59.王都の落日①
王都の北側には、古い闘技場があった。随分と昔に建てられたものだが、北東にはウレリ川に向かって湿地帯が広がり、元々地盤が緩いのもあって使われなくなって久しい。
近々その闘技場を何かに再利用するのだと、土木工事の為に人夫が集められて修繕作業をしていた。
作業員の多くは王都の貧民街に暮らす者達で、水はけの悪い土の上に急造の石畳を並べている。闘技場の近くには王都から続く水路もあり、雨季で匂いが酷いので水路の上を木板で覆う作業も進められていた。
「こんな古い闘技場、何に使うんだろうね」
「観覧席の方は、王様が来る予定っていうじゃないか。随分と手を入れてるけども。なんかの儀式か?」
男達は作業に従事しながら雑談を交わす。仕事があるのはありがたい事だが、指示された仕事をこなすばかりで、わからない事も多い。
「なぁ、また一人居なくなったって話聞いたか……?」
「なんだよ、またか? 払いは悪くない仕事なのに逃げる理由がわかんねぇなぁ」
作業していた男は眉を顰めた。このところ、ぽつりぽつりと知らぬうちに作業員が姿を消すのだ。決して楽な仕事ではないが、その分賃金は良い仕事だ。貧しい暮らしをする者にとってはまたとない稼ぎ時で、逃げ出すような仕事には思えなかった。
「最近やけに不死魔獣の話も聞くからなぁ……。川に近付きたくないって気持ちはわからんでもない……」
加工した石を運んでいた男が、不安げにウレリ川の方に目をやる。
◆◆◆
王太子アレクシスとその婚約者アマンダは、護衛の近衛兵を連れて王都の下町を視察に訪れていた。平民であるケビンとチェルシーに面会する為の口実でもあった。
目立たぬようになるべく質素な恰好をしても、護衛は欠かせない立場故に目立ちはする。それでも以前から度々こうして王都の平民街を訪問していた事もあって、大きく騒ぎになる事も無い。
そんなアレクシス達の馬車の元に、駆け寄った子供が居た。護衛がすぐさま少年を抱き留めるような恰好で進行を遮るが、護衛の肩越しに、少年は泣きそうな顔をしてアレクシスに向かって叫んでいた。
「王子さま、おねがいします、助けてください! 父ちゃんがいなくなったんです!」
アレクシスとアマンダは神妙な面持ちで顔を見合わせた。視察の名目で街に降りる際に、平民から時折こうして直談判のような声が届く事は稀にある。しかしそれにしても、いつもより街の様子がおかしいように感じられた。
少年の必死な様子もそうだが、遠巻きにしている住民達も何か言いたげな不安な表情を見せている。
彼の母親であろう中年の女が青い顔をして護衛のところに進み出て、少年を受け取り抱きしめるが、その目は縋るように王太子アレクシスに向けられていた。
「……このところ、何人か急に居なくなっているんです。うちの人も、他の人も、何も言わないで消えちまって……思い当たる理由が無くって……」
それだけ口にすると、少年を腕に抱えたまま、地に頭を付けるように女はその場に屈みこんだ。平時であれば、こうして近寄って来る平民にはすぐに距離を取らせている護衛達も、必死の様相を見て困惑した表情を浮かべていた。
遠巻きに集まって来た住民達の中にも、何人もその場に座り込んで同じようにアレクシスに向けて、地に頭を付けている者が居た。
「念のためだ、調べさせよう」
アレクシスがそう発すれば、アマンダも同意するように頷いた。
◆◆◆
王城の一室では、エリオットがエミリーと共に、アグレアス伯爵夫妻の立ち合いの元で仮縫いの終わった衣装の合わせをしていた。
その場に居合わせた王城の使用人達は、顔には出さないが不可思議な感想を抱いていた。
淡いレースを重ねた美しいドレスに身を包むエミリーは、一見楽しそうにも見えるが、エリオットとの会話はどこかぎこちない。
以前は王城に似つかわしくないほどに、場も礼節も弁えずにべたべたと寄り添っていた二人の変化。目を合わせる事も少なく、交わす言葉もどこか硬い。互いに何かを言いあぐねているような、そんな空気があった。
ある者は、マリアンヌの淑女教育が進み、エミリーに礼節が身に付いたからこそのぎこちなさだろうと解釈した。またある者は、結婚を間近に控えた者が時折陥る情緒不安定な時期なのだろう、とも解釈した。
それで納得しようとしても、どこか暗い影を感じて、使用人達の胸中には言葉にし難い靄のようなものが広がる。
当の本人達は、言われるがままに衣装に袖を通し、説明を受けているだけだが、栄えある聖騎士の晴れの舞台に似つかわしく無い陰りが滲んでいるのだ。
アグレアス伯爵夫妻だけが、穏やかな、しかし感情の読めない笑みを浮かべ見守っていた。