47.不死の泥
相変わらず降りしきる雨の中を、森の中にある赤黒い山のようなものに向かって、一行は速度を落としながらも慎重に進んで行く。
「動いている様子は、今のところ無いか……」
遠目からはそれが何であるのかはわからない。ギルバート達は以前集落で見た、蛙のような姿の小型不死魔獣の集団を思い出していたが、遠目からは微動だにしていない様子に違和感も覚えていた。それが翻って不気味に映る。
周囲を警戒し進みながら、時折、聖職者の索敵に掛かった不死魔獣を撃破するが、想定していたよりも中型は随分と数が少なかった。
やがて視界が開けると、赤黒い山の少し手前に、聖職者の結界が張られた小さな邸が見えた。
「誰か居るようだな」
「あの邸の位置はちょうど、例の結界の、内側だったところです……」
複数の馬車と馬の蹄の音に気付いたのか、中から人が出て来た。年老いたジエメルドの騎士と五名ほどの僧侶だ。酷くやつれているようにも見えた。こちらを見て、驚いたような顔をして、しかし言葉が出ないように立ち尽くしている。
「クラーク様……! ご無事でしたか……!」
若いジエメルドの騎士にクラークと呼ばれたのが、そのうちの一人の老騎士のようだった。
「お前達……、それに、貴方がたは……!」
老騎士クラークは、距離を詰める集団の中にライオネルを見つけると、まるで今にも泣き出しそうに顔を歪めた。
「ライオネル卿……」
呟くとその場に膝を突いた。一見すると跪いて敬礼している様子だが、気が抜けて立っていられなくなったようにも見えた。
話を聞こうとした矢先に、遠く赤黒い山がぞわりと微かに動いた気配があり、皆が一斉にそちらを向く。
「なんだ……? いまあの山、少しだけ低くなったよな!?」
「端の方を見ろ、少しずつ……広がってる……?」
それはちょうど、泥水がゆっくりと時間を掛けて、地面を這うように広がるような、そんな光景に似ていた。
「なぁ、もしかしてあれって、池や沼なんかに居る……粘性魔菌じゃねぇか?」
「おいおい、冗談だろう……だとしたらあの色……まさか不死魔獣化した粘性魔菌なのか……!?」
魔獣を熟知している傭兵達がざわめき出す。
粘性魔菌はその名の通りアメーバ状の小さな菌類の塊が魔力を帯びて変性したものだ。生物の分類に入りはしても、無生物的な特性ゆえに、魔獣という言葉からは遠い存在だ。
「不死魔獣化しているのは間違いないですね……瘴気の塊のように見えます……」
聖職者達が険しい表情で答えた。
腐った沼の泥水がそのまま意思を持って塊として這い出て来たような様相には、それが一番納得の行く答えに思えた。ただしその大きさは論外だ。
表面は赤黒く爛れたようで、ところどころ水面を思わせる濁った泥水のような部分もあるが、動く泥と腐肉の塊としか呼べないような有様だ。
「おい! あそこ見てみろ! あれ、鎧じゃないか……?」
一人が指さした方角を見れば、泥の中に騎士の鎧の一部が露出していた。
「……消えた騎士達ってのはまさか、あれに飲まれたのか……?」
ギルバートが呟けば、老騎士クラークが地べたに座り込んだまま、苦しそうな表情で顔を上げた。何事か口にしようとして、しかし言葉が続かない。その反応で肯定されたようなものにも見える。
「もしあれがスライムなら、あの騎士、まだ生きてるかもしれねぇぞ!」
傭兵の男が声を上げた。
「あの状態でか?」
「ああ、スライムは種類が色々居るが、大抵は取り込んだ生き物を仮死状態にしたまま栄養を与えて、時間を掛けて魔力を喰う」
「……仮死状態か。だが飲まれた時点で、窒息死しそうなものだが」
「あの上の方をよく見ろ。泡みてぇなのがぶくぶくと浮いてるだろ? 捕えた生き物を殺さねぇように、中に気泡を作ってんだ」
傭兵の指さした部分には、目を凝らして見れば気味の悪い大きな泡がいくつも並んでいる。まるで呼吸でもするように、膨らんで弾けてを繰り返していた。
「問題は、どうやって助け出すかだな……それに、倒すにしたってデカすぎる……」
「スライムは、普段は沼の底で大人しくしてるからな。大量発生して人が飲まれた事案でも無い限り、討伐するような事も滅多に無い」
「そういう時はどうしてるんだ?」
「油を撒いて火を掛ける。……だが、不死魔獣化してるなら、火は効かないだろう……」
それを聞いて全員が悩むように息を吐く。
「極小の粘菌の塊だからな……。鈍器なら多少は潰せるだろうが、武器の斬撃でどの程度削れるか」
「流石に今からここで投石器を作る余裕もありませんしね」
ライオネルが己の剣を見て眉間に皺を寄せ、聖職者が聖水の入った瓶を握り締めた。
各々が考え込むように、沈黙が降りる。
馬車の御者台に座り、腕を組んで目を閉じ成り行きを見守っていたドルフが、顔を上げた。
「こうなっては已むを得ん。儂らの秘密兵器の出番じゃな」
「何だ爺さん、秘策があるのか!?」
ギルバートが期待を込めて声を上げると、老騎士達を除いたその場の全員の視線がギルバートに向いた。
「……あ、ああ、なるほど。戦斧の事か……」
ギルバートはそう言って、自らの手にある戦斧の刃先を見上げた。斧頭は雨に濡れぬように鞣した革で覆われている。困ったように笑いながら、その覆いを外した。その刀身は、雨の中で淡く光っている。
「まぁ、安全第一じゃがな! 無理と判断したら逃げるぞ! 皆の者、そのつもりで良いか!?」
ドルフの声に、ライオネルも困ったように笑って頷いた。
老騎士クラークは、ギルバートの持つ戦斧の刃先を視界に入れると息を飲んで硬直していた。それから唇を噛み、俯いて、何かを振り払うような仕草を見せた。ややあって顔を上げると、決意を込めたような表情をしている。
「あの、スライムの居る場所には、公爵家の別邸があります。ジエメルド公爵閣下が療養していた場所です」
「……なんだって!?」
ライオネルを始め、全員が驚愕の表情を老騎士に向ける。
「閣下が、今もまだご存命であるかは、わかりません。しかし、叶う事ならお助けしたい。どうか、お力添えを……」
そう言うと、請うように跪いたまま頭を下げる。
「今はまだ、何も答えられない。やれる事をやってみるしかないな」
ライオネルは険しい表情で答え、ギルバートも他の者も同様に頷いた。
「ところで、昨晩までここには魔術師の結界があっただろう? 結界が消えたのは……」
「彼は、もう……。昨晩あの『不死の泥』に呑み込まれました。ですが、生きてはいないでしょう……もう、限界でしたから」
地に膝を突いたまま、老騎士クラークはまるで懺悔でもするように、苦し気に言葉を紡ぐ。
「不死魔獣で出来た、不死の泥。あの中には、集められた魔力の結晶が出来ます。それを使って、結界を維持していました」
「よもや、魔力を取り出す永久機関として不死魔獣を利用しようとしたのか?」
黙って聞いていた司祭シドニーが、声を上げた。
「いえ、それはあくまでも副産物です。……あれが片付いて、閣下の生死がわかれば、全てをお話しましょう」
老騎士はそう言うと、黙り込んでその場で俯いた。恐怖なのか、それとも別の理由か、肩が震えていた。
生存者が居る可能性があるとなっては話を聞いている場合でも無く、ギルバートを筆頭にその場の者達が動き出した。