80.知ろうとしなかったこと
断続的に揺れが続く中で、エミリーは焦っていた。半身が瓦礫の下敷きになっているマリアンヌは、真っ白な顔をしていて、呼吸も弱い。持ち上げられる瓦礫をいくら退かしても状況は好転しない。
助けを求めようと何度も辺りを見渡すが、動ける者はとっくに逃げてしまったのだろう、周囲に人影は無かった。それから、貴賓席からそれほど距離は離れてはいないはずだと思い出す。
声を上げるのは一瞬の躊躇いがあった。ついさっき国王や貴族が大勢居る中で醜態を晒し、偽りが露呈してしまったエミリーを、彼らは相手にするだろうか、そんな疑問と恐れが過ぎるからだ。
「あの……、誰か! 誰か来てください! マリアンヌ様が、怪我をしてるんです!」
それでも勇気を振り絞って助けを呼んでみたが、応える者は無かった。声が届いていないのか、それとも似たような状況で動けないのか、わからない。誰の助けも期待出来ない状況は、恐怖心を余計に煽る。
震える手で再び瓦礫に手を伸ばした。
「……もう、逃げなさい……」
エミリーの声に僅かに意識が戻ったマリアンヌは、掠れる声で同じ言葉を繰り返す。それには答えずに、重くてびくともしない岩の塊を睨み付けて、涙が滲むのを堪える。動かせないのならばと、今度は瓦礫の下にあるマリアンヌの身体に向けて手を翳してみる。
もう、治癒魔法が使えない事などわかっていた。だけど何もせずにはいられなかった。やはり何も起こらない絶望に、耐え切れずにぼろりと涙が零れる。それでもこの場を離れられなかった。
──……お願いします、女神様。この人だけでいいから、今だけでいいから。どうか……。
そんな言葉が頭の中をぐるぐると回り、視界は涙でぐしゃぐしゃに歪む。
「……どうして、無駄な事を。そんな事より、はやく……」
「煩い! 黙っててよ!!」
思わず声を張り上げて、それから涙もそのまま顔を上げて、マリアンヌを見た。
「あたしは! 知ってる人が死んじゃうのを、放っておいて逃げられるほど、強くないの!」
目の前で人の命が終わる事にも、それを置き去りする事にも、耐えられはしない。エミリーのなけなしの良心であり、同時に、言い訳みたいな弱さもそこにはある。
「あんたが、あたしを利用したって、悪かったって、思うなら、生きて、あたしと一緒に居てよ! あたしは、一人じゃ何にも出来ないって、知ってるでしょ!?」
自分が随分とめちゃくちゃな事を言っている自覚はある。でもそれが弱く惨めな今の自分の本心で、それを曝け出しても、マリアンヌなら聞いてくれる気がした。
叫んだ後で再び手を翳す。どうやって治癒魔法を使っていたのかまるで思い出せない。けれども、前は弱くても使えていたのだ。心の中で女神に謝罪を連ねて、マリアンヌの命がここで消えない事を、必死に祈った。
やがてほんの僅かに、手の平の先に淡い光が灯る。
「……困った子ね。それでも、見習いでも、僧侶の素質はあったのですものね」
発動出来た治癒魔法は弱弱しくて、本当に命を繋ぎとめているのか、わからない。それでもマリアンヌの声はさっきよりはっきりしている。
だけど今、自分に出来る事があまりに小さくて、安堵よりも焦りが募る。エミリーは鼻を啜りながら、もう一度、助けを呼べないかと人影を探して周囲を見渡した。
観客席の後方をぐるりと囲む回廊は、大きく窓が開いていて、その先にアリーナが見える。
アリーナは赤黒い粘液が広がって不気味な湖のようだ。その端の、まだ床板が見えるところを、奇妙な幌馬車のようなものが走っていくのが見えた。
幌馬車は途中で横転して、天窓から人が投げ出される。立ち上がった男女のうち、女性の顔に見覚えがあるような気がした。
──あのひとを、あたしはどこかで……。
記憶はそれほど鮮明ではない。話をしたわけでも無い相手だろう。だけど顔を覚えているのは、物覚えの悪い自分でさえ記憶するような何かがあったからだ、そう思う。
やがて見た事の無い騎士と彼らは戦い始め、よくわからないうちに、急に彼らを護るように蔦が生い茂るのが見えた。
淡い光と共に現れた蔦は、どこか神聖な光景にも思えた。その蔦の中心に先ほどの女性が立っている。
マリアンヌに言われた、『本物を陥れた』という言葉が頭を過ぎる。
その言葉と、たった今見た光景と、どこかで見覚えのある女性の顔が、頭の中で繋がって行く。
エミリーは振り返って、マリアンヌの傍にもう一度座り込んで、縋るようにその手を掴んだ。
「……マリアンヌ様、教えてください。あたしが、陥れたって、本物って。それって、もしかしてあの人は」
マリアンヌの瞼がゆるりと持ち上がる。汗の浮いた青白い顔で、薄く笑った。
「フローラ・カディラが、来たの……?」
弱弱しい声でマリアンヌはそれだけ告げた。それが全ての答えで、想像していたものと同じで、そうしてマリアンヌが言っていた『もう一つの罪』という言葉を理解した。
涙でぐしゃぐしゃのまま、座り込んだまま、全身から力が抜ける。絶望が床から這い上ってくるように思えた。
──何も出来ないって、馬鹿にして……。
過去に彼女を、見下していた。自分よりも遥かに価値の無い女だと、そう思っていた。だから平然と、その夫であったエリオットを奪う事に、何の疑問も持たなかった。
──あのひとが、聖剣を? あのひとが、エリオットを、護ってたの……?
戦場で恋をした、栄光の中にあった。自分が心惹かれたものが、誰の祈りに支えられていたのか気付きもせずに、それを蹴落としてしまった。
──エリオットの聖剣が、消えちゃったのは。
自分のせいだ。自覚して、がたがたと全身を震えが襲う。
「…………ごめ、ん、なさい……」
虚ろに口から出た言葉に、けれども何時だったか、下級騎士に言われた言葉が頭を過ぎった。
『許されたいだけの謝罪なんて迷惑なだけだ』
耳の奥で声がする。赦しを請う言葉さえ失くして、上手く呼吸が出来ない。真っ暗な闇の中に落ちてしまったみたいで、縋るようにマリアンヌの手を掴んだ。
ついさっき必死になって祈り、ほんの僅かに出来た治癒魔法が、翻ってエミリーに現実を見せる。
──あのひとは、エリオットの為に……。
どれほどの時間、どれだけ祈ったのだろう。それは今のエミリーには想像もつかない、途方も無く大きな事に思えた。それを愚かな行いで、台無しにしてしまった。
叫んで逃げ出してしまいたい自分が居る。だけど、動く事は出来ない。逃げてはいけないと思う自分も居る。
──ごめんなさい、ごめんなさい。ごめんなさい。
声に出来ない言葉が、自分の中で延々とこだまする。償わなければならないのだと、そう思う。けれども償う方法もわからずに、逃げない事だけが辛うじて今出来る事で。
握っていたマリアンヌの手が握り返してくれて、それが今唯一、自分を繋ぎとめている。
やがて足音が聞こえて、黒い盾を持った騎士と聖職者がやって来た。
彼らはマリアンヌを助け出してくれて、一方で、誰も一言もエミリーを責めない。それが却って辛かった。