75.交錯するもの①
まるで護るように現れたアイビーの茂みは、少し経つと空気に溶けるように消えていった。ジエメルドの不死化した騎士を拘束しているものと、フローラの胸元と髪を飾るように伸びているものだけが残る。
すぐ傍に居た司祭シドニーが、対不死スライム用に広域結界を再度展開して束の間の安全を確保した。
「ギルバート、フローラちゃん、怪我は無いか!?」
ドルフの声がして顔を上げれば、馬車に襲い掛かっていた敵騎士も皆、アイビーの蔦に拘束されていた。植物の蔦にしか見えないそれは、どうやら彼らの力を以てしても引き千切る事が出来ないようだ。
「ああ。そっちは?」
横転した馬車の荷台の窓から、バーバラとチェルシーが顔を出している。チェルシーは怯えた表情をしているが無傷のようだ。バーバラは腕に魔法の鍋まで抱えている。
「あたしらも、お鍋の中身も無事だよ!」
気が抜けるくらいの満面の笑みで応えるバーバラに、ギルバートは苦笑いした。
「しかし驚いたな。ギルバート、やるじゃねぇか」
傭兵が何故か揶揄うように声を上げる。怪我人が居ない様子を確認して、安堵の息を吐いた。
「いや、俺は何もしてないんだが……」
「何言ってんだい。フローラちゃんのそれはあんたの手作りの贈り物だろ? ギルバートの全身全霊の祝福がてんこ盛りだ。フローラちゃんも毎日身に着けてたしね。それ見る度に、幸福を祈ってた者がどれだけいると思う?」
バーバラは悪戯が成功したみたいに上機嫌で笑った。傭兵達まで笑顔で頷いている。
「……それも、祝福なのか……?」
「そりゃそうだろう。『お幸せに』なんて一番よく耳にする祝福じゃないかい」
なんだか急に猛烈に気恥ずかしくなって、ギルバートは視線を彷徨わせた。顔が酷く熱い。隣でフローラも頬を赤く染めて、だけど嬉しそうに、大事そうに、ブローチを握り締めている。
アイビーの蔦の葉と花を纏うフローラの姿は、どこか幻想的で見惚れるほどに綺麗だった。
──護れて良かった……。
フローラも、皆も、誰もが無事である事を噛み締めて深呼吸すると、体勢の立て直しにかかる。肝心の不死スライムは司祭シドニーが展開してくれた広域結界で阻まれて、幸いまだこちらまで距離がある。
横転した馬車を起こして、蔦に捉えられた不死騎士達は、馬車の荷台に回収してバーバラ達が例のスープを飲ませている。漏斗を口に突っ込んで無理やり流し込む光景は相変わらずで、場違いなほどに滑稽だ。
馬車が動ける事を確認しているうちに、複数の足音がして振り返れば、ベレスフォルド侯爵家の騎士達がこちらに向かっていた。
「そちらは無事か? どうも様子がおかしいので、合流を優先した」
「ああ、何とか無事だ。そっちも何かあったのか?」
「それが、応戦していた不死スライムが突然、波が引くように消えてしまった。そのお陰で、こちら側に居た民衆や新兵達の保護は終えられたが……」
ベレスフォルドの騎士と話すうちに、再び床が揺れ始める。
「まずいな、一旦壁際に退こう。この辺はもう足場の床がもたない」
壁際には例の聖騎士と王国騎士団の騎士達も居るはずだ。退避も兼ねて最初の目的が果たせる。
全員が頷いてその場から走り出した直後に、予想通り床が崩れ始めた。
ギルバートは馬車を引く傭兵達と並走していた。
しかし、急に突き刺すような殺気を感じて、後ろを振り返る。
──なんだ……? どこからだ……?
走りながら周囲を見渡すが、視界にあるのは崩れたアリーナの床と、結界に阻まれた不死スライムが作る赤黒い壁ばかり。
ふいに、風を切り裂くような音がする。
「な……っ!? ぐ、ぅ……」
「シドニー……!? 大変じゃ、矢を射られた!!」
司祭シドニーが呻く声とドルフの叫ぶ声は同時だった。御者台を振り返れば、シドニーの肩口を貫通するように矢が突き刺さっている。
「どこからだ!?」
周囲を見渡すが、それらしき人影は見当たらない。
「く、いかん……、結界が……消える……」
痛みを堪えるように眉間に皺を寄せ、シドニーが絞り出すように声を上げた。その直後に、硝子が割れるような音が響く。広域結界が崩れ去り、見上げるほどの赤黒いどろりとした波がこちらに押し寄せてくるのが見えた。粘性があるせいでその進行速度は遅いが、捕まれば一切の身動きが取れなくなる。
「まずい、走れ!!」
全員ががむしゃらに走る速度を上げる。ベレスフォルドの騎士と同行していた聖職者が、咄嗟に後方に結界を展開しなおすが、不死スライムの量が尋常ではない。多少時間は稼げても長くはもたないだろう。
「ギルバートさん……! 斧を!」
フローラの声に振り向きざま、馬車の天窓から戦斧を受け取る。ギルバートは走りながら、戦斧の斧頭に巻いていた鞣し革を引き剥がした。
アリーナの壁際を起点に聖職者が再び結界を張り、全員そこに飛び込むように駆けて行く。その先には例の王国騎士団の者達も居るはずだ。
ギルバートは床に滑りこみながら、地に着いた片手を軸に姿勢を反転させると、結界の手前で戦斧を構えた。
「ギルバート、無茶はするなよ!」
ドルフの声に頷きながら、ギルバートは前方を睨む。傭兵やベレスフォルドの騎士達も武器を構えている。
──どこかに、シドニーさんを狙った奴がいるはずだ……。
広域結界を突き抜けて矢が飛んで来たのなら、相手はまたジエメルドの不死化した騎士である可能性が高い。それを相手どるなら、不死スライムはいくらか減らさねばならない。
流石に再びフローラを危険な目に遭わせるわけにはいかない。ならば例の蔦を頼りにするのは無しだ。
向かって来る粘液の波に戦斧の斬撃を叩きつければ、赤黒い泥のようなその表面を小さな雷が走り抜けて、ごっそりと塵になった。
全体像が見えない相手に対して、それは焼け石に水かもしれない。それでも、手ごたえはある。
後ろでベレスフォルドの騎士達が息を飲む音がする。
「……なんだ、あの武器……?」
「ああ、えっとな、あれだ、俺達の秘密兵器ギルバートだな」
傭兵の男が、困ったような声音で、しかしどこか誇らしげに妙な回答をしていた。