界を……!」
司祭シドニーが険しい表情で全方位に球状に広域結界を展開した。アリーナの壁際に残っていた足場が、下から次々と破壊されていく。分厚い木板が音を立てて砕けて、大きく空いた穴から覗く床下には、まるで血の海のように赤黒い不死スライムが大量に堆積しているのが見えた。
馬車や人員の全てが、球状の広域結界に包まれたまま落下していく。
どぶりと音を立てるが、粘性のある液体の上とあって辛うじて浮いてはいた。だが、どこもかしこも粘液が深く堆積していて退路は無い。
「結界はどの程度もつ?」
「すまんが、聖職者達に補助を頼んでも、今の儂では半日がやっとだろう……」
「厳しいな……。結界が破れて、全員この量の不死スライムに飲まれれば、完全に動きを封じられてしまう。仮令女神の加護があっても……」
足場も碌に無い場所で、甚大な量の不死スライムの中に捕らえられてしまえば、戦うどころか、身動きが取れないまま時間ばかり浪費させられるのは目に見えている。そうなればもはや、この状況に抗う術も無くなってしまう。
「全く時間が無いわけじゃなかろう。手はあるさ」
どこか呑気にそう声を掛けたのはドルフだ。それでもドルフの後ろでは、ギルバートとフローラが心配そうな顔をしていた。
「悠長ですね。この状況でまだそんな事が言えるとは」
拘束されたまま、余裕の表情で居たアグレアスが呆れたように言えば、ドルフも負けない程に余裕の表情を浮かべた。
「そりゃあ、お前さん。アグレアス伯爵と言ったか? あんたが全て滅ぼすつもりなら、儂らとて呑気な事は言えんさ。だけどあんた、儂らも民も、全員殺す気も無ければ、この国を滅ぼすつもりでも無いだろう。あんたがやろうとしてるのは、皆を不死化して世界を作り変える事だ。それなら充分、儂らにも勝機はあるじゃねぇか」
そう言ってドルフは豪快に笑う。
「はは、虚勢を張るのがお上手だ。生きたまま捕らえられて、そこで動けずに終わるだけでしょう。まぁ、私も甘いのは認めましょう。……それでも抑えるべき要が何であるのかは、予想出来ておりましたので。先ほど観察して、全て計算済みですよ」
だが、そこで急に場違いな、けたけたと陽気な笑い声が響いた。アグレアスは冷めたような眼差しをそちらに向けた。視線の先には、バーバラが立っている。
「古き標の魔法使い。何がそれほど可笑しいのか、お尋ねしても?」
バーバラは悪戯を思いついたみたいな顔をしている。
「ああ、笑ってしまってごめんよ。さっき馬車が襲われた時にも、そんな気がしてたんだけど、これで確信できたもんでねぇ。ヒッヒッヒ……」
すこぶる上機嫌で、バーバラはわざとらしい笑い声を上げた。
「だってねぇ、あんた、魔法使いはあたしとフローラちゃんだけだと、そう思っているだろう?」