69.狂乱の中で②
破壊された闘技場のアリーナでは、辛うじて残った足場に追い詰められるようにして身を寄せて、上級騎士達が真っ青な顔で震えていた。たった今、目の前で起きた出来事に言葉が出ない。聖騎士エリオットは、聖剣は、如何なる状況であっても自分たちの勝利を約束してくれる、そんな心の拠り所でもあった。
自分たちの存在が軽んじられているような劣等感が、どこにも無かったとは言えない。それでも、鬱屈した戦況を覆して大きく躍進させてくれた、長引く不死魔獣との戦いを確実に終わらせてくれた。
そんな聖剣を持つ英雄と共にある事は誇りでもあり、精神的な支柱でもあった。
それが目の前で、あまりにもあっさりと砕けたのだ。
そもそも不死化した鉄食いスライムなどという、理解の及ばぬ存在を前にして、剣で戦う騎士は不利だ。ならば仕方なかったのだろうかと思っても、絶望が消えるわけではない。
あまりの出来事に、液状化した不死スライムにエリオットが飲まれてしまうのを、助けにも動けなかった。混乱しながら追い詰められて、逃げ場を失いエリオット同様に飲まれる間際だ。どろりとした粘液に囚われて身に纏った鎧が朽ちて行く。
ふいに、この位置では届かないはずの声が聞こえた。遠く北側の高台に設けられた貴賓席に居る、ディラン・アグレアス・ジエメルドの声だ。まるで不死スライムを介して伝わってくるように、頭の中に直接響く。
そうして聞こえて来た言葉に、内容に、更に絶望は深まった。
「……そんな、俺達は……、エミリー様は、聖女じゃ……」
か細く傍で聞こえるのは、マーカスの呟き声だ。
上級騎士のリチャードは、今になって自分の愚かさを自覚していた。先日の一件から、予感していたせいか、やはり、とすら思えた。
エミリーを聖女のようだと初めに言ったのは、誰だっただろうか。誰が最初であっても責められはしない。その言葉に同意したのは自分達だ。陰鬱で娯楽も乏しく、心を癒すものにも欠けた戦地にあって、健気に駆け回る愛らしい姿を皆好ましく思っていた。
聖女というものが実際に居るのならば、あんな風だろうと、最初はそんな軽口が切っ掛けだった。
それは次第に定着していって、毎日のささやかな楽しみになり、癒しになり、やがて熱を帯びていった。毎日大勢がエミリーを聖女だと口にするようになって、それを真実だと信じ込み、疑わなくなったのは、一体いつからだっただろうか。
「……彼女を、何の根拠もなく、担ぎ上げてしまったのは、我々だ……」
懺悔のようにそう口にしてみるが、それはどこにも届かない。上辺だけしか見ていなかった事に今更気付いたところで、何もかもがもう遅いのだ。
「もしかしたら、聖剣が……消えてしまったのは、俺達のせいかもしれませんね……」
不死スライムにもはや抗う力も無く、飲まれるままにマーカスがそう言った。
「……いつだったか、アグレアス閣下に、聖騎士と聖女は守らなければならないと、そう言われて……、僕は、それを、閣下も聖女の存在を認めているのだと、確証を得られたのだと、思い込んでしまいました」
リチャードは、記憶の片隅にあった、そんな事を口にした。それを理由にアグレアスに責任転嫁して罪が軽くなるとは思っていない。ただ、己の愚かさを利用されて扇動されてしまったのだと、それをマーカスや他の騎士に伝えたかった。
アグレアスの存在とて同じだ。ほんの少し前まで彼は、尊敬する人物だった。
名門の貴族家の出であれ、嫡子でない立場の者が殆どで、中には下位貴族出身や平民出も居る。そんなともすれば日の当たらなくなる騎士達の活躍を評価し、率先して後ろ盾となってくれる、誇り高きジエメルド公爵家。そこにあった信頼と敬意は、たった今、打ち砕かれた。
「はは……、平等? 奇跡の力? 化け物になって、その先で、一体何を護るんだ……」
なけなしの騎士となった矜持が、アグレアスの言葉を否定する。それすらも、絶望の淵で誰の耳にも届く事無く消えていく。
粘液の波に飲まれ鎧が溶けだす中を、ロイドは無理やり身体を動かして、不死スライムの中に沈んで行くエリオットの肩を掴んだ。引き摺りあげて、足場を探す。
「エリオット……!! しっかりしろ……!!」
エリオットは茫然自失状態で、意識はあるようだが反応が殆ど無かった。
「エリオット……、なぁ、聞いてくれ。俺は、お前に謝らなければならない。俺も利用されていたうちの一人だ。何も考えずに閣下に従って、結果、お前をここまで追い詰めた」
絞り出すような声は、果たしてエリオットの耳に届いているのか、わからない。
「俺は、お前が羨ましかった。何故、聖剣を授かったのが、俺でなくお前なのかと、ずっと葛藤があった。同じ準男爵家で、鍛錬を積む日々を送ってきた。お前と俺の違いは、一体何なのかと。嫉妬が、判断を狂わせた」
叫ぶように言葉を紡ぎながら、壁際に辛うじて残っていた足場にエリオットを引き摺りあげる。エリオットの右手には、柄だけがまだ辛うじて残っていた。それが元から聖剣で無かった事など、ロイドとてわかっている。だがその無残な姿に、吐き気にも似た自己嫌悪が襲い来る。
アグレアスが何を目論んでいたのかを知った今、ロイドは取り返しのつかない状況に、それでも足掻いていた。踊らされていた自分への嫌悪感は消える事は無いだろう。今さら贖罪など価値は無いだろう。
けれどもこのまま、アグレアスの意のままにされるのだけは、耐えられなかった。
しかし迫りくる不死スライムをどうにかする手段は何も思い浮かばない。気付けば再び腰辺りまで粘液の波が覆っていた。焦りの中で周囲を見渡す。
貴賓席とは真逆の、南側には、観覧討伐の為に不死魔獣を通したゲートがあった。黒く口を開けたその門の奥から、この場には似つかわしくない幌馬車が走って来るのが見えた。
※「エコーチェンバー現象」という言葉が最近では有名ですが
「反復バイアス」や「真実性の錯覚」などとも呼ばれ
閉じた集団において
「同じ言葉を繰り返し聞くうちに、明らかな嘘や根拠が無い情報も真実と思い込む」という、
実際に洗脳手段としても用いられる心理作用であり、
誰の身にも起こる可能性がある心理傾向です。
(冷静な第三者視点でお読みになる読者さまにこの前提情報が無いと誤解される可能性を考慮し、注釈を入れさせていただきました)