70.狂乱の中で③
周囲のあちらこちらから恐れ戦くような悲鳴が上がって、エミリーは床に這いつくばっていた身体を起こすと、魂が抜けてしまったようにぼんやりと、目の前で起きている状況を眺めた。
斬られたディラン・アグレアス・ジエメルドの腕が、ねばねばと不気味に糸を引いて元に戻って行く。気味の悪いその光景に誰もが釘付けで、今やエミリーを見ている者は居ない。
注目されて称賛を受ける事を望み、エミリーすら無自覚でいた化けの皮が剥がされて、困惑と共に失望と侮蔑の混ざる視線に晒されて。その僅か後にはもう、民衆の視線はアグレアスに向いていて、今は誰もエミリーを見向きもしない。
その事に安堵すらしている自分に気が付いて、エミリーは身震いした。
──こんな、あたしが、女神様に特別扱いされるわけ……最初から無かったんだ……。
自分は何か特別な存在なのだと、理由も無く信じていた。浮かれて、舞い上がって、夢中になって。そして暴かれた愚かさは、自覚すればするほどに心を苛んだ。
「……不老不死、良いではないか」
誰かがぼそりと呟いた声が聞こえた。どこか脂ぎったその声は高位貴族か、富裕層の誰かだろう。畏れる人々の中で、幾人かは狼狽えながらもそれに惹かれている様子だ。
ぞわりと全身の毛が逆立った気がした。少し前の自分なら、ずっと若く美しいままで永遠に生きられると聞いたらはしゃいだかもしれない。だけど今は、違う。
──永遠に? 永遠に、あたしは、愚かな事をした、偽物って見られ続けるの……?
絶望が、却ってエミリーの思考を鮮明にしていた。自分を盲信して舞い上がっていた頃に比べたら、冷静に考える事が出来た。何せこの先にあるのは、誤魔化しようの無い何もかも失った、否、何も持っていない自分なのだ。
もしも不死の世界が訪れて、全てが永遠に続くとしたら。その場で、偽りが暴かれた自分の扱いはどうなるだろう。それを想像したら恐ろしくて堪らない。
穏やかな笑みを浮かべるディラン・アグレアス・ジエメルドは変わらず美しい姿をしているが、再生していく腕は異形そのもので、言葉に出来ない忌避感が湧く。
とても不老不死というような、都合の良い事だけだとは思えなかった。そう警戒が湧くのは、きっと自分自身が、たった今までアグレアスに利用されていたのだと自覚があるからだろう。
寒気が酷くて、だけどこの場から動く事も出来ない。何をどうすればいいのかもわからない。都合よく助けてくれる人は今はどこにも居ない。エリオットにも騎士達にも、居合わせたところで、これまでと同じ扱いをしてもらえるとも思えない。
そこまで考えて、エリオットが不死スライムに飲まれていった姿を、今さらになって漸く思い出した。
──あたし、本当に……。自分の事しか、考えてないや……。
恋をして、愛していたはずだった。そう思い込んで来た。自分の思考の根底に気付けば気付く程に、深い穴の底に落ちて行くようだった。
驚愕と恐れと、僅かばかりの下卑た期待が渦巻く狂乱の中で、ふいに肩を掴まれた。見上げれば、無表情のマリアンヌが居た。いつもある貼り付けたような穏やかな笑みの無い、凍り付いたような顔をしている。
「……マリアンヌ様? あなたも、あたしを……これ以上、どうするんですか……」
か細く辛うじて出した言葉に、返事は無かった。
◆◆◆
結界を張っていた宮廷魔術師は、貴賓席の光景に狼狽えていた。大規模な観覧討伐ゆえに、聖職者の代わりに駆り出されたと、そう思っていた。だがどう見てもこれは話が違う。
魔術師が張る物理結界は、魔力という稀有な力を根源にする以上、限界がある。
硝子に亀裂が走るような嫌な音がして、前方を確認すれば、アリーナに溢れた不死スライムの塊が結界を叩き割ろうとしている。
「……結界が、もう、もちません!」
魔術師の男が叫べば、アグレアスは振り返ると、満面の笑みを浮かべた。
「構いません。あれこそが新しい世界を創る為のはじまりの海、飲まれても死にはしませんよ。母の胎内に還るようなものです」
そのどこか狂気じみた言葉に背筋が凍える。
バチリと弾けるような音がして、遠くで結界が割れたのが見えた。その場の観客席に居た民衆から悲鳴が上がる。それから次々と結界が割れ始めた。赤黒い不気味な波が広がって行く。その光景は、とても新しい世界などという言葉には程遠い、地獄だ。
「さあ、美しき不死の世界のはじまりですよ!」
腕の再生の終わりかけたアグレアスが、まるで天啓を受けた聖人のように大仰に両腕を大きく広げ、再び笑い声を上げた。
最後の結界が破れ、どろりとした不死スライムの波が貴賓席にも流れ込む。
宰相は狼狽えながらも身を盾に国王を庇ったが、あっという間に半身が粘液の波に囚われ、為す術も無い。傍に居た近衛兵の持つ武器さえ、白く煙を上げて溶けて行く。もはやどうにもならない絶望の中で、それでも周囲を見渡した。
遠く視界の先、貴賓席とは対極にある南側のゲートから、見慣れない集団が姿を現していた。
奇妙な幌馬車と、それから黒く塗られた盾を持つ、馬に騎乗した十数人の騎士達。その後ろにはベレスフォルド侯爵家の盾を持った騎士が続いている。
「あれは……!」
「……まさか、ライオネルか……?」
宰相が見つめる先に気付いて、国王も顔を上げた。黒騎士の先頭に居るのは覚えのある顔だ。もはや縋るような国王のその声は僅かな希望と、深い悔恨に満ちている。
アグレアスもまたそれに気付いて、端正な顔を不快と言わんばかりに歪めた。
「今さら、何をしに来たのか」
吐き出す声は、嘲りに満ちている。
宰相はその声を聞きながら、怒りと己に対する後悔を噛み締めて、それでもこの状況における最後の希望が現れた事に縋るように祈った。
◆◆◆
闘技場の南のゲートを潜り抜けて、馬車の御者台に座るドルフと司祭シドニーは、目の前に広がる光景を確認して揃って真顔で腕を組んだ。
「これは参ったのぅ。回り込んで侵入するはずが、真ん中に出てしまった」
「もうこれは、どこから入っても同じじゃなかろうか。しかし酷い有様だな」
緊迫感に欠けたどこか気の抜けた声で話す老人二人に、馬車の荷台の小屋部分、天窓から顔を出しているギルバートは思わず半笑いしていた。隣で同じく顔を覗かせているフローラは、視界に広がる光景に呆然としている。
「お前達、隠れていなさい。状況を確認するまで、奥の手はとっておかなきゃならん」
「状況も何も、これ全部、例の不死スライムだろ……?」
そんな事を話しているうち、先頭に居たライオネルが馬を引いた。地面に僅かに滲み出ている不死スライムに触れたのだろう。馬の足元から白い煙が出ている。
「まずいな。馬を引け! 鉄食いスライムだな……。馬の蹄鉄が食われてる」
ライオネルの号令と共に馬上の者は皆、馬から降りて、各自の馬を後方に退かせる。
「ふむ、ここに来て厄介なものがお出ましか。さて、どうしたもんかのぅ」
ドルフは髭を撫でながら、目前に広がるアリーナ全体を見回していた。