46.北の荒天②
降りしきる雨は次第に強くなり、空は真っ黒な雲に覆われて、昼間だというのに陰鬱な中を進む。
地はぬかるんで行軍の歩みは阻害され、視界の赤い光の壁が大きくなり随分とはっきり見える頃には、日も沈みかけていた。
「例の結界には、明朝すぐにでも辿り着けるだろう、今のうちにいくつか状況を確認しておこう」
領都と結界のある地を結ぶちょうど中間の辺りに古い教会と砦跡があった。屋根も落ち、壁は崩れ、中は荒らされたようにぼろぼろだ。領都のすぐそばにこれほど荒れた教会が吹き曝しで放置されているのが気に掛ったが、夜が迫る中での行軍はこれ以上は難しい。
そこを拠点に雨よけの天幕を張り、野営の支度をしながら、その傍らでライオネルが声を掛け皆が集まった。ライオネルはジエメルドの騎士達に向き合う。
「アグレアス伯は王都に居るのだったな? 報せは送ったのか?」
「……それが、今残っている者は皆、ジエメルド騎士団でも末端の者ばかりなのです。独断で数名を報せには向かわせましたが、正式な伝令兵ではありません。指揮系統に従事していた上位の騎士達は殆どが……その……」
言い淀むジエメルドの騎士に、周囲の視線が集まる。
「どういうわけか、居なくなってしまったのです」
「居なくなった……? アグレアス伯に追従して王都へ向かったと?」
「いえ……、よくわからないのですが、王国騎士団がこの地を離れた頃から、一人ずつ、日を追うごとに姿が見えなくなりました」
「最初は、アグレアス閣下の命を受けて出立したか、あるいは何か事情があって離脱したのかと思われていたのですが、誰もその話を知らず、その上、馬がそのまま厩舎に残されて居る事が殆どで……妙なのです」
確かに言われてみれば、合流したジエメルドの騎士達は年若い者が多く、新兵に近いような者も交ざっていた。
「気付けば、状況を説明できる者も、指揮を出来る者も居なくなっていて、私達も、厳密には何が起こっているのかが全くわからないのです……話を聞こうにも、私達の上層にあたる者が誰も居ない」
「いつの間にかここに、あの結界と共に取り残されていたような、そんな状況です。この一か月ほどであっという間に……」
困惑と心労で、ジエメルドの騎士達は憔悴しきっていた。
話を聞きながら赤い結界の方角を確認していた傭兵が、立ち上がって声を上げた。
「ライオネル卿! 妙だ、結界の壁が明滅してる!」
全員が振り向けば、視界の先で赤い光の壁が、不規則にその光の強弱を繰り返していた。まるで燃え尽きる前の炎のようにも思えた。
やがて、土砂降りの雨の中で唐突に赤い光は消え失せ、視界に広がる森の黒い影だけが残った。
「まずいな……」
「おい、あの結界の中に不死魔獣が居るんだよな!?」
ライオネルとギルバートを筆頭に、その場の全員が立ち上がる。
「どうする?」
「この雨と夜陰の中で近寄るのはあまりに不利だ。何が起こっているのか、何が居るのか確認も正確に出来ていない。一旦、廃教会と砦を使って退避場所を確保しよう」
もしも、あの変異種の小型不死魔獣が混ざっているのなら、夜の闇の中で相手にするのは余計に不利だ。
だが距離から言えば、移動速度を考慮してもまだ襲撃されるまで時間はあるはずだ。
「領都の方はどうする!? まだ残ってる住民も居るんだろう。さっき聞いた話じゃ、住民を護れる兵力が残ってるかも怪しいんじゃないか?」
ギルバートが領都の方角を見ている。遠くに見えるジエメルド領の城下町は、その大きさからすれば随分と寂しいような光景だが、雨の視界でもいくつか灯りが見えた。
「そこは、我らの出番だな」
そう言って立ち上がり前に出たのは、西方大教会の司祭シドニーと、聖職者達だ。
「広域結界なら、我らの得意分野だ。任せなさい」
雨に濡れるのも構わずに、司祭と聖職者達は並び立ち、領都の方角を向くと中空に手を翳す。
暗い視界の中、空に浮かぶように女神を象徴するアイビーの蔦を描いて、光の曲線が大きく横に広がっていった。
「どのくらいもつ?」
「……まぁ、正直に言えば、これだけの広範囲ともなると、二、三日が限度だな」
ライオネルが尋ねれば、司祭シドニーは苦い笑みを浮かべた。
それを聞いて、ずっと黙っていたドルフがライオネル達に声を掛ける。
「ライオネル、ギルバート、儂が言うまでも無かろうが、無駄死には避けろ。掃討するつもりでおるのだろうが、何があるかわからん……」
沈黙が降りたのち、ドルフはにっと笑った。
「……というわけで、時間があるうちに腹ごしらえじゃな」
ドルフの後ろで、神妙な面持ちで静かに話を聞いていたフローラとバーバラが目を見開いた。二人は顔を見合わせた後で、すぐさま心得たとばかりに調理に取り掛かった。
悪天候の中の急な野営とあって、用意されたのは炙った塩漬け肉と、大麦と野菜を入れたスープ粥だが、腹を満たし士気を高めるごとく掻きこんで、それから分担を決めた。
朝を待って交代で睡眠を取りながら、夜半にはぽつりぽつりと近場に出現しだした中型の不死魔獣を、誘き寄せて各個撃破していく。
雨はあがらないまま、周囲が白んで朝を迎えた。
そうして視界に映るものを見て、誰もが言葉を失った。
昨晩まで赤い光の結界があった森の中に、赤黒い不気味な山のようなものが見えた。